2005年10月30日日曜日

「ともし火をともしていなさい」

ルカによる福音書12・35~48



今日の個所は、時間的にも内容的にも先週の個所に続いております。そうであるならば、イエスさまが「弟子たちに」(12・22)語られた説教の続きであると、読むことができます。



「『腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい』」。



このようにイエスさまが弟子たちにお語りになりました。語られているのは二つのことです。



第一は「腰に帯を締めなさい」です。



第二は「ともし火をともしていなさい」です。



この二つのことは、ひと続きに語られていることではありますが、今日は一応区別して考えておきます。



第一に語られていることは「腰に帯を締めなさい」です。これは明らかに、昔のユダヤ人たちがエジプトから脱出して、約束の地カナン(現在のパレスチナ地方)に移住した、あの出エジプトの出来事を連想させる言葉です。出エジプト記には、次のように記されています。



「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。・・・それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。・・・それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(出エジプト記12・2〜11)。



これで分かることがあります。昔のユダヤ人たちは、腰に帯を締めて、それで何をしたのかと言いますと、肉を焼いて食べたのだ、ということです。



そのようにして腹ごしらえをしました。そして、その後、出エジプトの旅に出かけたのです。つまり、腰に帯を締めて肉を食べたのは、彼らの旅支度のためでした。



このことから、ある人は、ここでイエスさまが弟子たちに向かって語っておられるのは「新たなる出エジプト」の勧めである、と解説しています。そのとおりであると、わたしも思います。



しかし、それでは、イエスさまの弟子たちは、何から、あるいは、どこから、脱出するのでしょうか。



この問いの答えとして考えられるのは、先週学んだ個所に記されていた事柄です。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(12・22)です。この種のことで思い悩むことそれ自体からの脱出、生活上の不安や恐れからの脱出です。



昔のユダヤ人が腰に帯を締めたのは、丈の長い服がだらだらして足もとにまとわりつくのを防ぐべく、腰のあたりで服を縛り、歩きやすくするためでした。



つまり、その目的は、ただ一つ、歩くためです。前に進んでいくためです。もはや後ろを振り向かない、という決意表明でもあります。邪魔になるものを、できるだけ整理し、取り除くためです。



ですから、それはちょうど、たとえばわたしたちが「さあ、これから力仕事をしよう」というときに、腕まくりをするようなものです。せっかく朝早く起きてアイロンをかけたワイシャツであっても、腕まくりしてしまえばクシャクシャです。



それでもよい、否、そうしなければならない場面が、わたしたちの人生は、いつか必ずあるわけです。



たとえば、の話です。自分の子どもが川に落ちて、おぼれている。それを親である者が「自分の服が汚れるから」という理由で助けない、ということが、ありうるでしょうか。



そんなことは、あるはずがない。あってよいはずがありません。



第二にイエスさまが語られているのは「ともし火をともしていなさい」です。



そして、これに続く36節以下の個所で、イエスさまが、この「ともし火」とは何のともし火なのか、「ともし火をともす」とはどういう意味なのかということを、説明しておられるのです。



「『主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばにいて給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。』」



これは、たとえ話です。このたとえ話の中で、イエスさまが描き出しておられるのは、結婚式の終わった後の場面です。



わたしがとくに興味深いと感じるのは、このたとえ話には、新郎も新婦も出てこないことです。登場するのは、新郎または新婦の友人です。その人が「主人」と呼ばれています。



その主人が、友人の結婚式の席から帰ってきて戸を叩く。そのときに、家のともし火をともしていて、戸をすぐに開けることができるように、主人の帰りを待っている人のようでありなさいと、イエスさまが弟子たちに語っておられるのです。



どうしてでしょうか。それを理解するためのポイントは、この主人が結婚式から帰ってきたばかりの人である、ということでしょう。



普通に考えてみて、当然、この主人は、美味しいものを食べて、あるいはおそらく少しお酒なども入っていて、とても幸せな気分で帰ってきているはずです。



ですから、この主人は、たいへん上機嫌です。だからこそ、と言えるでしょう。主人が家に帰ったときに、家の戸の鍵が開いていて、明かりもついていて、家のみんなが待ってくれていた、という場合には、どうなるか。



イエスさまのご説明によりますと、その主人は、なんと気前のよいことに、自分で帯を締めて、自分の帰りを待っていた人々に、「さあさあ、お前たちも食べなさい」と鼻歌でも歌いながら給仕してくれるのだ、というのです。



逆のことも考えておくべきでしょう。帰ってきたとき、戸の鍵が閉まっている、明かりは消えている、家の人はすっかり寝静まっているという場合には、どうなるか。そのときには機嫌が悪くなる。そういうことも考えられるわけです。



身勝手といえば、こんな身勝手な話は、他にないほどです。そんなふうに、自分の気分次第で生きられては、困る。はなはだ迷惑であるとお感じの方もおられるでしょう。



しかしまた、これこそ現実の人間の姿であり、わたしたち自身のありのままの姿である、と感じてくださる方も、おられるのではないでしょうか。



ただし、ここでよく注意しなければならない点があります。それは、このたとえ話の中に登場する、この「主人」とは、明らかに、まさにこのたとえ話を語っておられるイエスさまご自身のことである、という点です。これは忘れられてはならないことです。



「『家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」



ここで「あれ?」と思われる方もおられるでしょう。話の内容が、かなり変わってきています。思いがけない時に来るのは「泥棒」なのか、それとも「人の子」なのかということも、なんとなく不明です。



この話を聞いている弟子たちも、話の中身が、よく分からなくなってきたのではないでしょうか。それで、ペトロが次のような質問をしたのだと思います。



「そこでペトロが、『主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか』と言うと、主は言われた。」



イエスさまの答えは、以下のようなものでした。しかし、あまりきちんとした答えではありません。どこを読んでも、ペトロの質問に対する直接的な答えが、見当たりません。はぐらかされているような感じさえしてきます。



「『主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。』」



ここでイエスさまが何を語ろうとしておられるかを理解するためのキーワードは、二つあると思います。



第一のキーワードは、「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」という中の「〔主人の〕言われたとおりにしている」です。



第二のキーワードは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」という中にある「主人の思いどおりにしなかった」です。



ここに二人の僕が登場します。一人目は、主人の言われたとおりにして、主人から信頼され、全財産を管理するという大きな仕事を任されることになった、幸せな僕です。



二人目は、主人の思いどおりにしなかったので、ひどく鞭打たれる僕です。この二人の僕の違いは、明白です。



ただし、注意しなければならないと感じることがあります。それは、「主人に言われたとおりにすること」と「主人の思いどおりにすること」とは、いくらか違うことではないか、ということです。



「主人に言われたとおりにすること」とは、主人が実際に口に出して語った“命令”に服従する、という意味でしょう。



しかし、そのことと、主人の心の中の“思い”を理解し、そして、その主人の“思い”どおりにする、ということは、区別されなければならないことであり、「言われたとおりにすること」を越えたことであり、またそれよりも深いことであると思われます。



イエスさまが弟子たちに求めておられることは、絶対服従ではありません。強制労働ではありません。そのような重苦しく、堅苦しいことであるかのように理解されるべきではありません。



むしろ、求められていることは、イエスさまの御心をよく知る、ということです。逆に言えば、イエスさまの御心をよく知る者、よく知ろうとする者こそが、イエスさまの弟子である、ということでもあるでしょう。イエスさまがペトロの質問に直接お答えになっていないのは、このことを分からせようとしておられるからではないでしょうか。



そして、イエスさまの御心の本質は、喜びです。なぜなら、この主人は、結婚式の喜びの祝宴から帰って来て、みんなをエプロン姿で喜ばせてくださる、そういうお方であると言われているのです!



わたしたちにとって、最も重要なことは、このお方の喜びを十分に知りつくし、味わいつくすことです。そのために必要なことは、何でしょうか。



一言で言えば、たくましい想像力です。よく考えることです。頭と心を、十分に用いることです。そのようにして、わたしたちが十分かつ不断に用いて主の御心はどこにあるのかを豊かに思いめぐらし、理解し、そして信じることです。



そのことこそが、今日の最初に出てくる、「ともし火をともしていなさい」という御言葉の真意なのです。



(2005年10月30日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年10月23日日曜日

「小さな群れよ、恐れるな」

ルカによる福音書12・22~34



これは、わたしたちの救い主イエス・キリスト御自身の御言葉です。「イエスさまの説教」と呼ぶこともできます。



イエスさまは、この説教の中で、いったい、何を言おうとしておられるのでしょうか。この説教の核心部分は、どこにあるのでしょうか。



みなさんには、ぜひ、今日の個所を繰り返して読んでいただきたいと願っております。しかし、おそらく、引っかかりをお感じになるところが、たくさんあるだろうと思います。



わたしにもあります。どうしても引っかかってしまう第一の点をズバリ語ることは難しいのですが、要するに、カラスだの、野原の花だの、草などと、このわたしを、どうか比較しないでください、と言いたくなる、ということです。



わたしは人間だ、と言いたくなります。イエスさまが語っておられることは、まるで、思い悩んでいる人はカラスよりも劣っている、草よりも花よりも劣っている、と言われているかのようです。



引っかかってしまう第二の点は、実際のわたしたちが、ここでイエスさまが持ち出されているような問題に、全く思い悩まなくて済む、というようなことがありうるだろうか、と問いたくなる、ということです。



わたし自身のことを考えてみますと、こういうことであまり思い悩まなくて済んでいたのは、今から10年くらい前までだったように思います。30才くらいまでです。すでに結婚はしておりましたが、子どもは長男が生まれるかどうかというくらいの頃までです。



その頃までのわたしは、自分の命のことで何を食べようかとも、自分の体のことで何を着ようかとも、「思い悩む」などというようなことは、ほとんどありませんでした。



しかし、です。そんなわたしでも、ほんの少しずつではありますが、だんだん変わってきたように思います。子どもが与えられたことが、やはり大きいでしょう。「何を食べさせようか、何を着せようか」という、それまではほとんど一度も考えたこともなかったような全く新しい要素が、加わってきました。



このように今日は、まず最初にわたし自身の不信仰を告白する、というところからしか始めることができませんでした。ここにわたしの罪があると、言わなければならないのかもしれません。



しかし、です。かく言うわたし自身にとって、今日の個所で、イエスさまが強く語っておられることには、まさに痛いほど、身に染みて分かる、と感じる部分もあるのです。



それは、今日わたしがいちばん最初に問いました、今日の個所の、イエスさまの説教の中心部分は、どこにあるのか、ということを考えてみたときに、見えてくる事柄です。



中心部分は、次の御言葉であると思われます。



「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」



このイエスさまの説教は、22節に記されているとおり「弟子たちに」語られたものです。一般の不特定多数の人々、いわゆる「群集に」向かって語られたものとは一応区別されるべきです。



イエスさまの弟子である者たちは、ただ、神の国を求めるべきです。「ただ」というのは「ひたすら」という意味です。わき目もふらず、ただひたすら、という意味です。そのことに集中することです。神の国を求めることに、です。



そうすれば、です。「これらのもの」とは、食べ物や着る物のことです。生活上の必需品です。そのようなものは、「加えて」(以前の訳では「添えて」)与えられるのです。



なぜ「与えられる」のでしょうか。自分でお金を稼ぐなりして「買う」のではないのでしょうか。もらいもの、でしょうか。どこかで拾うのでしょうか。



そのような意味も、イエスさまの御言葉の中には、どこかしら含まれているような気がしてなりません。と言いますのは、先ほど申し上げましたように、この御言葉を、イエスさまは、「弟子たちに」語っておられるからです。



