2016年12月31日土曜日

上総大原教会の新年礼拝にぜひご出席ください!

親愛なる各位

日本基督教団上総大原教会で以下のように新年礼拝を行います。ぜひご出席ください!

               記

日時 2017年1月1日(日)午前10時30分より

場所 日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696)

説教 「教会の使命いまだ已まず」

聖書 エレミヤ書1章4~8節、使徒言行録22章17~21節

牧師 関口 康教師(日本基督教団教務教師)

説教者は元日の早朝に柏市の自宅(借家)から片道100キロの道を車で行きます。

「来てよかった」と思っていただける説教をします。よろしくお願いいたします。

2016年12月31日

関口 康

日本基督教団上総大原教会 教会堂
関口康教師(日本基督教団教務教師)
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2016年12月30日金曜日

あかね色の夕空を見ながら巨大ジグソーパズルで遊んだ晦日

富士山(上)と東京スカイツリー(下)
2016年12月29日 借家から撮影
休み中しかできないことをと今日ついに着手してしまったのが巨大ジグソーパズル。まあ自宅書斎のライブラリ構築を言っているつもりだが、半日かけても氷山の一角。あかね色の夕空を背にそびえたつ富士山や東京スカイツリーを尻目に見ながら、何が悲しくて本の並べ替えだけしていた晦日の午後かという。
巨大ジグソーパズル
転居後1年を経過したにもかかわらず、購入しえた本棚はわずかであり、残りは依然として平積み状態であることには理由がある。しかし、それはもうどうでもいい。ひとえに所有者の怠慢である。この恐ろしい積み木が崩れる前に何とかする。かけがえのない財産なのだ。そうだと信じるしかないではないか。
恐ろしい積み木
あった。今日の巨大ジグソーパズルの真の目的。旧シリーズのファン・ルーラー著作集(Theologisch Werk)をサルベージ。転居後1年見失っていた。新シリーズの著作集(Verzameld Werk)があるから大丈夫だろうと思っていたら新シリーズ未収録論文を調べる必要が生じた。

旧シリーズのファン・ルーラー著作集(Theologisch Werk)
しかし「真の目的」を果たしてしまった今、突然モチベーションが下がる。何の?それはもちろん書斎の本の整理に決まっている。急にやる気が失せてきた。時々ところどころがガラガラと崩落して、そのたびに下の階に住んでいる方に騒音のご迷惑をおかけしている。ああ、また1年、平積み状態のままかも。
新シリーズのファン・ルーラー著作集(Verzameld Werk)

あれはなんとも失礼だと思うこと

記事とは関係ありません
クリスチャンの人、とくに牧師の人が、初めて会う他教会所属のクリスチャンの人、とくに牧師の人にいきなり所属教会の礼拝出席人数を聞いたりするのはよくあることで、私もついしてしまうが、あれはなんとも失礼だと思う。ほぼ確実に内心で「うちと比べて大きいか小さいか」値踏みしているだけなので。

その質問して答えが返ってきて、次どう言うかを考えれば分かる。「あなたの教会の礼拝出席者は何人ですか?」→「○○人です」→「おお、うちより大きい。うらやましい。うちは少ないです。牧師の説教につまずく人が多くて」になるか、「厳しい戦いをしておられますね(うちより少なくて)」になるか。

値踏みされているという事情を初めから理解している人たちの答えは「うち(の礼拝出席者が少ないの)は開拓伝道を始めてからの歴史が浅いので」というあたりだと思うが、その答えを聞いて「うちの教会は(あなたの教会より)歴史がある」と別の値踏みをする人もいるので、どのみち失礼な質問だと思う。

その質問をされて答えたくないと感じた人は、「なぜそれを聞くのですか」と逆質問で返したらいいと思う。たいてい答えられまい。良い動機であることはたぶんほとんどないはずだ。

いま書いているのは、私にとっては30年以上前から気になっていたことだが、人に言うのも、字として書くのも、たぶん今日が初めてだと思う。30年以上我慢してきたことなので、ちょっとくらい言わせてほしい。とか書くと、年数で値踏みされて「私はもっと長く我慢してきました」と返ってくる可能性あり。

2016年12月29日木曜日

西千葉教会に表敬訪問に行きました

今日(2016年12月29日木曜日)は日本基督教団西千葉教会(千葉市中央区)の木下宣世牧師を表敬訪問させていただきました。西千葉教会の礼拝に先週12月18日(日)に初めて出席しました。木下先生は日本基督教団東京教区の前総会議長で東京神学大学の大先輩です。よろしくお願いいたします。

日本基督教団西千葉教会(千葉市中央区)

2016年12月28日水曜日

新年礼拝(2017年1月1日日曜日)のお知らせ

親愛なる各位

2017年1月1日(日)は日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696)の主日礼拝で初めて説教させていただきます。午前10時30分からです。説教題「教会の使命いまだ已まず」。元気が出る説教をします。わが家(柏市)から100キロ。お近くの方はぜひご出席ください。歓迎します。

2016年12月28日

関口 康(日本基督教団教務教師)

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千葉北総教会に遊びに行きました

今日(2016年12月28日水曜日)は日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)にぶらり遊びに行きました。今年2月28日(日)と7月24日(日)の礼拝に出席しました。また8月28日(日)の伝道礼拝で説教させていただきました。大串眞牧師は東京神学大学の先輩です。とても頼もしい方です。

日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)

2016年12月27日火曜日

仕事もパソコン 遊びもパソコン

休み中しかできないことをと取り組んでいるのは自宅書斎パソコンのハードディスク内整理、ブログレイアウト整理。あとはブログ、SNS、メール。それ毎日やってるだろと言われそうだが、まあそうだが、気分は違う。仕事もパソコン、遊びもパソコン。

【誘導リンク】
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/

2016年12月27日更新

星に願いを

大学や神学校で教えたいと思ったことは一度もない。しかし、「私の」ファン・ルーラー研究を受け継いでくれる人を求めてきた。「教えたい」のではない。ファン・ルーラーの一次文献を徹底的に調べて、私の書いてきたことを片っ端から訂正してほしい。

関口 康「ファン・ルーラー研究」(ここをクリックしてください)


A. A. ファン・ルーラー


ファン・ルーラー著作集(2種類)



ロボットは信仰を持ちうるか

自宅書斎パソコンのハードディスク大公開
休みの間しかできないので、自宅書斎パソコンのハードディスク内の書類整理をしている。セキュリティの問題で学校の仕事を自宅に持ち帰ることはしていないが、自宅で書いた説教原稿や授業レジュメを自分のメールアドレスに送って学校のパソコンで開いたりはする。休み中にたくさんかわいがっておこう。

歩くのも走るのも昔から遅く、自分のペースで歩道を歩いているとどんどん追い抜かれて後ろに誰もいなくなる。学校の勉強も昔から遅く、自分のペースで勉強しているとどんどん追い抜かれて後ろに誰もいなくなる。競争心がない。協調性がないのかもしれないが、自分のペースでない協調性は血圧が上がる。

教会を場にして働いていたときはテレビやマンガに興味津々だったが、学校を場にして働きはじめてからは興味を持てなくなった。単純に今は忙しいというのはあるが、教会がひまだったわけではない。加齢が理由かもしれないが、よく分からない。本については、買うことも読むこともほとんどできていない。

私の立ち位置から言わせていただけば「人生に学歴は関係ない」とは言えない。学業のために不眠不休の努力をしている眼前の生徒を傷つけることになり、申し訳が立たない。ただ「学歴だけが人生ではない」。開き直らなくてもいいと思うが、もっといろいろある。あとFランだの言って学校をバカにするな。

理系の人から「何をいまさら」と言われそうなことにふと気づくのだが、ロボットロボットと言うが、要は口と目と手足がついたしゃべる自走式PCのようなものだろうから、過去20年くらいカチャカチャ入力してきた説教原稿やファン・ルーラーの翻訳も、ロボのハードディスクに記憶してもらえるよなと。

