聖書学と教義学の関係という問題については、ファン・ルーラー自身が書いた「聖書学との比較における教義学の方法と可能性」というドンピシャの論文があります。だいぶ前に最初のほうだけ訳しましたが、多忙にかまけて放置したままです。非常に重要な論文であることは間違いありません。
その論文に「教義学から聖書学へという順序もある」という興味深いテーゼがあります。「教義学の土台となっている聖書学」という、多くの人はおそらくこのように考えてきたであろう順序の逆、つまり「聖書学の土台となっている教義学」という順序もあるのだということをファン・ルーラーは明言しています。
実際問題として、私もそのとおりだと考えています。教義学の土台が「聖書」であることは確実ですが、しかし「聖書学」ではないと思います。「聖書学」こそが非常に独善的(ドグマティック)であることが十分にありえます。教義学は聖書学に幻惑されすぎないほうがよいと、私はファン・ルーラーを読みはじめるよりもずっと前から考えてきました。聖書学だけが進歩していて教義学はいつも後追いしているというような見方は(そのような見方がもしあるとしたら)、完全な事実誤認であるし、教義学というものをなめすぎなんです。教義学が不動で不自由な体系だったことなど、いまだかつて一度もないですよ。そう思い込んでいる人がいるとしたら、教義学をちゃんと学んだことがないんです。
教義学をさらに豊かに展開していくために、「聖書学」(≠聖書)の力を借りる必要なんか無いですよ。ていうか、そういう教義学ならば、もうずいぶん前から始まっているし、そろそろもう十分やっただろ、という域に達しつつあるんです。その典型がモルトマンですよ。モルトマンの最初期の論文は「神義論」とか「聖徒堅忍論」とかきわめて保守的な改革派教義学を題材にしたものでしたが、そこから出発して、現代の聖書学との徹底的な対話を経て、現在の彼の神学がある。たとえば日本キリスト改革派教会は、あのモルトマンの神学のようなものでやれるでしょうか。私にはとても信じがたい。
「聖書が教義学を支える」は当然の話です。しかし「聖書学が教義学を支える」という関係にはないと言っているだけです。もしそういうふうに言い張る聖書学者がいるのだとしたら(いるかどうかは知りません)、その聖書学者自身が「神学」の何たるかをそもそも誤解しているのか、そうでなければ学生たちを罠にかけているかのどちらかなんです。まさか後者ではないと信じたいので、たぶん前者なのでしょうね。困った話です。
誤解を避けるために付言すれば、「聖書が教義学を支える」と書きましたが、教義学を支えるのは聖書だけではありません。教会の伝統も、十分な意味で教義学の根拠です。それは歴史でもあり、哲学でもある。人間の理性的判断や素朴な感情、あるいは屈託ない空想や怪しげな妄想までも含みます。それらのものを排除するならば、教義学は成り立ちません。聖書テキストが明示していない事柄についても、教義学は遠慮なく踏み込み、独自の論理を展開することができます。それが禁じられるなら、教義学の存在意義はありません。
教義学の役割は、「神」をめぐるあらゆる問いや悩みをもつ人間に寄り添い、不断に対話することです。「○○という事件が起こった。△△という災害が発生した。それは神の裁きか。それは神の罰か。神とは何ものか」。このような問いを前にして、もし教義学者が「聖書に書いていないことについては沈黙する」という態度を貫くだけだとするなら、ただ愛想を尽かされるだけで、その人は二度と教義学者の部屋を訪ねようとしないでしょう。
反論や反発を予想しながら先回りして書いておきますが、「教義学を支えるのは聖書だけではない」と言うとたちまち「それはプロテスタントの聖書原理(sola scriptura)に反する」という意見が出てくる。しかし、そのまさに「プロテスタントは○○である」というテーゼこそがドグマティックなものです。もし聖書学者が「プロテスタントは『聖書のみ』である」というドグマを暗黙の前提にしながら自説を展開するならば、皮肉なことに、その聖書学者は悪い意味での独善論者に陥っているのです。
それに、これは前にも書いたことがありますが、プロテスタントの聖書原理(sola scriptura)そのものは、なんら単独で立っているわけではなく、「恵みのみ」(sola gratia)や「信仰のみ」(sola fidei)などと共に立っています。面白いことに、プロテスタントには「のみ」(solo)が、最低でも三つもあるんです。数学的論理に立つとすれば、「のみ」は一つでなければならないはずですがね。しかも、これら三つの「のみ」は互いに緊張関係にある。一元化できないんです。こういう矛盾を楽しむところに教義学の面白さがあるんじゃないでしょうか。