ただし、この場合の弟子たちとは、使徒と呼ばれるいわゆる十二人の特別な弟子だけに限定すべきかどうかは微妙です。ルカによる福音書では、すでに10章のところで、七十二人の弟子を、イエスさまが派遣しておられますので。



そして、七十二人の派遣の際にイエスさまは、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな」(10・3〜4)と語られ、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(10・5)と語られ、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(10・7)と語られました。



イエス・キリストの「弟子たち」が、です。わき目もふらずに、ただひたすら、「神の国」を求めるとき、食べる物や飲む物や着る服などが「加えて与えられる」、あるいは「添えて与えられる」とは、まさにこの意味であると、考えられるのです。



「当然の報酬」と言われています。しかし、これは自分がした仕事に対する当然の対価というような意味ではありません。伝道者は“自給いくら”で働くわけではありません。



そういうことではなくて、むしろ、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一に書いている、「そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか」(9・7)という点こそに関係しています。これは明らかに、伝道者たちが教会から受けとる生活費を指しています。



ぶどう畑で食べてもよい実とは、商品価値のない出来損ないのものや、地に落ちてしまったものでしょう。ですから、それは、落穂ひろいのようなものである、とも表現できそうです。



ですから、それは、強いて言うなら、「腹がへっては、いくさはできぬ」というくらいの意味です。



あるいは、もっと大胆に踏み込んで言わせていただくならば、要するに、イエスさまの弟子たち、とくに伝道者たちは、教会を、そして、神さまご自身を、その意味で信頼してよい、ということです。



教会の牧師であるわたしが言うと、なんだかへんな感じになるかもしれませんが、ただひたすら、神の国を求めて献身している者たちを、教会は決して見殺しにしたり、見捨てたりすることは、ありえない、ということです。



だからこそ、です。イエスさまは、“弟子たちに”言われました。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と。



そんな心配はする必要がないのだ、と。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と。すべてをご存じである神さま御自身が、あなたがたの必要を満たしてくださるのだ、と。



そのことを信頼すべきである、ということを、イエスさまは、教えておられるのです。



「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。』」



ここで「群れ」とは、砂漠で遊牧生活を送っている、ベドウィンの人々が用いる単位であると言われます。そして、その群れが「小さい」とは、およそ20〜30ほどの家畜や獣の数を示すのだそうです。



しかし、もちろん、イエスさまが語っておられるのは、家畜や獣の話ではありません。イエスさまを信じて生きる弟子たちの話であり、信仰者の共同体としての教会の話です。ですから、「小さな群れ」という言葉から、わたしたちが、20人から30人ほどの教会の姿を連想することは、決して間違いではありません。



20人から30人。これは、じつは、わたしたち日本の教会の現時点での平均的な姿です。現在の日本の教会は、依然として、間違いなく、ここでイエスさまが言われているとおりの、まさに「小さな群れ」です。



「小さな群れよ、恐れるな」と、イエスさまは、今も、わたしたちに対しても、語っておられます。



小さいからダメ、ということはありません。どの国の教会も、最初はみな、小さな群れだったのです。その人々に、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、イエスさまは、励ましの言葉を語ってくださったし、今も語っておられるのです。



この脈絡でこの話題を持ち出すことは、決して飛躍ではないと思いますので、申し上げます。



先々週川越市で開催されました、日本キリスト改革派教会第60回定期大会で決議された、重要な事項の一つとして、はっきり言って現在ジリ貧に陥っている東北中会と四国中会の諸教会を支援するために、大会所属の全教会が自由募金を行なうことになりました。その目的は牧師の生活を支えることである、ということも確認されました。



地方の教会の現状については、わたし自身も体験してきたことですので、責任をもった証言を行なうことができます。



地方の教会では、牧師たちが生活に困っている例が、いくらでもあります。地方の教会では、十年も二十年も、一人として洗礼を受ける人が現れないというケースも少なくありません。その中で、とくに若い教師たちは、伝道への意欲や自信をすっかり失ってしまうのです。それが現実です。



地方の教会は、成長しないからといって、サボっているわけではありません。また都会の教会は、地方の教会で洗礼を受けた人々によって成り立っている、という面もあります。



ですから、「都会の教会は豊かであるが、地方の教会は貧しい」というこの状況は、是正されるべきなのです。



みんなで力を寄せ合い、支え合うことが大切です。ささげる人はささげるばかり、受けとる人は受けとるばかり、という話ではありません。お互いに、支え合うのです。



わたしたちイエスさまの弟子である者たちが、教会が、「神の国」のために、喜んで自分のものを差し出し合うことが、大切です。



道は、そこから開けていくのです。



(2005年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年10月9日日曜日

「真の豊かさとは何か」

ルカによる福音書12・13~21



今日の個所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。新共同訳聖書では、「愚かな金持ちのたとえ」という小見出しが付けられています。わたしが調べた注解書の中には「豊かな愚か者」という表題が付けられたものがありました。前後をひっくり返しただけですので、だいたい同じですが、微妙なニュアンスの違いがあると言えるかもしれません。



今日の個所で、わたしがとくに慎重でありたいと考えています点を、最初に申し上げておきます。それは、ここでイエスさまは、お金を持っている人すべてが愚か者であるとか、お金を持つこと自体が愚かである、というふうに言われているわけではないということです。そうではなく、わたしたちが豊かな富を求めるその思いの中に落とし穴がある、ということです。その落とし穴に陥らないように、気をつけなければならないのです。



「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』



まず最初に記されていますのは、イエスさまがこのたとえ話をお語りになったきっかけは何か、ということです。



ここに出てくる「群集の一人」には、自分の兄弟との間に遺産相続をめぐる骨肉の争いがあったようです。そのようなことについて、この人は、イエスさまならばきっと何とかしてくださるに違いないと、おそらく真剣な思いで、持ちかけたに違いありません。



ところが、イエスさまは、その願いを事実上拒否されました。そして、たいへん厳しい言葉を返されました。



「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」



これは、もちろん、「わたしは、あなたがたのそのような問題についての裁判官や調停人ではない」という意味です。このことをイエスさまは、どのような意図で語っておられるかについては、はっきりとは分かりません。



しかし、いずれにせよ言いうることは、イエスさまは、この人の抱えている問題に介入してくださらず、この人の味方にもなってくださらなかった、ということです。



なんとなく冷たい感じがしなくもありませんが、イエスさまのご判断を尊重すべきです。



「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい『有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』それから、イエスはたとえを話された。」



これで分かることは、イエスさまは、この「群衆の一人」が持ちかけてきた遺産相続の問題をきっかけにされながら、わたしたち人間の誰もが持っている“貪欲”という落とし穴に注意すべきであることを教えられるために、このたとえ話をお語りになったのだ、ということです。



「『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがてこう言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい・・・」



このたとえ話は、比較的分かりやすいものだと思います。どういう意味で分かりやすいかと申しますと、この話の中に登場する金持ちは、わたしたちにとって身近な人と思えるような、どこにでもいる感じの、ごく普通の人だからです。想定しうるのは、パレスチナ地方の農家の人です。



ある年の畑が豊作でした。そのため、それによって一山できた財産の扱いをどうするかという問題が浮上しました。うらやましい話です。



そこで、この人が思いついた案はと言いますと、現在の小さな倉を取り壊して、もっと大きな倉を建て、その中に畑の作物を備蓄することでした。



おそらくここまでは、だれでもすることでしょう。この人は全く当然のことをしているまでです。逆に考えてみて、こういうこと(豊かな財産を蓄えておくこと)をしない人のほうが、それこそ愚か者と言われて然るべきです。



ですから、もしこの人に何か問題があるとしたら、これに続く点であると思われます。



「『「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」』」



これを、この人の犯した誤りである、と断言できるかどうかは、微妙です。なぜなら、このようなことは、明らかに、だれでも考えることだからです。



たとえば、実際、この世の中には「これから先何年も生きて行くだけの蓄え」を持っているという自覚を持っている人は現実に存在するのだと思います。もちろん、その蓄えがどれくらいかを量る量りは、その人自身の価値観や生き方、お金の使い方に拠るところもあります。



そして、実際にそれだけの蓄えを持っている人にとって、当分の間、それ以上の財産を持つ必要がないのだとしたら、「ひと休みすること」、また「食べたり飲んだりして楽しむこと」は、ある意味でその人の自由であり、権利でもある、と語ることもできるはずです。



ここで一つ思い当たることは、いわゆる高齢者の生活、いわゆる「老後の生活」のことです。



それまでにたくさん働いてきた人々が、その働きによって得た蓄えによって、ひと休みすること、そして、人生を楽しむことは十分に許されていることです。このことは、批判されたり責められたりされてはならないことです。



また、いわゆる高齢者という範疇に属さない人々であっても、たくさん持っている人はいます。その人々が自分の財産を元手にして、ひと休みすること、人生を楽しむことは、許されて然るべきことである、と思われてなりません。



そうであるならば、です。この人の問題は、いったいどこにあるのだろうか、ということが、わたしたちの次の問題になります。



「『しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた。』」



ここに、いわば突如として、神さまが登場されます。この神さまは、たくさんの財産を手にすることができた、この幸せな人の人生を、まるで強制的に終了され、中断されようとしておられるかのようです。



これは、おそらくわたしたちの身にも、現実に訪れることです。地上の人生の終わりは、まさに突然やってきます。



そして、そのとき、神さまがこの人に言われたことは、「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」ということでした。



ここに至って、この人は、初めて大きな壁にぶつかっています。ここに至って、この人は、初めて自分のしてきたこと、考えてきたことの問題に気づくべきところに立たされています。



ただし、この人が自分の問題に気づくことができるかどうかは別問題です。



おそらく、その日・そのときまで、この人が用意した物は、すべて自分のものであると思っていました。自分が生活するため、あるいは、せいぜい自分の家族のために、それは用いられるべきものである、と。それ以上、何の問題も感じていませんでした。



しかし、そのためにこの人がしようとしたことは、自分の財産のすべてを、自分の倉の中に「しまっておく」ことでした。これで大丈夫だと、自分に言い聞かせることでした。



もしこの人のどこかに問題があるとするならば、まさにここにある、と言わざるをえません。なるほど、わたし自身、ここに至って、はっと気づかされることがあります。



それは、この人の発想の中には、たくさんの財産を得たときに、それを他の人々に分け与えるとか、多くの人々と共に収穫を喜ぶ、というような点が全く現れてこない、ということです。



また、それを神さまのためにささげようとか、公共の福祉のために、というような発想が全く現れてきません。



すべては自分のためです。自分だけのためです。



強いて言うならば、ここに“貪欲”の罪があるのです。



貪欲もしくは貪りとは、第一義的には「他人のものを欲しがる」ということを意味しています。しかし、もっと広い意味もあります。



それは、自分が持っているもの、自分に与えられているものに、どこまでも満足しないこと、不平不満を持ち続けることです。そして、あたかも、この世のすべてのものが自分のものでなければならないかのように、何でもかんでも欲しがり、抱え込み、決して隣人に分け与えないことです。



