2015年11月26日木曜日

出身大学関係者のみなさまへ

本文とは関係ありません
資金的にはまだまだ苦しいのですが、出身大学の「全面的」支援者に復帰すべきではないかと思い詰めている、この今の瞬間です。いえ別に単純に、もし出身大学が消滅してしまうと、私の「大卒・大学院卒・教員免許取得」の客観的根拠も消滅してしまうのでは、という危機感だけです。超・自己目的的です。

他大卒の学士編入者、修士編入者と張り合うつもりはありませんが、そうでない私のほうが切実感・深刻感は強いのではないかと(やや張り合う思いを否めぬまま)言いたくなります。高卒ストレートで入学すると「偏差値35」の地獄のラベルを貼りつけられたままですからね。別にどうでもいいですけどね。

出身大学ももっと入学者を増やしたいなら、「偏差値とはなんぞや」の大真面目な神学的レクチャーをホームページなりに公開して、「そういうこと」と「我々がしていること」との関係を丁寧に説明するようなことをもっと大真面目にやらないと、超然としたままでは今の高校生のだれも見向きもしませんよ。

もう少しちゃんと書いておきます。重要な問題の一つではないかと思うのは、「研究者」と「伝道者」の区別の中に潜む「教会の牧師としての伝道活動にとってヴィッセンシャフト(サイエンス)としての神学は不要であり有害無益かもしれない」という、私見によれば敬虔主義的な前提理解の是非の問題です。

「伝道そのものにヴィッセンシャフト(サイエンス)は要らない」と言い切るならば、ブルース・リーやマスター・ヨーダらの「考えるな、感じろ」(Don't think, feel)の世界と大差ありません。それでいいといえばいいのかもしれませんが、考えるなと言われると人は鬱屈・暴発します。

鬱屈・暴発も、それはそれで大変なので、「そこから先は自分で考えてください」と牧師が教会に対して言える環境を、私はもっと拡充しなければ、と考えている次第です。そのためにも、教会の伝道者たる牧師こそがヴィッセンシャフト(サイエンス)としての神学にもっと精通する必要があると思うのです。

私の学歴とか教員免許のことを書きましたが、それは「枕ことば」のような意味で書かせていただいただけで、私自身はどうでもいいことです。