2008年12月28日日曜日
あなたがたの必要をキリストが満たしてくださる
フィリピの信徒への手紙4・15~23
「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。キリスト・イエスによって結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」
フィリピの信徒への手紙を、今年9月初めから半年にわたって学んできました。今日は最後の個所を学びます。この個所にパウロが書いていることも、基本的には先週の個所と同じようなことです。フィリピの教会の人々がパウロの伝道活動を経済的ないし金銭的に支援してくれたことに対する感謝の言葉です。
この件に関してパウロは大きなスペースを割いています。新共同訳聖書の中でこの手紙は6ページとちょっとあります。そのうちほぼ1ページ分がこのことのために割かれています(4・10~20、2・25~30)。つまりこの手紙の6分の1が献金への感謝の言葉なのです。
フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれてきました。喜びという言葉が繰り返し出てくるからです。しかし私は、この手紙の中には喜びについてだけではなく苦しみや悲しみや涙についても書かれているということに皆さんの注意を促してきたつもりです。キリスト教信仰の肯定的・積極的な要素だけではなく、否定的・消極的な要素についても多く書かれていました。この手紙には「苦しみの手紙」とか「涙の手紙」とも呼ばなければならない面もあると申し上げてきました。
そしてこの手紙にはパウロを助けてくれた教会への「感謝」の言葉もたくさん書かれています。しかも、その感謝はフィリピの教会の人々がパウロと苦しみを共にしてくれたことへの感謝です。それはまさしく苦しみへの感謝、涙への感謝です。
このことを見ながら私が考えさせられることは、やはりどうしてもわたしたちの教会の現実です。松戸小金原教会だけのことにはしたくありません。日本キリスト改革派教会のこと、そして日本のキリスト教会全体のことを考えさせられるのです。
松戸小金原教会は昨年と今年の二年間、「主の日の礼拝を楽しみ、日々、生き生きと過ごそう」という標語を掲げてきました。そして目標聖句は「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8・10)というものでした。この標語と目標聖句を提案したのは私です。キリスト教信仰における喜びや楽しみの要素を強調したいと願ったからです。そのことは皆さんに十分に理解していただいたと感じています。
しかしまた、二年間の歩みの中で同時に感じてきたことを一言で表現するとしたら、教会の伝道が思うように進まないということでした。喜んでばかりはいられないと感じさせられてきたのです。
この点については何一つ開き直って言うべきことではないことはよく分かっています。しかし一つだけ申し上げておきたいのは、伝道が思うように進んでいないのはわたしたち松戸小金原教会だけのことではないということです。日本の教会全体が苦しんでいます。ある先生の言葉をお借りすると、今の日本の教会の伝道は「惨憺たる有様」です。それが日本の教会全体の共通認識です。
なぜそのような状態なのかについてはいろんな分析もなされています。しかし今日それをお話しすることは控えます。何となく言い訳がましくなってしまうからです。
そのことよりもむしろ今日お話ししたいのは、「惨憺たる有様」であると指摘されている今の日本の教会の現実を直視しつつ、これからなおしばらくの間、わたしたち自身が、一つの重大な覚悟ないし決意を持つことが必要であるということです。それは、わたしたち一人一人が伝道の困難なこの時代の中にあって、キリストのため、教会のため、伝道のために苦しむことを引き受けることへの覚悟ないし決意です。
ここでぜひ思い起こしていただきたいのは、次の言葉です。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1・29)。パウロはこの言葉を「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と信じることができたフィリピ教会の人々への励ましの言葉として書いています。
パウロの時代の教会も、右肩上がりに成長していたわけではありません。伝道の伸び悩みに関してはわたしたちが感じているのと同じような、あるいはわたしたち以上の苦しみがパウロの時代の教会にありました。そしてパウロの認識のなかには、教会の伝道が思うように進まない原因の少なくとも一つとして、教会の外側には「反対者たち」がいるという点がありました。そのことを無視できないのです。
しかし、です。パウロは、教会の外側で伝道を妨げている人々のことを強く非難したりその人々の責任を問うたりするようなことには、ほとんど言及しません。むしろパウロは、どんなに反対されても妨げられても救い主イエス・キリストへの信仰を持ち続け、教会にとどまり続けている人々を励ますことにひたすら集中するのです。それがパウロの信仰の特質であると言えるかもしれません。伝道が思うように進まないことを教会の外側にいるどこかのだれかのせいにして問題を片づけるのではなく、「キリストのために苦しむことは神から与えられた恵みなのだ」という言葉をもって、教会の人々を力づけるのです。
日本の教会の場合、伝道が進まない理由を日本古来の宗教のせいにしたり、今の日本の政治のせいにしたり、今の時代風潮のせいにしたりすることは、ある意味でいとも簡単なことです。そうだと言ってしまえば誰も反対できないでしょう。しかしわたしたちの意識をそこに持って行くのではなく、別のところに持って行く。しかしまた、ただ自分自身を責め続けるだけでも意味がないでしょう。今こそわたしたちが考えるべきことは何なのかということを、私はこの手紙を読みながらいろいろと考えさせられてきました。
その中で注目させられたことがあります。それは、パウロが、キリスト者に与えられる恵みとしての苦しみの中に、教会とその伝道を支えることに伴う苦しみという点を加えていることです。もっとはっきり言っておきます。4・14に書かれているとおり、パウロは、このわたしのためにたくさんの贈り物や献金をしてくれているあなたがたは「よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言って、自分の生活を切り詰めてまで教会とその伝道を支援してくれている人々を激励しています。
もちろんパウロは「物欲しさにこう言っているのではありません」(4・11)とも書き、また今日の個所では「贈り物を当てにして言うわけではありません」(4・17)とも書いています。明らかに、変な詮索をされることを嫌がっています。しかしパウロは、この点では非常に現実主義者です。物やお金の問題で人がどれほど苦しみを味わうかを熟知しています。この問題についてパウロは無頓着ではありません。なぜなら、他ならぬパウロ自身が、伝道旅行の最中、そのようなことで苦しみ抜く経験をしたからです。
ここから痛烈に考えさせられることがあります。それは、教会の伝道が思うように進まないのは、教会の活動に参加することそのものに大きな苦しみが伴うからでもあるからではないかということです。不況の中で厳しい生活を強いられている人々がいます。その人々が「教会に参加することによって今以上の負担を負うことになるのは勘弁してほしい」と言いたくなる気持ちを持つことを誰が否定できるでしょうか。この点についてわたしたちがあまりにも無頓着であることはできないだろうと思っています。
今日の個所の最初のところでパウロは、フィリピの教会の人々への感謝の言葉を述べています。「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」これが事実であるとしたら、パウロにとっては厳しいことであったに違いありません。はっきり分かることは、当時のキリスト教会の中にはパウロの伝道を助けようとする人々と、助けたくないと考える人々とがいたということです。
これはパウロのフィリピ伝道が第二回伝道旅行の中で行われたことと関係しているのではないかと思われます。第二回伝道旅行はエルサレムの使徒会議(使徒言行録15章)の直後に行われました。使徒会議では「人が救われるためにもはや割礼を受ける必要はない」と主張したパウロたちと「割礼を受ける必要がある」と主張した人々が激突しました。パウロの言葉や行いを信用しない。そう考えた人々は、彼のことを助けようとしなかったのです。
しかし、そこから先はパウロの性格にも関係していると思われます。パウロという人は、自分を支持してくれる人が少ないから、物やお金の面で助けてくれる教会が少ないから、伝道旅行自体を取りやめるというようなことは、おそらく考えもしなかったのです。何は無くとも出かけなければならない。イエス・キリストの福音によって救われるべき人々がこの世界にいるかぎり。そのような覚悟と決意とをもって出かけていったのです。無謀と言えば無謀、危険と言えばこれ以上の危険はないほどの旅行であったと言えるでしょう。
ところが、なんと幸いなことに、パウロにとっては旅先で出会っただけであるような人々が彼の伝道を支えてくれることになりました。それがフィリピの人々でした。
そのフィリピ教会の人々に対してパウロは、もしかしたら誤解を生むかもしれない言葉を書いています。「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(17節)。何が「あなたがたの益となる豊かな実」なのでしょうか。はっきりしていると思います。あなたがたフィリピ教会の人々がささげてくれている献金そのものが、あなたがた自身にとっての利益であり、豊かな実りなのだと言っているのです。
ここで考えなければならないことは、伝道旅行中のパウロが伝道している相手は、どう考えてもフィリピの町に住んでいる人々ではなかったということです。その意味は、彼らが献金した分だけフィリピ教会の会員が増えるというような事情にあったわけではないということです。パウロが言っていることは、明らかにもっと広く大きなことです。世界に広がるキリストの体なる教会全体の成長と発展という大目標のために貢献することこそが、あなたがた自身の利益なのだということです。
急に身近な話をします。わたしたちの教会の会計報告をご覧いただきますと、かなりの部分が日本キリスト改革派教会の大会や中会、また神学校のためにささげるものであるとお分かりいただけるはずです。私は松戸小金原教会の牧師でもあると同時に大会や中会の議員でもある者として、その面からも皆さんに感謝を述べなければなりません。そして、パウロと共に、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)という言葉で、皆さんを激励しなければなりません。
今日この2009年の最初の礼拝において私が最後に申し上げたいことは、「どうかみんなで苦しみましょう」ということです。キリストのため、教会のため、伝道のために苦しみ抜いた人を、わたしたちの神は、決してお見捨てにならないからです!
