2009年2月19日木曜日

説教訓練におけるブログ活用の可能性

最近気になっていることは、私の説教のブログ「今週の説教」の「人気記事ランキング」です(同ブログの画面右の真ん中あたりにあります)。残念ながらこのランキング表示の仕組みがよく分かっていないのですが、表示されているのは当然、アクセス数のランキングでしょう。たとえば、本日時点の順位は、以下のようなものです(このランキングは常に変動しています)。



1位:「世の罪を取り除く神の小羊」
2位:「初めに神は天地を創造された」
3位:「わたしはどうしたら救われるのか」
4位:「人生は礼拝のために、礼拝は人生のために」
5位:「苦しみを乗り越える力、それがキリスト」
6位:「あなたの涙がぬぐわれる日」
7位:「死と葬儀―あなたを独りで死なせない―」
8位:「来なさい、そうすれば分かる」
9位:「あなたの人生の目標は何ですか」
10位:「親身になってあなたを思ってくれる人は誰ですか」



「こういうことが分かって、だから何なのですか」と問われると言葉につまってしまう私がいます。しかし、いろいろ考えさせられることはあります。学校や事業の成績はもちろん、テレビ番組の視聴率、映画の入場者数、音楽のCD売り上げやダウンロード数。まさにありとあらゆるものが「順位」で計られ、競争している時代です。あるいは、大学の教師たちの講義やゼミの内容、さらに宿題やテストの出し方に至るまでを学生たちから厳しく評価され、その克明な評価結果がインターネット上に公開されている時代です。牧師たちも少しくらいは「競争」の中に身を置くべきかもしれません。



ただし、「甘いねえ」と言われそうなことは、この「人気記事ランキング」で分かるのは他の牧師の説教との比較ではないということです。すべてが自分の手で書いた説教原稿なのですから、ある説教が他の説教に「負けた」(?)からといって「悔しい」という思いは起こりません。


しかし、なんというか、ランキングというのは、実にシビアで面白いものだなあと思います。なるほどたしかに、私なりに思い入れのある説教が「生き残って」います。


このような様子を見るかぎりではありますが、かつて直感したことが今や確信に変わりつつあります。それは牧師たちが自分の説教をブログで公開すること、そして「人気説教ランキング」を公開することは、きわめて実質的かつ効果的な「説教訓練」になるに違いないということです。


「説教の塾」に通っていない私ですが、塾長先生からの手厚いご指導をいただくことよりもはるかにシビアな審判をインターネットの世界においては期待できると思うのです。


コメント欄やトラックバック欄は最初から意図的に閉じているのですが、だからこそ、この「人気説教ランキング」が物を言います。ランキングを見ながら説教者が真剣に考えるべきことは、「なぜこの説教は読まれるが、他の説教は読まれないか」です。


原稿の出来不出来は、書いた人が最もよく分かっているはずです。しかしまた、説教者自身は「良い」と思って書きかつ語ったことが、それを読むないし聴く人々にとっては「良くない」と判断されることもありえます。そのことを「人気説教ランキング」から非常にシビアな仕方で教えてもらえるのです。


このことが分かるだけで、本当にただそれだけで、改善されていく説教もあるのではないかと思わされます。しかしもちろん評価できる点だけではなく、問題点もあるでしょう(私はまだほとんど問題を感じていませんが)。21世紀の説教学の教科書には、ぜひとも「説教のブログ公開」に関する一章を設けていただき、学的に検証していただきたいものです。


ちなみに私は、この「人気記事(説教)ランキング」を別のことに生かすことができないものかと密かに考えています。たとえば、ベスト10までにランキングされているものをきちんと校正したうえで印刷所に印刷・製本してもらい、絵の上手な方にきれいな表紙イラストを書いていただいて、『関口康説教パンフレット』(仮称)として、一冊300円とか400円くらいの値段(高い?)をつけて、インターネットで販売するとか、まあそんな感じのことです。


私は自分が書いたものを一冊の本にして売ったことがまだありませんので、不安ばかりが募りますが、そういうこともいつの日かやってみたいという気持ちがあることを正直に書いておきます。