2016年11月13日日曜日

神があなたと共に苦悶する(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章26~27節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」

おはようございます。今日初めて南花島集会所の主日礼拝で説教させていただきます。日本基督教団教務教師の関口康です。高等学校で聖書を教える教員として働かせていただいています。よろしくお願いいたします。

カレンダーに書き残したメモを確認しましたところ、私が南花島集会所の礼拝に初めて出席させていただいたのは今年6月26日日曜日であったことが分かりました。わずか5ヶ月前です。当時の状況を忘れていましたが、これもまたカレンダーで確認しましたところ、その前々日の6月24日金曜日とその翌日の6月25日土曜日の二日間が、私の勤務校の文化祭でした。

他の学校でも同じだと思いますが、勤務校の文化祭は、生徒の自主性を重んじて行っています。その意味では、文化祭の期間は、生徒会担当の先生がたはともかく、それ以外の先生にとっては気楽な面があると思います。しかしそれでも、いろいろと気疲れするところはありました。文化祭が終わった翌日の日曜日の朝の私は「ああ疲れた」という気分でした。

隠すほどのことではありませんので、正直に言います。あの日の朝、私は教会の礼拝を休もうかと、家でぎりぎりまで迷っていました。文化祭との関係だけではありません。教会の牧師の仕事をやめて学校の教員になったのが今年4月ですから、6月26日はようやく3ヶ月を経たばかりの頃でした。

まさに文字通り、右も左も分からない。生徒からも先生からも学校のことについて何を尋ねられても答えられない。自分のなすべきこと語るべきことを把握できない。実際にいろいろと失敗して迷惑をかけてしまう。そういう状態でした。今もその状態が続いているとも言えますが、当時よりは少し慣れました。

それでも私は、何のプライドなのでしょうか、その日、かなり無理やり自分の体を打ちたたいて、とにかく車に乗り込み、エンジンをスタートさせ、車を動かしました。私はキリスト者であり、牧師である。その私が日曜日に教会に行かないことはありえない。どんなに疲れていようと、なにがなんでも、どこかの教会に行かなくてはならないという気持ちでした。しかしその日どこの教会に行くかが決まっていませんでした。

そういうときは地図を開いてコンパスを使って物理的な距離が最も近い教会に行けばいいと、私は長年いろんな人にそのように助言してきました。人にそう教えてきたのだから私もそうしようと思いました。しかしふと気づく。家からの距離が最短の教会の礼拝開始時刻は「午前10時15分」。もう間に合わないと思いました。私が車を動かしたときが午前10時過ぎになっていましたので。牧師である私が教会の礼拝に遅刻して行くことなどありえない。そう思って、遅刻しそうな教会に行くのはあきらめました。

しかしその後、行く宛てもなく松戸市内を20分ほどぐるぐる回っていました。それで私の目に飛び込んできたのが、国道6号沿いに大きく張り出されている「日本キリスト教団豊島岡教会南花島集会所」の看板でした。

松戸市で生活した11年9ヶ月の間、国道6号は、毎日のように(というのはやや大げさですが)車で走っていましたので、この看板の前を通るたびに拝見していました。しかし、よほどのことでもないかぎり、中に入るきっかけはありませんでした。昨年末までは他教派の人間でしたし。

しかし、なんとか教会にたどり着きました。礼拝開始時刻「10時30分」。私が着いたのが10時28分。2分前でした。遅刻しないで出席できる礼拝は、その日はここだけでした。選択肢がなくなりました。受付で「新来者カード」を書かせていただき、礼拝堂に飛び込んだとき、ちょうど礼拝が始まりました。

その日の説教者は、安増幸子先生でした。全くの初対面ではありませんでした。その前に2回、松戸朝祷会でお目にかかったことがありました。しかし、申し訳ないことに、私はその日まで安増先生を牧師であるとは認識していませんでした。どこかの教会の役員の方かなと思っていました。他教派の人間でしたので、日本基督教団の教師がどなたであるかを知らなかったという意味です。

あの日、安増先生はとても力強い説教をしてくださいました。そのことに感動しました。そして、礼拝後の愛餐会のとき、皆さまからこの教会がどのようにしてできたかを教えていただいて、とても驚きました。

この南花島集会所の皆さまは、私の父が千葉大学園芸学部の学生だったとき、賀川豊彦先生の伝道集会に参加して初めてキリスト教を知り、その後洗礼を受けた日本基督教団松戸教会と強く深い関係にある教会であるということを、あの日初めて知りました。私の信仰のルーツにたどり着くことができました。そのことを知って腰が抜けました。

私の個人的な話をだらだら続けてしまいましたことをお許しください。いまお話ししていることの趣旨は、私は今日なぜこの教会で説教壇に立たせていただいているかの説明のつもりです。

今の私は、高等学校で聖書を教える仕事をしています。教会の牧師の仕事はしていません。日曜日がフリーです。だから私に説教を依頼していただけたという面があることはもちろん分かります。それ以上のことを私は、声を大にして自己主張するつもりはありません。しかし、100パーセント私の主観だけから言わせていただくのをお許しいただけば、私が今ここに立っているのは「神の導き」であるとしか表現のしようがありません。他の言葉が見つかりません。

