2011年6月19日日曜日

教会の祈りと個人の祈り

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松戸小金原教会2011年度第二回勉強会発題

はじめに

御承知のとおり、3月20日(日)に予定していた今年度の教会勉強会の第一回目は、3月11日(金)に発生した東日本大震災を考慮して中止しました。そのときにお話ししようと思っていた内容の一部を『まきば』370号に載せました。しかし、まだ何の解説もしていませんので、『まきば』に書いたことから今日の話を始めさせていただきます。

1、「祈りが苦手」な理由

率直なところから申し上げますと、今年度の教会勉強会の総合テーマを「祈り」にしましょうと教会学校委員会で決めたとき各委員の念頭にあったのは、わたしたちの教会の中におられる受洗してまだ日の浅い方、しかも高齢になられてから受洗された方の中に「わたしはお祈りが苦手です」とおっしゃる方々が数名おられるということについて、教会として無策であってよいだろうかという問いでした。

「お祈りが苦手」という方々の気持ちは、私にはよく分かります。実をいえば、痛いほど分かってしまいます。こういうことは、牧師という立場にある人間が言うべきことではないかもしれませんが、しかし、やはり黙っていることができません。あくまでも私の勝手な想像ですが、「お祈りが苦手」とお感じの方々は、おそらく、お祈りというものを唱えている御自身の姿が恥ずかしいものだと感じておられるのです。

わたしたちの場合、当然のことながら、改革派教会としての独特の祈りのスタイルを持っています。第一の特徴は、いくらか逆説的な言い方になりますが、目に見える形を持ついかなるもの(祭壇や神像や奉納物やアクセサリーなど)も拝まないという祈り方です。それは、改革派教会だけではなく、プロテスタント教会全般にも当てはまることです。いずれにせよわたしたちは、目に見えるものに向かって拝礼するというような形を全くとりません。そうであることが改革派的・プロテスタント的な祈りの形の特徴であると言えます。

するとどうなるか。わたしたちは、そこに何もない空中に向かって、わたしたちの祈る言葉をどなたが聴いてくださっているかについての物理的な確証(?)など一切持つことができないまま、“まるで独り言をブツブツつぶやいているかのように”祈るのです。その姿はスタイリッシュであることの正反対です。「なんともサマにならない、不格好な」祈り方なのです。そういうのは心理的に耐えがたいと感じる方がおられるのは、無理もないことなのです。

わたしたちの祈りの第二の特徴は、その内容が「お願い」だけではないということです。わたしたちの祈りには、神への賛美、神の恵みへの感謝、罪の告白などの要素があります。しかし、それだけでもなく、わたしたちの場合、祈りをささげている相手(神さま)が目に見えないお方ですので、いわばその分だけ「言葉で神さまのお姿を描き出すように」祈ります。神さまとは、そもそもこういうお方であると祈ります。天におられる神である、と。恵みと憐みに富んでおられる神である、と。実際に自分の目で見たことがあるわけではない「神」という方のお姿を、もちろん聖書の御言葉に基づいてではありますが、“まるで自分のこの目で見てきたかのように”祈るのです。おそらくその姿は、科学実証主義の教育を受けてきた人々の知性や感性に著しく対立するものです。自分の目で見たこともない存在については何も語ることができないと考えてきた人々にとって、改革派的・プロテスタント的祈りは心理的に耐えられないものかもしれないということは、私自身にとっても、十分に共感できる話なのです。

2、祈りには「話し相手」が存在する

しかし、(私自身を含む)わたしたちは、お祈りが苦手であるという状態をなんとかして乗り越え、克服しなくてはなりません。そのこと――苦手の克服――こそが今年度の教会勉強会においてわたしたちに(神から)与えられた宿題です。そのために、そもそも祈りとは何なのかということ、つまり、祈りの本質というものを、真剣に考えてみなくてはなりません。

そのために参考になるかもしれない文章をご紹介いたします。それは再び(例によって)オランダ改革派教会の神学者A. A. ファン・ルーラーの文章です。ファン・ルーラーが「主の祈り」について語った1953年の説教集『われらの父よ』(Het Onze Vader, Nijkerk, 1953) の中の一文です。

