2015年11月20日金曜日

ネット界も習うより慣れろ界

記事とは関係ありません
論じ尽くしている方がおられるかもしれないが、今朝しきりと考えさせられているのは、いろんな「いいね」があるということだ。特定の文脈への反応として考えているわけではない。同じ「いいね」に種類がある。「感謝いいね」も「同意いいね」も「了解いいね」も「冷笑いいね」も「軽蔑いいね」もある。

「エアいいね」もある。「いいね」なきいいね。「いいね」を押さないことで、いいねの意思表示をする。それが「弔意」の場合もあるし、「まあ落ち着け」と宥める意思表示の場合もあるし、「申し訳ありませんが、重要な問題だと思うので、少し考えるお時間をいただけませんか」の「エアいいね」もある。

記事を書く側も書く側で、その日の虫の居所によって「いいね」を押してもらえてうれしい場合もあれば激怒する場合もあるものだ。「どんな気持ちと丹念な調べに基づいてこの記事を書いたと思っているのだ。ヤスヤスといいねだけ押しちゃって。押してもいいけど、もっと丁重に押してくださいませ」とか。

だから、要は慣れだ。そうとしか言いようがない。そして強いて言えば、今の自分は「いいね」を押されると傷つきそうだという自覚があるときは、記事を書くのをしばらく休むほうがいいと思う。人の「いいね」は容赦ない。容赦なき「いいね」。仁義なき「いいね」。そういうものだと受け容れるしかない。

あとは、「友達」や「フォロワー」も、ある程度かもしれないが、絞ることはできる。自分に都合のいい「いいね」を押してくれる人だけに絞るという意味ではない。この「いいね」の意味は何であるかをだいたい察することができる人、顔や姿が想像できる人に絞る。そうすることが悪いとは私には思えない。

自虐や自己批判を書くと、そういうのばかり狙いすましたように「いいね」を押してくる人がいると、さすがにつらいものだ。そういうタイプの「攻撃性いいね」は押されれば押されるほどブロックしたくなるものだ。「嫌なら書くな」となる。そうやって自虐も自己批判も世から消え去る。油断もスキもない。