さて、今日を含めて3回、皆さまから説教のご依頼をいただきました。1回めが今日、11月13日。2回目は来年1月8日。3回目は2月12日。どのような説教をさせていただくかをいろいろと考えて至った結論は、3回に分けてローマの信徒への手紙8章の26節から36節までを学ばせていただきましょうということでした。

なぜこの箇所なのかということは、説明できないわけではありませんが、次回お話しします。ただこの箇所は、聖書全体においても新約聖書においても最も有名な箇所のひとつであることは、間違いありません。なかでも28節の御言葉が有名です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。

さらっと書かれていますが、考えれば考えるほど深みにはまる謎めいた言葉です。「神を愛する人」と「神の計画に基づいて集められた人」がどうつながるのかは謎めいています。人が神を愛することのほうが先なのか、それとも神の計画が先なのかと考えていくと、「卵が先か、鶏が先か」を争う鶏卵論争にも似た様相の議論になっていきます。

さて、ここからやっと今日の箇所の解説にたどり着きます。しかし今日はすでにだいぶ長くお話ししましたので、もうすぐ終わりにします。学校の授業の場合はチャイムが鳴りますので、長い授業はできません。話が途中でも強制終了。教会の礼拝にもチャイムがあるほうがいいと思います。説教の途中でも強制終了。

それでは今から、今日の聖書の箇所に書かれていることの主旨を手短に申し上げます。

「霊」の意味は端的に「神」です。新共同訳聖書の凡例の「三(2)」に次のような断り書きがあります。「新約聖書において、底本の字義どおり『霊』と訳した箇所のうち、『聖霊』あるいは『神の霊』『主の霊』が意味されていると思われる場合には前後に””(ダブルクオーテーション)を付けた」。

「聖霊」は、わたしたちにとって端的に「神」です。「三位一体の教義が教会で定められたのは、パウロがこの手紙を書いたときよりずっと後の時代である」という言い逃れは通用しません。歴史的事実はそのとおりです。しかし、三位一体の教義を定めた教会が考えたのは聖書の読み方です。わたしたち教会はその教義を受け継ぐ責任がありますし、そのように聖書を読む必要があります。

そういうわけですので、今日の箇所に「”霊”」と書かれているところはすべて「聖霊」、そして端的に「神」と言い換えることができます。

それでは今からすべてをそのように言い換えてみます。

「『神』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『神』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、『神』の思いが何であるかを知っておられます。『神』は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」

もちろん、ただ単純に言い換えただけでは意味不明のところが出てきます。しかし、この言い換えだけで分かることがあります。

「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」という場合の「わたしたち」は「人間」です。人間は弱いので、何かひどい目にあったり混乱したりしていると絶句します。言葉を失います。祈りの言葉さえ失ってしまいます。それはそのとおりです。

しかしそれでは、その弱い人間であるわたしたちを助けてくださる「神」である「霊」は、わたしたち人間とは違ってとても強い方なので、祈りの言葉を失うどころか力強く明確な言葉を雄弁に語る、そのような方であるとパウロが書いているかというと、全くそうではないということです。

先ほど「霊」を「神」と言い換えました。「『神』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と。「言葉に表せないうめき」というのは、痛みや苦しみをこらえているときに出てくる苦悶の声です。場合によっては絶叫を伴います。妊産婦が出産のときに上げる声がそれです。それは、力強く明確な言葉を雄弁に語ることの正反対です。

「霊」がそのようなうめき声を上げると、パウロは書いています。この「霊」は神です。そしてここから先は私の考えです。他の牧師は言わないことかもしれません。

この「霊」は「聖霊」です。その「聖霊」は「キリストの霊」であるだけでなく「父なる神の霊」でもあることを無視してはなりません。「父、子、聖霊なる三位一体の神」ですから。「聖霊は御父と御子から発出」しますから。

別の言い方をすれば、わたしたちを執り成してくださる「神」のうめき声は、イエス・キリストの十字架上の絶叫だけではないということです。それは、父なる神御自身のうめき声でもあります。

聖書の神は《弱い神》です。祈りの言葉さえ失うほど悩み苦しんでいる人々に向かって力強く明確な言葉を雄弁に語る神ではない。全くそうではなく、むしろその反対に、わたしたちと一緒に言葉を失い、うめく神です。弱くて情けない神です。「もっとしっかりしてくださいよ!」と文句を言いたくなるほど、まるで弱い神です。

しかし、その《弱い神》にこそ、わたしたちは深い慰めを得てきました。神は弱い人間を大声で怒鳴りつけて、強制的にひとつの方向性に導こうとしません。神はそのような強引な専制君主ではありません。弱いのはイエス・キリストだけではなく、父なる神も弱いのです。わたしたちの父は、弱く優しく寄り添ってくださり、わたしたちと共に苦悶してくださる神です。

(2016年11月13日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)