2016年11月20日日曜日

「キリスト教が日本で広まらなかった理由」を読んで思ったこと

51歳になったので「50年しか経っていない」という言い方をそろそろ許していただけるだろうか。「横浜バンド」が生まれた1870年代から「弁証法神学」が輸入された1920年代までがたったの50年。私は50年前のことなら(1歳だったが)よく覚えている。50年前など「ついこのあいだ」だ。

逆算した言い方もできる。その言い方のほうが、私が考えていることに合うところがある。「弁証法神学」が日本でも紹介される1920年代のわずか50年前に、やっと日本史上初めてある程度の形をなしえたプロテスタント・キリスト教会の小さな苗木が植えられた。「弁証法神学」が倒そうとした苗木が。

唐突に書き始めたのは、1年ほど前に公表された「キリスト教が日本で広まらなかった理由」というある宗教学者の文章をネットで目にしたからだ。私の感想は「違う違う、そうじゃない」だ。理由なんて簡単だ。日本の教会は、政治を利用するのも政治に利用されるのも大嫌い。そういうのは「汚い」と見る。

「日本の教会は」と大雑把に書いた。「違う違う、そうじゃない」という拒絶反応が起こることは、ある程度覚悟している。しかし、大方の同意や共感は得られるのではないか。「日本の教会は、政治を利用するのも政治に利用されるのも大嫌い」。キリスト教が日本で広まらなかった理由はこれだと私は思う。

私はいま「『日本の教会は』と大雑把に書いた」と、言葉を選んで丁寧に書いた。「日本のキリスト教は」とは書いていない。「キリスト教」というルートディレクトリの下に「の教会」や「の学校」や「の施設」や「の病院」などいくつかのサブディレクトリが置かれる。「の教会」はそのひとつにすぎない。

「の学校」「の施設」「の病院」などは、当然のことながら政治との親和性はある。それは「汚い」ことではないし、悪いことでもない。政治力と全く無関係に国民的な規模やレベルの教育や福祉や医療をなしうるとは思えない。だが「の教会」は違う。日本の教会は政治が嫌い。利用するのも利用されるのも。

どう読まれるかは分からないが、私の趣旨は日本の教会の批判ではない。「日本でキリスト教が広まらなかった理由」を論じた宗教学者の文章を読んで「違う違う、そうじゃない」と思った理由を書いているだけ。キリスト教を広めるために教会は政治力を利用しようとしないし、利用するのが下手。それだけ。

「日本の教会は政治を利用すべきである」と、ここでただちに言いたいのでもない。日本の教会と牧師は「政治が苦手」のほうがサマになるところがあるかもしれない。朴訥とか愚直とか手作りとか草の根とかのほうが。それも政治のあり方の一種ではあるが。ドブ板というのもあるが宗教の訪問は拒絶される。

アメリカ大統領選では両者とも所属キリスト教団(いずれもプロテスタント)を明かしていた。ドイツのメルケル首相は「キリスト教民主同盟」の党首である。日本の皇室から「国際キリスト教大学」への進学者。これだけあっても日本の教会には全く影響がない。なぜなら日本の教会は政治を利用しないので。

日本の教会は本格的に立ち行かなくなっている。ずっと前から教会自身が計算上予測してきた深刻な事態が現実化している。「日本のキリスト教が」ではない。「の学校」や「の施設」はむしろ盛んである。立ち行かなくなっているのは「の教会」だ。教会に外からの援助はない。教会同士で助け合うしかない。

日本の教会が政治を敬遠する理由は何かを知りたいと長年願ってきた。キリスト教の教えが初めからそういうものだからだろうか。そうかもしれないがそうでないかもしれない。日本の教会におよそ1世紀にわたって影響を与えた神学思想がその理由に含まれるかもしれないという仮説を立てて私は考えてきた。

それを私は「弁証法神学」であると考えているが、それはなんら特定の個人の思想ではない。まとめ役になった天才はいるが、その人にも多面性があり、時代と共に変遷があったことが昔から知られていることもあり、その人を名指しで批判してもあまり意味がない。いずれにせよ、個人攻撃の意図は全くない。

しかも私の関心事は「日本の教会」にある。「弁証法神学」との関係を言えば「日本の教会における弁証法神学受容史」ということになる。その行き着く先が、今の日本の教会だ。全く立ち行かなくなっている今の日本の教会だ。「弁証法神学には何の責任もない」とは言えないはずだ。少なくとも思想的に。

来年(2017年)個人的に20周年を迎える私の「ファン・ルーラー研究」も「日本の教会における弁証法神学受容史」と大いに関係がある。ファン・ルーラーこそ弁証法神学の最初の挑戦者の偉大なひとりだったからだ。それは繰り返し明らかにしてきたつもりだが、私の説明が説得力をもったことはない。

教会での説教をしなかった日曜日の夜は、なんだか妙に理屈っぽくなるのは何のせいだろう。今の借家に引っ越してきてから来月で丸一年になろうとしているのにいまだほとんどの本が平積み状態なのは、読書にふけって翌日の勤務に響かないように神が禁じておられるのかもしれないということにしておこう。