(2008年12月28日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年12月24日水曜日
天に宝を積むために
ルカによる福音書18・18~30
「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜわたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると、議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。するとペトロが、『このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」
クリスマスおめでとうございます。今夜お話ししますことは、クリスマスとは直接的には関係ないことかもしれません。しかしこの機会に聴いておいていただきたいことです。それは、聖書の中で「永遠の命」と呼ばれているものをわたしたちが手に入れるためにはどうしたらよいのかという問題です。
「永遠の命」と聞いてもピンと来ない方もおられるかもしれません。聖書には、これと同じ意味の「天国に入る」とか「神の国に入る」という言葉もあります。こちらのほうが分かりやすい方は、同じことを言っているとお考えいただいて構いません。聖書において「永遠の命」とは、永遠に生きておられる神との関係が永遠に切れないで生きていくことができる天国の生活です。永遠に生きておられる神と共に、永遠に生きていくことです。
その「永遠の命」をどうしたら手に入れることができるのでしょうかと、イエスさまに質問した人がいました。名前は出てきませんが、若い男の人でした。この人は「議員」でした。簡単に言えば、子供の頃からいろんな勉強を一生懸命にがんばってみんなから尊敬されるようになり、この国を代表するにふさわしい人物と認められた、そういう人でした。
その人がなぜイエスさまにこんな質問をしたのかという理由については、何も記されていません。しかし、だいたい想像はつきます。わたしはこれまで一生懸命がんばってきた。社会的に尊敬される、道徳的に落ち度のない生き方を貫いてきた。だから最高法院の議員になることができた。しかしまだ一つ足りないものがある。それが「永遠の命」である。わたしはこの先どんなに頑張ってもいつか死ぬ。死んでしまったら、頑張ったことが全部無駄になる。そんなのは嫌だ。わたしは死にたくない。
おそらくこんな感じのことをこの人は考えたのです。そしてイエスさまに質問しました。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」するとイエスさまは次のようにお答えになりました。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。」
イエスさまの答えを聞いたこの人は「非常に悲しんだ」と聖書に書かれています。非常に驚き、がっかりしました。なぜかと言えば、この人は「大変な金持ちだったから」です。皆さんの中にも悲しんだり驚いたりがっかりしたりした方がおられるかしれません。無理もないことです。なぜならこのときイエスさまが、この答えがこの人を悲しませ、驚かせ、がっかりさせるものであるということを初めから分かっておられながら、あえてこのようにおっしゃっているということは、どう考えても明らかだからです。
この人が何を感じたのかについてもだいたい想像がつきます。冗談じゃない。私の財産は、私が頑張ってきたことの証しではないか。それを売り払ってしまったら、「欠けているものが一つある」どころか何もない状態になってしまうではないか。人から軽んじられるばかりの惨めな生活を送らなければならなくなる。そんなのは嫌だし、理不尽だ。
ルカによる福音書には書かれていませんが、マタイによる福音書とマルコによる福音書には、この人は「悲しみながら立ち去った」と書かれています。この人がイエスさまの前から立ち去ったことの意味は、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」というイエスさまの勧めを受け入れず、事実上拒否したということです。貧しさの中で苦しんでいる人々がいることを知りながら、自分の財産を失うことによって自分の地位が維持できなくなることを恐れたのです。たとえ自分が貧しくなってでも困っている人を助けようというような気持ちまでは持つことができなかったのです。
イエスさまがこの人の嫌がるようなことを言っておられるのは明らかに試しておられるのです。テストの結果、彼は立ち去りました。これではっきりしました。この人のように自分のことしか考えない、貧しさに苦しんでいる人がどうなろうと関係ないと思っている人は「永遠の命」を受け継ぐことができないのです。天国に入ることができないのです。
誤解を避けるために別の言い方もしておきます。最初に申し上げましたとおり、聖書の中で「永遠の命を受け継ぐこと」と「天国に入ること」あるいは「神の国に入ること」とは同じ意味です。そこから考えてみていただきたいことは、「天国」とはどのような人々の集まるところであり、また「天国」とはどのような仕組みになっているところなのだろうかということです。
わたしたちもやがて天国に行くでしょう。そのとき、そこには自分のことしか考えない人ばかり集まっていると分かったらどうでしょうか。あるいはまた天国にも貧富の差がある。そして貧しい人の入るところと豊かな人が入るところとが違うようにできているとしたらどうでしょうか。天国にもVIPルームがある。そこに入れる特別な人と、入れない普通の人がいる。あるいは、エグゼクティヴクラスの座席とエコノミークラスの座席がある。そのようなところに行きたいと思うでしょうか。私は嫌です。
イエスさまが問題にしておられるのは、いわばそのようなことです。「そもそも天国とはどのようなところなのか」です。天国には貧富の差はないのです。全員同じなのです。
「一生懸命頑張って稼いだ人も、怠けた人も、天国では同じ待遇であるということか。それなら、怠けた人のほうが得ではないか。頑張った人のほうは馬鹿を見るではないか」と言われてしまうかもしれませんが、そういうのは問題のすり替えというのです。
イエスさまが問題にしておられることは、豊かな人々が貧しい人々を助けようとしないことです。強い人々が弱い人々を担おうとしないことです。わたしたちが生きているこの世界、社会全体が良くなっていくことを望まず、強い個人だけが生き残る。そのような状態を是認し、温存し続けることです。それは「天国」ではなく、むしろ「地獄」なのです。
今夜は日曜学校の子どもたちも大勢参加してくれています。ちょっと難しい話だったと思いますので最後は分かりやすい言葉で言います。
できれば皆さんは将来がんばってぜひお金持ちになってほしいと願っています。そうなることが悪いと言っているわけではありません。でも、そのお金は、ただ自分のためだけに使うのではないようにしてください。自分以外の人のため、とくに困っている人のために、せっせと使ってください。遠慮なく全部使い切ってください。自分のためには一円も残してはいけません。
でも、大丈夫です。困っている人を助けるために全部を使い果たした人のことを神さまは放っておかれません。神さまが必ず助けてくださいます。そのことをぜひ信じてください。
毎日のごはんやおやつを食べたり飲んだりしてはならないという意味ではありません。食べなければ飲まなければ死んでしまいます。そういう意味ではなく、自分の持っているものにしがみつくのではなく、自分の働きやお金が世のため・人のために役立っているということを喜び楽しんでくださいということです。それが「天に宝を積むこと」なのです。
父なる神さまは、独り子イエスさまをお与えくださったほどにこの世を愛してくださいました。それがクリスマスの出来事です。そして、イエスさまはわたしたちを救ってくださるために十字架の上で御自身の命をすべて使い切ってくださいました。そのイエスさまを父なる神さまがよみがえらせてくださいました。そのことをわたしたちはイースターのとき学びます。イエスさまのご生涯は、どうしたら「天に宝を積むこと」ができるのかをわたしたちに教えてくれる模範です。
イエスさまのように生きること、あるいは全く同じでなくてもイエスさまの真似をして生きること、それが「天に宝を積むこと」なのです。
(2008年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)
2008年12月21日日曜日
苦しみを乗り越える力、それがキリスト
フィリピの信徒への手紙4・10~14、ルカによる福音書2・15~20
「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」(フィリピ4・10~14)
「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2・15~20)
クリスマスおめでとうございます。先週の日曜学校クリスマス礼拝・祝会に引き続き、今日もクリスマス礼拝・祝会を行います。神の恵みを豊かに味わい、楽しく過ごしたいと願っております。
今年のアドベントは、フィリピの信徒への手紙とルカによる福音書を同時に学んできました。とくにフィリピの信徒への手紙については、パウロがそろそろこの手紙を終わりにしようとしている個所を学んできました。
今日の個所に書かれていることは、伝道旅行中のパウロを経済的ないし金銭的に支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝の言葉です。以前学びましたとおり、フィリピ教会の人々は、旅先で物資が尽きてしまい苦しんでいたパウロの状況を知ったので、教会の中で献金を集め、また必要な物を集めて、それらすべてをエパフロディトという男性に託しました。エパフロディトはその大きな荷物を抱えて、パウロのもとまで長い旅をしたのです。ところが、エパフロディトはその旅の最中にひん死の病気にかかりました。彼自身も非常に大きな苦しみを味わったわけです。しかし彼はとにかく自分自身に託された使命を全うし、預かったものすべてをパウロに届けることができました。
このことをパウロはフィリピ教会の人々への感謝の言葉として今日の個所に書いているのです。いやそれどころか、客観的に眺めてみますと、実はこの手紙全体が、パウロからすれば自分の生活を支えてくれたフィリピ教会の人々への感謝を表すために書かれたものであると見ることも可能なほどです。実際にそのように主張する聖書学者もいます。その主張とは、パウロがこのフィリピの信徒への手紙を書いた目的は、教会の人々がささげてくれた「献金」に対する感謝を述べるためであったというものです。
私はなぜこのような話をしているかについては説明が必要でしょう。わたしたちが毎年行っているクリスマス礼拝がいつも一年の終わりの時期に行われることは意義深いことであると感じます。クリスマス礼拝においてわたしたちが思い巡らすべきことは、神の御子イエス・キリストが来てくださったことの意味であり、その恵みの豊かさです。神が独り子をお与えくださったほどに世を愛された、その愛の大きさです。クリスマスと言えば巷では「プレゼントをもらう日」ということになっていますが、そのすべてが悪いということはありません。しかし、ただもらうだけで終わるなら、ちょっと悪いかもしれません。プレゼントをもらった人は、くれた人に対して感謝しなければなりません。クリスマスは「プレゼントをもらったことへの感謝を述べる日」でもなくてはならないのです。
教会の牧師たちは、クリスマスだけではなく、まさに一年中、教会の皆さんから生活を支えていただいています。教会の皆さんのプレゼントによって牧師の生活が支えられています。そのことについて牧師がクリスマスのときだけ感謝を述べるというのでは足りないとは思いますが、こういうことはなかなか口にする機会がないものです。感謝が足りていないとしたら、どうかお許しください。この場をお借りしてお礼を申し上げます。いつも助けていただき、本当にありがとうございます!