「キリストがわたしたちにお命じになったことは、神に向かって『われらの父よ』と言いなさいということです。これでお分かりいただけることは、すべての正しい祈りには“話し相手”が存在するということです。わたしたちは何ものかに向かって祈るのです。祈りとは神へと語りかけることです。祈りは夢の中を漂うことではありません。あるいはそれは、夢中になって無限の宇宙の中へと自分の魂を注ぎ出すことでもありません。あるいはまた、人間の内面的な心の動きのようなものでもありません。祈りとは神へと語りかけることです。わたしが神の御前に立つことです。個人として、または教会の一員として、わたしが神の御前に立つのです。そして、わたしは神と語り合うのです。つまり、祈りとは“対話”なのです」 。

このファン・ルーラーの短い言葉の中に、祈りについてわたしたちが学ぶべき重要な点がいくつもあります。

第一に、キリスト教会のすべての祈りには、イエス・キリストが命じられた「祈り方」がある、ということです。それは、神に向かって「われらの父よ」と呼びかける、という祈り方です。その場合、わたしたちにとっては「わたしの父」ではなく「われらの父」であると呼びかけるべきであるという点が重要です。神は全人類の創造者であるという意味での彼らの父でもありますが、同時に「われらの父よ」と祈る者たちの父であろうとしてくださいます。神を信じる者以外は「神に」祈らないわけですから、今申し上げた「神は祈る者たちの父である」とは「神は信者の父でもある」ということを意味します。しかし、信者は個人ではなく、常に信仰共同体と共に、すなわち、教会と共に祈ります。「われらの父よ」と祈るとき、わたしたちは常に共同体としての教会を意識するのです。つまり別の言い方をすれば、わたしたちが教会との関係を嫌がって、自分の部屋に独りで引きこもって「われらの父よ」と祈ることは矛盾であるということでもあります。イエス・キリストが教えられたとおりに祈るならば、(教会の祈りを抜きにした)個人の祈りというものは、そもそも言葉の矛盾に近いものであるということに気づかされるのです。

しかし、ファン・ルーラーの言葉から学びうる第二の点は、彼自身が強調しているように、すべての祈りには「話し相手」が存在する、ということです。そして、その「話し相手」とは、もちろん、神御自身だということです。しかし、ここで難しい問題が生じます。先ほど私は、祈りとは本質的に「われらの父よ」と神に呼びかけるものである以上、常に共同体を意識しながら行われるものであると申しました。そのこと自体は丁寧に説明すればお分かりいただけることでしょう。ところが、ここで生じる難しい問題とはどういうものか。共同体の中で祈るわたしたちの「話し相手」は、共同体の内側の「人間」ではなく、あくまでも共同体の外側におられる「神」であるということです。それはつまり、わたしたちの祈りは「人に聞かせるもの」ではなく「神に聞いていただくもの」であるということです。「ひとまえで祈るのは緊張する」という話をよく聞きますが、その気持ちは理解できないものではないとしても、その考え方自体は根本的に間違っているのです。祈りは人に聞かせるものではないからです。まして、祈りの言葉をもってその場にいる他のだれかを批判するとか、当てこすりや皮肉を述べるなどというのは論外中の論外です。邪道と言う他はありません。「人に聞かせてやろう。あの人に聞かせてやろう。この際、言いたいことを言っておこう」というその意識が、祈りの本質に反しています。そのようなやり方は、祈りにおける「話し相手」を間違えている態度なのです。

しかしまた、第三点として――しかし、ここから先はファン・ルーラーが述べていることから離れますが――わたしたちの祈りの「話し相手」はたしかに神であるけれども、その祈りをささげる場には多くの兄弟姉妹が共にいる、ということも同時に意識しなければならないことだということも事実です。祈りは「人に聞かせるもの」ではありませんが、だからといって、あなたの祈りを共に聞いている人々に理解できる言葉でなくてもよい、ということではありません。「何を祈りたいのか」を明確にすることが必要です。そのために、祈りの原稿を書き、何度も推敲することが大切です。あるいは、祈りが「言葉」であるならば、その祈りには「その言葉を語りはじめてから語り終えるまでの時間」が必要ですから、長々とした祈りによって共に集まっている兄弟姉妹たちの時間を浪費してはなりません。もし教会で祈ることが求められたときには、よく準備された簡潔な祈祷文を読み上げることによって、論理と時間の整理を図ることを検討していただきたく願っています。

