フィリピの信徒への手紙3章12~14節
関口 康(日本基督教団教務教師)
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです。」
先月も、と言っても2週間前ですが、同じことを申し上げました。千葉若葉キリスト教会で1年間、説教の機会を与えていただき、ありがとうございました。今日もよろしくお願いいたします。
先ほど朗読していただいたのは使徒パウロのフィリピの信徒への手紙です。フィリピはパウロ自身の伝道地です。パウロのフィリピ伝道の様子は使徒言行録16章11節から40節までに描かれています。第3回伝道旅行の最も重要な滞在地のひとつです。
使徒言行録に基づくパウロのフィリピ伝道の概要は次のとおりです。フィリピにはシラスとテモテがパウロに同行しました。紫布商人のリディアがパウロの説教を聴いて洗礼を受けました。その後、リディアの家が彼らの伝道の拠点となりました。
しかし、フィリピはパウロがひどく苦しんだ町にもなりました。パウロが占い師の女性から「占いの霊」を追い出しました。それで、その女性が占いの仕事をやめたため、その女性の占いを収入源にしていた人々が腹を立て、パウロを告訴しました。パウロはシラスと共に逮捕され、投獄されました。
ところが大地震が起こり、監獄の土台が揺れ、牢の戸がすべて開きました。逃げようと思えばいつでも逃げられる状態になったのに、パウロは逃げませんでした。囚人がみんな逃げてしまったと思い込み、責任を感じた看守が自害しようとしたとき、パウロが「自害してはならない」と止めました。
その後、その看守がパウロとシラスに「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と言い、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)と教え、看守とその家族が洗礼を受けました。それがフィリピ伝道最大の出来事となりました。
「占いの霊」を追い出す(?)とか、大地震で監獄の戸がすべて開く(?)とか、そのようなことが書かれている箇所を読むと、それは一体どういう現象なのか、本当にそういうことが起こったのかと、いろいろ疑問に思う人は必ず出てくるでしょう。
よくできた作り話だと言い出す人がいても、それはそれで構いません。はすに構えた聖書の読み方がすべて間違っていると、私は思いません。霊だの奇跡だのというような次元で出来事をとらえるのではなく、ごくふつうの感覚で理解できる話であれば納得できるということであれば、それでも全く問題ありません。
たとえば、「占いを商売にしていた人がその商売をやめた」ということだけを言えば、そのほうが納得していただけるかもしれません。そういうことはよくあることだからです。あるいは、「偶然起こった大地震でたまたま監獄の戸が開いた」と言えば、納得していただきやすいでしょう。すべては神の御心だった、神の計画だったという話にわざわざしなくてもいいでしょう。
今の私もそうです。過去25年、教会の牧師だけしてきた人間が、今年たまたま学校で宗教科(聖書科)教員をさせていただきました。たまたま私が宗教科の教員免許を持っていて、たまたま学校でおやめになる先生や大学院で1年間お勉強なさる先生が出て、たまたま空席ができました。それで私が学校で教えることになりました。
「すべて偶然だった」と説明することもできます。しかし「すべて神の導きだった」と信じようと思えば信じられますし、そのように私が説明するとしてもだれから文句を言われる筋合いのことでもないわけです。
そして実際、私が仕えてきた伝道と教会形成のわざのすべては神の御心であり、神の計画であると私は心から信じています。正直言ってつらいことのほうが多いです。しかし、「これは神の御心であり、神の命令である」と信じることができるからこそ、どんなにつらくても取り組むことができます。そのような次元でとらえるのでないかぎりとても耐えがたいと言わざるをえない過酷さが、伝道と教会形成のわざにはあります。
いま申し上げているのは、牧師だけが過酷だということではなく、教会の信徒の方々すべての働きが過酷であるということです。「すべては神の御心である」という告白は、そのように信じるのでもないかぎりとても耐えることができない究極的な限界状況に立っている人の告白であると、私自身は考えています。
さて、そのようにパウロがひどく苦しんだ結果としてフィリピに生み出された教会に宛てて書かれた手紙が、このフィリピの信徒への手紙です。
「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(12節)と記されています。
この中の「それ」という指示代名詞は直前の文章にかかっています。直前の文章は「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10~11節)です。
いろんな要素が複合されているこの文章の中のどの言葉が最も「それ」なのかといえば、「キリストの死の姿」です。この特定が私にできるようになったのは、石黒義信先生(千葉英和高等学校チャプレン、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会牧師)のもとで青野太潮先生の「十字架の神学」を学んできた成果です。
ここでパウロが言っているのは「わたしは既にキリストの死の姿を得たというわけではない」ということです。「キリストの死の姿との一致において既に完全な者となっているわけでもありません」ということです。言い方を換えれば、「まだ完全に死にきれていない」ということです。「まだ自分が生きている」ということです。