この個所でパウロは自分の働きのために献金してくれたフィリピ教会の人々に対して、読み方によっては何となく奇妙な感じに響いてしまうような言葉を書いています。「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と。
何となく奇妙な感じと言いますのは、このように書いているパウロがまるで、わたしは別にあなたがたの献金を当てにしているわけではありませんとでも言っているかのようだという点です。献金が少なければ少ないなりに何とかしますので、どうぞご心配なくと。おやおやパウロ先生、教会の人々にしっかり助けてもらっていながらこのような言い方をするのは、教会の人々に対して失礼ではないかと感じなくもありません。
しかし、牧師の仕事をしている者たちからすれば(その中には私も含まれるわけですが)、パウロがこのように書いていることの意味はよく分かるものです。やや俗っぽい言い方かもしれませんが、「わたしたち(牧師たち)は、お金のためにこの仕事をしているわけではない」という自覚と自負を持っているからです。パウロは「物欲しさにこう言っているのではありません」と書いています。今の牧師たちなら「格好をつけてこう言っているのではありません」と書くかもしれません。無ければ無いなりに何とかする。このような考え方を全く持っていないような牧師には、この仕事を続けていくことは不可能です。
パウロは続けて「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と書いています。「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を知っています」と。もちろんこのことが今のわたしたち牧師たち全員に当てはまることかどうかは分かりません。しかし、私自身が本当に幸せであると感じてきたことは、牧師の仕事をするということは、まさにパウロが書いているとおり、実にさまざまな状況を体験することができるということであり、神から与えられた人生の中でいろんな変化やいろんな苦しみを味わうことができ、しかしまた同時に、その苦しみを乗り越える「すべ」もしくは「秘訣」を身につけ、強くなっていくことができるということです。
私の長男は、1994年のクリスマス礼拝の次の日に生れました。翌年のクリスマスは同じ場所で迎えましたが、その翌年のクリスマスは、私が次に働くことになった教会で迎えました。さらにその翌年のクリスマスは神戸改革派神学校で迎えました。その翌年は山梨県でクリスマスを祝いました。そのとき子どもは二人に増えていました。長男は4歳になるまで、ほぼ毎年違う場所でクリスマスと自分の誕生日を迎えました。親の都合で引きずり回されているという感覚を、幼心に抱いていたかもしれません。本人に聞きますと「何も覚えてないよ」と言ってくれますが、私自身は申し訳ないことをしたという気持ちを未だに持っています。
しかし、そのような大きな変化の中で子どもたちも妻も、そして私も非常に鍛えられてきたと感じています。とくに長男はその町に友達ができたと思ったらまた引っ越しという体験をまだ十分に物心がつかないうちに、何度も繰り返させてしまいました。そのことを本人は「覚えていない」と言うのですが、友達を大切にする人間になってくれたと思っています。長女のことも言わないと不公平なので言いますが、長女も同じです。妻のことは本人に聞いてください。
わたしたち牧師たちとその家族は、自分が仕えている教会に生活を支えてもらうことによって、まさにいろんな人生を体験することができます。今の日本の牧師たちが豊かさを体験するということはあまりないかもしれませんが、それでももっと大きな苦しさの中にある人々のことを考えるならば、わたしたちなりの豊かさを体験もし、しかしまた厳しい生活も体験する。体験できるのです。そしてそうしているうちに、実にさまざまな、ありとあらゆる状況のなかで生きていくことができる「すべ」または「秘訣」を身につけることができます。これらのことは、願ってもなかなか得ることができない貴重な体験であり、まさに神の恵みであると信じることができるものなのです。
そして、そこからさらに、パウロの言葉を借りれば「習い覚える」、つまり「レッスンを受ける」ことができるのは、次のようなことです。
すなわち、わたしたちは、まさにこの世界全体の中に生きている人々が体験しているいろんな苦しみを理解することができます。その人々の悩みや叫び、また愚痴のようなものに共感することができます。しかしまた、そのような人々がどうしたら喜びや幸せを見出すことができ、感謝の人生を始めることができるのかについて自分たち自身の体験に基づく言葉を語ることができます。「牧師たちは世間知らずである」とは言われたくありません。「苦しみも涙も知っているよ」と言いたいです。「それでもどっこい生きているよ」と言いたいです。わたしをも強めてくださる方、わたしたちの救い主イエス・キリストのお陰で、わたしにもすべてが可能ですとパウロと共に言いたいです。本当に、真実に、そのように語ることができるのです。
イエス・キリストがお生まれになった夜に天使がベツレヘムの羊飼いに語ったことは、「救い主」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であることが「あなたがたへのしるし」であるということでした。この天使の言葉の趣旨はどう考えてもやはり「あなたがた貧しい人々へのしるし」であるということです。通常、豊かな人の子どもが飼い葉桶の中に寝かされることはありえないからです。貧しさの中で苦しんでいる人々のところに救い主が来てくださった。救い主は貧しい姿をしておられる。天使の言葉はそのように理解することが可能です。
逆に考えてみて、満ち満ちた豊かさを持った人が「わたしが救い主です」と言いながら登場するとしたらどんなふうだろうかと思わされます。たとえば、自分に与えられた権力を思いのままに振い、贅沢三昧の暮らしをしていたローマ皇帝が、あるいは当時のユダヤの王たちが「わたしが救い主です」と言っている姿は、彼らの暴力的支配のもとで苦しみを味わわされていた人々からすれば、何とも滑稽に見えたでしょうし、怒りや憎しみさえ覚えたでしょう。「わたしたちはあなたに救ってもらいたくはない。あなたから救われたい」と願ったことでしょう。ベツレヘムの羊飼いたちの前で起こった出来事を理解するために、今申し上げた点は重要であると思います。
クリスマスは贅沢三昧にふるまってよい日ではありません。正反対です!貧しさの中で苦しんでいる人々を助けてくださるために、救い主イエス・キリストが、御自身も貧しい姿をとって来てくださったことを感謝する日です。わたしたちの救いはお金に代えがたいものであることを知る日です。わたしたちがたとえどのような状況にあっても、救い主がそのような方であることを信じることができるときに絶望することがないと信じる日です。
今の世界的な経済不況の中で絶望している人は、どうか私の言葉に耳を傾けてください。
あなたの人生は、まだ終わっていません!