これも、十分な意味で“貪欲”の罪なのです。



しかし、「今夜、お前の命は取り上げられる」。その日、そのときに、あなたの持ち物は、だれのものになるのかと、神さまは、わたしたちにも、問われるのです。



「『自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。』」



このように、イエスさまは、締めくくっておられます。「神の前に豊かにならない者」、あるいは反対に言って「神の前に豊かな者」の意味は、必ずしも明確ではありません。



しかし、強いて言うならば、それは、「自分のためだけに富を積む者」の正反対の生き方をなしうる人々のことである、と言えるかもしれません。



自分のために富を積む、というこのこと自体は、とても真剣な事柄なのだと思います。必死のわざです。このこと自体は、批判されたり、軽んじられたりすべきことではありません。貧しさにも、問題があります。貧しければよい、というような話ではありません。



しかし、です。その富をただひたすら自分だけのものにする、ということを、ただひたすら望む、というような生き方が、もしあるとするならば、そのような生き方は、とてもさびしいものであると、言わざるをえないのです。



そのような考えや思いに基づいて築かれていく人生は、自分の財産を常に多くの人々と分かち合いながら生きていく人々の人生とは、どこかが違います。



厳しい言い方かもしれませんが、自分のことしか考えない人は、多くの人々から見捨てられてしまうでしょう。「今夜、お前の命は取り上げられる」という神の御声を聴く日に、孤独のさびしさを味わうでしょう。



「お金が大事である」。これは、そのとおりかもしれません。



しかし、わたしたちはお金だけで生きているわけではありません。



神さまと共に生きているということ、そして、多くの隣人と共に、神の恵みを分かち合いながら、感謝と喜びをもって生きている、という自覚こそが、大事なのです。



(2005年10月9日、松戸小金原教会主日礼拝)





2005年10月2日日曜日

聖霊の教導

ルカによる福音書12・1~12

今日の個所に記されているのは、先週の個所に記されていた出来事と同じ場所で起こった、時間的にも続いている出来事であると、読むことができます。

「とかくするうちに、数えきれないほどの群集が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」

先週の個所でイエスさまは、ファリサイ派の人々と律法の専門家たちを、非常に厳しい言葉で批判されました。その内容についての説明は、繰り返さないでおきます。

すると、やられたらやり返す、です。イエスさまから批判を受けた人々は、イエスさまに激しい敵意を抱き、反撃を開始しました。「数えきれないほどの群集が集まって来た」とは、大論争が始まったので、野次馬たちが集まってきた、ということでしょう。

「イエスは、まず弟子たちに話し始められた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。』」

「パン種」とは、パンをふくらませるために小麦粉の中に混ぜ込む、酵母のことです。それは、一つ一つのパンにとっては少量で事足りるものです。そして、それ自体は目立ちません。パンの中に隠れてしまいます。

そういうものが、あなたがた、イエスさまの弟子たちの中に入り込まないように、気をつけなさいと、イエスさまは言っておられるのです。あなたがたは、ファリサイ派の人々のような「偽善者」になってはならない、と言っておられるのです。

「偽善者」の原意は、仮面をかぶった人のことです。同じ言葉が、仮面をかぶって劇に出演する“俳優”のことを意味していた時代があります。

人前では、口先では、善いこと、立派なことを語りながら、しかし、腹の中では正反対のことを考え、人の見えないところで悪事を働く人のことです。

しかも、ここでイエスさまが問題にしておられるのは、宗教の専門家たちです。多くの人々に向かって、聖書の御言葉を語る仕事をしている人々のことです。

講壇の上では、「聖書にはこのように書かれている。神の御心はこのようなものである」と語る。ところが、その後、自分の家に帰り、部屋に入る。そこでは、全く正反対のことを語り始める。

そのような人々を、イエスさまは、非常にお嫌いになったのです。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。』」

彼らの悪事については、これを隠すことは、決してできない、ということです。

イエスさまが、宗教の専門家たちに対してこれほどまでに厳しい言葉を語っておられるのは、少し語弊を恐れながら言いますなら、イエスさまというお方は、ある意味で彼らと“同業者”であられたからだ、と考えることができるでしょう。

たとえば、おそらく、イエスさまも、説教が終わったあとの疲労感を味わわれました。説教も、けっこうな労働です。説教前、説教中、説教後のそれぞれに、苦労があります。説教が終わった後、説教者は、自分で語った言葉の責任をとらなければなりません。

イエスさまも、わたしたちと同じ人間の肉体を持っておられるのですから、きっとお疲れになったことでしょう。それは当然のことです。

しかし、まさにそのとき、その瞬間に、油断が起こる。油断もすきも起こるのです。宗教者の犯す罪の温床が、そのあたりにあると言えます。そのことをイエスさまは、よくご存じだったのです。

責任の重さに耐えきれないとか、ひとは誰でもどこかで息抜きが必要である、というのは、もちろん理解できない話ではありません。しかし、それは「単なる甘えにすぎない」と言われても仕方がない面があるでしょう。

人格と生活との表と裏とが、あまりにも落差があり、かけはなれたものにしないためには、どうしたらよいでしょうか。それは、ごく単純なことなのだと思います。表で、あまりにも格好をつけすぎないことです。裏で、あまりにも羽目をはずしすぎないことです。そして、わたしたちの裏も表も、すべてお見通しのお方の前で生きているという自覚を持つことです。そのお方の前では、だれ一人隠れることはできない、と信じることです。

「『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。』」

ここでイエスさまが「友人」と呼んでおられるのは、ひとまずイエスさまの弟子たちのことである、と理解することができます。しかし、おそらく、もう少し広い意味です。

それは、“現在、イエスさまの弟子である人々”のことだけではなく、“これから弟子になる人々”のことが含まれていると考えてよいでしょう。

イエスさまの「友人」になるということで、イエスさまは、わたしと同じ立場に立って、わたしと一緒に、ファリサイ派や律法学者たちの「偽善」と闘ってほしい、と呼びかけておられるのです。

しかし、問題は、その闘いの内容は何か、です。イエスさまの呼びかけに応じて、仲間に加わった人々は、何をすればよいのか、です。

この点についてイエスさまが教えておられることは、「体を殺しても、それ以上何もできない」偽善者たちを恐れるな、ということです。そして、「本当に恐れるべき方」を、もちろん、天地万物の造り主なる神さまを、恐れなさい、ということです。

ここで語られているのは、いわばそれだけです。“闘う”と言いますと、ついわたしたちは、力に対しては力をもって抵抗する、というあり方を思い浮かべてしまうのかもしれませんが、イエスさまは、そのような闘いをお望みになりませんでした。

そしてまた、イエスさまの仲間たちがなすべき“闘い”の内容として、もう一つ考えられることは、イエスさまが最初に語られました「ファリサイ派の人々のパン種に注意すること」です。

あなたがた、わたしの弟子たちの中にそれが入り込まないように、注意することです。わたしたち自身が、「偽善者」にならないように気をつけることです。

誰かを悪者にし、その人々を批判するだけで、済ませることはできません。イエスさまの弟子である者たちには、自分自身の信仰と悔い改めこそが、求められているのです。

「『言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。』」

ここで語られていることを一言にまとめて言いますなら、イエスさまの弟子である者が「わたしはイエスさまの仲間である」ということを公の場で告白するときには、他ならぬイエスさま御自身が、そして、父なる神と聖霊なる神が、天にあって、天使たちと共に、味方してくださる、ということです。「人の子」とは、イエスさまご自身のことです。

そして、だからこそ、あなたがたは、イエスさまを否定する権力者たちを前にしても、恐れることはないし、言い訳の言葉を、あらかじめ考えたり、原稿を書いておいたりする必要はない、ということです。

語るべきことは、そのとき、その瞬間に、聖霊なる神が、教えてくださるからです。

この個所で、しばしば問題になるのは、「聖霊を冒涜する者は赦されない」というイエスさまの御言葉です。

この言葉には、さまざまな解釈があります。しかし、今日、わたしは、これが置かれている文脈の前後関係から、この言葉の意味を考えてみたいと思います。

イエスさまを否定する権力者たちの前で何を語るべきかをわたしたちに教えてくださる聖霊なる神を冒涜する、とは、逆に言えば、そういうことをそのとき、その瞬間に教えてくださる聖霊なる神などというものは存在しない、と考えたり語ったりすることでしょう。「冒涜する」とは、悪口を言うことであり、その存在や働きを否定し、信じないことです。

「聖霊なる神」だの「聖霊の導き」だの、そんなものは存在しないのだから、やはり、わたしたちは、そのような場面に備えて、あらかじめ原稿を書いておくべきだ、という考えを持つこと、実際に原稿を書いてしまうことも含まれている、と語りうるかもしれません。

今、わたしは、“あらかじめ原稿を書く”という表現を、あえて用いています。このことによって、わたしが申し上げたいのは、原稿ということ自体ではなく、むしろ、そのような努力をすること自体です。すなわち、「聖霊なる神」など存在しないという確信を持ち、それゆえに「聖霊の導き」というようなことに身を委ねることができず、いわばその代わりに、すべてを自分が準備し、自分で実行し、自分で後始末すること、つまり、事柄の最初から最後まで、自分自身が、ひとりで、すべての責任をとらなければならないと考え、実際に責任をとろうとする、そのような態度や生き方自体です。

それは、ある意味で、非常に真面目な、生真面目な生き方です。悪く言えば、クソ真面目です。

しかし、そのような真面目さの正体が、「聖霊なる神の導き」というような次元の事柄を信じることができないゆえに生じているものであるとするならば、そこにこそ、罪があるのです。

そして、それこそが、イエスさまが語られている「聖霊を冒涜する罪」の意味である、と考えることができるのです。イエスさまは、この罪は赦されない、と語っておられます。どんな罪でも赦されるはずではなかったのかとお感じになる方も、きっとおられるでしょう。

しかし、ここはよく考える必要があります。聖霊なる神が、わたしたちにもたらしてくださるものは、まさに罪からの救いであり、罪の赦しの恵みです。

先ほど、わたしたちは、日本キリスト改革派教会が定める式文に基づいて、「罪の告白と赦しの宣言」を行いました。

「あなたがたは、おのおの真心から自分の罪を悔い、イエス・キリストにおいて提供された神の憐れみと赦しによりすがろうとしています。このように、心から悔い改めてイエス・キリストによりすがる人には、父と子と聖霊の御名によって、罪の赦しを宣言します。アーメン。」(日本キリスト改革派教会式文集より)

この“罪の赦しの宣言”を、わたしは、牧師としての職責において、読ませていただきました。そのわたしは、この言葉を、皆さんに、ぜひ、本気で信じていただきたいのです。「わたしの罪は赦された」ということを、です。

その聖霊のみわざを冒涜し、否定するというのですから、それは、「自分の罪は、決して赦されない。そのようなことは、永久にありえない。そのような神の恵みがあることなど、全く信じられない」というような確信を持つことをも意味しているのです。

要するに、「罪の赦しを信じることができない罪は、赦されない」ということです。逆に言えば、「罪の赦しを信じる人の罪は、すべて赦される」のです。

この話は“循環”していることが、お分かりでしょうか。堂々巡りです。だからこそ、この循環は、断ち切られなければなりません。

わたしの罪は、決して赦されない。わたしの罪の重荷のすべては、自分自身で背負っていかなければならない。それは、あまりにも重苦しい考え方です。

イエスさまが、こう言われたではありませんか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11・28)