そのように青野太潮先生がこの箇所を説明しておられるかどうかは分かりません。私が青野先生の受け売りをしているという意味ではありません。青野先生の「十字架の神学」の立場に立ってこの箇所を読むと、こういうふうに読むことができるのではないかと思っているだけです。
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13~14節)と記されています。
この「目標」も「キリストの死の姿」であると考えることができます。それは、裸にされ、ずたずたに傷つけられ、十字架上にはりつけにされたうえで、「他人を救っても自分を救えない」と罵られるという、肉体的にも精神的にも追いつめられた、惨めで弱いイエスの姿です。
そのイエスの姿、キリストの死の姿こそが、パウロの「目標」です。その目標を目指してひたすら走る人生を私は送っているのだ、とパウロが言っています。そのことは前後の文脈からも分かります。3章2節から始まる話題との関係が特に重要fです。
「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」(2~3節)と記されています。
「割礼」と書かれていますので、ここに書かれているのはきっとユダヤ教徒に対する警戒の問題だろうと単純に読んで早とちりしてしまいそうですが、そうではありません。ここに書かれていることは、パウロの第1回伝道旅行が終わって第2回伝道旅行に出かけるまでの間に行われたいわゆる「エルサレム会議」(使徒言行録15章)で取り上げられた問題との関連で理解されるべきです。
エルサレム会議で取り上げられた問題とは、「人は洗礼を受けるだけでは救われない。洗礼に加えて割礼を受けなければ救われない」というようなことを教えるようになった人々とパウロとのあいだの対決の問題です。
こともあろうに、そのようなことを教えるようになった人々の側のリーダーが使徒ペトロだったことは非常に厄介だったに違いありません。しかし、エルサレム会議の結論は、パウロの主張を支持するものでした。しかし、詳細に立ち入るいとまはありません。今申し上げたいのは、3章2節以下に記されていることの歴史的背景だけです。
「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と書かれているのは、ユダヤ教徒に対する警戒ではなく、むしろキリスト教の伝道者の中にいる人々に対する警戒であるということです。その人々はもしかすると、当時のキリスト教会の中の主流派だったかもしれません。そのような人々に対する対抗の意味でパウロが書いているのが3章4節以下です。
「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」(4~6節)。
しかしパウロは、「キリストの死の姿」を「目標」にして生きるようになってからは、過去においては拠り所にしていた「肉の誇り」は、今の自分にとっては「損失」であり「塵あくた」であると思うようになりました。
「十字架の神学」も、ただエラそうに論じるだけなら、いとも簡単です。自分に都合がよいように引用するだけなら、いとも簡単です。自分自身が「イエスの死の姿」を「目標」にして生きようとしないなら、否、死のうとしないなら、全くの「損失」であり「塵あくた」です。
最後に私の話をするのをお許しください。私はまだ教会の牧師の仕事に復帰することを諦めているわけではありません。ずっと祈り求めていますが、どの教会からもいまだ確約をいただいていません。かっこよくいえば「フリーエージェント」です。
私はパウロほど腹をくくれていません。しかし、今の私は、いろいろ取り去られた結果、以前より少しくらいは「イエスの死の姿」に近づくことができているのではないかと思っています。
私も「肉の誇り」を持っています。私は生まれたときからずっと教会に通っています。6歳で成人洗礼を受けました。小学校に入学する前の幼稚園児の私が、自分の意志で牧師のところまで行き、「私に洗礼を授けてください」とお願いしました。その日のことを今でもよく覚えています。
高等学校を卒業してすぐに東京神学大学(東京都三鷹市)に入学しました。24歳から25年間、牧師の仕事だけをしてきました。
私の出身教会は、日本最大のプロテスタント・キリスト教団である「日本基督教団」の中の最大規模の教会です。「日本基督教団岡山聖心教会」(岡山県岡山市)です。
私の出身教会のルーツは「ホーリネス派」です。熱心さの点では太平洋戦争中に日本政府から弾圧を受け、日本基督教団南京教会の牧師として特高警察に逮捕抑留された永倉義雄牧師から、私は洗礼を受けました。
そして私は、今は元に戻っていますが、19年もの間、「日本基督教団」を離れていました。その間は「日本キリスト改革派教会」に教師として在籍していました。
「日本キリスト改革派教会」に在籍していた間は、教会の牧師としての仕事のかたわら、新しい中会(プレスビテリ)を生み出す仕事をしました。大会(ジェネラルアッセンブリ)では教師学科試験委員会に属し、新しく牧師になる人々の試験問題の作成や採点や面接などをしました。
そういうことを私が誇ろうと思えば誇れないわけではありません。しかし、それらすべては今の私にとってはどうでもいいことです。「損失」であり「塵あくた」です。「後ろのもの」は忘れました。「キリストの死の姿にあやかること」のほうがはるかに大事です。
(2017年3月12日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)