そうそう、一昨日の日曜日、若い説教者がご存じないとおっしゃるので、教会からの帰りの車中「人造人間キカイダーの良心回路」について長時間講義してしまったのだった。キカイダーの不完全な良心回路は、ギル教授の悪魔の笛の音を聴くと狂ってしまう。原作者・石ノ森章太郎さんの炯眼がすごいと思う。

その次に「ウルトラマンガイアの最終話」の講義にもなった。宇宙から襲いかかる根源的破滅招来体のボス怪獣に倒されてしまったガイアとアグルを生き返らせるために、天才科学者集団アルケミースターズとマッチョな軍人集団シグが協力して、地球生まれの怪獣たちが発する「地球の光」を集めるという話。

アグルの中の人(スーツアクターの意味ではない)は、もともとアルケミースターズの一員で根源的破滅招来体から地球を守るための方法を考える立場だったが、彼が開発した高量子コンピュータ「クリシス」が出した結論が「地球の敵は人類」(大意)だったことで、中の人は人類の敵となる。が、後に改心。

なぜアグルの中の人の高量子コンピュータ「クリシス」が「地球の敵は人類」(大意)という結論を出したのかといえば、根源的破滅招来体が「クリシス」に不正アクセスしてデータを書き換えたからだった。このあたりで私は「キカイダーの良心回路」の問題と「クリシスの結論」の問題が結びつくと思う。

私は何を言いたいのかというと、「ロボットは信仰を持ちうるか」という問いに近い話だったりする。「信仰」というと叱られるに決まっているので石ノ森先生が命名された「良心回路」がいい。外部から「殺せ」「壊せ」「盗め」「騙せ」という悪魔系コマンドを入力されても実行できない人工知能の仕組み。

ここで話が最初に戻る。私が過去20年くらいカチャカチャ入力してきた説教原稿やファン・ルーラーの翻訳をロボのハードディスクに記録してもらって、それを人工知能さんに勉強してもらえば、そのロボの「良心回路」に役立つはずだと言いたい次第。

ロボットくん、きみも説教を聴き、神学を学びたまえ。

生きるとは片付けることを意味する


我ながら地味なことをと思いつつ早朝から取り組んだのは、資源ごみ出し(びん、カン、ペットボトル、段ボール、布類)と、転居後1年を経過したので前住所から現住所への郵便物転送の「延長願」を郵便局に出すこと。郵便局の帰りに松戸市小金原のパン屋「モール」さんと、阿藤店長のコンビニで買い物。

2016年12月26日月曜日

東京の冬の夜に


今日(2016年12月26日月曜日)の夜は、新宿副都心の東京都庁近くの某所で家族で食事をしました。いろいろとごちそうをいただきました。帰りみちの車窓から見えた東京駅前の丸の内仲通りのイルミネーションがとてもきれいでした。今年はまだ終わっていませんが、1年間本当にお疲れさまでした。

2016年12月25日日曜日

千葉若葉教会クリスマス礼拝

今日(2016年12月25日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)のクリスマス礼拝に出席しました。小澤昂平先生(千葉英和高等学校宗教科)の説教は素晴らしかったです。午後の祝会で「われらはきたりぬ」(讃美歌第二編52)を東方の博士に扮して私が独唱しました。

2016年12月24日土曜日

新松戸幸谷教会のクリスマスイブ礼拝に出席しました

今日(2016年12月24日土曜日)は日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市新松戸2ー169)のクリスマスイブ礼拝(18時開始)に出席させていただきました。聖歌隊の賛美が素晴らしかったです。「幼子はいと高き方」と題する吉田好里牧師の説教で心熱くされました。ありがとうございます!

1年前の今日

手の込んだ朝食ありがとう。今日何の日だったっけ。












昨年の今日(2015年12月24日木曜日)に今の借家に転居しました。1年間の神の恵みに感謝します。


2016年12月23日金曜日

2016年の反省 エンタメ編

4月から9ヶ月間の状況をいえば、録画したサンダーバード(終了)以外のテレビ番組を観ず、映画を観ず、紙の新聞を講読していない。ニュースはネットから得ているが、他のことは、他の人たちが盛り上がっていても全くついていけない。真田なんとかもPPなんとかも逃げなんとかもさっぱり分からない。

音楽は1月から8月まで毎日レベッカさん。9月以降は毎日ずっとガーネットクロウさんを聴いている。今の流行歌は知らないし、ついていけていない。レベッカさんは私にとっては学生時代(ということは30年前だが)のリバイバルだったので最近はさすがに食傷。ガーネットクロウさんは初めての出会い。

何を書きたがっているかといえば、「2016年の反省」のつもり。1年を振り返って自分のしてきたことを省みないと。それのエンタメ編。その結論が、今年はテレビも映画も観ず、紙の新聞も読まず、音楽は最新のものは聴かず、もう解散しているレベッカさんやガーネットクロウさんを聴いたという話。

最新の流行についていけていないことを私はとても苦にしているが、「苦にしているふりをしているだけ」でもあり、実はどうでもいい。私の関心は宗教と聖書と神学、そして学校教育と生徒ひとりひとりの成長にある。宗教も学校も人類の歴史と共にある。その中にずっと引きこもる価値のある世界でもある。

出かけていた家族がたくさん買い物の荷物を抱えて帰ってきた。コストコでいろいろ買い込んできた。帰りみちに大好きなインドカレー店でいろんなカレーとナンをテイクアウトしてきてくれた。みんなでいろんなカレーを味わった。私は丸一日書斎に引きこもり。寝て起きて字を書いた。コンビニには行った。

教会面白化宣言

どうしたら教会が面白くなるかを考えてきたし、これからも考える。同じ志の人と意見交換をしたし、これからもする。そもそも教会が面白くなることはありえないという混ぜ返しに応じたことはないし、これからも応じない。自分だけ面白いとか特定の少数者だけが面白いというのでない教会面白化をめざす。

私がこれまでネット経由で発言してきたことを少しでも覚えてくださっている方には、「どうしたら教会が面白くなるか」について私が抱く関心は「何をもって面白いとするか」であり、その点こそを問題にしてきた人間であることをご理解いただけるだろう。私はそれを「教義学の課題」としてとらえている。

字にすると(あざ)笑われるだけだろうが、私は「教会面白化の神学」の必要性を真剣に訴えたい。高校の倫理の教科書でも教えられているホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」という人間の定義を真剣に考える必要がある。人間の本質が「遊戯」にあるなら、教会の本質に「遊戯」がないはずがない。

「教会とは遊戯である」という意味の「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)がどうして言えないかと繰り返し考えさせられている。そして最終的に「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)を厳密に神学的に語ることが十分可能であると私は考えている。この発想の先駆者がアーノルト・ファン・ルーラーである。

ともかく私は「どうしたら教会が面白くなるか」という問題は「教義学の課題」であるととらえている。それは教会の本質についてのきわめて深刻な神学的問いである。「教会に人を集めるために子どもや若者向けに遊びの要素を取り入れて楽しくする」というハウツーのレベルの問題ではないと認識している。

それと私は、「教団・教派」も「教会」の範疇に含まれるのは当然であると考えている。そのうえで、教団・教派を「面白くなくしているもの」は何かを考えている。人間の集まりなのでドロドロしているのは一向に構わないが、イエスの再解釈を経たモーセの十戒の線くらいは守ろうよくらいのことは考える。

それは「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」だ。互いに敬意を持つ。ばかだアホだ言わない。あやしげな目を使わない(とくにセクハラだめ)。説教盗用も盗み。うそやだましはだめ。ねたみやひがみはたとえ心に浮かんでも軽々に口にしない、おおっぴらにしない、放置しない。