ファン・ルーラーは、イエスさまのこの御言葉〔マタイ11・28〕の解説として、「わたしたちの真面目な生き方が、わたしたちにとって、とても重荷になることがありえます」(A. A. van Ruler, Dichter bij Marcus, over het evangelie naar Marcus 1-8. G. F. Callenbach B. V. - Nijkerk, 1974, p. 50)と語っています。

これは、不真面目で不誠実な生き方を選んでよい、という意味ではありません。

そうではなく、何もかも自分ひとりで背負い込まないでよい、ということです。

わたしたちは、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神の恵みと導きを選びとり、身を委ねることができます、ということです。このことこそが、わたしたちを、真の意味で“楽にする”のだ、ということです。

わたしたちは、神さまと共に生きることによって、人生を楽しむことができるのです。

(2005年10月2日、松戸小金原教会主日礼拝)




2005年9月25日日曜日

「教会の責任」

ルカによる福音書11・37~54



今日の聖書の個所に記されている主イエス・キリストの御言葉は、おそらくどなたでも同じような感想を持っていただけるのではないかと思いますが、読んでいるうちに、胸のあたりがだんだん苦しくなってくるような気がします。



それはなぜかと言いますと、実際に読んでいただけばすぐお分かりのとおり、この個所でイエスさまはファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の一派に属する人々、また、ユダヤ教の律法学者たちに対する非常に厳しい批判の言葉を、まるで機関銃のように、容赦なく吐き出しておられるからです。



この場面は、イエスさまが、ファリサイ派の人から食事に招待され、その人の家の食卓の席に着かれたところから始まっています。



ところが、その食事の前に、イエスさまが「まず身を清められなかった」ことを、そのファリサイ派の人が見て、「不審に」思った、というのです。



実際に伝えられていることは、当時のユダヤ人たちには、食事の前には必ず、きれいな水で、まず手を洗い、また飲み物や食べ物を入れる食器を徹底的に洗う習慣があった、ということです。



ですから、ここで「身を清める」という言葉の意味として考えられるのは、食事の前に手を洗うことです。そのことを、なさらなかった、ということです。



なんだか汚い話だなあ、と思われるかもしれません。わたしたちだって、食事の前には手ぐらい洗います。子どもたちにも「食事の前には手を洗いなさい」と教えます。



しかし、この個所をわたしたちが、たとえば、そのように読み、イエスさまの側にも問題がありました、というふうに言ってしまうとしたら、ここに書かれていることの真意を全く汲みとることができないように思います。



ユダヤ人たちが食事前の手洗いにこだわった理由については、マルコによる福音書7・3〜4に、次のように詳しく記されています。



「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ってきたときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(マルコ7・3〜4)。



これで分かることが、いくつかあります。



第一に分かることは、彼らが食事前の手洗いにこだわった理由は、「昔の人の言い伝え」を固く守る、という動機づけ、ないし意識ゆえであった、ということです。



ただし、この「言い伝え」は、聖書の御言葉ではなく、モーセの律法でもありません。ユダヤ教団が受け継いできた伝承(Tradition)です。



イエスさまは、ユダヤ教団の伝承と聖書の御言葉そのものを、明確に区別されました。この区別を明確にすることは、わたしたち改革派教会が重んじてきた原理でもあります。



ですから、第二に分かることは、彼らがそのことにこだわった意識の正体は「保守主義」(conservatism)、あるいは「伝統墨守主義」(traditionalism)などと名づけられるべきものであった、ということです。



それは、古いもの、伝統的なものを、とにかく変えない、変えてはならない、むしろ、それを守り抜くこと、現状をいわば永久に肯定し続けることこそが大切である、と考え、そのように行動する立場であると表現できます。



逆に言えば、新しいもの、革新的なもの、冒険的なやり方は、常に危険であり、現状を破壊し、社会を必ず不安と恐怖に陥れるものであるとみなし、それを退ける立場であると表現することもできるでしょう。



これを、イエスさまは、お嫌いになりました。もしそのような考えでよいならば、たとえば、わたしたち「改革派教会」は、常に危険視され、退けられねばならない存在であるとみなされてしまうでしょう。改革派教会とは「(神の言葉によって)常に改革され続ける教会」(ecclesia semper reformanda)なのです。



第三に、マルコが記している、とくに「市場から帰ってきたときには、身を清めてからでないと食事をしない」と言われていることから分かることは、彼らの言い伝えの真意は、(わたしたちは決して口にすべきではない、本当に失礼な言い方だと思いますが)、市場のような場所や、そこに集まるような人々は、汚れている、という一つの思想であった、ということです。



それは一種の偏見であり、もっと厳しく言えば、差別思想です。



このように言いうる根拠があります。わたしが調べた書物によりますと、ユダヤ人たちが食事前に身を清めるために用いた水の量が、普通の場所から帰ってきた場合と市場から帰ってきた場合とで、大きく異なっていた、というのです。



具体的な数字も知られています。普通の場所から帰ってきた場合は、10分の一リットル(100ミリリットル)の水でよかったそうですが、市場からの場合は、486リットルの水が必要だったそうです。



要するに、市場から帰ってきた人は、お風呂に入るくらい徹底的に体を洗わなければ、決して食事をしてはならない、ということです。これが単なる衛生上の問題などではないことは、明らかです。



さらに加えれば、まさにそれこそがファリサイ派的な考えであると言いうることがあります。



「ファリサイ」とは、「聖別された」とか「区別された」という意味であると言われます。彼らが「聖なる領域」と信じている神殿や会堂などの宗教施設やそこに住む住人とは区別されたところにある「この世」とか「俗世間」のような場所や、そこにいる人々は、みな汚れているという考えが彼らにはあった、ということです。



つまり、彼らは、明確な聖俗二元論を持っていたのです。



こういう考えを、イエスさまは、非常にお嫌いになりました。「俗世間」の人々は汚れているが、宗教家たちは清いなどというのは、冗談にも口にしてはならない、全く間違った考えです。そのことを、イエスさまは、明らかにされたのです



ですから、イエスさまがユダヤ人たちの手洗いの習慣を拒否されたのは、全く意図的になさったことであり、また、ユダヤ人たちの考え方そのものに対する拒否の意図があった、ということです。



また、イエスさまだけではなく、弟子たちも、この習慣を拒否しました(マルコ7・2)。もちろん、イエスさまが、弟子たちに、そのような言い伝えは守らなくてよいと、お教えになったからです。



さて、39節以下で、イエスさまは、ファリサイ派の人々に対する激しい批判の言葉を、一気に吐き出しておられます。



イエスさまが指摘しておられる事柄の中心は、最初に語られている「あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(39節)という点であると言えるでしょう。



要するに、あなたたちの存在の内側と外側は、まるで別世界のようだ、ということです。あなたたちが美しいのは、外側だけであって、内側は汚れている、ということです。



そのような、言うならば存在の二重性、あるいは、内と外との悪い意味での使い分けに潜む非常に大きな問題性に、あなたたちは気づくべきである、ということです。



他人の存在を「汚れている」と見たり、彼らに近づいたときには、徹底的に身を清めるべきである、などと考えたりする前に、です。



そして、あなたたちには、そもそも、他人に向かってそんなことを語りうる資格はない、ということです。それほどあなたたちは清くない、ということです。



「そこで、律法の専門家の一人が、『先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります』と言った。」



ここに登場する、イエスさまのお言葉に横から口をはさむ「律法の専門家」の言葉は、もし本気で語られていたとするならば、あまりにものんきすぎます。自分の置かれている立場について全く無自覚だった人である、と言わざるをえません。



と言いますのは、この人の耳には、これまでイエスさまが語ってこられたことは、あくまでも「ファリサイ派の人々」に対して限定的に言われていることなのであって、自分には何の関係もないことである、というふうに、最初は聞こえていたに違いないからです。



しかし、この人は、イエスさまのお話を聞いているうちに、だんだんと、自分たちのことまで責められているような気がしてきたわけです。



当然です。イエスさまは最初から「ファリサイ派の人々」のことだけを問題にしておられたわけではありません。最初から「律法の専門家」のことも、視野に入っていました。



当時のユダヤ教団の指導者たち全体のこと、そしてそれだけでもなく、わたしたち聖書の御言葉の読者たちすべてのことも、視野に入っていたのです。



だれ一人として、イエスさまの御言葉を他人事のように聞き流すことができる人は、いないのです。



律法の専門家に対するイエスさまの批判の中心は、これも最初の言葉にあると思います。



「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしないからだ。』」



イエスさまが指摘しておられることは、要するに、あなたたちは口ばっかりだ、ということです。



「人に背負いきれない重荷を負わせる」と言われている中の「重荷」とは、聖書や言い伝えに基づいて語られる説教の内容です。



あなたたちは、こうすべきである。あなたたちには、このような義務や責任があると、説教者が語る。



しかし、その説教者自身は、自分で語ったことを、何一つ実行しようとしない、ということです。



たいへん厳しい言葉であると思います。図星を当てられたというような気持ちを、だれもが持つでしょう。



わたしなども、イエスさまからこのようなことを言われた日には、おそらく寝込んでしまうでしょう。熱が出てきそうです。



事実、イエスさまからここまで言われた彼らは、イエスさまに対して殺意を抱きました。この殺意が、やがてイエスさまをゴルゴタの丘へと導いていくことになります。



もちろん、これまでにもいくつか、十字架への伏線がありました。しかし、事柄がより明確になってきたのは、イエスさまがファリサイ派や律法学者たちに、面と向かって強く批判したこのときです。



彼らの殺意を指して「それは当然のことです」とは決して申しません。しかし、厳しい言葉でさんざんに批判された人が、思わず握りこぶしを作ってしまうときの心境を、「全く分かりません」と言える人がいるでしょうか。



しかし、それでもなお、です。わたしたちは、イエスさまの御言葉から耳を遠ざけてはならないのだと思います。また、御言葉に示されている真理そのものから、目を背けてはなりません。



厳しい言葉で批判されても仕方がないようなことが、わたしたちには、今でもおそらく、たくさんあるはずです。



ふだん親しいと思っている人から厳しく言われると、ますます傷つくのが、わたしたちかもしれません。



しかし、そうであればこそ、です。多くの人々から非難されるようになる前に、イエスさまの御言葉に耳を傾け、また人の言葉を通して語られる神の御言葉に耳を傾けることによって、自分の罪や過ちを悔い改め、人生の方向修正を行うことができるなら、そのほうが幸いです。



反対に、イエスさまの御言葉を軽んじ、真理から目を背けて生きようとすることこそが、不幸です。



改革派教会に加わる前のことです。尊敬できない一人の牧師の口から、信じがたい言葉を聞きました。



「牧師になれば分かる。牧師は、いろんな人から、いろんなことを言われ、批判される。それを、右の耳から聞いて、左の耳に流せるようにならなければ、身が持たない」。



わたしは、そのような言葉を耳にしたとき、心底から、がっかりしました。



わたしは、そうは思いません。皆さんの前で格好をつけたいわけではありませんが、わたしは、そのように考えたくありません。



それどころか、自分に対する批判の言葉を、右から左へと聞き流せばよいと考えはじめた時点で、その牧師は進退を考えるほうがよい、と思っているくらいです。



われわれは、大きな責任を負わされているのです。



たしかに、「身が持たない」と感じることはあります。胃に穴が開くのではないかと思うほど、厳しい言葉を聞くことがあります。



しかし、そのことを、わたしたちは、むしろ、神さまが与えてくださった光栄であると思うべきです。



(2005年9月25日、松戸小金原教会主日礼拝)





