2015年12月3日木曜日

無題

今日の来訪者とカール・バルトの話になった。バルトは牧師をやめて大学で教え始めた4年後、「私は結局のところ、ザーフェンヴィルの牧師としてはまったくうまくやれなかったという思いが私を苦しませます」と友人トゥルナイゼンに書いた(E.ブッシュ『カール・バルトの生涯』新教出版社、92頁)。

「ザーフェンヴィルの牧師としてはまったくうまくやれなかった」が、他の教会ならばうまく行ったに違いないという意味かどうかは分からない。歴史的事実としては、バルトの牧師としての経験は、ジュネーヴ教会(ドイツ語部)の副牧師だったことと、ザーフェンヴィル教会の牧師だったことがあるだけだ。

そのバルトがザーフェンヴィル教会を去るとき抱いた複雑な心境をブッシュが描いている。「一方で彼は、『私はこの10年間、まったく役に立たない僕』であったと考えた。しかし他方では、彼にとって『マタイ福音書10:14の思い出も、宗教的高慢なしで、身近に感じられた』」(同上書、178頁)。

「マタイ福音書10:14の思い出」とバルトが言っている意味は説明しがたいが、牧師たちには分かる。なんら武勇伝ではない。バルトの思いは教会の牧師としては失敗したというものだったとほぼ言える。今日の来訪者が「バルト先生にしてこの発言とは慰められますねえ」と。その言葉に私が慰められた。