しかし今書いているようなことは、あえて言挙げするまでもないほど当たり前のことだ。常軌を逸した状態になったときだけ緊急発動するが、ふだんは忘れていてもよい。「どうしたら教会が面白くなるか」という問いの中では必ずしも中心課題ではない。ネガティヴなことばかり考えている教会は面白くない。

ただ、「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)にせよ「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)にせよこういうことを言うと激しく拒絶し激怒するのも「教会」であることを私は認識している。「苦難の民の歴史」とも「十字架のイエス」とも矛盾すると感じてしまうようだ。まさにこれが「教義学の課題」である。

教会が「面白いところ」になることを不快に思う人々がいる。教会の中にもいるし、教会の外にもいる。まるで教会が「面白く」なってもらっては困るかのようだ。あくまでも「面白くないところ」であり続けてくれることが望まれているかのようだ。なぜそう思う人々がいるのかを、丁寧に考える必要がある。

そしてこういうことを共同で考えるグループが必要であると私は思う。各教会や「教団・教派」には特性の違いがあるので、たとえば「日本の教会を面白くする会」と言ってもほとんど意味はない。結局ハウツーの問題で終わってしまう。それより、たとえば「日本基督教団を面白くする会」と言うほうがいい。

そういうのが全国の各教会やそれぞれの「教団・教派」の中で立ち上がっていけばいい。「○○教会を面白くする会」や「○○教団を面白くする会」がたくさん生まれてくること自体が面白い。「そもそも教会は面白くないところなので、面白くなることはありえない」という混ぜ返しに応じないことが重要だ。

私が今日こういうことを書いているのは、理想論や空想を言いたいのではなく、具体的な行動を起こすための結党宣言のひな形のようなものを提供したいという意図がある。私もすでに具体的に動いている。同じ志の人々はぜひ行動を起こしてほしい。くれぐれも言うがハウツーの問題で済ましてはならない。

一方の意見だけを言わせ、他方の意見を封じるやり方で人を切り捨てる団体や組織が切り捨てた後にするのは、封じた人物の存在を否定するだけにとどまらず、でっちあげの噂、悪口、罵詈雑言を浴びせることだ。プラマイゼロではなく、挽臼で粉砕するまで徹底的に貶める。そういう団体や組織に気をつけよ。

2016年12月23日

関口 康

2016年12月22日木曜日

年末年始の予定


関口 康(日本基督教団教務教師)

年末年始の予定

【2016年】

12月24日(土)
日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市)
クリスマスイブ礼拝〈出席〉

12月25日(日)
日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)
クリスマス礼拝〈出席〉

【2017年】

1月1日(日)
日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市)
新年礼拝〈説教〉

1月8日(日)
日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
主日礼拝〈説教〉

2016年12月21日水曜日

新年の年賀状について

各位

誠に心苦しいことですが、現住所(借家)を非公開にしている関係で、新年の年賀状のやりとりはすべて控えさせていただきます。日本基督教団年鑑には勤務校の住所を掲載しています。連絡はメールかSNSでお願いします。ご理解いただけますと幸いです。

2016年12月21日

関口 康

2016年12月20日火曜日

「2011年の」クリスマス礼拝の説教を公開しました

2011年12月18日 クリスマス礼拝
5年前のクリスマス礼拝(2011年12月18日日曜日)の説教を公開しました。良い説教ではなく悪い説教だったことを反省しています。ただ必死の思いで語ったことを覚えています。

「星空の下で喜び生きる(2011年クリスマス礼拝)」
ルカによる福音書2章1~21節

2016年12月19日月曜日

教会を面白くするヒントの学校

2013年6月23日、立教大学ゲスト講義
昨年までとの最大の変化は「考えるな、感じろ」(Don't think. Feel.)と教えるブルース・リーやマスター・ヨーダのような人が眼前にいなくなったことだ。「考えろ」(Think.)と言える。「考える勇気を持て」(Have a courage to think.)と言える。

新しい経験の中で、教会を面白くするヒントがいろいろあると感じている。週報に説教要旨を載せて、ところどころ穴埋め式にして「さて問題です。ねないで説教を聴いてないと答えられませんよ」と遊ぶとか面白そう。あとは礼拝中にグループディスカッションとかプレゼンとか。アクティヴラーニング教会。

いくつかのチームに分けて、来週の説教の聖書箇所を読んで歴史的背景を調べてくるチームとか、言葉の意味を調べてくるチームとか、自分の生活にあてはめて考えるチームとかにそれぞれ発表してもらうというやり方もよさそう。教会に行かなくちゃという自覚も出てきそうだし。死蔵本を読む動機にもなる。

あとはだんぜん教会にも黒板が必要だと思う。すごく反発されそうだけど。でも「ずっと前から使ってるよ」とおっしゃる方もおられるはず。テレビでテロップを見慣れている人多いので、耳で聴くだけでは分からない同音異義語なんかをちょっと板書するだけで、ずっと分かりやすい説教になること請け合う。

パワポを使っている教会は増えていると見受けるが、パワポが悪いわけではないが、話の流れの中でその場の思いつきで字を書いて見せるのはパワポだと難しいのではないかと。黒板とチョークならさっさとできるし、すぐ消せる。前準備は要らないし、字だけでなく、絵でも図でもなんでも書けるマルチ対応。

ややきつめの言い方だけど、黒板を嫌がる教会が少なくないのは、立派すぎる教会堂のせいではないかと思ったりする。うっとりしたい場所なのに、学校時代の悪夢を思い出したくないのかなんなのか。そういうのどうなのと思ってしまう。説教の意味なんか分からなくてもいいんだろねとイヤミ言いたくなる。

今の学校が果敢に取り組んでいる新しい方法なんか全く見向きもしないで、「教会に若い人が来ない若い人が来ない、教会の将来が危ない危ない」と、まるで来ない人のほうが悪いかのように言ってみてもどうしようもない。教会が学校に教えることは、ほとんど何もない。学校から教会が教わるべきだと思う。

2016年12月18日日曜日

勉強しましょ、そうしましょ

字にすると身も蓋も無くなる気がするし、自分も同じだった(今も)ので、考えると心が痛くなるが、理系はともかく文系の研究者は金も職もないところから「無からの創造」をする感じになると思う。でも、自分で研究会つくって、自ら代表名乗って「立派する」(派閥の領袖になる)のが文系学問の王道かも。

よく知らない分野に首突っ込んだこと書くのをお許しいただきたいが、たとえばの話、夏目漱石研究やりましたな方々はたぶんすごくたくさんおられてライバルも多そうだけど、「だれそれ知らん」と言われる作家の研究なら研究会なくて寂しいけどライバルは少ないないしいない。すきま狙えるチャンスあり。

でも、ここから先のことはいま書いたことの逆面かもしれないが、その「だれそれ知らん」さんがあまりにも歴史にからまない珍奇すぎる存在だと、もしかしたらかえってマイナスのような気もする。歴史の主役につかみかかったけど敗北したが、そのとき主役に致命傷を与えた人みたいなのだと評価高いかも。

あとは、哲学や神学ならはっきり言えるが、プラトン「を」研究する、ヘーゲル「を」研究する、だけでなく、プラトンやヘーゲル「になる」的な。彼らの視点から世界や人間を見てみる。追思考(Nachdenken)することを経て、それでは見えないし分からないことがあるのに気づき、修正を加える。

プラトンやヘーゲル「を」研究することと、プラトンやヘーゲル「になる」のとではどちらが容易いか。私は前者のほうが容易いと思う。彼らのテキストはすでに存在するわけだから。そして前者なしに後者は成り立たない関係にもある。だから先に前者に取り組む。しかし、それをするのは後者に至るためだ。

とまあ、こんな感じのことをジンメルが『哲学の根本問題』の冒頭でえんえんと書いていたなあと今思い出す。そのことを忘れていたくらいジンメル「になっていた」書きっぷりだったわけだ。夏目さんでも芥川さんでも同じことが言えるのではないか。彼ら「を」研究するのは彼ら「になる」ためではないか。