2005年9月18日日曜日

人の思いと神の思い

ルカによる福音書11・29~36

「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」

主イエス・キリストのこの御言葉は、先週学びました個所に出てくる「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」(ルカ11・16)ことへの対応として語られたものである、と考えることができます。

しかしながら、ここでルカは「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者」とは、具体的に言って誰のことなのか、ということについては、明らかにしておりません。

マタイとマルコは、それを明らかにしています。マタイは「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」(マタイ12・38)が、イエスさまにしるしを求めたとしています。マルコは「ファリサイ派の人々」(マルコ8・11)としています。

ですから、マタイとマルコの線で申し上げますならば、イエスさまに天からのしるしを求めた人々は、要するに、先週の個所にも登場しました、いわゆる「宗教の専門家たち」であった、ということになります。

そうなりますと、次第に分かってくることがあります。それは、今日の個所で主イエスが「今の時代の者たちはよこしまだ」という厳しい批判の言葉を差し向けておられる相手は、具体的に言って誰なのか、という点です。

これが、マタイによれば「律法学者とファリサイ派」、マルコによれば「ファリサイ派」の人々である、と考えることができるのだ、ということが分かってくるのです。

ということは、さらに言うならば、「今の時代の者はよこしまだ」とは、「今の時代の宗教家たちはよこしまだ」という意味でもありえます。

そして、「よこしま」とは「悪い」ということです。つまり、「今の時代の宗教家は悪い」。

こういうことを、すなわち、一種のその時代の宗教家たちに対するたいへん厳しい批判を、主イエスがこの個所で語っておられるという可能性が十分ありうる、ということです。

とはいえ、このような読み方をする場合に、当然見逃してはならないのは、ルカ11・16に明記されている「イエスを試そうとして」という点です。

宗教家たち自身は、何も決して「天からのしるし」というものを、主イエスに対して、本気で求めていたわけではない。彼らは、ただ主イエスを試すためだけに、いわばそれを求めるふりをしていただけである、という読み方も、当然成り立つでしょう。

しかし、ここでさらにもう一つ見逃してはならないと思われるのが、「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた」(ルカ11・17)という点です。

この意味は、主イエスは当時の宗教家たちの思いをすべてお見通しであったということです。

そうであるならば、です。人々が主イエスに対して、本気でしるしを求めようと、それを求めているふりをしているだけであろうと、関係ありません。

イエスさまは、その人々に対して、「ヨナのしるし」以外のしるしを示されることはない、と言われたのです。

ここで語られている「しるし」の意味は、イエスさまというこのお方が、果たして本当に救い主であるかどうかを明らかにするための、目に見える証拠のことです。

当時のユダヤ人は、旧約聖書において預言され、約束された救い主メシア(キリスト)の到来を信じることについては、やぶさかではありませんでした。

ところが、その彼らの前に、実際に「わたしこそ救い主メシア(キリスト)である」と語る人が現れた場合には、その証拠を見せてほしいと、いわば当然のように、迫ることをせざるをえなかったわけです。

そのようなことは、証拠を見せてもらわなければ信じることができそうもない、というのは、わたしたちだって、同じ気持ちを持つことがあるでしょう。

しかし、ここで語られていることは、主イエスは、彼らに対しても、またわたしたちに対しても、「ヨナのしるし」以外のしるしを、お示しになることはない、ということです。

それでは、「ヨナのしるし」とは、何のことでしょうか。主イエスは、次のように語っておられます。

「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」

「ヨナ」とは、旧約聖書・ヨナ書(新共同訳1445〜1448ページ)の主人公の名前です。

ヨナ書は、旧約聖書の中ではたいへん短い書物であり、また内容が分かりやすくて面白いので、非常に多くの人々に愛されている書物でもあります。

ヨナは、神さまからニネベという町に行きなさい、というご命令を受けとります。

それは、ニネベという町に住んでいる人々は、神さまの目からご覧になって悪かったので、その人々に向かって、自分たちの罪を悔い改めるようにと説教するためでした。

もしあなたがたがこのまま悪いことを続けているなら、この町は滅びます、ということを言いに行くためでした。

ところが、ヨナは、あろうことか、その神さまのご命令を、とても嫌がり、逃げようとします。

考えてみれば、そんな仕事は、誰だって嫌なものだと思います。わたしだって嫌です。牧師がどこかの教会に行き、開口一番、「あなたたちは悪い人々です。悔い改めなさい」と語る。そうしますと、必ずや、その教会の人々から嫌われるでしょう。

たとえ、神さまのご命令であっても、です。行った先の人々から嫌われることが初めから分かっているようなところに行きたいと思う人は、ほとんどいないでしょう。

ヨナも同じでした。ですから、彼はとにかく逃げ回ります。船に乗って別の町に行こうとしました。

ところが、その船が嵐に遭い、船員たちがその嵐の責任をくじで決めようとしたとき、ヨナがそのくじを引いてしまい、彼は海の中に放り込まれてしまいました。

しかし、ヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中で生活した後、その魚はヨナを吐き出しました。面白い話だと思います。

そんなことがあって、仕方なく、ヨナは、ニネベに行きました。

すると、驚いたことに、ニネベの人々は、ヨナを嫌うどころか、ヨナの言葉を素直に受け入れて、自分たちの罪を悔い改めました。そして、その様子をご覧になった神さまは、ニネベの町の人々に災いを下すことをおやめになったのです。

ところが、ヨナは、そこで非常に腹を立てました。この場面でなぜヨナは腹を立てたのかについては、どのように理解してよいのか分からない面があります。しかし、どうやら、ヨナはニネベの人々に悔い改めてほしくなかったようです。

ニネベはユダヤ人にとっては異教の町だったからです。異教の町は滅びるべきだという確信があったのかもしれません。

しかし、神さまは、そのようなヨナの考えを否定されました。そして、神さまは、異教の町に生まれ育ったとしても、自分の罪を真に悔い改める人々に対しては、救いの恵みと憐れみの御心とをお示しになるお方であることを、ヨナに教えようとされました。

これがヨナ書の内容であり、主イエスがお語りになった「ヨナのしるし」の意味です。

また、主イエスは、もう一つ、「南の国の女王」のたとえを引き合いに出しておられます。しかし、これについては、詳しくお話しする時間がありません。

これは列王記上10章と歴代誌下9章に出てくる有名な話です。

現在のエチオピアあたりと言われるシェバの国の女王が、ダビデの子ソロモンのもとを訪れ、ソロモンにいろんな質問をしたところ、ソロモンはそのすべてに答えを与えることができた、という話です。そして、その後、シェバの国はユダヤ教に改宗したと言われています。

主イエスが、シェバの女王の話を、ヨナの話と一緒にしておられる理由は、明白です。二つの話は、内容的に重なり合います。要するに、異教の町に生まれ育った人々が、真の神を信じるようになった、という点で、一致しています。

そして、これこそが「しるし」であると、主イエスは語っておられるのです。「しるし」とは、主イエスこそが真の救い主メシアであることの証拠です。すなわち、それは、異教の国の人々の救いです。異邦人の救いです。

それは、ヨナのような人に言わせると、ありえないこと、あってはならないことでした。

ひどく乱暴な言い方を許していただくなら、異教の町に生まれた人は、その教えを信じたままで生きていくこと、死んでいくことこそが、その人の定めなのであって、それ以外の選択肢はありえないし、あってはならないのだ、ということです。

このような考えに対しては、わたしたちは、大いに腹を立てるべきです。

この日本という国も、歴史的に見れば、あるいはヨナのような人の目から見れば、まさに異教の国、異邦人の国です。

しかし、です。わたしたちは、この国の中で生まれた者であるから、という理由で、真の神さまを受け入れることも信じることも、ありえないこと・あってはならないことだと、言われなくてはならない存在なのでしょうか。

そんなことはありえません。そのような考えこそ、あってはなりません。わたしたちは、今やまさに、現実に神さまを信じ、現実に救われています。この事実もまた、誰にも否定されてはならないものなのです。

しかしまた、このことは、すなわち、わたしたちが救われていることは、ある意味で、たしかに「しるし」、あるいは「奇蹟」と呼ぶにふさわしいことであるかもしれません。

それは、わたしたち自身にとっておそらく非常に身に覚えのあることであるに違いありません。

「わたしが今や、毎週喜んで教会に通っていることは、一年前には想像もつかなかったことです」と。

「わたしが今や、牧師などをしているということは、数年前には想像もつかなかったことです」と。

そのように感じている人は、おそらく、非常に多いのです。「ありえない」と思い込んでいたことが、ありえた。このことをわたしたちは「奇蹟」と呼ぶのです。

あの人が救われることなど、ありえない。このわたしが救われることなど、ありえない。そのような思いは、言うならば、「人間の思い」です。

しかし、そのような「人間の思い」は、しばしば打ち破られます。打ち破られてよいのです。「神の思い」が実現するときに、「人間の思い」が打ち破られるのです。

「ここに、ソロモンにまさるものがある。」「ここに、ヨナにまさるものがある。」

ここで主イエスが語っておられる「ここにある、ソロモンにも、ヨナにも、まさるもの」の意味は、要するに、主イエス・キリストの存在と御言葉のことです。

そのとおり、まさにイエス・キリストは、ソロモンにも・ヨナにも、まさっています。

ソロモンやヨナでさえ、説教によって異邦人を真の救いに導くことができたのであれば、「ヨナにまさる」イエス・キリストに、できないはずがありません。

イエス・キリストの御言葉によって、わたしたちは、現実に救われます。たとえそれが根っからの異教徒・異邦人であっても、です。

これこそが、主イエスが真の救い主メシア(キリスト)であることの、真の「しるし」なのです。

ですから、わたしたちは、あきらめませんし、あきらめてはなりません。わたしたちは、自分の家族や友人たちも救われるのだということを信じてよいし、信じなければならないのです。

「日本をあきらめない」。これは、わたしたちキリスト者こそが語るべき言葉なのです。

(2005年9月18日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年9月11日日曜日

「イエス・キリストの力」

ルカによる福音書11・14~28



今日お読みいたしました個所に書かれていますことは、はっきり申し上げまして、わたしたちの誰もがすぐ理解できるというようなものではない、むしろ、どこかしら難しさを感じるであろう事柄であると思われます。



とくに、おそらくわたしたちの誰もが難しいと感じるでありましょうことは、イエス・キリストというお方が「悪霊を追い出す」というみわざを行っておられたというこのことを、今の時代に生きるわたしたちは、どのように理解したらよいのか、という点です。



「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」



これはもはや、ある意味、文字どおり、書かれてあるとおり、と言うしかない事柄なのかもしれません。



主イエスが、ある人の中から、口を利けなくする悪霊を追い出された、ということが、現実に起こった事実として、紹介されているだけです。



ですから、わたしたちは、まさにある意味で「そのようなことが起こりました」と語るしかないのです。



しかし、ここでどうしてもわたしたちの中に起こってくる疑問は、「それはどのようにして起こったのか。主イエスは、そのとき何をなさったのか」という点です。



ここで思い出されるのは、ルカによる福音書のこれまでに学んできました個所を通して繰り返し確認してきた、主イエスが体や心に病を持っている人々をおいやしになるときになさった「さわる」・「ふれる」・「手をおく」などの行為です。



