2009年2月22日日曜日

喜びを絶やさぬために


ヨハネによる福音書2・1~12

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトテレス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。」

今日の個所に紹介されていますのは、全く驚くべき奇跡物語です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、ただの水をぶどう酒に変えてくださったという話です。

「このような話はとても信じることができません。このような話が出てくるから聖書は苦手です」とお感じになる方がおられるかもしれません。いえいえ、そのような気持ちはここにおられるどなたかのものであると言いたいわけではなく、他ならぬ私自身がかなりそれに近い思いを持っております。

このようなことをはっきり申しますと困ってしまわれる方がおられるかもしれません。しかしわたしたちは、どんなときでもなるべく正直であるべきです。聖書に出てくる話、とくに奇跡に関する話は全く驚くべきものであり、ほとんど信じがたい事柄なのであるということを率直に認めなければならないと私は考えております。

しかし、です。私は今、皆さんの前で「今日の個所に書いていることを私は全く信じることができません」と申し上げているわけではありませんし、「これは全くのでたらめです」と主張しているわけでもありません。ほとんど信じがたい事柄、簡単に信じることができない事柄を聖書の中に探していくとしたら、それは枚挙にいとまがありません。今わたしたちはヨハネによる福音書を読んでいるわけですが、最初のほうに書かれている「言は肉となった」という点は、どうでしょうか。ほとんど信じがたい内容を探せと言われるなら、このこと、すなわち「神が人間になられた」ということからしてそうであると言わなければならないでしょう。

比較の問題ではないかもしれません。しかし、よくよく考えてみなければならないことは、「神が人間になられた」という話と「水がぶどう酒に変わった」という話とのどちらのほうが信じやすいものかということです。事柄の重大さを思えば、前者、すなわち「神が人間になられた」という話と比べれば後者、すなわち「水がぶどう酒に変わった」という話などは、別にどうということはない、他愛のないことであるとも思われるのです。

「神が人間になられた」という話のほうが、はるかに深刻です!こちらのほうこそが、まさに前代未聞の出来事であり、ほとんど信じがたいことであり、ありえないことです。しかしまた同時に、これこそが、新約聖書が全力を挙げて主張している事柄なのです!

ですから、私は自分自身の持っている感覚に対して絶望しているつもりはありません。水がぶどう酒に変わったという話を聞くと困ってしまう自分がいることを否定はしません。しかし、この程度のことを信じることができないと言い出すならば、もっと重大な聖書の真理を信じることができなくなるではないかと、この点が心配になってくるのです。

そして、です。今日の個所を読みながら思い当たることは、ここに書かれていることは明らかに楽しいことであり、愉快なことであるということです。イエスさまがなさったことは、まさにそういうことです。宴会が盛り下がらないように、白けてしまわないように、集まっているみんながいつまでも楽しい雰囲気に包まれたままでいることができるようにしてくださった。そのことに尽きるのです。要するに、イエスさまが宴会の盛り上げ役を買って出てくださったのです。それはある見方をすれば、救い主ともあろうお方がそんなことのために御自身の大事な力をお使いになったのかと、あきれたり、腹を立てたりする人がいるかもしれないと思うほどです。

しかも、ここで問題になっているのはお酒です。イエスさまがお酒の瓶を小脇に抱えて走っておられる姿などはあまり想像したくありません。しかし、言うならば、そのようなことに限りなく近いことが行われたのです。ただし、それをイエスさまは「水をぶどう酒に変える」という奇跡的なみわざを通して行ってくださったのです。

ですから、イエスさまが行ってくださったこの奇跡には、非常に明確な目的があったというべきです。この場所は宴会の席でした。結婚式の披露宴が行われている最中でした。そのような喜びの席、楽しい席に集まっている人々を喜ばせ続けること、楽しませ続けることのために、イエスさまはご自分のお力をお用いになり、この奇跡を行ってくださったのです。つまり、ここで分かることは、イエスさまというお方は、まさに全力を尽くして人々を喜び楽しませてくださる、そのようなお方なのだということです。

内容の詳細についても若干ふれておきたいと思います。その場所にはイエスさまの母が同席していたということが分かるように書かれています。もちろん、これはマリアです。ところが、です。実を申しますと、私自身は今回調べておりまして初めて知ったことなのですが、ヨハネによる福音書にはマリアの名前が一度も出てこないのです。「イエスの母」と書かれているだけです。その理由は分かりませんが、他の福音書とヨハネによる福音書の違いという問題を考えていく際に重要な点ではないかと思わされます。しかし、これはもちろん間違いなくマリアです。

そのマリアがイエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。しかし、このマリアの言葉には当然含みがあるわけです。わたしたちも言うではありませんか。「コピー用紙がなくなりました」とか「灯油がなくなりました」とか。そう言われると「だから何なんですか?」と、ぶっきらぼうに答えたくなる!マリアも同じです。「なくなりました」と言っているだけですが、当然のように続きがあるのです。