キリストがあなたを救ってくださる。そのことを信じていただきたいのです。
(2008年12月21日、松戸小金原教会クリスマス礼拝)
2008年12月14日日曜日
平和の神はあなたがたと共におられます
フィリピの信徒への手紙4・8~9、ルカによる福音書2・13~14
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(フィリピ4・8~9)
「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(ルカ2・13~14)
「終わりに」と書いてパウロは、今度こそ手紙を締めくくろうとしています。もちろん実際にはまだ終わりません。なお続きがあります。しかしそれでもパウロの気持ちの中では、とにかくこのあたりでそろそろ終わろうとしたのです。
手紙にせよ、論文のようなものにせよ、最後に書くのは、たいていの場合は、これまで書いてきたことのまとめであり、結論です。わたしは要するに何が言いたいのか、です。そのようなことをパウロは、ここにまとめているのです。
「すべて」の真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさいとパウロは書いています。また、「徳や称賛に値すること」もそうだと言っています。
ここにパウロが数え上げているのは、いわゆるギリシア的な美徳です。旧約聖書的な、ヘブライズム的な美徳ではありません。ヘレニズム的な美徳です。別の言い方をすれば、これらのことは、必ずしも聖書に書かれていない、聖書とは別の要素です。ユダヤ人が、イスラエルの民が、長年語り継いできたこと、信じてきたこととは別の要素です。もっと別の言い方をすれば、あるいは事柄をはっきりさせる言い方をするとしたら、異教的要素です。教会の伝統とは異なる要素です。教会の外にあるものです。
それらのこと「すべて」を心に留めなさいとパウロはフィリピ教会の人々に勧めているのです。もちろん心に留めるということには、それらを大事にすること、重んじることが含まれています。「はい分かりました、覚えておきます」というだけでは済みません。無視したり、軽んじたりすることの反対です。軽蔑したり、泥を塗ったりすることの反対です。
ですから、パウロが書いていることの趣旨をくみとりながら大胆に翻訳し直すとしたら、「教会の皆さん、あなたがたは教会の外側にあるすべてのものをきちんと重んじなさい」です。馬鹿にしてはいけません。「くだらない」と言って見くだしたり、「そんなのは異教的なものだからわたしたちとは関係ない」と言って切り捨てたりしてはいけませんということです。
このように言うことにおいて、パウロは、教会の人々に不信仰を勧めているとか、無理難題を吹っかけているわけでは、もちろんありません。彼は至極当たり前のことを言っているだけです。すべてのキリスト者は「教会の内側」だけで生きていないからです。言葉の正しい意味で「教会の外側」においても生きているからです。
牧師だってそうです。牧師の家族もそうです。もし牧師や牧師の家族が教会の内側だけで生きているとしたら、そして教会の内側だけでしか通用しない言葉ばかりを語っているとしたら、伝道は不可能です。伝道とは、教会の外側にいる人々に語りかけることだからです。それは教会の内側にいる者たちが固い砦に引きこもることの正反対です。外に出て行かなければ、外の人々と触れあわなければ、伝道は不可能なのです。
しかもその場合問題になることは、外に出て行き、外の人々と触れ合って、そのとき何をするかです。けんか腰で出て行き、啖呵を切って「あなたがたのしてきたこと、考えてきたことはすべて間違っている。わたしたちが持っているもの、教会の中にあるものだけが正しいものである。だから、ここに、教会にどうぞおいでなさい」と大声で叫び続けることが伝道でしょうか。そのように言われて教会に通い始める人が何人いるでしょうか。多くの人々は、ただ反発を感じるだけでしょう。「もう二度と教会には足を踏み入れません。決して近づきません」と、多くの人が心に誓うでしょう。
パウロが勧めているのは、そのような行き方の正反対です。もちろんパウロ自身も伝道者としての歩みの中で、何度となく失敗や挫折を繰り返してきました。けんか腰の態度や相手を傷つけるやり方もしました。しかしそれでは伝道が進まない。福音が前進しない。そのことにも気づかされてきたに違いないのです。
もちろん、次のような意見が必ず出てくることも私は知っています。「朱に交われば赤くなる。ミイラ取りはミイラになる。不信仰な人々の異教的なやり方に近づきすぎると、我々の確信が鈍り、教会の進むべき方向を間違ってしまう。守るべきものを守りぬくために、頑丈な砦が必要である。そのようなものがないかぎり、我々はあっという間にすべてのものを失ってしまう」。そうだと言われれば、そうなのかもしれません。全く間違っているとも言い切れません。しかし、それでもやはり私はそのあたりでとても慎重な気持ちにならざるをえません。
私は自分がとても弱い信仰の持ち主であると自覚しております。だからこそ、私のこの信仰をしっかりと守ってくれる頑丈な砦があればよいのにという強い憧れを持っています。それは喉から手が出るほど求めてきたことでもあります。しかしその願いは、少なくとも私にとっては未だに叶っていません。未だに叶っていないのですが、しかしまた、それが未だに叶っていないということ自体に意義を見出している面もあります。もし本当にそのような固くて頑丈な砦が手に入ってしまい、その中だけで生きて行くことができるようになり、その砦の外側には一歩も出ないで済むようになったとしたら、果して私はどのような人間になってしまうのだろうかということに不安を抱く面もあるからです。
かつてのヨーロッパはたしかにそのような時期を何世紀も過ごしました。国民のすべてが洗礼を受けている。キリスト教信仰が国民の常識である。そのような中に一度でいいから私も生きてみたいという憧れや願いが、私のなかに確かにあります。しかしまた、その憧れや願いは、私にとっては今の現実から逃げ出したくなる誘惑のようなもの、あるいは大きな落とし穴、危険な罠のようなものに近いと感じられるのです。
パウロがその中にいた現実は、どちらかというと、かつてのヨーロッパが体験した状況のほうではありません。むしろ今のわたしたち日本のキリスト者たちが置かれている状況のほうに近いものがありました。周りを見渡しても、キリスト者はきわめて少数である。文字どおり一握りの人しかいない。いつもさびしい思いを味わっている。理解してくれる人は少なく、むしろ危険視されたり異端視されたりするばかり。
しかし、そのような中であっても、あるいはそのような中であるからこそ、パウロは、教会の内側にあるものだけでなく、教会の外側にある「すべてのもの」も心に留めなさい。それらのものを十分に重んじなさいと勧めていることは、やはり特筆すべき点です。それは教会の中だけで自己完結してはならないという勧めでもあるでしょう。あるいは教会の外なる世界ないし社会との接点を持ち続けなければならないという命令でもあるでしょう。
自分たちの要塞の中にあるものだけが真実であり、気高く、正しく、清いものであり、愛すべきものであり、名誉なものであり、それ以外のすべてはそのようなものではありえないというような絶対的で排他的で独善的な確信を持つことを慎むべきであるという戒めでもあるでしょう。
もし我々がそのような確信を持ってしまうならば、なるほどたしかに、我々の存在は、外側から見ればとんでもなく鼻もちならないものに映るでしょう。また、もし我々がそのような要塞の中に立てこもってしまうならば、自分たち自身はこの上ない安心を得て満足できるかもしれませんが、外側から見ると我々の存在は、どこかしら自信のない、ひ弱な人間のように映るでしょう。
教会の外側の社会ないし世界の中にあるすべての善きものを心に留め、大切にすべきであるという教えには、この個所でパウロ自身がそのことに直接触れているわけではありませんが、間違いなく重要な信仰的・神学的な根拠があります。それは、わたしたちの神は全世界を創造された方であるという点です。
わたしたちの神は、教会だけを創造されたのではなく、世界を創造されました。信仰をもって生きている者たちだけを創造されたのではなく、いまだ信仰に至っていない人々も、神が創造されました。教会の中に生きている者たちは神によって創造されたが、それ以外の人々は悪魔によって創造されたというような事情には全くありません。そのような思想は異端的なものです。創造者なる神への信仰は、わたしたちが教会の外側にあるすべてのものに目を向けるべき明確な根拠を提供しているのです。
パウロは次のように続けています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。
ここで勧められていることは「教えられたことを実行すること」です。理解はできても行動に移せないことの反対です。自分の砦、自分の要塞の中に立てこもってしまい、外側には一歩も出ることができないことの反対です。
大切なことは、言われているとおりに実際にやってみることです。自分の砦の外に出て行くとき、まるで丸腰で戦場に出ていくかのような不安や恐怖心を感じるかもしれません。しかし、そのときわたしたちを神御自身が守ってくださる。そのことを確信し、またそのことに安心すべきなのです。「平和の神」とは「わたしたちを平安で満たしてくださる神」また「安心させていただける神」なのです。
今日はもう一個所の御言葉を読みました。ルカによる福音書です。わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった日に、ベツレヘムの羊飼いたちに主の御使が語った言葉です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
ここにもまた「平和」という言葉が出てきます。神の御子イエス・キリストがこの地上に来てくださいました。それは、この地上の世界に平和をもたらすためでした。ただし、御使が語っているように、その平和は「御心」すなわち「神の御心」に適う人々のところにもたらされるのです。