これらはみな同じと考えてよいでしょう。要するに、主イエスが「ふれる」と、悪霊が出て行くのです。



しかし、たとえ救い主といえども、です。さわるだけで病気がいやされる、というようなことが実際に起こるということについて、わたしたちは、ここに書かれているとおりに、即座に、また単純素朴に受け入れることができるほど、素直ではないように思われてなりません。



けれども、ここにはまた、「群集は驚嘆した」とも書かれています。また、これに続く個所には、次のように書かれています。



「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」



ここで分かることは、主イエスによるいやしのみわざを、即座に、また単純素朴に受け入れることができないのは、わたしたちだけではない、ということです。



そのみわざを自分自身の目の前で見ていた当時の人々もまた、わたしたちと同じような気持ちを持っていた、ということです。



現代人的な感覚がイエス・キリストの奇蹟を受け入れることができない、というだけではない、ということです。



ここに紹介されているのは、当時の人々が抱いた、とくに否定的な反応の内容は、どのようなものであったか、ということです。



それは要するに、「イエスというあの男は、悪霊の頭の力を利用して、悪霊を追い出しているのだ」というものでした。



言うに事欠いて何を言い出すのやら、と思わずにはいられません。彼らが語っていることは、要するに、イエスというこの男が、そのわざのために用いている力の本質は、悪霊的であり、悪魔的である、ということです。



あるいは、もっと別の言い方を許していただきますならば、そもそも宗教というものには独特の「悪魔性」というべきものがある、ということです。



たとえばの話ですが、わたしたちが病気にかかったときに、真っ先に行く場所は、教会でしょうか。おそらく、そうではないはずです。まずは病院に行くでしょう。それでよいと、わたしは考えております。



しかし、問題は、その先です。



わたしたちは、この病気が早くいやされますようにと、神に祈らないでしょうか。わたしのために祈ってくださいと、教会のみんなに訴えないでしょうか。



これについては、わたしは、もちろん、祈ってよいし、訴えてよいと、考えております。



ところが、です。こういうことについて、ある人々は、わたしたちとは全く正反対のことを考えるわけです。宗教というものに対する根本的な不信感を表明する人々がいます。



日本には、お祓いとか、ご祈祷を行う宗教が、山ほどあります。こういうのを最も忌み嫌い、退ける気持ちを持っているのは、じつは、わたしたち自身ではないかと思います。教会に通っているわたしたちです。



ところが、です。そのようなときに、わたしたちが神に祈ることと、お祓いやご祈祷というようなものとの間には、違いはない、という見方をする人々も、必ず出てくるのです。



今日の個所で、イエスさまに対する一種の中傷誹謗の言葉に対しては、イエスさま御自身が、次のようにお答えになっています。



「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。』」



この主イエス御自身のお答えが、果たして、わたしたち自身の素朴な疑問に対する答えになっているかどうか、という点については、正直、まだ心もとないところがあります。



と言いますのは、「あなたたちは、これこれと言うけれども」とか「わたしがこれこれをするのなら」とか、「わたしがこれこれをしているのであれば」というふうに、繰り返し、仮定的な言い方で語られております。



主イエスのお言葉に文句をつけたいわけでは、決してありません。しかし、できますならば、もっとはっきりとした言い方をしていただきたい、と感じなくもありません。



「わたしは悪霊の力で悪霊を追い出しているわけではない」と。



「わたしは神の力で悪霊を追い出しているのだ」と。



このように語っていただけるならば(もちろん、主イエス御自身の意図はそのとおりであると言って間違いないのですが!)、もう少し安心できそうな気もします。



ただ、ここでわたしは、なぜ主イエスが、このような、いくらか曖昧と感じられるようなお答えの仕方をされているのかということに関連していると思われる一つの点に、ぜひ注目していただきたいと、わたしは願っております。



それは19節です。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と書かれている個所です。ここで、とくに考えてみたいのは、「あなたたちの仲間は」とある中の「あなたたち」とは、誰のことなのか、という点です。



ご覧いただけば分かりますとおり、ルカは、そもそもこの論争をイエスさまにふっかけている相手は誰なのか、ということを、明らかにしておりません。



しかし、マタイとマルコは、それを明らかにしています。ただし、マタイとマルコは、食い違っています。



マタイは「ファリサイ派の人々」(マタイ12・24)が主イエスの論争相手であるとしていますが、マルコは「エルサレムから下って来た律法学者たち」(マルコ3・22)としています。



似たようなものだ、と言ってしまえば、それまでかもしれません。いえ、事実、いわば似たようなものです。



ファリサイ派の人々にせよ、律法学者たちにせよ、わたしがしばしば用いてまいりました表現を繰り返しますならば、要するに「宗教の専門家たち」です。当時のユダヤ教の最高権威者たちです。



そうだとするならば、です。「あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と主イエスが問いかけておられる意味が、分かってきます。



問われていることは、あなたたちの仲間、宗教の専門家たちは、悪霊を追い出すことができないのか、ということです。



あるいは、もし悪霊を追い出すことをしているならば、それは何の力で追い出しているのか、ということです。



いやいや、あなたがた、宗教の専門家たちの、そもそもの、本来の務めは、悪霊を追い出すことではないのか、それ以外の何を、あなたがたは、している、というのか、ということです。



もっと突っ込んで言いますならば、宗教とは、そもそも何なのか、という問いでもあるでしょう。



果たして、われわれのしていることは、宗教ではないのか、ということです。少なくともイエスさま御自身は、宗教というものに深くかかわっておられました。一体、もしこれが宗教でないのならば、他の何なのか、ということでもあるでしょう。



あなたがたは、わたしのしていることは、悪魔的であると見ている。しかし、それならば、あなたがたのしていることは、何なのか。わたしのしていることとは、別のことなのか、ということでもあるでしょう。



少なくとも、われわれの目的は、共通ではないのか。それは、困っている人、苦しんでいる人を、なんとかして助けること、です。



もし目の前に、現実に、悪霊というような奇妙な何かにとりつかれている人がいるならば、それを取り除くこと。それ以外に、その人を助ける道があるのか。



こういう問いでもあるでしょう。



「宗教の専門家」と呼ばれる者たちの中に、牧師も数えていただけるのかもしれません。しかし、今日の個所を読みながら、「専門家」の陥りやすい大きな落とし穴がある、ということを、感ぜざるをえませんでした。



それは、他人のしていることは皆、悪魔的であると見ること。そして、自分のしていることだけが正しい、と考えることです。



わたし自身は、宗教はどれも同じなどとは、決して考えておりません。キリスト教の内部においてさえ、どれも同じとも考えておりません。改革派教会の宗教と信仰告白が最も正しいと、確信しております。



しかし、だからといって、他の立場の人々のしていることを、ただこき下ろすだけなら、本当によくないことです。



「彼らは悪魔の力を借りて仕事をしている」。こういう言葉は、厳に慎むべきでしょう。それこそ、「宗教の内輪もめである」と言われても、仕方がないでしょう。



大切なことは、他の人々がしていることを批判することではありません。



大切なことは現実に困っている人、苦しんでいる人を、その苦しみや痛みの中から助け出すことです。



そのために奉仕し、苦労することです。



そのために、イエス・キリストは来てくださいました。



まことの救い主イエス・キリストがそこにおられ、救いのみわざが実現しているところが「神の国」なのです。



(2005年9月11日、松戸小金原教会主日礼拝)





2005年9月4日日曜日

主の祈り

ルカによる福音書11・1~13


先日予告しましたように、今日から、日曜日の朝の礼拝の中で「主の祈り」を唱えることになりました。ちょうどその最初の日に、はからずも、ルカによる福音書の中の「主の祈り」の個所を開くことができましたことを、神さまのお導きと信じ、感謝しております。


「主の祈り」に関する御言葉は、新約聖書の中にもう一個所、マタイによる福音書6章にも出てきます。両方を読み比べますと、いくつか異なる点があることが、すぐに分かります。


最も大きな違いは、マタイによる福音書に紹介している「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」といういわゆる第三の祈りが、ルカによる福音書のほうには無いことです。


しかし、今日は、読み比べるという作業は、あまりしないでおきます。ルカが紹介している範囲内でお話しできることだけに、とどめておきます。


「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。』」


「ヨハネ」とは、これまでもルカによる福音書の中に繰り返し登場してきた、洗礼者ヨハネのことです。イエスさまご自身に洗礼を授けた、あのヨハネです。


そのヨハネが、自分の弟子たちに、祈りを教えていました。ヨハネの祈りの内容がどのようなものであったかは知られていません。しかし、すでに学びましたルカによる福音書の5・33には、次のように書かれていました。


「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。』」(ルカ5・33)


これで分かることは、ヨハネのグループにもファリサイ派のグループにも、各グループごとに、祈りの定型文のようなものがあった、ということです。祈りの内容が、グループを見分ける標識の役割を果たしていた、ということです。


イエスさまの弟子の一人が「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったことは、彼らと同じように、わたしたちにも、ということです。


わたしたちイエス・キリストを信じる者たちにも、わたしたちのグループのいわば旗印となるような祈りの言葉をください、ということです。


今や、この弟子の願いどおりになっております。全世界のキリスト教会が「主の祈り」を唱えております。ローマ・カトリック教会も、東方正教会も、プロテスタント教会も、です。この祈りにおいては、キリスト教界の分裂は、ありません。


一つ一つの祈りの意味については、いろいろな現代的な解釈もあり、それが悪いと言いたいわけではありませんが、わたし自身は、ハイデルベルク信仰問答(吉田隆訳)の主の祈り解説など、伝統的な解釈のほうが、わたしたちにとっては大いに役立つと考えております。


みなさんにもぜひ、ハイデルベルク信仰問答を開いていただきたいです。


「父よ、御名が崇められますように」とは、ハイデルベルク信仰問答の解説によりますと、要するに「わたしたちが神を賛美することができますように」ということです。


ここで大切なことは、神の御名を崇めるのは、わたしたち自身である、ということです。わたしたち以外の、どこかのだれかの話ではありません。


求められているのは、わたしたち自身が神を正しく知ることです。そして、わたしたち自身の生活すべて、生き方すべてが正しいものとされることによって、わたしたちの存在そのものが神賛美となることです。


「御国が来ますように」とは、これもハイデルベルク信仰問答によりますと、「あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、あなたの御言葉と聖霊とによってわたしたちを治めてください」ということです。


「御国」とは、神の国です。神の支配領域のことです。神によって支配されるのは、これも、わたしたち自身です。わたしたちの知らない、どこかのだれかの話ではないのです。


そして、ハイデルベルク信仰問答は、「あなたの教会を保ち進展させてください」という意味を加えています。


教会と神の国の関係という問題は、これを議論しはじめると、牧師たちの中で大喧嘩になるような難しいものです。


しかし、ここまでくらいは語ってよいであろうことは、教会は神の国のすべてではありませんが、神の国の中心にある、ということです。御言葉と聖霊によってわたしたちが治められている具体的な場所は、教会です。


