2009年2月15日日曜日

あなたはもっと偉大なことを見る


ヨハネによる福音書1・43~51

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなたがたは見ることになる。』」

今日の個所に記されていることは先週の個所と内容的に同じです。わたしたちの救い主イエス・キリストが弟子をお集めになっている場面です。

先週の個所で弟子になったのは三人です。ただし、一人の名前は分かりません。名前が紹介されているのはアンデレとシモンだけです。シモンについては、先週は触れることができませんでした。シモンはアンデレの兄です。先週の個所にアンデレがシモンをイエスさまのところに連れて行ったと記されています(42節)。そしてイエスさまはシモンに「岩」という意味のケファという名前を与えられました。この「ケファ」はアラム語です。このケファのギリシア語訳が「ペトロ」です。

このペトロこそ他の福音書ではいちばん最初に弟子になった人(一番弟子)として紹介されている人です。ところが、ヨハネによる福音書でペトロは、まるで弟アンデレよりも後に弟子になったかのように記されています。ヨハネによる福音書と他の三つの福音書との食い違いは他にもたくさんあります。どちらが歴史的事実に近いかは、わたしたちには判断できません。

今日の個所で弟子になるのは二人です。この人々の名前は紹介されています。フィリポとナタナエルです。書かれていることによりますと、まずフィリポが弟子になりました。そして、弟子になったフィリポがナタナエルを誘いました。その結果としてナタナエルが弟子になったのです。

今申し上げたことを聞いて、あることにお気づきになった方がおられるかもしれません。それは、先ほど申し上げました、シモン・ペトロが弟子になる次第とナタナエルが弟子になる次第とが似ているということです。共通しているのは、二人とも誰かに誘われて弟子になったように紹介されている点です。おそらくそれが歴史的な事実だったのでしょう。しかしまた、このことが歴史的事実であるかどうかというようなことよりももっと大事なことが語られているようにも思えます。

それは要するに、イエスさまの弟子になった人は他の人にイエスさまの弟子になるように勧める役割を担うのだということです。イエスさまの弟子になった人には新しい弟子を探しに行く仕事を与えられるのだということです。そのことが二回も繰り返して語られているのです!

実は、これこそがまさに「伝道」です。伝道とは、イエスさまの弟子になる人を探しに行く仕事です。見つかったら弟子の仲間に加わってほしいと誘うこと、弟子になるように勧めることが、彼らの仕事なのです。

会社のなかで営業の仕事をしておられる方がおられます。お客さんになってくれる人を探しに行くこと、見つかったらその人に熱心に商売すること、それが営業です。この営業と「伝道」は、明らかに似ています。全く同じとは言えないかもしれませんが、似ているとは言えるでしょう。

「いいえ、それは違います。伝道は商売ではありません。伝道と営業を一緒くたにしてもらっては困ります」と文句を言われることが時々あります。しかし、そういう言い方は営業の仕事をしておられる方々に失礼です。今は大学の教師たちが入学してくれる学生を探しに行く時代です。病院の医師たちが患者になってくれる人を探しに行くという話は、さすがに聞いたことはありません。しかし、病院の中の案内表示などに「患者様」という字を見かけることは多くなりました。ほとんど「お客様」と言いたそうに見えます。

教会がしていることは、会社や大学や病院がしていることとは違うと言わなければならないのでしょうか。そのように言いたい気持ちがわたしたちの心の中のどこかにあるかもしれません。しかし、もし違いを言わなければならないのだとしたら、わたしたちは次のように言わなければなりません。それは「教会がすることは、会社や大学や病院がすること以上でなければならない」ということです。「伝道は営業ではない」というのなら、伝道は営業以上のものでなければならない。イエスさまの弟子たちは、会社の営業担当者以上に熱心に、弟子探しをしなければならないのです。

今日の個所に書かれていること、そのなかでもイエスさまとフィリポ、またフィリポとナタナエル、そしてイエスさまとナタナエルとの間でそれぞれ交わされている会話の内容は、必ずしも分かりやすいものではありません。はっきり言いますと、ちんぷんかんぷん全く分かりませんと言いたいほどです。

イエスさまは、フィリポに「わたしに従いなさい」と言われました。このイエスさまの呼びかけに対するフィリポの答えは記されていませんが、おそらくすぐに従いました。

そのフィリポが次にしたことはナタナエルを誘うことでした。フィリポがナタナエルに言ったのは「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」ということでした。律法と預言者とは(旧約)聖書のことです。(旧約)聖書に預言されている救い主メシアと出会ったのだと言ったのです。

ところが、ナタナエルは、フィリポが「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言うのを聞いて「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。この「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という言葉は、当時のことわざのようなものだったかもしれないと考える人がいますが、明確な根拠はありません。間違いなく言えることは、ナタナエルは「ナザレ」を軽く見ていたのだということです。