おそらくイエスさまもマリアの言葉に対して明らかに不愉快な思いを抱かれたのです。イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」とお答えになりました。ぶっきらぼうな調子に訳せば「だから何なんですか?」です。「わたしの出る幕でしょうか?」です。「このわたしに、酒屋まで行ってぶどう酒を買って来いとでも言いたいのですか?」です。

イエスさまのお気持ちは、こともあろうに、母親に対して「婦人よ」と言っておられるところに顕著に表れています。皆さんの子どもさんが皆さんに「婦人よ」だなんてことを言おうものなら、うんと腹が立つことでしょう。「あなたの口から、そんなことを言われる筋合いはない!」とか何とか。

しかし、です。もう少し真面目な説明をいたしますと、ここでイエスさまが強く退けておられることは、救い主であるこのわたしが何かを行う場合には、誰から依頼されたからそうするとか、誰から命令されたからそうするというのではないということです。イエスさまが何かをなさるときは、あくまでも御自分の意志と決断において行うのであるということを表明しておられるのだということです。たとえそれが母マリアであろうとも、です。

わたしたちが受け入れるべき端的な事実は、イエス・キリストは母マリアの救い主でもあられるということです。母だから特別扱いであるというわけではないのです。そのような特別扱いを他の誰よりもイエスさま御自身が退けられたのです。

しかしイエスさまは、だからといって何もなさらなかったのかというと、決してそうではありませんでした。この点も重要です。イエスさまは、御自分の意志と決断において、全力を尽くして人助けをしてくださる、そういうお方なのです。

イエスさまがなさったこと、それは「召し使い」と呼ばれている宴会の給仕役の人々に、そこに置いてあった石の水がめに水を入れてくるように依頼することでした。その水がめについて「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」とわざわざ詳しく説明されている意図は、それは汚れていない、きれいなものだったということを示すためであると考えられます。このことによって、たとえば、「この水がめの中には実は少量のぶどう酒が入っていたのである」とか、「古いぶどう酒がこびりついていたのである」というような勝手な解釈は完全に禁じられます。ここに書かれていることは、使いきったシャンプーのボトルの中に水を入れて振ればあと一回使える、というような話ではありえないのです!

そのときくまれてきたのは、正真正銘の普通の水でした。水がめの中には種も仕掛けもありませんでした。ところが、宴会の世話役がそれの味見をしたときに、「これはぶどう酒である」ということ、しかも「良いぶどう酒」であるということに気づいたのです。

そして世話役は花婿を呼んで言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出す」。しかし、あなたはそれの正反対のことをした。それは素晴らしいことだと、絶賛したのです。そしてこの奇跡(しるし)を行ってくださることによって、「イエスがその栄光を現された」とヨハネは結論づけています。

しかし、ここでわたしたちは、ひとつのことに気づく必要があります。それは、イエスさまがなさったことは、たしかにそれによって御自身の栄光を現されたのですが、同時にそれが花婿の栄光になったのだということです。結婚式の主人公は花婿であり花嫁です。新郎新婦です。イエスさまではありません。もしその場が白けてしまったら、彼らの名誉が傷つけられてしまいます。あとで何を言われるか分かりません。何十年もその落ち度を語り継がれることさえありえます。その事態に陥らないように、イエスさまが彼らのことをこっそり助けてくださったのです!

この点は重要です。おそらくこのとき、ぶどう酒がなくなったことを知っていたのは、ごく少人数の主催者とマリアだけでした。イエスさまは、その宴会が危機的事態に陥っていることをお知りになったとき、誰も知らないうちに事態を打開され、喜びがいつまでも絶えないように、祝宴が滞りなく続行できるように、助け船を出してくださったのです。

このことはわたしたち教会も大いに学ぶべきです。わたしたちが人助けをする場合には、「わたしたちがやってあげた」というような恩着せがましい態度は、おくびにも出すべきではありません。助けたことの形跡を消すべきです。こっそりと助けるべきです。助けた相手自身の名誉と尊厳を守るべきです。

イエスさまというお方は、御自分のもっておられる特別な力を誇示することによって、人を恐怖に陥れ、御自分の前に人々を屈服させ、御自分の言うことを聞かせるというようなことには、おそらく興味すらありませんでした。そのようなことはイエスさまの本質に反することです。イエスさまのすべてのみわざの目的は人々に喜びをもたらしてくださること、窮地に追い込まれた人を助けること、人間の名誉と尊厳を守ることにあるのです。

まさにそのために「言が肉になった」、すなわち、神の御子が人間になってくださったのです。今日の個所は、そのように理解することができるのです。

(2009年2月22日、松戸小金原教会主日礼拝)