ですから、わたしたちにとって大切なことは、生活の中心に教会があるということです。教会で、わたしたちは、神の国の生活を、具体的に体験することができるのです。


このことは、とくに日本の国のような場所では、はっきりしている事実です。この国の中で、教会以外の場所で、神の国を具体的に体験することは、非常に難しいといわざるをえません。


続く祈りについても、ハイデルベルク信仰問答の解説を参考にしたいと思います。


「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」とは、「わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください」ということです。


そして、このことを神に向かって祈ることによって、「わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられることを・・・知らせてください」ということです。


「いや、わたしは自分の力、自分の戦いによって、すべてのものを得てきたのであって、神から得たのではない」と、抵抗したい気持ちになる人々がいることも、承知の上です。


そのような抵抗への抵抗を、この祈りによって表わすことができます。


だれが、一体、自分の力、自分の戦いだけで、何かを得てくることができたでしょうか。


夫である人が妻の前で、そのようなことを言おうものなら、妻が怒りはじめるでしょう。「あなた一人で、何ができたのですか。冗談を言わないでください」と。


親である人が子どもたちの前で、そのようなことを言おうものなら、子どもたちが怒りはじめるでしょう。「お父さんやお母さんだけが苦労しているなどと言わせない。ぼくたちわたしたちも、苦労しているよ」と。


少なくとも、です。多くの人々の苦労、みんなの涙が、このわたしを支えている、ということに気づく必要があるでしょう。


そして、そのような人と人との関係、この世における人間同士の付き合いを含む、わたしたちの存在を支えている関係のすべては「良きものすべての唯一の源」としての神から与えられたものである、ということに気づく必要があるのです。


「わたしたちの罪を赦してください」とは、「わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください」ということです。


ハイデルベルク信仰問答を読みながら気づかされることは、この祈りの中で問題になっていることは「わたしたちのあらゆる過失」という点である、ということです。


「過失」とは、ご承知のとおり、故意に犯したわけではないけれども、不注意や怠慢などが原因で起こる失敗のことを意味します。


子どもたちは「わざとやったわけじゃないもん」と言い訳します。そう言って、ますます叱られます。「わざとじゃなくても、悪いことをしたら、ごめんなさいと、謝らなきゃならんのだよ」と。


しかし、実際のところを考えてみますならば、「過失」というのは、それを犯した者たちの心を、まさにどん底まで追い詰めてしまうものがあります。


日本は、過失に寛容な社会でしょうか。それとも、不寛容な社会でしょうか。ぜひ教えていただきたいです。


一言の赦しの言葉が、語れないものでしょうか。それが過失の負い目に苦しんでいる人々にとって、どれだけ大きな救いとなるでしょうか。


わたしたちは、その一言も語ることができない、ケチな人間のままでよいのでしょうか。


「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」の意味として理解しうる第一のことは、「わたしたちは、自分自身あまりに弱い」ということです。


「その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が絶え間なく攻撃をしかけてくる」ということ。


そして、それに対して、「あなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください」ということです。


これについても、当然のように、反論が予想されます。その中で最も答えにくい反論は、次のようなものでしょう。


「この世の中で、わたしたちにいろいろな種類の攻撃が仕かけられる。そういう話は、よく分かる。しかし、だからといって、神に祈って何になるのか。われわれの抵抗や反撃の方法は、祈りではないはずだ。宗教ではないはずだ。」


しかし、わたしたちは、そういうときにこそ、祈るべきです。主の祈りを唱えるべきです。


「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈るようにと、わたしたちの主イエス・キリストが「祈るときには、こう言いなさい」と命じておられるからです。


この夏に久しぶりに再会した一人の青年(大学2年生)から、こんな話を聞きました。


「父が、キリスト教なんかやめろ、と言いました。宗教は弱い人間が頼るものだ。そんな負け組のような生き方から、早く足を洗いなさい、と」。


「きみはどう答えたの?」と尋ねましたところ、「じつは、何も言い返せませんでした」と正直に答えてくれました。わたしは言いました。「それでいい。何も言い返さなくていいよ」と。


ただ、もう一言、「でも、きみ自身はどうなの?キリスト教をやめられますか?」と付け加えましたところ、


「それはできません。この道に入ることができて本当によかったと、感謝していますので」と答えてくれました。


「それでいい」と、わたしは言いました。「いつかきっと、お父さんも分かってくれるときがくるんじゃないかな」と。


分かってくれない人がいるからこそ、わたしたちは祈ります。


議論してはならない、と言いたいわけではありません。しかし、それだけではなく、わたしたちは、「神に委ねる」という手段を用いることができるのです。


最後に加えておきたいことは、文語訳の「主の祈り」は、悪い意味のお題目になりやすい、ということです。


一つ一つの祈りの意味をよく理解しながら、「主の祈り」を唱えようではありませんか。


(2005年9月4日、松戸小金原教会主日礼拝)




2005年9月1日木曜日

東関東中会の設立に向けて

関口 康 (日本キリスト改革派教会東部中会東関東伝道協議会副書記)

東部中会は、去る二〇〇五年四月四日―六日〜一八日の第一回定期会において、二〇〇六年七月一七日に「東関東中会」の設立式を行うことを決議しました。今は、大会における承認の瞬間を待つばかりです。

わたしたち東関東地区諸教会一同は、喜びの日を目前に控え、これまで長きにわたって温かいご理解とご支援を賜わった皆さまに、厚く御礼申し上げます。

わたしたちが東部中会に提出した「東関東中会設立願」に署名捺印したのは教師一二名、長老一〇名です。この総勢二二名が、そのまま東関東中会議員名簿への登録予定者です。

教師一二名の所属教会名は以下のとおりです(署名順)。湖北台教会、松戸小金原教会、勝田台教会、船橋高根教会、千城台教会、稲毛海岸教会、筑波みことば伝道所、花見川キリスト伝道所、新浦安伝道所、ひたちなか伝道所、牛堀みことば伝道所、三郷伝道所。

ただし、このうち二つの伝道所は二〇〇五年度中に教会設立を予定し、また一つの伝道所は廃止を予定しています。従って、新中会設立時には八教会・三伝道所となります。

これでお分かりのとおり、東関東中会は、日本キリスト改革派教会の中では教会・伝道所の総数が最も少ない中会として出発しようとしています。そのために「小中会主義」と称する原則を採用する、ということを、大会的にも繰り返し確認してきたことは、周知のとおりです。

わたしたちは、正直に言って、新しい形で開かれていく中会会議に、大いに期待しています。

第一に、物理的距離が近い諸教会を代表する二二名の中会議員であれば、短時間で一堂に会することができます。たとえば、日曜日の午後に、臨時会や定期会でさえ開くことが可能になります。

第二に、諸教会の距離の近さゆえに、中会内の人的交流が活発になりますので、諸教会の実情や課題をよく知り合うことができ、祈りの内容がより具体的になるでしょう。

第三に、中会の委員会活動についても、出席に要する移動時間や交通費などを削減でき、また、牧師や教会役員の疲労や負担を軽くすることができます。

さらに、第四に、中会の規模が小さくなると、特定の群れや個人に偏った負担が生じるという懸念もないわけではありませんが、ここはむしろ逆に考えて、「負いきれない重荷は負わない」という原則を初めから取り決めておきさえすれば、中会的課題がわたしたちのキャパシティを越えて、際限なく拡大していくのを防ぐことができます。

そして、第五に、これらのことはみな、東関東中会に属する各個教会の益となっていくでしょう。「中会活動が忙しすぎて、説教や牧会が疎かになる」と語らざるをえないような泥沼的状況から、牧師と教会を救い出すことができます。牧師と教会のはたらきが本来の輝きを取り戻すとき、教会に喜びが満ちあふれ、神の栄光が地上に輝きわたるでしょう。

このように、新中会設立は善いことずくめであると、わたしたちは確信しております。

しかしながら、現時点において、わたし個人は、「小中会主義」という言葉が以下のような誤解を招かぬようにと、強く期待しています。

すなわちそれは、「小中会主義」を掲げる東関東中会は、未来永劫「小規模中会」のままであってよい、という誤解です。

そんなことがあってよいはずがないでしょう。たしかに、わたしたちは一時的に小規模中会になります。しかし、それは過渡的・臨時的な形態にすぎません。

たとえば、東関東中会が設立三〇周年(二〇三六年予定)を迎えたとき、設立時と全く同じ数か、あるいは、さらにもっと少ない数の群れが存在するだけであるとしたら、それはまるで、自らの成長と発展を放棄した「怠け者の悪い僕」(マタイ二五章、ルカ一九章)と同じ姿です。こぢんまりとまとまって事足れりとするような行き方は、怠慢のそしりを免れえず、審きの座に耐ええません。

加えて、わたしは、さらに以下の二つの誤解があらかじめ退けられるよう望んでいます。すなわちそれは、東関東中会設立時のいわゆる伝道圏として確認される「埼玉県の一部、千葉県、茨城県」という県境を、未来永劫、決して踏み越えてはならない境界であるかのようにみなす誤解であり、それゆえ、「小中会主義」に「地域限定」という意味を見出そうとする誤解です。

日本キリスト改革派教会においては、かつて上諏訪湖畔伝道所が西部中会に属していたことがあり、いまも岡山教会と岡山西伝道所が四国中会に属し、九州と沖縄の教会が西部中会に属しています。同じ静岡県でも、北沼津伝道所は東部中会に属し、それ以外は中部中会に属しています。

このように、県境というものがただちに「中会」の境界ではありえないことは、わたしたち自身が実践的に確認してきたことでしょう。「東関東中会」という名称が、わたしたちを、関東平野の東半分だけに閉じこもらせるように機能しはじめる日が訪れないことを、期待しています。

わたしたちが目指しているのは、そのような狭い意味での「地域限定型中会」ではありません。むしろ、「地域性密着型中会」(a locality-oriented presbytery)です。

重要な問題は県境や地域間の不可侵条約ではなく、また、教会数や会員数が小さければよいということでもありません。おそらく県境は越えられてもよいし、教会数や会員数は多くなっていくべきなのです。

わたしたちが最も重要視していることは、中会に属する各個教会(local church)が、それぞれ置かれている状況と現実、その意味での「地域性」(locality)というものに温かく寄り添い続けることができるようにする、ということです。各個教会の存在がそのようなものでありうるように、中会が配慮し、助ける、ということです。

わたし個人の確信をたとえて言うならば(あまりよいたとえではありませんが)、教会の存在理由そのものである「宣教」には、飛行機の上から種を蒔くようなマクロ的抽象性が必要な場面も時にはあるかもしれませんが、むしろ、より多く、ミミズの目を探すようなミクロ的緻密さこそが必要である、ということです。

一例として、「日本キリスト改革派松戸小金原教会」は、ごく単純に言って、「日本の」教会であり、「キリストの」教会であり、「改革派の」教会であると同時に、「松戸の」教会であり、「小金原の」教会でもあるわけです。

もっとも、わたしたちが自らを「小金原の」教会であると呼ぶとき、まさか、それ以外の地域の人々を締め出す意図を持っているわけではありません。

「日本の」も「キリストの」も、そして「改革派の」でさえも、その枠内に納まりきらない人々を(十分な伝道や教育もしないうちに初めから)締め出す意味で語られるべきではありません。

