2011年6月30日木曜日

これでもあなたはファン・ルーラーをイロモノ扱いするか

もうそろそろ、いいだろう。ひとことだけ言わせてほしいことがある。

物心つく頃からずっと探して来たのは、尊敬できる教師だ。「真の権威者」と言ってもいい。「絶対的な」服従などは、もし求められても、決してやらない。この私にそのような態度は似合わないし、いまだかつてやったことがない。隷属などは、相手が誰であれ真っ平だ。そういうのが嫌だからこそ、このご時世の中で(このご時世にもかかわらず)「神」なるものを信じてきたし、神が人に与える「自由」を信じてきた。

しかし、私が長年苦悩してきたことは、「神」は私の教師ではない、ということだ。「教師は神ではない」は正しい命題であるが、「神は教師ではない」も正しい。言葉にすれば陳腐になるが、究極的な(≠絶対的な)真理をその根拠と共に適切に提示し、納得させてもらえる教師が欲しかった。

「金八先生」とか「ごくせん」の話をしたいのではない。私がまさに物心つく頃から一度も切れ目なく関わり続けてきた「キリスト教」の話であり、「教会」の話だ。「説教」の話と言ってもいい。やや傍観者的な言い方をすれば「ぼくの日曜日をハッピーにしてくれる人」だ。「来るんじゃなかった」という暗澹たる気分ではなく、「今日はここに来ることができて、本当によかった」と感謝しながら帰宅することができる、そのような礼拝を作り上げることができる説教者だ。

こういう話をしなければならないときは、自分のことを棚に上げることが許されなければならない。「自分がそういう説教ができるようになってから言え」という弾圧に屈するつもりはない。

私には尊敬できる説教者がいなかった。「真似したい」と思える人がいなかった。何度礼拝に出席しても、言われていることに納得できなかった。それは地獄の日々だった。

何度も書いてきたつもりだが、生まれてこのかた、日曜日の礼拝を病気以外の理由で欠席したことはない。日曜日に礼拝を欠席するほどの病気にかかった正確な回数などは分からないが、ほぼ間違いなく、両手の指で数えられるくらいしかないはずだ。そういう人生を45年も続けてきたことが、ただそれだけが、私の矜持なのだ。

しかし、納得できない、分からない。論理的な筋道を追いながら聞いていると、ところどころ、耐えがたくおぞましい矛盾があり、ごまかしがあり、隠蔽があり、行きすぎた美化があり、「丸めこみ」がある。そのうち聞いていられなくなる。眠たくなってしまうのだ。

説教で重要なことは「論理」だ。笑顔でなくても、美声でなくても、原稿から目を上げて礼拝出席者の顔を見ながら語ることができなくても、そんなことはどうでもいい。論理が破綻している説教は聞けない。座っている椅子を蹴っ飛ばして退室したくなる。あの説教を聞くための時間は無駄だと、あらかじめ分かっている礼拝には、なるべく行きたくない。

愚痴が長くなった。ここから先は明るい話だ。尊敬できる教師が「見つかった」話だ。

それは、私にとってはファン・ルーラーである。やっと巡りあえた。だから、今の私は安堵している。

しかし、これまでは、オランダ国内はともかく、国際的に見れば、ファン・ルーラーの知名度は低かった。それにはさまざまな事情が絡んでいることも分かっている。多くの嫉妬を買い、妨害されてきた人でもある。その理由も、今の私なら分かる。彼の「論理」が、あまりにも魅力的だからだ。こういうふうに言えたらどんなに胸がすくかと多くの人がもどかしく感じてきたことを、躊躇なく明快に語る。こういう説教者に、私は出会ったことがなかった。しかし、その人がいた。ファン・ルーラーだ。

悔しいことが二つある。一つは、これまでの神学の多くの村民たちが、ファン・ルーラーを「イロモノ」扱いしてきたことだ。「ファンタスティックな神学者だ」などという。しかし、ファン・ルーラーの神学はとりたててファンタスティックなわけではない。彼はただ、彼の教会と彼の社会を念頭に置きながら、冷静にコツコツと学問をしているだけだ。

もう一つある。言うまでもなくファン・ルーラーのテキストは「オランダ語」なのだが、それを読みもしないで彼を批判しようとする神学者がいまだに少なくないということだ。テキストを読まずに論評するというのは、風評のようなものを根拠にして学問する態度に等しいわけだから言語道断だろう。そういうことをファン・ルーラーに関しては「してもよい」と思っているのは、彼を「イロモノ」扱いしている証拠だろうし、要するになめているのだ。

なめたければ、なめても構わない。ファン・ルーラーをこれからも「イロモノ」扱いし続けたければ、それも構わない。しかし、その態度はこれからは、その人自身の恥となるだけだ。そのうち身にしみて分かる日が来るだろう。

このような私の考えを「ファナティック」と呼びたければ、それもどうぞご自由に。尊敬できる権威者のもとに立つとは、しばしばそのようなものだ。

「あなたには尊敬できる人はいないのか」と、聞き返したい。いるんだよ。うじゃうじゃと。ヒトのことだけ言えないはずだ。

もう少しだけ核心に踏み込んでおこう。私のほうが遠慮する理由は、もはや何もない。

権威の座にある(と周囲から見られている)人が根拠薄弱なことを書き散らすとき、後進の者たちがどれくらい迷惑するかということを、丸十年以上痛感し、苦汁を飲んできた。

ただ、こちら側の根拠も薄かった。それはまるで死海文書の発見にも近いありさまで、ファン・ルーラーの「膨大な量の」未公開テキストが、宝の山のように眠っている、という話だけを聞かされていた。

だから、それらのテキストの公開を待つべきだ、ファン・ルーラーについて「本を書く」ことができるのはテキスト公開の後だ、そうでなければ学問的に無責任の謗りを免れない、ということは、我々(あえて「有識者」と自称させていただく)の間では分かっていたことであった。

ところが、つい最近も、ファン・ルーラー(彼らは「ファン・リューラー」と表記する)を大々的に取り上げた章を含む「本」を出版なさった方がいる。そこで、またしても彼は、自分自身はファン・ルーラーのオランダ語のテキストは読んでいないと断りつつ、(なんと尊大にも)“一定の評価”をした上で、批判する。

もうダメだろう。この恥知らずな態度はいつか厳しく断罪されるべきだと、私は考えている。