聖書を読むことだって結局そうなので。聖書を読む人は結局いつかはイエス「になったり」パウロ「になったり」する。不遜なことを言っていると思わないほうがいい。「お前は水の上を歩けるのか」とか茶々入れされても無視。イエスにしろパウロにしろ、聖書の読者は彼らに憑依される。のりうつられる。

読書というのはそういうものだろう。映画やテレビなどはもっとそうだろう。最近の映画やテレビを観ていないので分からないが、ひと昔前「さてはこの人、昨日のテレビを観てたな」と分かる物腰や口ぶりになっている人に気づいたことがある。キムタク「になったり」織田裕二「になったり」している人に。

まあしかし、私がいつもつい書いてしまうのは、王道とはこういうものだろうということなので、いま困っている人、いま焦っている人には、何の答えにも解決にもならないことばかりだ。だから、がっかりされる。がっかりされることを苦にしない人間なので、なんともない。へへえだ。あっかんべー。笑。

西千葉教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年12月18日日曜日)は日本基督教団西千葉教会(千葉市中央区)の主日礼拝に初めて出席させていただきました。柏市の借家から片道40キロ(80分)でした。「ヨセフの決断」と題する木下宣世牧師の慰めに満ちたアドベント説教によって新しい力を得ました。ありがとうございました!

2013年3月の研究発表のレジュメを公開しました

(左から 田上雅徳 芳賀力 野村信 関口康)
2013年3月11日(月)立教大学池袋キャンパスで開催したアジアカルヴァン学会・日本カルヴァン研究会合同講演会での研究発表のレジュメを公開しました。

「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義(2013年)」

当日のプログラム

司会
田上雅徳(慶應義塾大学教授)

「カルヴァンの創造論の歴史的意義」
芳賀 力(東京神学大学教授)

「モーセの異邦人伝道(カルヴァンの創世記理解)」
野村 信(東北学院大学教授)

「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」
関口 康(ファン・ルーラー研究会代表)

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「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」(2013年)

関口 康



事前に芳賀力先生と野村信先生の講演レジュメを読ませていただく機会を得た。何を語るべきか考えあぐねていたが、ようやく心が定まった。

カルヴァンの学会でファン・ルーラーの神学についての研究発表をすることは「欄外注」以上ではありえない。問題は、カルヴァン学会の関心とファン・ルーラーの神学の接合点はどこにあるのかということであった。

しかし、芳賀先生は「カルヴァンの中にあった被造世界の肯定という萌芽はやがて一般恩恵論という形で大規模に開花することになる」という重要な命題を提示してくださった。そして一般恩恵論の弱点を克服する鍵は「三位一体論的創造理解」にあることを示唆してくださった。

また、野村信先生は、被造世界についてカルヴァンが、必ずしも明瞭に神の栄光を見ることはできないが、それをおぼろげには映していると見ていたことを「カルヴァンの自然神学」という言葉で表現してくださった。そしてカルヴァンが被造世界を「神の栄光の劇場」(theatrum gloriae Dei)として肯定的に見ていたことを紹介してくださった。

これらの問題についてファン・ルーラーはどのように考えていたのだろうか。この問いに光を当てることで「欄外注」の務めに仕えることにした。そのうえで表題に掲げたとおり、ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義を明らかにしてみたい。

(続きはここをクリックしてください)

2016年12月17日土曜日

クリスマスを間近にして思うこと

家族それぞれ学校やら職場やらいろいろなので、昨夜はひとり激辛カップ麺「蒙古タンメン中本」で空腹を満たす。年末まであとひとふんばり。うちの人たちも似たような状況なのだろう。基本がリア充なので週末に不意にぼっちにされると軽く落ち込む。ボッティチェリ。とか書いているうちに、ぼっち終了。

一夜明けて「睡眠の質」という検索語で最初に出てきた記事を読む。睡眠の質を悪化させる原因に「仕事や心配事を考える」とある。「明後日説教しなければ」と悩みながら休む金曜の夜は睡眠の質が下がる。「明後日説教しないでいい」ときの金曜の夜は質が上がる。それを今朝実感した。すっきりさわやか。

数日前から「しゃべる目覚まし時計」というフリーソフトを利用させていただいている。これはいい。スリープ状態のPCを自動的に立ち上げてくれて、ロボ声やおっさん声で「朝ですよ!起きてください!」と大騒ぎしてくれるので起きざるをえない。しかし今朝は目覚ましなしだった。だって土曜日だもの。

初めて明かすが、ちょうど1年前の今日(2015年12月17日木曜日)立ち寄った「サイゼリヤ高田馬場南店」は当時の「日本基督教団東京教区事務所」の斜向かいにあった(現在は後者が移転)。サイゼリヤのランチでしっかり腹ごしらえしてから私の教師転入願に関する東京教区三役との面接に臨んだ。

書斎のベランダから見える快晴の富士山の今日(2016年12月17日土曜日)。昨年のクリスマスイヴ(2015年12月24日木曜日)に今の借家に引っ越したばかりのころ毎日のように写真を撮っていたのがもはや懐かしい。来週の土曜日か。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べたのは。

西洋起源の哲学や宗教を考える場合、紛らわしい日本語は西洋の言葉に戻して考える必要があろう。カルヴァン的な意味の「予定」はpredestinationだが、ライプニッツ的な意味の「予定調和」はpre-established harmonyなので、同じ「予定」でも意味も内容も全く違う。

書いても仕方がないことだが、何度も書いてしまう。外国から伝来した宗教を教える者の外国経験が人生51年で20日なのは、まあ仕方ない。いつまでもうさんくささがつきまとうのはそのせいかもしれないが、ごめんなさいと謝るしかない。地味に生きる道が、少なくとも私にはふさわしいと自覚している。

わしは今日もリア充じゃ。お昼はもんげーうめーナポリタンじゃった。妻が作ってくれたし、みんな揃っとったけーな。朝ほど富士山は見えんよ―になってしもーたけど、天気はえーし、気持ちえーが。明日は教会どけー行こーか。アドベントじゃしな。遠くの教会に行っちゃろか。そういう気分じゃが。なー。

(訳)私は今日も人生の幸せを味わっている。昼食は愛妻の絶品ナポリタンを家族みんなで堪能した。遠景の富士山は昼過ぎにはかすみに隠れてしまったが、大空は雲ひとつなく爽快だ。明日はどこの教会のアドベント礼拝に出席させていただこう。久しぶりに遠くまで車を走らせるとするか。そういう気分だ。

もとからクリスマス騒がない系だが、ますますそうなった感あり、ブキミなほど静かだ。教派や教会の系統の話ではなく個人的な話。偉い先生が書いておられたが、キリスト誕生の祝いはキリストにプレゼントする日ではあっても、我々がプレゼントをもらう日ではないだろうと幼いころから信じてきたくちだ。

前世紀「最大の神学者」と称された人に対して個人的に批判的な立場だが、その人が「サロン的教会」を「ブルジョア的」などと批判していたのは胸がすいた。クリスマス騒ぐ系の教会さんはこれからもその線でがんばられたらいいと思うが、個人的には今年からそういうのなくなったので正直ほっとしている。

教会こそ毎年毎年飽きもせずキリストは飼い葉桶に寝かされた飼い葉桶に寝かされたと説教し続けているのに、教会こそぬくぬくとクリスマスにこそごちそうを頬張るというのは結局なじめなかった。キリストはそうだったが我々は違っていいという論法も耳にしたが、得心はしなかった。主張もしなかったが。

まあもうでも、どうでもいい。昨年のクリスマスイヴを経て、この日に新しい意味が個人的に与えられた。だれも巻き込んでいない。小さな記念日となった。「どういう意味があるのか」と尋ねられたら、少しかっこつけてこう応えることにしよう。「これは過越だ!解放の祝いだ!」と。だれも文句は言えまい。