そして、わたしたちは、これら各視点のうちのどれがいちばん重要か、と問うべきではありません。むしろ、すべての視点を、等しく・同時に・十分に重んじる必要があります。それは、教会とキリスト者の存在が、地域社会から、さらに言えば「地上の現実」から、遊離し、悪い意味で浮き上がり、抽象化してしまわないためです。

「地域性密着型中会」が真に実現するとき、わたしたちがこの種の抽象化の過ちに陥るのを防ぐことができます。

こういう中会を、わたしたちは、祈り求めてきたのです。

(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)

(日本キリスト改革派教会大会常任書記団発行『大会時報』第187号、2005年9月1日発行掲載)


2005年8月28日日曜日

多忙な日々の中で気づくべきこと

ルカによる福音書10・38~42


本日は、ひたちなか教会の皆さまと共に礼拝をささげることができますことを心より感謝いたします。


わたしがこの場所に参りますのは三回目です。最初は長谷部牧師の葬儀です。二回目は李康憲(イカンファン)牧師の就職式です。そして本日です。


何と申すべきでしょうか。ひたちなか教会の皆さまは、この数年の間、激動の中を過ごしてこられたのだと思います。


事情を知らない者が申し上げることができることは何もありませんが、ただ遠くからお祈りしておりました。


そして今日、良い機会を与えられ、皆さまにお目にかかることができると知ったときは、たいへんうれしく思い、この日を心待ちにしておりました。


この礼拝は、すぐに終わってしまいます。しかし、どうかこれからも、末永いお交わりをいただきたく、よろしくお願いいたします。


さて、先ほどお開きいただきましたのは、新約聖書・ルカによる福音書の中ではよく知られた有名な個所です。今日は、この個所を共に学んでいきたいと願っております。


この個所に最初に登場しますのは、イエスさまと弟子たちの一行です。旅行中でした。その一行が、ある村(おそらくベタニア村)にお入りになりました。


その村で一人の女性に出会いました。そして彼女の家に迎えられることになりました。


その女性の名前はマルタでした。その家にはマルタの妹であるマリアもいました。さらに、ここには出てきませんが、この姉妹には、ラザロという名前の弟が、一人いました。


イエスさまは、この兄弟のことを、以前から知っておられたようです。


「長旅、お疲れさまです。ぜひゆっくりお休みになってください。」


「お久しぶりです。ご家族の皆さまは、お元気ですか。」


このような挨拶が、交わされたのではないでしょうか。


そして姉のマルタは、イエスさまのお顔を拝見した瞬間から一種の“戦闘モード”に入ったようです。


さあ、たいへんだ。イエスさまが来てくださった。失礼など絶対にあってはならない。最高のおもてなしをしなくてはならない。そんなふうに考えたに違いありません。


そしてマルタは、まさにトップスピードで忙しく立ち回り始めました。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と書いてあるとおりです。


「いろいろのもてなし」とあります。食事の準備を指していると思われます。ユダヤ人のご馳走は、どんなものでしょうか。肉・野菜・果物、煮物・焼物などいろいろあったでしょう。


わたしたちにも同じようなことがあるでしょう。


急に大切なお客さんが来る。大急ぎで、部屋の掃除。子どもたちが散らかした(!)部屋の掃除。


そして近くの八百屋に買い物。帰ってくると、右手で料理をしながら、左手でテーブルを整え、椅子を並べ、お皿を並べる、などなど。


しなければならないことは、山ほどあります。


目の前におられるのはイエスさまなのですから。最高のおもてなしをしなくてはならない。マルタには、まさに一つの至上命令が下っていたのです。


それで、すっかり戦闘モード。鼻息荒く、目は少し血走っている。


なぜそんなふうに言えるのかといいますと、もちろん根拠があります。二つほどあります。


第一は、そのマルタが、自分のことを手伝ってくれない妹マリアに対して、怒りをむき出しにし、さらにそのことをイエスさまに告げ口していることです。


第二の根拠は、マルタがその怒りを、マリアに対してだけではなく、大切なお客さまであるイエスさまご自身に対してもぶつけているということです。


マルタは明らかに、イエスさまに対しても怒っています。そのように間違いなく語ることができます。マルタはイエスさまに対して、次のように言っています。


「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」


わたしは、このマルタの言葉の中に、彼女の思いの中にある二つの側面を読み取りたいと願っています。


その第一は“怒り”の側面です。そして、第二は“焦り”の側面です。


まず最初に、“怒り”の側面を、読み取ってみたいと思います。


それがよく表われているのは、マルタがマリアを「わたしの姉妹」と呼んでいる点と、「わたしだけにもてなしをさせている」と言っている点です。


マルタがマリアを「わたしの姉妹」と呼んでいることでわたしに思い出されるのは、旧約聖書・創世記4章のカインとアベルの個所です。人類最初の殺人事件です。


弟アベルを殺してしまったカインに神さまが「お前の弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになったところ、カインは、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えます。


「弟の」とカインは言い、「アベルの」とは言いません。名前を呼ぶことができないのです。


わたしたちにも、同じようなことがあると思います。


いま腹が立っている相手がいて、しかし、その相手のことを話題にしなければならないとき、その人の名前を口にすることができません。名前を言わず、「妹が!」とか「牧師が!」とか言うのです。


またマルタとマリアの場合、ただ名前を口にすることができないというだけではなく、やはり、姉と妹という、ある種の上下関係があることを無視できません。


マルタにとってマリアは妹である。どちらが上で、どちらが下かは、はっきりしている。


それなのに、わたしマルタのほうがまるで奴隷のように動き回っていて、妹は静かにお座りになっておられる。立場が逆ではないのかと、マルタは言いたいのです。


しかも、マルタは、この怒りを直接マリアにぶつけているのではなく、イエスさまに言う。イエスさまに言いながら、その目の前に座っているマリアにも間接的に伝えようとしています。


妹とは向き合いたくない。口を聞くのも嫌だ、という気持ちがあるのかもしれません。


また、もう一つの点ですが、マルタがイエスさまの前で、マリアは「わたしだけにもてなしをさせている」と言っているところも、マルタが怒っている、何よりの証拠です。


「わたしだけにもてなしをさせている」とは、言い方を換えると、「わたしだけがもてなしをさせられている」ということでしょう。


考えてもみてください。


いつ、だれが、マルタに「もてなしをさせた」のでしょうか。マリアがマルタは「させられた」ので嫌々ながら、もてなしていたのでしょうか。自発的に喜んでしていたのではないのでしょうか。


しかも、そういうことをマルタは、大切なお客さまであるイエスさまの前でズケズケと言い始めています。心の中がかなり混乱している様子が、分かります。


しかしまた、わたしはこのマルタの言葉には、もう一つの見逃せない側面があると考えております。それは“焦り”の側面です。


この側面が見逃せないと、なぜそのようにわたしが考えているかと申しますと、この面については、マルタに対してわたしたちが相当の部分で同情に値するところがある、と感じるからです。


マルタは、明らかに非常に焦っていました。それが、彼女の言葉の中に非常によく表われています。


「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」


マルタが、これほどまでに腹を立てた理由の、少なくとも一つとして考えられることがあります。


それは、ひとことでいいますと、マルタとしては、大切なお客さまとしてイエスさまをお迎えできたことに対するもてなしの準備を、一刻も早く終わらせたかったのです。


その気持ちが表われているのが、「わたしだけに」という言葉です。


もしここで、「わたしだけ」ではなく、一人だけではなく、せめてもう一人、手伝ってくれる人がいれば、今わたしがしている仕事は、半分の時間で済むのに、と。


今の仕事を半分の時間で済ませることができたなら、そうすれば、わたしもまたイエスさまのみそばに駆けつけて、心静かに、御言葉に耳を傾けることができるのに、と。


おそらくマルタの思いは、ただ仕事を早く終わらせたいだけなのです。その意味で、彼女はまさに焦っているのです。


これはとてもよく分かる話であり、また、十分に同情に値する話です。


たとえば、これは、家庭や職場や教会に当てはまる話です。


特定の人だけが苦労して、他の人が楽をしている。重荷を負っている人々が極端に偏っている。みんなで力を合わせれば、早く済ませられる仕事なのに、協力しないので、いつまでも終わらない。


しかし、です。マルタがイエスさまにガミガミとまくし立てていることには、やはり、かなりの部分、行き過ぎがあるといわざるをえません。


このマルタに対するイエスさまのお答えは、次のようなものでした。


「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


ここでイエスさまは明らかに、マルタの怒りを抑制するような、忠告するような口調で語っておられるます。ただし、それだけではありません。


まず一つの点として言いうることは、「マルタ、マルタ」と、マルタの名前を二回繰り返して読んでおられるのは愛情表現である、ということです。マルタの心を落ち着かせるために、愛情をこめて、二度、名前を呼んでおられるのです。


またもう一つの点として言いうることは、「必要なことはただ一つだけである」というイエスさまのお言葉も、多くの仕事を抱えて呻いていたマルタのことを冷たく裁くことが目的であるだけの言葉ではありえない、ということです。


いくらなんでも、です。イエスさまともあろうお方が、マルタに対して、多くのことを抱えているあなたのしていることは不必要であり、無駄であるなどと、そんな冷たいことをおっしゃるはずがないでしょう。


イエスさまが、そんなことをおっしゃるかどうかを考えてみれば、すぐ分かることだと思います。


そうではない。そうではないのです。


そうではないのだけれども、しかし・・・、というわけです。


少し落ち着きなさい。忙しいときにこそ、必要なこと、最も大切なことは何かをよく思い起こしなさい、ということを、イエスさまはマルタに求めておられるのです。


それは、次のようなことです。


あなたが最高のおもてなしをしようとしている相手の顔をよく見なさい、ということです。


その方の言葉をよく聞きなさい、ということです。


マルタがマリアに求めていることの意味をよく考えてみていただきたいと思います。


それは、最初から意図的にではないと思いますが、結果的・無意識的に「イエスさまの御言葉を聞くのは、後回しにしなさい。そんなヒマがあるくらいなら、わたしの仕事を手伝いなさい」という意味になってしまっています。


わたしがかつて田舎のほうの教会で働いていましたとき、ご近所の方から「毎週毎週、教会ナンカに通える人は、ヒマでよろしいですねえ」と皮肉を言われたことがあります。


わたしは、むきになって反論したりはしませんでした。とはいえ、もちろん、はっきり言いたいことがなかったわけではありません。


わたしたちは何も、ヒマだから教会に通っているわけではありません。


神さまの御言葉を聞くことが、わたしたちの人生において、他の何ものにも換えがたい、かけがえのないことであるゆえに、わたしたちは毎週、教会に通っているのです。


わたしたちから教会を、礼拝を、そして神の御言葉を取り去ることは、だれにもできないのです。


多忙さえも、わたしたちが神の御言葉、イエス・キリストの御言葉を聞かなくてよい理由にはなりません。


仕事が忙しいから礼拝を欠席するということは、現実には十分ありえますし、仕方がない面が、もちろんあります。


しかし、その理由を自分に与えすぎているうちに、わたしたちは、いつの間にか「ヒマだから教会に通っている。ヒマがないから教会に通えない」という話をしているのと同じことになるのです。


わたしたちは、このあたりで思い違いをしてはならないのです。


ここまでにいたします。


ひたちなか教会の皆さまがこれからも、ますます成長し、発展して行かれますよう、心からお祈りしております。


(2005年8月28日、ひたちなか伝道所主日礼拝)