2009年2月13日金曜日

アナクロニズムではなく「希望の神学」として

私が言いたいことは、技術社会そのものの否定とか、テレビそのものの否定ではないのです。まだ十分うまく言えませんが、嫌だと感じていることはテレビの「一方通行性」です。その押しつけがましさや強圧性です。

インターネットは、この点が全く違います。そもそも「テレビが嫌だ」と私はインターネットのブログに書いているわけです。つまり、技術社会の英知の賜物をある意味最大限利用しながらの発言でもあるわけです。

インターネットの場合は、まさに「嫌なら見なきゃいい」し、批判したい相手がいれば、自分でどんどん書き込んだりできます(私はそういうことは滅多にしませんが)。 ある程度の「双方向性」が確保されています。

前の記事に書いたことも、「地デジ切り替えの日に、いっそテレビそのものを捨てて、インターネット一本にしようかなと思わなくもない」という意味です。 インターネットを無批判に礼賛する意図はありませんが、この横暴なテレビよりはインターネットのほうが「人にやさしい」と感じます。

そもそも私には「技術社会には神を冒涜する要素が著しい。そのため神を信じる者たちは古い時代への回帰を志向すべきである。みんなで一緒に古き良き時代に帰りましょう!」というような発想そのものが皆無です。



そのような過去への回帰願望やアナクロニズムは「神学的に」間違っているとさえ考えています。それどころか、我々は事柄をもっともっと前へと・先へと進めていくべきであって、後戻りも後ずさりもすべきではないと思っています。人間に可能なことならば何でも(重大な犯罪以外は)積極的に行うべきであると信じています。この点で私は「希望の神学」です。

団塊世代より少し上の戦争体験者たちが何か誇らしげに「今の若い人は、あの戦争の苦労を知らないし、便利になった世の中に生きてきたから、だらしない」みたいなことを言っているのを聞くたびに、内心でむかっ腹を立てています。



あるいは、テレビからよく聞こえてくる「昭和生まれ」と「平成生まれ」の性格の違いとか、そういう説明を聞くと馬鹿らしく思えます。天皇の代が変わったら、この国の人間一人一人の個人的な性格まで変わるとでも言いたいのでしょうか。くだらない。まさに非科学的言説そのものです。血液型占いに匹敵するくらい馬鹿げています。関係ありえないことを強引に関係づけ、何度も何度も繰り返し映像と音声とゲラゲラ笑いで押しつけてくる、そういうテレビのやり方が嫌いです。


テレビの(時代遅れ的な)強圧性は、チャンネルの少なさ、つまり選択肢の少なさに起因しているとも思います。インターネットにはチャンネル(選択肢)はたくさんあるではありませんか。

「テレビ帝国主義」とまでは言いませんが、「科学忍者隊ガッチャマン」に出てくる、何か悪いことをするために公共電波をジャックする(今なら「ハックする」と言うかな)ベルク・カッツェが凶悪な人だったので、「悪い人ほどテレビに出たいんだなあ」と、子どもの頃から理解しておりました(「テレビに出ている人のすべては悪い人である」と言っているわけではありません)。

水曜日は、日本キリスト改革派教会東関東中会が独自で企画する最初の2・11集会、「東関東中会 第一回平和の集い」(講師 袴田康裕先生)でした。私は主催者の一人でした。けっこう盛り上がった有意義な集会でした。