史的イエス研究もキリスト論の一種ではあろう。前者が後者に影響を及ぼさないわけにはいかない。前者が非神話化の作業過程を経た帰結であれば、それ自体がそういう作業過程を経た後者でありうる。しかし、非神話化されたキリスト論とは何を意味するか。古代人の神話的表象から解放されたキリストとは。
非神話化されたキリスト論とは「主は聖霊によりてやどらず、おとめマリヤより生まれず、陰府にくだらず、三日目に死人のうちよりよみがえらず、天に昇らず、全能の父なる神の右に座したまわず、かしこより来たらず、生けるものと死ねるものとを審きたまわず」というところか。いろいろ考えさせられる。
かろうじて残せそうなのは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」くらいか。口を開けば逆説しか言わず、行えてもいない奇跡を行えた行えたと人々に触れまわられ、宗教と政治の当時の権力者を激しく批判して捕獲され、死刑台で「神に見捨てられた」と絶叫して絶命。
いもしない神の国、ありもしない天国が「これから来る、近づいた」と教え、治せもしない病気を手で触っただけで治った治ったと思ってもらえ、増えもしないパンと魚が増えた増えたと言ってもらえ、ただの水が美味しいワインになったと喜んでもらえ、他の人なら溺れる湖面を歩いた歩いたと騒いでもらえ。
「そんなことはない。すべてできたのだ。史的事実なのだ」と言おうものなら「狂信的だ」と言われる。史的イエス研究に基づく非神話化されたキリスト論は今やおそらくほぼ完成の域に達している。それを認めない人は少数の狂信者なのだろう。あるいは古代人の神話的世界観を止揚できずにいる不勉強な人。
私は「どっちでもいい」とは思わないが「どっちもでいい」とは思っている。早口で言うと同じように聞こえてしまう可能性があり誤解を招きかねないが、前者と後者は全く違う。「で」と「も」の順序が重要だ。「でも」ではなく「もで」。「どっちでもいい」は無関心で「どっちもでいい」はハイブリッド。
話は飛躍するが、私の郷里岡山はじめ(「はじめ」と言うと叱られる可能性あり)他の地域にも伝わる「桃太郎」。川で洗濯していたおばあさんが上流からどんぶらこどんぶらこと流れてきた桃をおじいさんと一緒に家に持ち帰ったら桃の中から男の子が出てきた。これを「非科学的」とか言っても仕方がない。
「桃太郎」は古代人の言い伝えだろうか。たぶん違うだろう。最初に作られたのはいつ頃だろう。ある意味で「どっちでもいい」(無関心)ことだが、縄文時代や弥生時代の話ではないだろう。ただの勘だが、ごく最近ではないかという気がする。といっても200年とか300年とかくらい前という意味だが。
「桃太郎は非科学的だ」とかなんとか、そういう方向で目くじらを立てる人を私は寡聞にして知らないが、「聖書は非科学的だ」と目くじらを立てる人なら困るほど知っている。「桃太郎」は童話だが「聖書」は宗教の本なのだから同次元に扱うのは間違っている、だろうか。私は実は、あまりそうは思わない。
「聖書に書かれていることや教会が教えていることは非科学的だ。だから私は聖書を読まないし、教会に通わない」と言う人々は、そうであることを教会が全面的に認め、非科学的な箇所をすべて削除し、思想や行動の方向性を改めたからといって、それならばと教会に通うようになるわけではないと私は思う。
3日前の11月16日水曜日、私の51歳の誕生日に、お祝いのメッセージを寄せてくださった方々へのお礼の返信が終わらぬまま週末を迎えてしまったことをとても心苦しく思っている。というわけで、今日こそ書きます。体力なくて申し訳ありません。みなさまいつも力強いお励ましありがとうございます。