2009年2月18日水曜日

人生の目的

ブログを一年以上も書いてくると、前に何を書いたかを忘れてしまいます。繰り返しになっていることがあるかもしれません。でも、それはたぶん恥じることではなくて、私が結局最後に言いたいことは何かが、自分の中でよりクリアに言葉化されていくプロセスなのでしょう。



ここに何万字書いても原稿料をもらえるわけではありませんが、ここには字数制限もないし、編集長の方針に合わせる必要もない(私自身が編集長であるという意味です)。読まれる当てもありませんが、ただの暇つぶしで書いていることでもなく、ある方(それは「あなた」です)に読んでいただける日を待ち望みながら書いているものでもあります。



私は何を言いたいのか。それがはっきりと分かるくらいならブログなど書きはしないわけですが、私は何を言おうとしているのかとintend toという感じのニュアンスが加わってくるのであれば、ちょっとくらいは見えているものがあります。ただ単なる「自分探し」のようなことをしているわけではないつもりです。もう少し対社会性を有したいと思う。しかし、自分自身で大した実地調査や時間をかけた取材をしているわけでもないのに、政治や社会の問題に直接コメントするような評論家然とした書きっぷりも、なるべく避けてきたつもりです。私が直接かかわっている事柄は、狭くて小さいものです。



ずっと考えてきたこと、というか意識的に目指してきたこと、しかしそれは「ブログで」目指してきたことというのではなく、大学に入学してからの「人生で」目指してきたことについては、少なくとも一つだけははっきりしています。これを前にここ(ブログ)に書いたかどうかを忘れたなあと、さっきから苦にしているわけです。もし一度でも書いたことがあってそれを忘れて同じことを繰り返し書いてしまったら悔しいなあと。一年分のすべてを読み返す時間はないし(その気力もない)。



まあしかし、繰り返して書いて悪いわけでもないので、よし、書きましょう。今やっとそういう気になりました。



「人生で」目指してきたことは、我々キリスト者にとっての「日曜日」を苦痛なものにしないために、「今日も教会の礼拝に出席することに意味があった」と思ってもらえるような説教ができるようになりたいという、このことだけです。あ、ついに書いてしまった。


「日曜日を迎えるのがツライ(なぜなら、またあの教会に行かねばならないから)」と感じているキリスト者は、今はどれくらいいるのでしょうか。トレンドは、教会とは「ぼらんたりいあそしえいしょん」なのだそうですから、教会なんて「出入り自由」だと思っている人は多いはず。自主的・自発的に行きたい気分のときに、行きたい教会に行けばよい。行きたくない教会には当然(naturally)行かない。行きたい教会を選んで行くか、行きたくなければ「行かなければいい」と思っているかのキリスト者は多いのではないでしょうか。逆に、ツライケド、ツラクテモ、また「あの教会」に行かねばならないと思っているキリスト者は、今では少なくなっているのかもしれません。


しかし、です。「え?教会は『出入り自由』なのですか、はあ、そうですか」と、怒っているというよりも、笑っちゃうほど、ただただあきれる気持ちになること、しばしばです。教会は「ぼらんたりいあそしえいしょん」などでは決してありません。その種のガクセツを熱心に提唱する学者たちは何か勘違いしておられるようです。


とはいえ・・・いや「だからこそ」です、苦痛で苦痛でたまらないのに、イヤでもオウでも、目をつぶり、鼻をつまみ、耳をふさいででも、日曜日の朝の数時間を「教会の礼拝」というあの独特の時空の中で過ごさせられなければならないという(やや拷問めいた)目に遭わされている人々への同情が全く無いわけではありません。


私の関心は、昔から「その人々の救済」にあります。その人々に少しでもハッピーな日曜日を過ごせるようになってほしい。「今日は意味ある(「意味ある」です)日曜日を過ごすことができた」と思ってもらえるような説教ができるようになりたい。


私が取り組んできたいわばすべてのことは、その中心的関心事の周りをただひたすら、ぐるぐるぐるぐる回り続けてきたのです。神学も、オランダ語も、他のあらゆることも。


ですから、私にとっては「神学」そのものも、また「オランダ(語)」そのものも、あらゆる取り組みや関わりも、単なる手段(means)にすぎず、通過点にすぎません。それ自体が目的(purpose)であると考えたことは一度すらありません(私のことを身近に感じてくださっている方々は、私がそういう人間であることをよく知っています)。


その意味で私は「神学者」というような者になりたいと思ったことは一度もないのです(なれるとも思っていませんが)。「説教者」とも「伝道者」とも、実はあまり呼ばれたくありません。では何と呼ばれたいのか。これがまた難しいのですが、いろいろありすぎて難しいわけではなく、適切な表現が見当たらないので難しい。


強いて言えば「教義学者」(≠「神学者」)と呼ばれる者になれるものならなってみたいのかもしれませんが、そんな大袈裟な感じのでもなくて、もう少し手前のところでいい。うまく日本語に訳せませんが、「カテキズム教師」くらいかなと思わなくもない。


「日曜学校教師」でもいいのですが、それを職業的に最高度に極めた形のものになりたいのかもしれない。日曜日に教会に来る人々に、キリスト教信仰の核心部分を「その喜びに至るまで」精密かつ分かりやすく解説できるようになりたい。その働きを通して、(日曜日を苦痛に思ってきた!)多くのキリスト者たちに、「今日は意味のある日曜日を過ごせた」と思ってもらえるようになりたい。まあ、とりあえず、そんなところです。