2016年12月15日木曜日

ゼレの神学を読むとファン・ルーラーの神学の限界が見える

ドロテー・ゼレの神学に感じる魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係がある。1929年生まれのゼレは1928年生まれのモルトマンやパネンベルクと同世代。1886年生まれのカール・バルトと1908年生まれのファン・ルーラーの年齢差と、ファン・ルーラーとゼレの年齢差が、ほぼ同じ。

バルトとファン・ルーラーの間も、ファン・ルーラーとゼレやモルトマンやパネンベルクの間も、ほぼ20歳ずつ離れている。バルトの世代とゼレの世代は40年差。その中間にファン・ルーラーが立つ。神学原理の問題までを世代論に還元すべきではないが、神学の文脈の違いは世代と無関係ではありえない。

どのようにいえば今書いていることを感覚的にご理解いただけるだろうか。たとえば私は現在51歳。その私をあくまでも仮にであるが「ファン・ルーラー」の位置に置くとしたら、今の70歳さんたちが「バルト」で、今の30歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」という関係になる。

またこれも仮の話、51歳の私を51歳の「バルト」の位置に置くとしたら、今の30歳さんたちが「ファン・ルーラー」で、今の10歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」になる。感覚は人それぞれだろうが、50代の人にとって「かわいい」のは30代ではなく10代のほうだろう。

「かわいい」かどうかなどははっきり言えばどうでもいい話だし、定義不能で意味不明だということも分かっているつもりだが、神学も人のすることである以上、人間固有の感覚や感情と無関係でもない。自分がしてきた仕事を受け渡す次世代の相手はだれかを選ぶときなどに、その手のことが作用したりする。

逆の視点はどうだろう。10歳さんから30歳さんと50歳さんが、あるいは30歳さんから50歳さんと70歳さんがどう見えるだろうか。たとえばどちらに「権威」を感じるだろうかとか、どちらに「模範」を見出すだろうかとか、どちらに「魅力」を覚えるだろうかとかを考えてみるとよいかもしれない。

ほぼ最初から脇道にそれていたので、もう戻れそうにない。ゼレの神学に感じている魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係ある。ファン・ルーラーがカール・バルトの神学と全面的に対決した(それはナチスに与することを意味しない)第一波だとすれば、ゼレやモルトマンやパネンベルクは第二波。

その闘争においてファン・ルーラーはもっぱら孤軍奮闘だったのに対し、ゼレやモルトマンやパネンベルクはかなり支援者を集めえた世代と言える。偉大な世代の人々が大学や教会の要職を引退する。彼らの功罪の「罪」の面に悩まされ抜いた人々が、新しい偉大な世代となる。中間世代は悩み抜く仕事を負う。

ようやく入手しえたゼレの何冊かの著書の日本語版を見るかぎりファン・ルーラーからの引用は見当たらない。しかしゼレがファン・ルーラーを知らないことはありえない。同世代のモルトマンやパネンベルクはファン・ルーラーを読んだし、引用したし、評価した。そのことをゼレが知らなかったわけがない。

ただゼレはファン・ルーラーに言及しない。もしかしたら興味がない。あるいは反発か無視か。理由は分からない。ただ私にある程度分かるのは、ファン・ルーラーは教会と神学の専門用語(ジャーゴン)にとどまり続けたのに対し、ゼレは教会と神学の外に向かう言葉を用いたことに違いがあるということだ。

ファン・ルーラーの神学の限界は、彼の神学では教会と神学の内部にいる人のことはある程度説得できるとしても、外部に持ち出すことはほとんど全く不可能である点にあると思う。そこがゼレの神学は圧倒的に違う。ゼレの神学は教会と神学の外部にいる人にも必ず届く。その信頼に足りる十分な内容がある。

以上、半分ねながら書いた駄文なので、ご放念いただきたい。

2016年12月12日月曜日

新しい時代の到来(千葉英和高等学校)

ルカによる福音書2章8~12節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

今日の説教に「新しい時代の到来」というタイトルを付けたのは、「アドベント」という言葉の意味が「到来」だからです。「待つ」という意味はありません。「待つ」ではなく「来る」です。救い主イエス・キリストの誕生は「新しい時代の到来」を意味する。それが「アドベント」の意味です。

私の妻は保育士です。子どもたちが小さい頃は子育てに専念していました。息子が中学校に入学し、娘が小学校の高学年になったときから保育士の仕事を始めました。ちょうど10年前です。

保育士の仕事にもいろいろあります。現在は発達障がいを持つ子どもたちの施設で働いています。その前は児童養護施設で働いていました。複雑な事情の子どもたちの世話をしています。

しかし、妻の仕事の具体的な内容については、私は何も知りません。いろんな仕事に当てはまることでもありますが、妻の仕事には「守秘義務」があります。仕事上知りえたことを第三者に漏らしてはなりません。それは夫婦であっても親子であっても同じです。

学校の先生も同じです。学校の先生にも「守秘義務」があります。私も家でもどこでも学校のことは何も話しません。ですから、私と妻が家にいるときは、お互いにずっと黙っていることが多いです。それでいいのです。そういう仕事なのですから。

こういう話をするのは、皆さんの将来の進路選択や職業選択の参考にしてほしいという願いがあるからです。直接的な意味で保育士になってほしいという意味ではありません。私が言いたいのは、日本の中にも、小さいときから親子の関係や自分自身の体や心のことで激しく悩み苦しんでいる子どもたちがたくさんいるということを知らずにいないでほしいということです。そして、もし可能なら、そのような子どもを何らかの仕方で助ける仕事をぜひ目指してほしいということです。

先々週の礼拝にお招きした日本国際飢餓対策機構の方の話には、心を激しく揺さぶられました。飢餓で命を失う子どもたちが日本国内に大勢いるとは言えないでしょう。しかし、日本には問題がないということはありえません。人に言えない事情も多くあるのですが、だからこそ人知れず多くの子どもたちが小さいときから激しく苦しみ悩んでいます。

その中には皆さんと同世代の子どもたちがいます。皆さんの弟さんや妹さんの世代、あるいはもっと小さな子どもたちもいます。その子たちのことを他人事だと思わないでほしいです。きつい言い方になりますが、「そういう家庭環境に生まれてしまった子どもたちは、はい残念でした。でも、ぼくは、私は、ラッキーでした」というような考え方は捨ててほしいです。

「ノブリス・オブリージュ」というフランス語の言葉を皆さんはご存じでしょうか。英語でいえば「ノーブル・オブリゲーション」です。日本語には訳しにくい言葉ですが、その意味は「恵まれた人こそが社会的に果たすべき義務が重い」ということです。税金の額だけの問題ではありません。もし皆さんが「ぼくは、私は、ラッキーでした」と思うなら、そのような人こそが、そのようなことを考えることすらできない苦しい立場にいる人々のことを助けることについて大きな義務を負うべきです。

進路選択や職業選択について私が何か言うと、それは押し付けだ、指図するな、個人の自由だとお叱りを受けることがありますので、このことも慎重に言わなければなりません。押し付けるつもりも指図するつもりも全くありません。ただお願いしたいだけです。

今月初めに行われた学校のクリスマス祝会の「ページェント」(キリスト降誕劇)は本当に素晴らしかったです。感動しました。私は昨年までは在校生の保護者として毎年参加していましたので、4年連続で観させていただきました。どの年の作品も素晴らしかったですが、年々パワーアップしていると思います。

しかし忘れてはならないのは、ページェントが教えてくれたのは「最初の」クリスマス、つまりイエス・キリストの誕生の日の出来事は、本校のページェントの盛大さとは全く正反対と言えるほど寂しいものだったということです。