その意味では、なるほどたしかに、人間としてのイエスさまは、地方出身者であったと言わなければなりません。名もなき村の大工の子どもでした。人も羨むような町の出身者であるわけではない。特別に際立った仕事や立場にある親の子どもでもない。その意味でのただの人、普通の人が、真の救い主メシアであると言われても、おいそれと信じることはできないと、ナタナエルは感じたのです。彼の気持ちは、よく分かるものです。

しかし、このナタナエルに対してフィリポが言った言葉が「来て、見なさい」でした。ここですぐに思い出してくださる方がおられるでしょう。それは、先週の個所に出てくるイエスさまの言葉、「来なさい。そうすれば分かる」(39節)です。イエスさまは「来れば分かる」と言われました。フィリポは「来て見なさい」と言いました。共通しているのは「来ること」が重要であるという点です。つまりここで分かることは、フィリポが言っている言葉は、イエスさまがおっしゃったことに似ているということです。

ただし、ほんのちょっとではありますが、イエスさまのお言葉とフィリポの言葉の間にはニュアンスの違いもあるということを指摘しておきます。それは次の点です。

イエスさまが「来なさい」とおっしゃる場合に求められていることは明らかに「イエスさまのところに行くこと」です。この点には疑いの余地はありません。しかし、フィリポが「来なさい」と語っている場合は、論理的に言えば「フィリポのところに行くこと」を意味することになります。なぜならフィリポは「イエスさまのところへ行きなさい」とは語っていないからです。「来なさい」と語っているのです。

この読み方は決して間違っていません。フィリポがナタナエルに求めたことは、明らかに「このわたしフィリポのいるところに来なさい」ということです。そしてもちろん同時に「イエス・キリストと共にいるこのわたしフィリポのいるところに来なさい」ということです。

そして先週の個所に記されていたことは、イエスさまにはフィリポが弟子になるよりも前に三人の弟子がいたということです。フィリポは四人目でした。つまりナタナエルが弟子になるよりも前に、イエスさまと合わせて五人の集まりがあったということです。それをわたしたちはほとんど「教会」と呼びたいところです。「たった五人しかいなかった」なのか「なんと五人もいた」なのかはともかくです。ナタナエルはその集まり(教会!)の六人目のメンバーになることをフィリポから勧められたのです。

ここでやっとその意味が分かってくるのは、繰り返し出てくる、なんだか気になる言葉です。それは29節と35節と43節に出てくる「その翌日」です。この言葉を字義どおりにとるならば、興味深い結論が見えてきます。イエスさまの教会が誕生してからナタナエルを加えて「六人の教会」になるまでの期間は、わずか二日間であったということです!

このスピードは速いというべきです。わたしたちの教会は二日で五人増えるでしょうか。五人増えるのに、いったい何年かかるのでしょうか。私はこのことをまるで他人事のように言っているのではなく、痛みと苦しみを感じながら申し上げています。しかし、否定的な思いからではなく肯定的な思いから、そして大きな希望をもって申し上げています。

私はどのような希望を持っているのでしょうか。それは、人々を弟子にしてくださるのはイエス・キリスト御自身であるという希望です。教会にできることは、「来て、見なさい」と呼びかけることだけです。わたしたちにできることを続けていくこと、それが、そしてそれだけが「伝道」です。「伝道」を諦めず、中断せず、放棄しないで続けていくなかで、奇跡が起こるのです!

実際問題として、ナタナエルはフィリポの弟子になったのではなく、イエスさまの弟子になったのです。シモン・ペトロもそうです。アンデレに誘われたからといってアンデレの弟子になったわけではありません。イエスさまの弟子になったのです。

ナタナエルがイエスさまを信じた理由は、イエスさまが「いちじくの木の下にあなたがいるのを見た」と言われた言葉を聞いたからでした。これが何を意味しているのかは全く分かりません。おそらくナタナエルは、自分のしたことをぴたりと言い当てたイエスさまに、何らかの特殊な能力、予知能力のようなものがあると感じたのです。今ならば超能力者とか霊能者とか呼ばれるような存在に見えたのです。だからイエスさまを信じたのです。

しかし、イエスさまはナタナエルに「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われました。イエスさまがお見せになろうとしたことは、オカルト的な超能力のようなものではありませんでした。人がそのような理由でイエスさまを信じるようになることを、むしろ激しくお嫌いになりました。キリスト教信仰はカルトでもオカルトでもないのです。

「もっと偉大なこと」とは何でしょうか。それはこれから見ていくことです。イエス・キリストは、十字架の上で「神の小羊」になってくださり、それによってわたしたちを罪の闇の中から救いの光のもとへと救い出してくださいました。わたしたちが救われること、それこそが「もっと偉大なこと」、最も偉大なこと、世界最大の奇跡なのです!

(2009年2月15日、松戸小金原教会主日礼拝)