2009年2月12日木曜日

この支配からの卒業

子どもたちのせいにするつもりはありませんが、ここ10年くらい私はテレビなどほとんど全く見ていませんでしたのに、何となくつられて昨年くらいから見るようになりました。テレビなど見る暇もなく、まさに10年間、家では時間の許すかぎりメールを書いていました。ニュースもウェブで得ることで十分でした。実際今は、ウェブとテレビがほぼ同時に、同じ出来事を報じているようです。



何よりテレビのあのうるささが嫌でした。人のことは言えませんが、相当下品だという自覚のあるこの私でさえ「テレビは下品だ」と思う。ファン・ルーラーは、息子さんの話によるとテレビをよく見ていたようですが、見るのはサッカー番組でした。昔のサッカー番組は今と比べるとはるかに「上品」なものだったと思います。というか、つまらない。最近のビデオカメラで親が我が子の運動会を撮っているのと同レベル(かそれ以下)の映像がテレビで流れていたはずです。私の子どもの頃の(「昔の」とそろそろ言える1970年代くらいの)サッカー番組でも臨場感ゼロ。カメラが遠すぎて、選手一人一人が小さくて、表情とかも全く見えなくて、キーパー以外の20人が右に左にぞろぞろ移動している姿がかろうじて見えるというようなもので、退屈でしたが、サッカーが好きな人にとっては、あんなのでも面白かったのでしょう。



しかし、メールといい、ウェブといい、ずっとこれだけを続けていると、心理的な放出感というか「出ていく感」のようなものが募り、だんだん寂しくもなりました。シーンとした無音状態の中で、自分が叩くキーボードのカチカチ音だけがこだまする。独り言はなるべく言いたくないので、だれかにしゃべっていてもらいたくなる気持ちも起こる。そんなときに、たまーにテレビをつけてみる。でも、すぐにうるさくなって消すといった感じでした。テレビに出ている人々独特の「したり顔」というか「『わたしたちは勝ち組です』顔」みたいなのを見ていると不愉快になるという面もありました。



見るものを変えればいいという話なのかもしれません。「そんなに嫌ならNHK見れば?」とか「放送大学見れば?」とか。たしかに、テレビそのものを悪者にするつもりは私にもありません。テレビに出てくる人々を「見下げる」つもりもない(逆でしょ、と思う。たぶん彼らから見下げられているのは我々のほうです)。



しかし、そのうちテレビそのものと訣別したい。「もうええわ」と心底思う。尾崎豊っぽく(?)いえば、「テレビなるものの支配」から卒業したい。尾崎氏と私、同い年です(1965年11月生まれであることも同じ)。バットでぶち割るわけにはいきませんが(環境破壊だ)、これで終わりという儀式でもしたい気持ちです。「すべて地デジに変わる日」をもってテレビそのものからお別れするというのも、一つの選択肢かもしれません。