ヘロデを上手に演じてくれた名役者を悪者にする意図はありません。しかしイエスが生まれたのは裕福で贅沢なヘロデの側ではありません。正反対です。「こんな服で、こんな身なりで救い主に会いに行ってもいいのだろうか」と悩む羊飼いたちに涙が出ました。人の心の叫びが聞こえました。

しかしまた、そのような人々のもとでこそ、そのような人々のためにこそ救い主がお生まれになったのだと天使が教えてくれました。そうであることのしるし、その証拠は、幼子イエスが家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていることであると教えてくれました。

その幼子イエスの姿は、裕福と贅沢のまさに正反対です。裕福と贅沢が悪いと言っているのではありません。しかし、世界には、そして今の日本にも、そうでない人が大勢いるし、多くの子どもたちが苦しんでいるということを深く考え、真剣に向き合うことなしに自分の裕福と贅沢だけを追い求めようとするならば悪いです。いいわけがないではありませんか。

そのことをクリスマスが、そして幼子イエスが、今日あなたに問いかけています。そのことを覚えて過ごすクリスマスでありたいと願います。

(2016年12月12日、千葉英和高等学校 学校礼拝)

2016年12月11日日曜日

最後の希望の光(千葉若葉教会)

ルカによる福音書2章8~14節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

プロテスタントの教会にもいろいろありますが、「ふだんは教会暦のことなど全く無視しているのに、クリスマスとイースターとペンテコステばかり騒ぐのはいかがなものか」という意見が昔から根強くあることを皆さんもご存じだと思います。私もどちらかといえばそちらの影響を強く受けている人間ですので、アドベントになってもクリスマスになってもポカンとしているほうです。皆さんのお考えと違うようでしたらお許しください。

イエス・キリストの降誕の出来事を描いた聖書の箇所は、教会では何度も何度も読まれますので、さすがに聞き飽きたと思われる方が多いと思います。私も過去51年間教会生活をしてきましたので、50回はクリスマス礼拝をささげました。そのたびに同じ聖書の箇所が読まれますのでうんざりするのですが、今年の私はちょっと違います。新しい視点が与えられたという思いでいます。

新しいと言ってもそれほど新しくもないのですが、それは私にとっては新しい、とても新鮮な視点です。まだ先々週の12月2日金曜日に古書として入手して読み始めたばかりの本ですが、ドロテー・ゼレ先生の『神を考える 現代神学入門』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)に書かれていることを読んで与えられた、私にとってはとても新しい視点です。

ゼレ先生は、ドイツで生まれ、アメリカのニューヨーク・ユニオン神学大学で教え、再びドイツに戻って活躍した女性の神学者です。1929年生まれとのことで、私の親とほぼ同世代の方です。そして、2003年に73歳で亡くなられました。

『神を考える』の日本語版の出版は1996年です。ちょうど20年前です。原著ドイツ語版の出版は1990年ですので26年前です。1990年といえば、私が東京神学大学大学院を修了して高知県の日本基督教団の教会の伝道師として仕事を始めた年です。当時の私は24歳で、現在51歳です。その頃のことを思い返すと、懐かしいと言えば懐かしい。しかし、教会と神学の歴史の長さを考えれば、ゼレ先生の神学はまだまだ新しい考え方です。

ゼレ先生の著書の日本語版は『神を考える』以外に、『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)、『働くこと愛すること』(関正勝訳、新教出版社、1988年)『幻なき民は滅びる 今、ドイツ人であることの意味』(山下秋子訳、新教出版社、1990年)などがあります。私が最初に購入したのは『苦しみ』ですが、ずっと前に購入しましたが全く理解できず、放置していました。しかし、やっと理解できるようになりました。ゼレ先生が何を言おうとしているのかが分かるようになりました。

そういうわけで今日は、聖書そっちのけでゼレ先生の本をずっと読んでいたい気持ちですが、そうも行かないと思いますが、今日はゼレ先生の文章を長めに引用することをお許しいただきたく願っています。以下のように記されています。

「一つ聖書の例を引いて、いろいろな神学的伝統における解釈の多様性を明らかにしてみたい。その例として、イエスが処女マリアから生れたという話を考えてみよう。正統主義は、この話を字句通りそのまま解釈する。イエスは処女から生れたのである。この教義的な表明は、アメリカのファンダメンタリストたちからは五つの根本的信条の一つとまでされ、信仰的財産に修正を加えようとする今世紀初めの自由主義的試みに対抗した」(65頁)。

解説の必要があるでしょうか。「正統主義」とか「ファンダメンタリスト」と呼ばれているのは聖書解釈の「保守的な」立場の人々です。「今世紀初め」は今では「前世紀の初め」です。引用を続けます。

「保守的な福音絶対主義の人たちの間では、処女降誕の教えはキリスト教信仰の本質的な構成要素とされ、これがなければ信仰は告白されることができない。この人たちにとって、信仰を決定する意味を持つのは戦争や大量虐殺の手段に対する態度ではなく、恐らく処女降誕の教えであろう」(65~66頁)。

ゼレ先生はこれを皮肉で書いておられるのではありません。全く書いてあるとおりです。「保守的な福音絶対主義の人たち」は、名指しは避けますが、つい最近まで私の身近なところにいましたので、私も肌感覚で分かります。真面目な人々ですが、ぞっとするところを持っています。引用を続けます。

「そこへ自由主義的な批評家がやって来て、聖書を開き、新約聖書の最も重要な記者はこの話を全く知らないか、或いは述べていないということを確認する。マルコはその福音をイエスが既に三十歳のときの受洗から書き始め、子供時代のことについては何も述べていない。マルコにとっては処女マリアに何があったのか、イエスがどのようにして生れたのかは、重要なことではなかった。ヨハネはイエスをずっと神のもとにおき、誕生の話を深く考えてはいない。それはパウロも全く同じである」(66頁)。

これは解説の必要はないでしょう。他の箇所にはっきり書かれていますが、「自由主義的な批評家」というのは、ゼレ先生が卒業したドイツのゲッティンゲン大学神学部や他のドイツの大学の神学者を指しています。引用を続けます。

「諸宗教をそれぞれの文脈において比較する、自由主義神学の副業であるいわゆる宗教史学派の助けを借りて、自由主義神学は処女降誕が古代ではかなり広まっていたモチーフであることを発見した。人々は好んで重要な人物や偉大な英雄が、処女から生れたと言ったのである。この各地で見られるモチーフは、父親が誰であるかはっきりとわかっている人でも、処女から生れたといわれるほど広く語られた。例えばソクラテスの父親も母親も私たちはよく知っているが、彼が死んで四百年のちには、処女降誕が語られた。ソクラテスの神性をより一層明らかに表すことができると考えたからである。したがってこのモチーフはユダヤ教ではなく、ヘレニズムに端を発したものであった。ヘブライの聖書は預言的に『おとめ』について語っている(イザヤ7・14)。そしてこのモチーフがルカの報告となって、教会史の中に入り込んできた。性や女性を敵視する響きは、聖書にはない」(66頁)。

「処女降誕物語」のヘレニズム起源説については、青野太潮先生も近著『最初期キリスト教思想の軌跡』(新教出版社、2013年)に書いておられます。ソクラテスが処女から生れたという話が実在することを知っている方々は、同じような話が聖書の中に紛れ込んできたことを証明できると考えておられます。私も特に異存はありません。しかし、ゼレ先生の意見は、ここから先です。

「私は18歳のときに持ったキリスト教への疑念を思い出すことができる。私が砕くことができなかった石(一番大きなものではなかったが、しかし一つの石であった)の一つが、私には理解できないこの処女降誕であった。なぜこのことを信じなければならないのか、解らなかった。処女から生れたイエスのほうが、父親がいるイエスよりも立派だというのか。それが私の救い、罪と悲しみからの解放に何の役に立つのか、私は理解しなかった。この信仰的財産がヘレニズム的解釈の一つに過ぎず、私がキリスト者であることにとって本質的なことではないということを自由主義神学を通して知ったとき、私がどんなに解放されたと感じたかを、今でもはっきりと覚えている。自由主義のパラダイムは、人間をしばしば信仰の躓きから解放してくれた」(66~67頁)。

