2016年11月3日木曜日

私が見る悪夢にはたいていいつも出口がある

長年の準備期間には関与せず批判的・揶揄的であったような人が、あとから来て、まるで自分ですべてを築いた人然としているのを見ると二の句が継げない。不愉快としか言えない。でも、それはお互いさまかもしれないと黙するばかり。神がそのあり方をお許しになっているようでもあるので困惑するばかり。

つなぎ方が強引かどうかは分からないが、ファリサイが異邦の人を嫌がった理由に「あとのもの」が「先のもの」を追い越すのを嫌がった点はある。共感も同意もしないが、構図的に全く似ていないとも言わない。主導権争いなんかどうでもいい。ただ、お互いに謙遜であるほうがいいのにとは思う。後の祭り。

そして、どちらが「先」でどちらが「あと」かは謎であり続けることでもある。人の苦労の多寡も比較できない。レールを敷いた人と、敷かれたレールを走る人と。私はほぼいつも後者であることを強いられた。「強いられた」とあえて書く。誰も強いていないと言われよう。たしかにそうだ。強いたのは神だ。

恨んではいないが(いや恨んでいる)困ってはいる。人にではなく(いや人にも)神に。そして、心配もしている。余計なお世話かもしれない。しかし、心配せずにはいられない。あなたはなぜそこまであなたなのか。それでいいとどうして思えるのか。ここから先はお互いさまなので、祈りつつ黙するばかり。

という理屈っぽい悪夢にうなされた(ことにしておく)。夢オチという手法は有効だ。何があっても生きていくために、前に進んでいくために、いい夢を見ようと悪夢だろうと、よく眠ることが大切。私が見る悪夢にはたいていいつも出口がある。堂々めぐりで終わらない。神学を学んだおかげだと書いておく。