2017年3月6日月曜日
カール・バルト「シュライエルマッハーとわたし」(1968年)と「第三項の神学」(上)
ここに来て、まだ対面していない方からのご質問に応えるべくカール・バルト最晩年の文「シュライエルマッハーとわたし」(1968年)を読み直している。ユルゲン・ファングマイアー『神学者カール・バルト』(加藤・蘇共訳、日本基督教団出版局、初版1971年、再版1973年)「第二部」にある。
「シュライエルマッハーとわたし」(1968年)はバルトの自伝文書に分類しうる。とにかく面白い。今だから理解できる。染みる。圧巻なのはブルトマンを「シュライエルマッハーの実存主義的なエピゴーネン」であり「明瞭なシュライエルマッハーの再来」と言い放つくだり。溜飲が下がるものがある。
バルトはブルトマン学派の「公分母」はシュライエルマッハーだと断じる。シュライエルマッハーの特徴である「同時代の社会や世界の要求を規準として耳を傾けつつキリスト教的勧告を与えること」「神学と哲学の共生」「神学の人間学化」「主観と客観の緊張的統一」をブルトマン学派が繰り返している。
もっともブルトマンとその学派はシュライエルマッハーの「感情」の代わりに「少しばかり聖書に近く、あるいは宗教改革に近く『信仰』を語る」(110頁)。ルターを引用し、言葉・出会い・出来事の体験・十字架・決断・限界・審きを語るが、シュライエルマッハーの人間学的地平の隘路は越えていない。
「シュライエルマッハーからと同様、今日のエピゴーネンからしても、イスラエルの歴史記述者・預言者・賢者...イエス・キリストの生涯と死と甦りを語る人々...使徒の言葉…イエス・キリストの父、アブラハム・イサク・ヤコブの神…キリスト教会の大いなる伝統へ通じる道はない」(116頁)。
「君たちの間で、君たちの学派で、君たちの生み出すものの中で、その大きさにおいて、その次元において、シュライエルマッハーという人物のそれに、たとえ遠くからでも匹敵すると言いうるような人格や業績が、今日に至るまで、どこで、いつ現われたであろうか」(124頁)とバルトは書いている。
こうしてバルトはシュライエルマッハーと「実存主義的エピゴーネン」としてのブルトマンを厳しく批判した上で「シュライエルマッハーの関心事をよりよく評価するための」新しい可能性としての「第三項の神学」すなわち「聖霊の神学」の可能性を示唆している(134頁以下)。実に興味深いではないか。
(下に続く)