しかし、ここでゼレ先生のお話は終わりません。ここから先が最も大事です。

「しかし、ラテン・アメリカの解放の神学では全く違っている。処女降誕のモチーフは不必要なものとされるのではなく、解放闘争の中へと組み込まれている。決定的なことは、解放者は貧しい人々の間でこの世に生れたということである。ラテン・アメリカでは多くの人々が未婚の母から生れ、父親を知らない。保護や援助を当てにすることができないまま、子どもを生む若い女性がいるという状況がごく普通なのである。彼女は困難に陥っており、恐らくエリサベトのような年上の女友達に助言を求めるだろう。彼女は見捨てられ、不貞を罰せられるのではないかと不安に思っている。これらはすべて私たちの社会にもある正常な状況である。この状況は解放の神学では次のように受け入れられている。マリアは私たちのうちの一人であり、彼女は光を、解放者を、救済者を生んだと。彼女に受胎を告げる天使は、『ソレンチナーメの農民の福音書』では、『反体制的』と見られている。『そしてマリアもまた、この知らせを聞くと、すぐに反体制的になる。彼女は地下組織に加わったかのように感じていたのではないかと思う。解放者の誕生は、秘密にされていなければならない』」(67頁)。

どうでしょうか。全く受け入れられないでしょうか。私はとても魅力を感じる解釈です。

「これはこの物語への全く新しい近づき方である。貧しい人たちから、しかも貧しい人々に属する女性という最も貧しい人々の立場から考えているという点で、全く異なっている。このような意味で、処女降誕の話が自由主義のように不必要なものとして批判されるのではなく、正統主義的パラダイムとつながりを持ちつつ、しかし同時に、貧しい人たちから、そして貧しい人たちのためにという新しい解釈の枠組みの中で、新しく解釈されている。そこからは性への敵意と支配ではなく、反体制と抵抗が伝わってくる。自由主義神学にとって処女降誕は、取り去ってしかるべき躓きの石である。解放の神学にとってそれは、一個のパンである」(68頁)。

今日開いていただいた聖書の箇所は処女降誕には直接関係ありませんが、まさに「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」イエス・キリストがお生まれになったことが分かるように記されている箇所です。この最も大切な視点の意味を教えてくれたゼレ先生の著書に感謝しつつ、皆さんにもご紹介したいと願った次第です。

明日(12月12日)は学校礼拝で私が説教します。そこでも私はこのことを話したいと考えています。

イエス・キリストは「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」お生まれになりました。イエスの両親も、イエスの誕生を祝いに来た羊飼いたちも、貧困と孤独の中にいた人々でした。イエスが最初に寝かされたのは、家畜小屋の飼い葉桶でした。夜通し働いていた羊飼いたちを明るく照らしたのは、夜空の星と「主の栄光」でした。後者はもしかしたら「マッチ売りの少女」(アンデルセン作)が最期に見た光のようなものかもしれません。

学校礼拝で話そうと思っているのは次のようなことです。「私は貧しくもないし、孤独でもない」と思える人は幸いです。しかし、そうでない人々のことを深く考え、真剣に向き合うことができないような心の持ち主であるなら不幸です。そのことをクリスマスが、そしてイエスがあなたに問いかけています。どういうふうに聞いてもらえるでしょうか。

イエス・キリストは、貧しい人々にとっての最後の光、最後の望みです。「私は貧しくないから関係ない」でしょうか。「私が貧しくなることはありえない」でしょうか。そんなことはないのではないでしょうか。そのようなことを考えながら過ごすアドベントでありたいと願います。

(2016年12月11日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)

2016年12月10日土曜日

12月10日はファン・ルーラーの誕生日です


12月10日になると毎年書いていたことを、今年は書き忘れるところだった。12月10日は、20世紀中盤のオランダで活躍した組織神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の誕生日。今年で生誕108年となる。

8年前の2008年12月10日にアムステルダム自由大学で開催されたファン・ルーラー生誕100年記念「国際ファン・ルーラー学会」から招待状が届いたので出席した。私は初めてのオランダ。出席者200名中日本人3名。再来年2018年に生誕110年記念国際学会が開催されることを期待したい。

初めてのオランダでもっと写真を撮ればよかったと、後悔先に立たず。数が少ないので同じものを繰り返し公開するしかない。自慢の一枚は、宿泊先ホテルのすぐ近くだった国立美術館の前での写真。フェルメール展をしていたが一顧だにせず、石原知弘牧師と二人でファン・ルーラーゆかりの地めぐりをした。

2016年12月5日月曜日

今日の反省

お恥ずかしいことに今朝は寝坊してしまった。仕事には間に合ったので事なきを得たが、いつもより2時間も長く眠ってしまい、文字通り飛び起きた。毎朝ケータイのアラームで目を覚ますが、昨夜うっかりコートのポケットに入れたまま寝込んでしまったので、アラーム音が聞こえなかったことが原因だった。

それでもなんとか自力で目を覚ますことができて助かった。起きがけの半覚醒状態で見ていた夢の中で私がしゃべっていた。ぐっすり眠ってよく休んだ脳で、ものすごくよく考えて、理路整然と必死にしゃべっていた。実際に声をあげていた。内容は書けないが、はっきり覚えている。相手の顔まで覚えている。

このような状態に何か医学的な病名のようなものがあるのだろうかと今ふと考えた。午前0時には寝たはずなので、途中一度も起きずに7時間は眠っている。「熟睡後半覚醒状態真剣思索大声寝言症」だろうか。いや真面目に。その自分の大きな声で目が覚めた。自分の声がケータイのアラーム代わりになった。

今のケータイを使いはじめて4年半になる。何の不自由もない。ツイッターはできなくされたが(プリインストール版アプリが終了したため)、フェイスブックはできるし、写真も撮れるし、目覚ましになるし、計算機にもなる。なにより頑丈だ。コンクリート地面に何度落としたことか。全くびくともしない。

ケータイに限らず、どんなものでも基本、壊れるまで使う。ものを大切にする人間であるわけでなく、新しいのを買いに行くのが面倒なだけだ。買い物という行為を苦手としている。なので、壊れたときは困ってしまう。重い腰をあげて新しいのを手に入れるまで、一時的にそれが「無い」状態に陥ってしまう。

ゼレさんの『幻なき民は滅ぶ』が届きました

本日(2016年12月5日月曜日)、ゼレさんの『幻なき民は滅ぶ 今、ドイツ人であることの意味』(山下秋子訳、新教出版社、1990年)が郵便受けに届く。古書で入手。私にとっては4冊めの蔵書。1990年といえば私が東京神学大学大学院を修了して高知県の教会の伝道師になった年。26年前。

ゼレさんの神学に言及しているファン・ルーラーの論文が古いほうの著作集(Theologisch Werk)にあるのを見たことがあるのでそれを捜すも、推定1トンの平積み蔵書に埋もれて見つからない。なんという不覚。もはや慟哭の境地。研究者を名乗る資格なしだ。冬休みになったら本棚を買う。

2016年12月4日日曜日

ゼレさんの『働くこと愛すること』が届きました

本日(2016年12月4日日曜日)、ゼレさんの『働くこと愛すること 創造の神学』(関正勝訳、新教出版社、1988年)が郵便受けに届く。古書で入手。私にとっては3冊めの蔵書。ゼレさんはすでに物故者だが(2003年死去)、私の親の世代の人(1929年誕生)。心からの敬意をもって読む。

新松戸幸谷教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年12月4日日曜日)は日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市)の主日礼拝に出席させていただきました。「その光はまことの光」と題する吉田好里牧師のアドヴェント説教は、息を呑む素晴らしさでした。聖歌隊の賛美が美しかったです。聖餐式にも与りました。ありがとうございます。

