2016年11月15日火曜日

ダビデの子でもアブラハムの子でもあるバビロン捕囚民の子

υἱοῦ Ἀβραάμ(アブラハムの子)はΔαυὶδ(ダビデ)にかかっている(と岩波訳が新共同訳を見ている)のではなく、υἱοῦ Δαυὶδ(ダビデの子)もυἱοῦ Ἀβραάμ(アブラハムの子)もἸησοῦ Χριστοῦ(イエス・キリスト)にかかると考えるほうがよいであろう。

後者の読み方が正しいとすれば、この文章を書いた人はἸησοῦ Χριστοῦ(イエス・キリスト)が「ダビデの子」(原文ではこちらが先に記されている)と「アブラハムの子」(こちらは後に記されている)との「一つで二重の」系譜を継承していると考えているのではないかと、私には感じられる。

オランダ新共同訳(Groot Nieuws Bijbel)は原文どおり「ダビデの子」(nakomeling van David)を先に、「アブラハムの子」(nakomeling van Abraham)を後に訳す。両者(ダビデの子とアブラハムの子)は並列(パラレル)の関係にある。

「ダビデの子」と「アブラハムの子」が並列(パラレル)の関係にあると言う意味は直列(シリーズ)の関係ではないと言うことでは必ずしもない。時系列の順序でいえば「アブラハム」が先で「ダビデ」は後なので、その意味では両者の関係は直列(シリーズ)の関係にある。それまで否定するつもりはない。

しかし、もしオランダ新共同訳のように理解してよいなら、Βίβλος γενέσεως Ἰησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ Ἀβραάμは「ダビデの子でもアブラハムの子でもあるイエス・キリストの系図」と訳せるはずだ。アブラハムは出発点でダビデは政治的絶頂点。

しかも、この「系図」(Βίβλος γενέσεως)は「バビロン捕囚」(μετοικεσίας Βαβυλῶνος)を3度(11節、12節、17節)繰り返して強調している。ダビデが絶頂点であるなら、バビロン捕囚は墜落点であろう。イエス・キリストは「バビロン捕囚民の子」でもある。

出発点(アブラハム)と絶頂点(ダビデ)と墜落点(バビロン捕囚民)の継承者イエス・キリストの系図。この意味でこの「系図」を書いた人は、「一つで二重の」ではなく「一つで三重の」系譜を継承していると考えているようでもある。二つでなく三つの点を並列(パラレル)に置いているようにも読める。

実際、次のように書かれている。「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住(岩波訳「バビロン捕囚」)まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」。これは歴史的事実を描いているというより(「十四」は完全数「七」の二倍)、等間隔の並列関係の強調ではないか。

《出発点》と《絶頂点》と《墜落点》を並列(パラレル)に継承するとは何を意味するか。何も意味しないか。こういう読み方は無意味か。言葉遊びのつもりはない。オランダ語共同訳を読んで「ダビデの子」が先で「アブラハムの子」が後になっている理由は何かを考えた。無駄な思索か。そうかもしれない。

しかし思い当たることはある。どんなことにも《出発点》と《絶頂点》と《墜落点》がある。政治や社会、会社や学校、家庭や仲間。そもそもの始めと、よかったときと、悪かったとき。健やかなときも、病むときも。それは直列(シリーズ)というより並列(パラレル)。すべて引き受けるキリストでどうだ。

たわごとで友人と盛り上がった。Q資料Q資料と言われ、「Q資料注解」の日本語版まで出版される状況だが、成立時期は初期パウロ書簡の執筆時期に近いと推定されるらしい。「それならQ資料はパウロが作成した説でどうだ。名前はパウロのPをつけてQP(キューピー)資料で」という話になって笑った。