2016年11月3日木曜日

日本基督教団が「嫌いでない」理由

今春(2016年3月)受験した日本基督教団教師転入試験の課題論文のテーマは「教団の教師になるにあたっての所信」。個人的なことを縷々綴ったので全文を公開することは控えている。ただ私はその中に次の一文を書いた。

「今の私にとって、日本基督教団に転入させていただくことの意味は、日本基督教団の中の特定のグループヘの転入ではありえないと考えています。今書かせていただいたこの点こそが、この論文において私に問われている『教団の教師になるにあたっての所信』の核心部分です。」

幸か不幸か分からないが、半世紀も生きてき、かつ半世紀もキリスト教の教会に通い続けた人間の矜持として、心にもないことは書かないし、書くことができない心性の持ち主にされている。それがいろんな面で災いすることが多々なきにしもあらずで、自分で手を焼いているところでもあるが、やむをえない。

日本語で「立派になる」とは「派閥の領袖になること」を意味すると、尊敬する先生からつい数日前に教えていただいたばかりだ。くだらない。そんな「立派」な人にはなりたくない。派閥を無くせば事が足りると考えているわけではない。「私は」そういうことには全く興味がないと、ただ言っているだけだ。

「日本基督教団」のことが嫌いでないのは(「好き」と書けよ)「そういう人」が多いところだったりする。「派閥の領袖になること」を意味するらしい「立派」な人になることに興味がないし、憎んでいさえする人が多いことを、大昔から知っている。小さなサル山ほどボスになりたがる。なれると思い込む。

その意味では私にとって「日本基督教団」は改めての安住の地でありうる。「天国」とも「神の国」とも思わないが(厳密な神学的分析において)、先に書いた意味での「立派」な人が見当たらない。「普通」の人が大きな責任を負っておられる。それのほうがキリスト教の教会らしい。それが現時点の結論だ。