2015年11月22日日曜日

一人の人間としても、主を信じる者としても(松戸小金原教会)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
フィレモンへの手紙8~16

「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにもわたしにも役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれませ。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。」

この個所は解説なしに読むと、いろいろと誤解を生んでしまう個所かもしれません。しかし、逆に言えば、解説を聞けば理解できる内容です。趣旨は次のようなことです。ただし、これから私が申し上げるのは、想像の要素が多く含まれている解説であることを、あらかじめお断りしておきます。

場所がどこであるかは分かりませんが、「パウロ」はどこか(おそらく牢獄)に監禁されている状態であると言っています。その監禁中の「パウロ」がオネシモという「子ども」を「もうけた」というのです。しかし、「子どもをもうけた」は比喩です。オネシモという人がイエス・キリストへの信仰へと導かれ、洗礼を受けたという意味です。信仰上の親子になったということです。

そのオネシモを「パウロ」としてはフィレモンのもとに「送り帰したい」と願っているわけです。前回申し上げたことですが、フィレモンはテモテやテトスとは違い、この手紙のどこにも、彼が狭義の教師、伝道者、牧師であったことを示す証拠は見当たりません。そのため、フィレモンをテモテやテトスと同じ意味で「伝道者」と呼ぶことは、根拠がないので不可能です。

ただ、前回は触れませんでしたが、フィレモン側の状況が少しは分かるかもしれない唯一の根拠は「あなたの家にある教会」(1:2)という表現です。私たちにとってピンときやすい、それに近そうな関係にあるのは「伝道所」かもしれません。しかし、フィレモンについて言われている「あなたの家にある教会」は、伝道所になる前の家庭集会のようなものを考えるほうが、より近いかもしれません。

その教会に、フィレモンというパウロが絶大なる信頼感を寄せている人がいる。その人がリーダーになり、中心になって、定期的あるいは不定期の礼拝なり集会なりが行われている。

この手紙から伝わってくるフィレモンの人となりは、人の世話をよくできる、その面で信頼されている人だったのではないかというようなことです。その人がいるだけで、周囲のみんなが明るくなり、元気になるような存在。「パウロ」よりもずっと若い世代の人の姿です。

そのフィレモンのもとにオネシモを「送り帰したい」というのが、今日の個所に書かれていることの趣旨です。そしてまた、この手紙全体の執筆目的であると考えることができます。「送り帰す」とは、もともとオネシモがフィレモンのもとにいたことを意味しています。

すべて想像の範囲内ですが、考えられることを申し上げます。オネシモはフィレモンの家で「奴隷」として雇われていた可能性がある、ということです。ただし、フィレモンの家にいた頃のオネシモは「役に立たない者」(11節)だったようです。一般的な言い方をすれば「仕事ができない人」だったのかもしれません。

また、書いていることを文字どおり受けとるとすれば、オネシモは「パウロ」にとって「監禁中にもうけた子ども」であるということは、二人の出会いの場所は監獄であるということです。オネシモは収監されるような犯罪をおかした人だったと考えられます。パウロはキリスト教信仰を宣べ伝えたことで迫害を受けての収監だったわけですが、オネシモは全くそうではない。しかし、不思議な導きで二人の間に接点が生まれた。そして、オネシモはキリスト教信仰へと導かれ、洗礼を受けた。

そして、「パウロ」としては、そのオネシモをフィレモンのもとに戻らせようと考えているわけです。しかし、フィレモンにとって、オネシモは、はっきりいえばかなり迷惑な存在でありえたわけです。犯罪をおかして収監された人でもある。一度雇ってみたが、以前の働きは全く使い物にならなかった。もう二度と雇うつもりはないと、フィレモンが考えていた可能性がある。

そのフィレモンの気持ちは「パウロ」もよく分かっている。だから、押し付けるつもりはない、と言いたいわけです。「先輩風を吹かせて強制的にオネシモをあなたに押し付けたいわけではありません。でも、誠に申し訳ありませんが、このオネシモをもう一度雇ってくださいませんでしょうか。どうかお願いいたします」と言っているわけです。オネシモの「就活」のために一肌脱いでいる感じです。

そのような「パウロ」の気持ちがよく表れているのが、「あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」(8節)とか「あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」(14節)というくだりです。

そして興味深いことが書かれています。「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためだったのかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(15~16節)。

「パウロ」が言いたいのは、こういうことではないでしょうか。

「たしかにオネシモは、フィレモンくんのところにいた頃は、どうしようもないほど使い物にならない人間だったかもしれません。そのことは私にも分かります。しかし、フィレモンくん、このオネシモという男は、人間としても信仰者としても立派に成長しました。私どもがしっかり指導しましたので、もう大丈夫です。なにとぞどうかお考えいただきたいのは、オネシモが私の指導を受けたことは、あなたさまのところにこれからずっとおらせていただくためだったのではないでしょうかということです。奴隷としてではなく、主にある兄弟として、これからあなたさまと一緒に生きることに必要な人間的な成長に必要な時間だったのではないかということです」。

牧会者「パウロ」の真骨頂です。

(2015年11月22日、松戸小金原教会主日夕拝)