今日私がお話ししたことは、次のように誤解されたくはありません。教会も社会も同じであるとか、社会の人々に嫌われないように教会は敷居を低くすべきであるとか、教会か社会かそのどちらかを選ばなければならないような場面がもしあるとしたら、迷わず社会のほうを選ぶべきであるとか、そのようなことを言おうとしているわけではありません。申し上げている重要な点は、ただ一つ、わたしたちが伝道する相手は教会の外側にいるということです。教会の外側に出て行かないかぎり神の救いを必要としている人々に出会うことはありえないということだけです。
パウロはこの手紙の中にすでに書いていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。
このようにパウロが書いていることこそが、クリスマスの出来事の本質です。イエス・キリストもまた御自身の砦の中に引きこもられなかったのです。そこから出てきて、地上の人々を救う働きに就いてくださった!それがクリスマスの出来事なのです。
(2008年12月14日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年12月13日土曜日
2008年12月12日金曜日
ユトレヒト大学図書館 Universiteitsbibliotheek Utrecht
ついにオランダを去る日が来ました。月曜日から金曜日までのわずか五日間の旅程でしたが、オランダで学びたいこと、取り組んでみたいこと、私にもできそうなことはたくさんあるということがよく分かりましたが、 おそらくもう二度と行くことはできないでしょう。悲壮感というほどのことを感じたわけではありませんが、夢の限界を悟る瞬間というのはなるほどちょっぴり寂しいものだと分かりました。
オランダ旅行最後の日、石原先生とユトレヒト中央駅(Utrecht Centraal)で再合流し、最初に行ったのはユトレヒト大学の図書館でした。
我々の目当ては、同図書館内に設置されている「ファン・ルーラー文庫」(A. A. Van Ruler Archief)です。石原先生が事前にメールで閲覧許可申請を行ってくださっていたので、入館はとてもスムーズでした。
しかし、我々は「ファン・ルーラー文庫」なるものがどのような形態のものであるのかを全く知りませんでした。予想していた可能性は、せいぜい広い図書館の一角に閉架式の文庫があって、許可を得た者たちがそこに入って本を手に取ることができるのだろう、くらいのことでした。
ところが、それがとんでもない見当違いであったということに気づくのに、それほど時間は要りませんでした。まずガラス張りの部屋に通され、図書館員の厳重な監視体制のもとに置かれました。そこで、いくつかの誓約事項が記された念書にサインを求められました。一文書の閲覧時間は30分間に限られました。
そして、あらかじめ閲覧希望を予約していた文書が、図書館員の手で運ばれてきました。もちろんその手には白い手袋。文書には封筒がかけられていました。その封筒から恐る恐る取り出したのは、ファン・ルーラーの自筆ノートの切れっ端でした。
鉛筆を持つ私の右手より右側にあるのがファン・ルーラーの自筆文書です。1945年8月15日、日本が第二次世界大戦における敗戦を認め、降伏したときにファン・ルーラーがラジオ(名称は「オランダ復興ラジオ」)に出演して語った内容の元原稿です。そのタイトルは「大空に善き知らせあり」(Er zit goed nieuws in de lucht)というものでした。自由の喜びを謳歌する内容でした。
同図書館の規定に「自分の手で書き写すことや写真を撮ることは許可する」と定められていることにほっと胸をなでおろしながら、限られたわずかな時間で必死で書き写しているのが上の写真の状況です。
私の向かい側に座って仕事をしていた人もファン・ルーラーの文書を扱っていました。ただし、その方は、我々のような観光客ではなく、現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)の校正担当者(学生アルバイト)でした!
(修道士のような)ものすごい集中力をもって仕事しておられましたが、我々が話しかけると気さくに応じてくださいました。日本でファン・ルーラーが研究されているということをお伝えしましたところ非常に喜んでくださいました。このような方々の努力に対して我々は日本語版『ファン・ルーラー著作集』の実現をもって応えなければならないと心に誓いました。
石原知弘先生 Ds. Tomohiro Ishihara
感動と興奮冷めやらぬフローニンゲンに後ろ髪を引かれながら、再びフローニンゲン駅に戻り、レーワルデンまで電車に乗り、レーワルデンから自動車でアペルドールンの石原家まで帰りました。
丸一日のドライブでお疲れ気味のお父さんと、変なおじさんを温かく迎えてくれたのが石原家の若き美人姉妹でした(写真)。
子どもさんたちはすでにすっかりオランダ生活に慣れておられるご様子で、オランダ語の歌をうたってくださいました。夜遅い時刻になっていましたのに、ご夫人手作りの夕食までいただいてしまい(五つ星の美味しさでした!)、生涯の思い出になりました。ありがとうございました。
その後はアペルドールン駅まで自動車で送っていただき、石原先生とその日はお別れ。アペルドールン駅からアムステルダム中央駅まで電車に乗り、アムステルダムのホテルに戻りました。
フローニンゲン Groningen
この日は、朝早くアペルドールンを出発し、カンペン、フラネカーと、ひたすら北上してきました。石原知弘先生の運転するフォルクスワーゲンゴルフに乗せていただいて、石原先生ご自身が綿密に計画してくださったルートに従って、すべて順調に事が運びました。
そして、レーワルデン(Leeuwarden)という町に駐車し、駅から電車に飛び乗り、オランダの北の最果て、フローニンゲンを目指しました。フローニンゲンに到着したときにはすでに日が暮れていました(上の写真はフローニンゲン駅前)。
いま「フローニンゲン」と書きました。外国の地名や人名のカタカナ表記にはこれまでも難儀してきましたが、この「フローニンゲン」も悩みの種でした。日本では「グロニンゲン」と書く人もいます。しかし、現地に行ってみて分かったことは、これをカタカナ表記することは至難の業であるということでした。
レーワルデンからフローニンゲンまでの電車の中で聞いた車掌のアナウンス(録音かコンピュータ音声かもしれません)に驚きました。Groningenと言ったらしき声を私が聞いたままに表記するとしたら「フローニエン」です。しかも、「ロー」のあたりにアクセントがあり、そこだけははっきり聞こえるのですが、最初の「フ」と後半の「ニエン」のあたりはよく聞こえません。メゾピアノでふわっとフェードインしてきて、「ロー」だけはっきり聞こえて、すぐにフェードアウトしていくように発音されていました。
これをどんなカタカナで書けるというのでしょうか。翻訳者たちは自説をなかなか譲りませんが、これはお互いに我慢するしかなさそうだなあと痛感しました。
さて、フローニンゲンに来た目的は、もちろん「フローニンゲン大学」(Rijksuniversiteit Groningen)です。ファン・ルーラーが卒業した神学部を擁する大学です。フローニンゲン駅から徒歩10分くらいだったでしょうか、巨大なゴシック式の本部棟に着きました。
本部棟の中にも、外にも、前の通りにも、学生や教授らしき人々がたくさんいましたが、日本からの珍客はそういうことをあまり気にせずに、ズカズカと本部棟の内部に入って行きました(写真は日中の本部棟正面。Wikipedia「フローニンゲン大学」より転載させていただきました)。
そして、正面入り口から入ってすぐのところに大きな階段がありましたので、登ってみましたところ、なんと、「神学部」(Faculteit van Godgeleerdheid)という字が刻まれた古めかしい木彫りの看板がかかった扉を見つけることができました。
まさにここです!ファン・ルーラーがかなり苦学して辿り着いたとされる最高学府の建物の中にいるのかと思うと、なぜかちょっとした武者ぶるいが襲ってきました。ファン・ルーラーの在学当時、ここで教えていた人々の中には、『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』や『中世の秋』の著者として世界的に有名なホイジンガもいました。ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という概念を好んで用いたことの背景にホイジンガの影響があると見ることは、何ら不自然ではありません。
また当時の神学部には、オランダで初めてカール・バルトの神学を研究・紹介したテオドール・ハイチェマがいました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師だったときにすでにファン・ルーラーと出会っていましたが、この地で再会し、さらにファン・ルーラーの学位論文(神学博士号請求論文)の指導教授まで引き受けた人物です。
本部棟の向かい側にきわめて近代的なビル(本部棟とは全く対照的!)の「図書館」がありましたので、ちょっとだけ中に入ってみましたが、本当にちょっとだけでした。
フローニンゲンの「大教会」(Grote Kerk)も、外から見ただけですが、とにかく素晴らしいものでした。二人ともちょっとお腹がすいたので、「大教会」の前の広場に面したところにあったハンバーガー屋(だったと思う)の自動販売機で「フライドポテト」を購入し、それを食べながら、またしばらく「大教会」に見惚れていました。立ち去りがたい思いを抱きながら。
石原先生が言われた次の言葉には、大いに共感しながら聞きました。
「ぼくはこれまで、オランダでいちばん美しい町はユトレヒトとライデンのどちらか、またはどちらもだと思ってきましたが、今日からフローニンゲンが加わりました。これはいい!」
こんな感じでかなりハイテンションな我々でしたが、日付が変わらないうちに帰宅するためには(私はアムステルダムのホテルに、石原先生はアペルドールンの滞在先に)、フローニンゲンに長居することはできませんでした。