2016年12月2日金曜日

ゼレさんの『神を考える』を読みはじめました

本日(2016年12月2日金曜日)ゼレさんの『神を考える』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)を古書で入手。ずいぶん前に買った『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)に続くやっと2冊めの蔵書。まだまだ。今年の流行語大賞に「ゼレってる」でエントリーしよう。今年はもう終わったか。ゼレ研ぜひいつか。

ゼレさん素晴らしい。じんじん響く。

「テキスト・文脈・神の民は、組織神学の最も基本的な概念である。組織神学はこれら三つの要素すべてを顧慮しなければならず、どれか一つが他のものより優位であると言うことはできない。文字と伝統をいわば不動のものとして繰り返すだけで、このテキストが現在の文脈の中で言おうとしていることを明確に発言しない神学は、神の民に対して担っている課題を果たしていない。信仰の主体である神の民に関連する、テキストと文脈の間の対話がなければならないのである。」
(『神を考える』15ページ)

これも素晴らしい。ずばりそのとおり。

「正統主義は自らの文化的な制約に対して、独特の蒙昧さを持っている。結婚、子どもの教育、労働の倫理に関する正統主義の理解は、これらを美化して批判しない。その結果、ドイツ・キリスト者に対して向けられたバルメン宣言が、今日、新正統主義と保守主義が混じり合う中で、次のように解釈される可能性がある。

教会の側からの政治的な参加は、どんなものであれ非難されなければならない。イエス・キリストはこの世のあらゆる体制を超えて立っている。彼に与するということは、この世の戦いには関わらないことを意味する。キリスト者であることは、政治的な問題に実際に関わることから一定の距離を置くことである。キリストは神の唯一の言葉であるから、すべての体制は―それが社会主義であろうと資本主義であろうと―キリストと同一視されることはできない。イエス・キリストはすべてを超えている。教会はこの世から距離を置き、いわゆる『終末論的条件』を守らなければならない。バルメン宣言の第二の命題が『この世の神なき束縛からの喜ばしい解放』を告げているなら、この告白の保守的な解釈は、バルメンの歴史的文脈から明らかな幾つかの束縛だけではなく、この世の束縛すべてがそれ自体神なきものであると仮定する。文脈の欠如が神学の原則へと高められてゆく。その他の保守派の人たちは、新正統主義のキリスト中心主義を、エキュメニカル運動の解釈学的アプローチと『世界が教会の議題を決定する』という主張に反対するために利用したのである。」
(『神を考える』27~28ページ)

全15章中の最初の1章と2章を読了。40ページ進む。これほど興奮しながら読める、得心が行く組織神学は久しぶりだ。目が疲れてきたのでこれにて。

2016年12月1日木曜日

聖霊の「注ぎ」についての私見の続き

日本語訳の聖書で聖霊について「注ぐ」という言葉が何度も使われているのはそれ以外に訳しようがない原語が用いられているからだと思うので、私も「注ぐ」を用いないわけではないということは繰り返し申し上げている。私の関心は、聞く人の耳にどう聞こえるか、読む人の目にどう読めるかということだ。

「注ぐ」というとどうしても聖霊は水や油のような液体なのかと連想させるものが出てきてしまうがそれでよいかが気になる。また「注ぐ」というとどうしても聖霊それじたいの主体性よりも「聖霊」以外のだれかが「注ぐ」という行為を行うことをイメージさせてしまうものが出てきてしまうがそれでよいか。

「父なる神が、イエス・キリストにおいて、聖霊を」という文脈でなら「注ぐ」でよいとも思うが、聖霊もまた(相対的に)自立した主体性をもつ存在であると考えるなら、聖霊おんみずからがご自分のほうから人間存在の内部に潜り込んでくださることをイメージできる訳語のほうがよいのではないかと思う。

たとえば、テトスへの手紙3章6節のギリシア語には「注ぐ」や「流す」という意味以外に「授ける」という意味がある。「授ける」ならまだましである。「注ぎ」も「満たし」もそれ自体は意志をもたない非人格的な物質のイメージに通じるものがある。三位一体をもっとまじめに考えなくてはだめだと思う。

うまく表現する自信はないが、私がもうひとつ気になるのは、「注ぐ」という言葉につきまとう(と私には感じられる)、注ぐ主体と注がれる客体との関係が、前者にとっての後者が「従属的な」関係であるように感じることである。これを言うのも、三位一体がまじめに考えられていない気がするからである。

「注ぐ」と言うではないかとご指摘いただいた「愛情」にしても、「視線」にしても、「力」にしても、注ぐ主体から発せられる客体ではあると思うが、しかしそれは、それ自体が(相対的に)自立した人格的主体性を持っているものではなくて、あくまでも、注ぐ主体の人格的主体性に従属するものであろう。

父なる神と聖霊の関係やキリストと聖霊の関係はそういうものだろうか。「注ぐ」より「出る」に近いのではないか。「親から子どもが生まれる」や「出る」はありだが、「親から子どもが注がれる」とは言わない。御父と聖霊の関係は親子ではないが、異なるペルソナをもつ両者を言うなら「注ぐ」はまずい。

「聖書解釈から教義が生まれた」という歴史的順序はそのとおりだが、その教義に「教会の聖書解釈」は拘束されている。三位一体の教義に「聖書」は拘束されていないかもしれないが、「教会の聖書解釈」は拘束されている。この話題の出発点は、私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたことからだった。

私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたのに対して、「聖霊」には「注ぐ」と言うほうがいいのではないかというご指摘を受けた。私に問われているのは「教会の聖書解釈」だった。その返答として私は「聖霊」について「注ぐ」という表現を使うのは意図的に避けていると言い、その理由を説明した次第。

聖霊について「注入、注ぎ」(infusio)という語を用いることにプロテスタンティズムは批判的だったと、ティリッヒが『組織神学』第3巻(私の東神大の学部4年の卒業論文のテーマだった)に書いているのを読んだことが、私がこの問題を考えはじめたそもそものきっかけだったことを思い出した。

なぜプロテスタンティズムがそうなのかといえば、ティリッヒによると、「注ぎ、注入」(infusio)という語には「魔術的・物質主義的こじつけ」(magic-materialistic perversion)があるからだそうだ(ティリッヒ『組織神学』第3巻、英語版では115ページ)。

しかし、ティリッヒが言っているから、とか、プロテスタンティズムがどうだから、とか、三位一体が、とか私が言うのは、私が「聖霊」に「注ぎ」という語を用いることを意図的に避けていることの理由ないし自己弁護を言っているだけであって、自分の立場や考えが絶対に正しいと言いたい思いは全くない。

パウロが三位一体を考えていたかどうかという問いかけは、イエスはキリスト教の創始者だったか、とか、カントがドイツ観念論の哲学者だったか、という問いに似ている。ちなみに、イエスはキリスト教の創始者であり、カントはドイツ観念論の哲学者だったというのは高校の倫理の教科書の言い方である。

11月27日日曜日の説教で私は「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4章6節)は、御子だけの霊ではなく、御子の霊を送った御父の霊でもあるので「御父と御子の霊」としての「聖霊」だと述べた。

パウロの時代に「三位一体」(trinity)という用語は存在しなかった。それはそのとおりである。しかし「御父と御子の霊」としての「聖霊」は前二者と同格のペルソナを持っているという理解は少なくとも西方教会の伝統を受け継ぐ「教会」、そしてもっと多くの「教会」の聖書解釈の基本線である。

その基本線に私も拘束されている。その意味は、「父・子・聖霊なる三位一体の神」を”信奉”する日本基督教団信仰告白の”影響下”にある教団の教師である私は拘束されている、というくらいかもしれない。いま書いた一文に2回使用したダブルクオーテーションはやや皮肉である。大真面目の皮肉である。