3、教会の祈りと個人の祈り

ところで、今日の第二回勉強会のテーマとして考えたのは「教会の祈りと個人の祈り(の違い)」ということでした。「教会の祈り」とは、先ほどから申し上げている言葉で言い直せば「共同体の祈り」です。つまり「われらの祈り(Our prayer)」です。それに対して「個人の祈り」とは「わたしの祈り(My prayer)」です。この両者の違いを考えてみようというのが今日の目標として考えたことでした。

しかし、拍子抜けさせてしまうかもしれないことをあえて申せば、両者に本質的な違いがあるわけではありません。祈りは祈りです。「神への語りかけ」であることにおいても、「神との対話」であることにおいても、変わりはありません。

しかし、強いて両者の違いを挙げるとしたら、神に願う事柄の内容や規模や方向性であると言えるかもしれません。「わたしの祈り」(個人の祈り)の中では、自分のこと、家族のこと、友人のこと、職場のこと、地域社会のことについて、具体的に、場合によっては実名を挙げて、祈ってもよいし、祈らなければなりません。そういう祈りでなければ、個人として祈る意味がほとんどないと言っても過言ではありません。徹底的に「私事(わたくしごと)について祈ること」が「わたしの祈り」です。しかし、それは個人情報(プライバシー)を含むことですので、門外不出にしなくてはなりません。あなたの心の中だけにしまっておかなくてはなりません。

これと区別される必要があるのが「われらの祈り」(教会の祈り)です。その中では、自分のこと、家族のこと、友人のこと、職場のこと、地域社会のことについて、具体的に、あるいは実名を挙げて祈ることについては、慎重でなければなりません。それは日曜日の礼拝の場だけではなく、水曜日の祈祷会の場でも同じです。礼拝や祈祷会を個人情報の暴露の場にしてはいけません。「教会の中のあのことも、このことも、私は知っている」というアピールの場にすることも慎まなくてはなりません。これは松戸小金原教会で見かけた実例ではなく、一般論として申し上げています。

しかし、それでは「われらの祈り」(教会の祈り)においてわたしたちは、どのようなことを祈ればよいのでしょうか。それは、おそらく、同心円的に考えていくことがいちばん捉えやすいでしょう。わたしたちにとっての同心円の、いちばん小さな内円は「松戸小金原教会」です。次は「東関東中会」、その次は「日本キリスト改革派教会」です。さらに日本と世界の中で協力関係にある改革派・長老派諸教会、そして、教派を越えたすべてのキリスト教会のことを祈るべきです。

しかしまた、わたしたちは教会のことだけを祈るわけではなく、教会の外なる世界のためにも当然祈ります。日本のため、アジア諸国のため、そして国際社会全体のために祈ります。その中には当然、キリスト者以外の人々も含まれています。わたしたちは、キリスト者のことだけを祈るのではなく、他の宗教、他の信仰の持ち主のためにも祈ってよいのです。

ただしその場合、わたしたちが真剣に考えるべきことは、他の宗教の人々のために、わたしたちが何を祈るべきかです。私の考えでは、彼らの「救い」を祈ること、すなわちそれは、彼らがイエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けること、それによって、彼らがそれまでの「神」から離れて生きるようになることを祈ること、以外にありません。

そこには戦いがあり、悩みや葛藤が伴います。しかし、その祈りを教会はやめることができない。個人としてのわたしたちは、家族や友人や地域社会の中で圧倒的に弱く無力な存在であるということをしばしば自覚させられます。教会もまた、社会的な団体としては(人数や経済力の観点から見れば)、無力そのものです。

しかし、教会は「祈ることをやめない」ことにおいて、無力ではないのです。個人が「言葉を失う」体験を味わい、祈りの言葉を喪失しそうなときにも、個人の弱さを教会が補うのです。「教会の祈り」と「個人の祈り」の関係とは、いわばそういうものです。

(2011年6月19日)