2008年12月11日木曜日
フラネカー Franeker
クバートの次に訪れたのはフラネカーでした。上の写真は、いつもインターネットを通じてお世話になっているフラネカーの古書店Antiquariaat Wever van Wijnen の前で撮りました。
フラネカーはオランダの最北部、フリースラント地方に位置する小さな町ですが(この日も寒かった!)、17世紀の錚々たる改革派神学者、ウィリアム・エイムズ(アメシウス)、ヨハネス・コクツェーユス、ヘルマン・ヴィトジウスらとの関係が深い町です。
フラネカーの「大教会」に大学が置かれ、そこでエイムズが教えていました。そのエイムズのもとでコクツェーユスが学びました。エイムズはフラネカーに1622年から1633年まで滞在した後(1626年には学長職)ロッテルダムに移りましたが、風邪を患いその年に亡くなりました。エイムズが去った後のフラネカーには1636年から1650年までコクツェーユスが滞在し、ヘブライ語と神学を教えました。コクツェーユスは1650年以降はライデン大学神学部で教えるようになりましたが、少し時を置いた1675年から1680年までの5年間、今度はヴィトジウスがフラネカーで神学を教えました。
神学の世界、とくに教理史の講義などでは、エイムズ、コクツェーユス、ヴィトジウスと言えば「契約神学」(Federal Theology)の一言で括られ、この神学の特徴(善し悪し)が手早く紹介されることになっています。しかも、カルヴァンの神学を正統的に継承したというよりも、行き過ぎや逸脱があったというふうに教えられることのほうが多い実情です。
しかし、結論を急ぐなかれ。我々は17世紀の改革派神学者たちのことをほとんどまだ何も知りません。言論の自由は保障されています。批判することも自由です。しかし、何を言うにしても、彼らの書いた本の中のわずか一冊でもきちんと読んでからのほうがよいのではないでしょうか、と申し上げておきます。
クバート Kubbard
いよいよクバート。この町にはファン・ルーラーがフローニンゲン大学神学部卒業後、最初に牧会した「クバート教会」 があります。
クバート教会に到着。カンペンの「大教会」(文字通りの「大」教会)を見た後ですのでクバート教会の建物は小さく見えましたが、規模はともかく、たたずまいはなかなか立派なものでした。
クバート教会の歴史を記した看板。そのうちきちんと全訳したいと思いますが、書かれていることは教会の歴史というよりは、紀元前500年頃から2500年間(!)に及ぶ町の歴史です。「この地に教会が立ったのは西暦1275年のことであるが、現在のゴシック式建築のものになったのは西暦1500年のことである」と書かれています。
クバート教会の内部。鍵がしまっていたので入れませんでしたが(勝手に入ると不法侵入)、ここで若きファン・ルーラーが説教をしていた様子を思い巡らしながら、窓の外からパチリ。
クバート教会の境内に立っている墓碑。前列右のFrans TJ. Robijn氏が亡くなられた日「1938年5月17日」にはファン・ルーラーがこの教会の牧師でしたので、葬儀から納骨までのすべてをファン・ルーラーが行ったものと思われます。
「墓碑が教会の境内にあるのは良いことだなあ」と思いながら。
カンペン Kampen
カンペンの町の入り口
オランダ改革派教会解放派(Vrijgemaakt)のカンペン神学大学
オランダプロテスタント神学大学カンペン校(元カンペン神学大学)
オランダプロテスタント神学大学カンペン校講堂
カンペン大教会(Grote Kerk)
アペルドールン Apeldoorn
11日(木)は午前6時起床。朝食バイキングが始まる7時よりも前にホテルを出、トラムに飛び乗りました。そして7時半頃にはアムステルダム中央駅から電車に乗り、一路アペルドールンへ。アペルドールン駅前で石原知弘先生と待ち合わせ。石原先生が運転する自動車に乗せていただいて、オランダの東北地方に向かうためです。
■ アペルドールン
アペルドールン市(Gemeente Apeldoorn)は、神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が、生まれてから大学に入学する直前まで住んでいた、まさにこの神学者ゆかりの地です。現在石原先生が学んでおられるアペルドールン神学大学がある市でもあります。
駅から直行したのは、アペルドールン神学大学(Theologische Universiteit Apeldoorn)です。我々が訪ねたときは学生会の設立記念日のパーティーが行われている最中でした。来日講演をしてくださったことがある旧約聖書学者H. G. L. ペールス教授が我々を歓迎してくださり、神学生や近隣の教会の牧師たちと共に、30分くらい親しくお話しすることができました。
ペールス先生はファン・ルーラーがアペルドールン出身であることをご存知なかったらしく、我々の調査に深い関心を寄せてくださり、喜んでくださいました。神学生の一人は私の顔を見るなり、ニヤニヤ笑いながら「昨日アムステルダム自由大学でスピーチした人でしょ?」。私のことを覚えていてくださり、「出席しておられたのですか?」「ええ、行ってましたよ」という話から始まって、いろいろと盛り上がり、意気投合しました。別れ際、ペールス先生は御自身の最新著をプレゼントしてくださいました。最後の最後に「韓国(Korea)の(?)教会の皆様には、くれぐれもよろしくお伝えください!」とおっしゃいました。とても優しい先生でした。
国際カルヴァン学会のH. J. セルダーハイス会長も、この神学大学の教授です。セルダーハイス教授の姿を窓越しにちらっと見かけたので御挨拶したかったのですが、日が暮れるまでに計画したすべてを実行するためには時間が足りそうもないことが判明しましたので、先を急ぐことにしました。
その後、神学大学の裏というかすぐ隣にあるアペルドールン・ヒムナシウム(Apeldoorn Gymnasium)を見学しました。ヒムナシウム(ギムナジウム)は、大学入学前の準備教育を行う超難関校です。ファン・ルーラーはこのヒムナシウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部に入学しました。ヒムナシウム時代のファン・ルーラーは数学、とくに「立体幾何学」が得意であったと伝えられています。校門の柱にAnno 1813(西暦1813年)と刻まれている歴史的建造物は、今も現役で用いられています。学校の前をうろつく二人の東洋人がよほど珍しかったようで、ヒムナシウムの生徒たち(とくに女の子たち)が窓の中から我々に笑顔を向け、手を振ってくれました。
次に向かったのはアペルドールンの「大教会」(Apeldoorn Grote Kerk)です。アペルドールン教会は、ファン・ルーラーが両親や兄弟と共に(彼は長男でした)幼い頃から通っていた教会です。彼の小児洗礼式と信仰告白式は、この教会で行われました。信仰告白に際しての教理問答教育(catechisatie)は、当時この教会の牧師であったTh. L. ハイチェマが行いました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師を辞任後、フローニンゲン大学神学部の教授になりました。アーノルト少年への教理問答教育には、オランダ改革派教会の伝統に則ってハイデルベルク信仰問答が用いられました。
ただし、今書いた説明は、これまで日本で読んできた書物から得たものです。ところが、今回の調査で、いくらか複雑な事情がありそうだと分かりました。
ペールス先生が、次のように教えてくださいました。ハイチェマが牧師をしていたとき(1918年~1923年)のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、略称NHK)は、アペルドールンに二つあったそうです。「大教会」(Grote Kerk) と「ヨハネス教会」(Johannes Kerk)です。しかし、後者「ヨハネス教会」は今から数年前に取り壊されました。また、1970年代ないし80年代頃までのNHKの牧師は、個別の教会に赴任するのではなく、複数の牧師で複数の教会を担当していたそうです。そのため、ファン・ルーラーとその家族が「大教会」のほうに通っていたか、それとも「ヨハネス教会」のほうに通っていたかを特定することは、「ハイチェマが牧していた教会である」という情報だけでは無理だということです。別の情報を得られるまでは、それは「大教会」(Grote Kerk)のほうであった「可能性がある」と書くのがより正確だということです。
やはり現地に行かねば分からないことがたくさんあるなあと思わされました。
2008年12月10日水曜日
国際ファン・ルーラー学会でのスピーチ全文
パネラー席の右端がヘリット・イミンク先生です |
後ろの時計の針は「午後4時50分」を指していました |
「国際ファン・ルーラー学会」(2008年12月10日、オランダ・アムステルダム自由大学講堂)で行った私の英文スピーチの内容は、以下のとおりです。
原稿にありませんでしたが、冒頭にアドリブで「現在日本は午前1時50分です。私の就寝時刻です」というジョークを加えました。どっと受けました。時差ネタはハズレません。
最後の「国際ファン・ルーラー学会極東支部のつもりで」というくだりも計算どおり爆笑をいただきました。「国際ファン・ルーラー学会」というのはこの日限りのもので永続性のないものだと、もちろん分かっていましたので、あえて言いました。「極東」(Far East)という言葉は、欧米の方々への敬意です。
人生初のオランダで、2度も爆笑いただけて、本当にうれしかったです。
スピーチ冒頭の動画(You Tube)
オランダ日報Nederlands Dagbladの記事
■ 日本からのメッセージ/関口 康
このたびは、日本におけるファン・ルーラー研究の様子をお知らせする機会を与えていただきましたことを、心より感謝申し上げます。
私は関口康と申します。日本のファン・ルーラー研究会の代表者であり、日本キリスト改革派教会の牧師です。
感謝すべきことはたくさんあります。なかでもたいへん光栄に思っておりますことは、新しい『A. A. ファン・ルーラー著作集』の第一巻の「序」の中で(53ページ)、ディルク・ファン・ケウレン先生がわたしたちのグループの存在を国際的に紹介してくださったことです。
わたしたちはまさに小さなグループです。設立は1999年2月です。現在のメンバーは100名強です。わたしたちは「大学を場とする神学者」ではなく、「教会を場とする神学者」です。
わたしたちのやり方は、メーリングリスト上のやりとりで翻訳を進めることです。また1、2年に一度のペースで神学セミナーを行い、互いに励まし合ってきました。この秋から日本の有力な季刊誌(季刊『教会』)にわたしたちの翻訳の連載が開始されました。最初の論文は「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」です。
研究会設立当初から立ててきた目標は、日本語版『ファン・ルーラー著作集』を出版することです。もちろんわたしたちは欧米やアフリカその他の教会とはコンテキストにおいて大きな違いがあることを知っています。しかし、わたしたちなりのコンテキストの中でファン・ルーラーを読むことの意義を感じています。
2009年に日本のプロテスタンティズムは宣教150周年を迎えます 。しかし、現在の日本のキリスト教人口は国民の1パーセントを超えていません。
そのような状況の中でファン・ルーラーの神学は、世界と向き合う勇気をわたしたちに与えてくれます。ファン・ルーラーは、キリスト者が社会性を欠く宗教マニアのようなものであることを許してくれないでしょう。彼は教会と社会との両方にバランスよくかかわることの必要性を強く主張しました。
「教会の信頼回復」と「キリスト教宣教の進展」は、表裏一体です。「教会を場とする神学」において、この問題は重要な意義をもっています。
わたしたちは「国際ファン・ルーラー学会極東支部」のつもりで、これからもファン・ルーラーのテキストに取り組んでまいります。今後ともどうかよろしくお願いいたします。
■ MESSAGE FROM JAPAN/ Yasushi Sekiguchi
Greetings! Thank you for giving me this opportunity to introduce the research about Van Ruler that we are doing in Japan. My name is Yasushi Sekiguchi. I am the chairperson of the Japanese Van Ruler Translation Society and a pastor of the Reformed Church in Japan. There are many things for which I am grateful. For one thing, we were very honored that Dr. Dirk van Keulen introduced our group, the Van Ruler Translation Society, to the international community in de Inleiding van de Verzameld Werk van prof. dr. A. A. van Ruler (deel 1, p. 53) !
Our very small group was established in February 1999. We have grown to over 100 members. We do not do our theological research in an academic setting, but we are theologians who work in local churches.
We operate by sharing our Japanese translations of Van Ruler’s texts with those on our mailing list. In addition to this, we encourage each other by sponsoring symposia and conferences every one or two years. Beginning this fall, our translations will start to be published serially in a well-known quarterly journal in Japan. The first translation is “Structure differences between Christological and Pneumatological perspectives.”
From the beginning, the goal of our society is to publish a Japanese version of the collected writings of Van Ruler. Of course we realize that there are great differences in the context of the churches in Europe, America and Africa, and so forth, but we think there will be great significance to read his texts in our Japanese context.
In 2009, we will mark the 150th anniversary of the arrival of Protestant Christianity in Japan. But even now, Christians in Japan number less than 1% of the population. In this situation, Van Ruler's theology gives us courage to face the world. He would not allow us Christians to become religious maniacs obsessed with the other world and who forget their place in society. I believe his theology is so significant because he maintained this balance and taught the need for Christians to be engaged in both religious and secular environments. Restored trust in the church and increased impetus to mission endeavors go together. For those of us doing theology in the local churches, this teaching is highly significant.
We who consider ourselves the Far East Branch of the International Society of Van Ruler Research desire to continue to wrestle with Van Ruler’s writings. We are grateful for your help and encouragement. Thank you very much!
国際ファン・ルーラー学会 Internationaal Van Ruler congres
国際ファン・ルーラー学会が無事終了しました。出席者は約200名(オランダ日報Nederlands Dagblad誌の発表)。アムステルダム自由大学の講堂(auditorium)がほぼ満席でした。ファン・ルーラーへの関心の高さをはっきりと知ることができました。日本人の出席者は石原知弘先生(アペルドールン神学大学修士課程)、青木義紀先生(オランダプロテスタント神学大学修士課程)、私の三人でした。私のスピーチは最後の最後でした。スピーチの前にイミンク先生(オランダプロテスタント神学大学総長)が私のことを紹介してくださいましたので、和やかな雰囲気の中で落ち着いて話すことができました。応援してくださった皆様に心より感謝いたします。学会終了後、メインスピーカーのユルゲン・モルトマン先生と午前の部の全体講演(plenair)の進行役のM. E. ブリンクマン先生(アムステルダム自由大学神学部教授、組織神学者)が記念撮影に快く応じてくださいましたので、パチリ、パチリ。
特設サイト
フォトアルバム
スピーチ冒頭の動画(You Tube)
スピーチ全体の音声
スピーチ全文
オランダ日報Nederlands Dagbladの記事
2008年12月9日火曜日
アムステルダム中央駅 Amsterdam Centraal
■ アムステルダム
アムステルダム中央駅に戻り、駅前からトラムに乗ってホテルに帰ろうとしましたが、そこでトラブル発生。乗るべきトラムの路線を間違えてしまったようでした。来た道とは異なる風景が見えはじめ、これはヤバいと、とにかく降りました。全く未知の外国で迷子になるところでした。ガイドブックの地図を見ても、よく分かりません。そこからうろうろ歩くこと約一時間。やっと見つけたのが、昨日最初に訪ねたアムステルダム自由大学の看板でした。「これでホテルに帰れる!」と、ほっとしました。
うろうろ歩いている最中に、Sushi Kingsという店を見つけて驚きました。「寿司屋」でした。ガラス越しに中を見るかぎり、店員に日本人は一人もおらず、全員オランダ人らしき若い男女が寿司を握ったり、包丁を洗ったりしていました。
「日本の寿司と味が違うのではないかなあ。東京で『広島お好み焼き』とか『沖縄ソウキそば』とか言って売っているのは現地の味と全然違うのと同じように」というなんとも微妙な興味を抱いてしまったので、夕食はすでに済んでいたのですが(石原先生のおくさまが作ってくださったおいしいサンドイッチでした)、ついお持ち帰り用のを一つ買ってしまいました。しかも値段は、日本の「小僧寿し」なら500円くらいで買えそうなのが、なんと18.5ユーロ(約2,300円)。「これだけ払って味が全く違っていたら怒るからね」とブツブツ言いながら、sushiをぶらさげてホテルに帰り着きました。
そして最初の一つを口に入れたところ、「おお、なんと、これは『寿司』だ!」と、そのおいしさに感動しました。その店は宅配(デリバリー)もしているとのこと。店には日本酒なども売っていました(買いませんでしたが)。
以上、親友の石原先生と共にユトレヒトにもヒルファーサムにも行くことができ、親切な牧師と教会が大好きな子どもたちに出会うことができ、おいしい寿司まで食べることができた一日でした。明日は「国際ファン・ルーラー学会」本番です。
ヒルファーサム Hilversum
■ ヒルファーサム
ヒルファーサムは、ファン・ルーラーが牧師として働いた教会がある町です。しかし我々は、それがヒルファーサムのどの教会なのかを特定できずにいました。それでとりあえず、その町で最も古く最も大きな教会である「大教会」(Grote Kerk)に行きました。
しかしそれが本当にファン・ルーラーが牧会した教会であるかどうかに確信が持てませんでした。「これかなあ?たぶんこれだよねえ。でも、分からないねえ。これだってことにしておこうか?(苦笑)」とか言いながら建物の周囲を二人でうろついていたところ、教会前に駐車していた自動車から出てきた若い男性が我々に気づいて声をかけてくださいました。それがなんと「大教会」の牧師でした!(ただし「パートタイムの」牧師であるとのこと。その方曰く、現在「大教会」は主任牧師がおらず、探しているとのことでした。)
これはラッキーと、その先生にこの教会とファン・ルーラーの関係を質問したところ、「それはこの教会ではなく、別の教会です」と教えてくださいました。そして「じつは今から30分くらい子どもたちにカテキズムを教えなければならないので、もし終わるまで待ってくださるなら、自動車でその教会まで連れて行ってあげますよ。ちょっと遠いので、徒歩で行くのは無理だと思いますので」と言ってくださいました。驚くやら喜ぶやら。二人で小躍りしました。
教会の一室に通していただいて待つこと30分。その先生が我々のところに戻ってこられ、「子どもたちが日本からのお客さんに興味を持っているので、会ってもらえませんでしょうか」とのこと。これまた大喜びで了解しました。カテキズム教室に集まっていたのは10名ほどの中学生でした。男の子も女の子もいました。我々を興味津々の目で見つめ、「日本にはどれくらいクリスチャンがいるのか。多いのか少ないのか」とか「あなたたちはこれから牧師になるのか、それともすでに牧師なのか」など質問攻めに会いました。
子どもたちと別れる前に、その牧師がオランダ語でお祈りしてくださいました。最後に私が「皆さんは教会が好きですか」と尋ねたところ、一人の女の子がニコニコしながら「ハイ!」と大きな声で答えてくれました。
その後、先生の自動車で目的の教会(Hilversum Diependaarse Kerk)に移動しました。移動中も突然の訪問客に対してとにかく親切に何でも教えてくださいました。曰く、「大教会」(Grote Kerk)とファン・ルーラーが働いていた「ディーペンダール教会」は、同じオランダプロテスタント教会(Protestantse Kerk in Nederlands)に属しているものの、前者がConfesioneel(信仰告白派)という正統的なグループに属しているのに対して、後者はリベラルである。しかし、ファン・ルーラーは「大教会」のほうでも説教していた。ファン・ルーラーは、教会員から「説教が難しすぎてついて行けない」と批判されていた。私(その先生)はファン・ルーラーを偉大な神学者であると思っている、などなど。「現在ヒルファーサムには、いくつくらいの教会(プロテスタントとカトリックとを合わせて)がありますか?」という私の質問に対しては、少し考えて「20くらいですね」と答えてくださいました。その後、その先生はヒルファーサム駅まで我々を送ってくださいました。
石原先生とも明日に備えてヒルファーサム駅でお別れ。時刻はすでに午後6時。あたりは真っ暗でした。
ユトレヒト Utrecht
今朝は7時に起床。8時にホテルで朝食を食べました。一応セルフバイキング形式でしたが、予想どおり、パン、ハム、チーズ、コーヒーのみの(あとは何もない)朝食でした。その後一時間ほどかけてメールの返事を何通か書き、10時にホテルを出発。雨が降っていたのでホテルのフロントで傘を借りました。
■ ユトレヒト
トラムに乗って約15分でアムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal)に着き、そこからユトレヒト中央駅(Utrecht Centraal)まで約30分。そこから徒歩で10分のところにあるドム教会(Dom Kerk)に行きました。ドム教会の前で、9月から留学中の石原知弘先生が待っていてくださいました。石原先生は午前中ユトレヒトの語学学校で勉強。午後から私に付き合ってくださいました。
最初にドム教会の内部を見学。ドム教会は、とにかく巨大で荘厳な建物でした。なかでもとくに驚いたことは、説教壇(Kansel)と聖餐卓(Abondmaal tafel)とが会衆席をはさんで対極の位置に置かれていたことです。両者は20メートルほど離れており、そのような贅沢というか優雅な建物の使い方をしていることに驚き、また羨ましく思いました。
その後、ドム教会の隣にあるユトレヒト大学(Universiteit Utrecht)の旧校舎に行きました。ファン・ルーラーが講義を行っていた場所です。古い建物の中には似つかわしくない感じの電光掲示板があり、今日の予定が映し出されていました。三名の博士号授与式(promotie)と授与者祝賀会(receptie)が行なわれる予定だったようで、我々が訪ねたときはそのうち一名の祝賀会が行われている最中でたいへん賑やかでした。白い蝶ネクタイをしたにこやかな若い男性と廊下ですれ違いましたので、たぶんその人が今日まさに「博士」(doctor)になられたのでしょう。
ドム教会の次は、徒歩7分くらいのところにあるヤンス教会(Jans Kerk)に行きました。大学教授時代のファン・ルーラーが家族揃って通っていた教会です。昨年9月に『ファン・ルーラー著作集』第一巻の出版感謝祝賀会が行われたのもヤンス教会でした。ヤンス教会の中に、1980年代に考古学者によって発掘された昔の墓がガラスのケースに入れられて飾られていました。ヤンス教会を出たところ、興味深いことに、教会のすぐ前にアンネ・フランクの像が立っていました。「なぜユトレヒトにアンネさん?どういう関係なんだろうねえ」と石原先生と顔を見合わせて考え込みましたが、彼女のことをよく知らないので分かりませんでした。『アンネの日記』を読み直してみたくなりました。
その後、ユトレヒトの繁華街を散歩しました。昼食はフライドポテト(だけ)で済ませました。それからユトレヒト中央駅に戻り、そこから電車でヒルファーサム(Hilversum)に向かいました。
アムステルダム Amsterdam
8日(月)7時30分に小田雅也長老が牧師館まで迎えに来てくださり、八柱駅まで送ってくださいました。八柱駅から新京成線に乗り、京成津田沼駅で成田空港まで行く特急に乗り換えました(京成の「成」は成田の「成」だったのかと初めて知りました)。成田空港には10時に到着。千葉銀行成田空港支店で円をユーロに両替。チェックインもボディチェックもスムーズでした。日本航空411便は定時に出発、12時間のフライトを経てアムステルダムに無事(これもみごとに定時に)到着しました。航路はロシア上空、高度1万メートルをシベリア方面にカーブしながらもほぼまっすぐに進んで行くものでした。エコノミークラスの三人掛けのシートでしたが、同じシートには私しかいなかったのでゆうゆうと使うことができました。フライトの間は退屈だろうとそれだけを憂鬱に思っていましたが、それは昔の話だと分かりました。座席前に各個人用のテレビが備わり、それで映画を鑑賞したり、音楽を聴いたり、ゲームをすることができました。映画は立て続けに四本も見てしまいました。「ハンサム☆スーツ」(主演 塚地武雅)という映画には、他人事ではない話に思えて感動しました。機内食は三食ありました。けっこう美味しく食べました。
スキポール空港には、たいへん心強いことに、野村信先生(東北学院大学教授、アムステルダム自由大学客員研究員)が迎えに来てくださいました。野村先生の案内で今週水曜日に「国際ファン・ルーラー学会」(Internationaal Van Ruler Congres)が開催されるアムステルダム自由大学をさっそく見学しました。講堂(auditorium)の前に飾られた初代学長アブラハム・カイパーの像を見ることができました。夕食は野村先生と一緒に自由大学の学生食堂で食べました。5ユーロほど払ったとき、レジの若くて美しい黒人の女性が「モヘラック!」(Mogelijk!)とおっしゃって私の顔を見てニコッと笑ったので、野村先生に意味を伺いましたら「『たくさん食べてね』というくらいの意味でしょう。フランス語のボナペティ!(Bon appetit! どうぞ召し上がれ!)と同じようなことです」と教えてくださいました。夕食後、自由大学の図書館(bibliotheek)や書店コーナー(boekhandel)も見に行きました。書店には興味深い本が並んでいましたが(ほとんどがオランダ語のものです)、衝動買いを抑えて抑えて。その後、トラム(路面電車)でホテルまで行きました。トラムの乗車方法からホテルのチェックインまですべてを野村先生が助けてくださいました。寝室は古いですが、こざっぱりした、とてもいい感じです。同じ部屋で四泊します。