2005年9月11日日曜日

「イエス・キリストの力」

ルカによる福音書11・14~28



今日お読みいたしました個所に書かれていますことは、はっきり申し上げまして、わたしたちの誰もがすぐ理解できるというようなものではない、むしろ、どこかしら難しさを感じるであろう事柄であると思われます。



とくに、おそらくわたしたちの誰もが難しいと感じるでありましょうことは、イエス・キリストというお方が「悪霊を追い出す」というみわざを行っておられたというこのことを、今の時代に生きるわたしたちは、どのように理解したらよいのか、という点です。



「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」



これはもはや、ある意味、文字どおり、書かれてあるとおり、と言うしかない事柄なのかもしれません。



主イエスが、ある人の中から、口を利けなくする悪霊を追い出された、ということが、現実に起こった事実として、紹介されているだけです。



ですから、わたしたちは、まさにある意味で「そのようなことが起こりました」と語るしかないのです。



しかし、ここでどうしてもわたしたちの中に起こってくる疑問は、「それはどのようにして起こったのか。主イエスは、そのとき何をなさったのか」という点です。



ここで思い出されるのは、ルカによる福音書のこれまでに学んできました個所を通して繰り返し確認してきた、主イエスが体や心に病を持っている人々をおいやしになるときになさった「さわる」・「ふれる」・「手をおく」などの行為です。



これらはみな同じと考えてよいでしょう。要するに、主イエスが「ふれる」と、悪霊が出て行くのです。



しかし、たとえ救い主といえども、です。さわるだけで病気がいやされる、というようなことが実際に起こるということについて、わたしたちは、ここに書かれているとおりに、即座に、また単純素朴に受け入れることができるほど、素直ではないように思われてなりません。



けれども、ここにはまた、「群集は驚嘆した」とも書かれています。また、これに続く個所には、次のように書かれています。



「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」



ここで分かることは、主イエスによるいやしのみわざを、即座に、また単純素朴に受け入れることができないのは、わたしたちだけではない、ということです。



そのみわざを自分自身の目の前で見ていた当時の人々もまた、わたしたちと同じような気持ちを持っていた、ということです。



現代人的な感覚がイエス・キリストの奇蹟を受け入れることができない、というだけではない、ということです。



ここに紹介されているのは、当時の人々が抱いた、とくに否定的な反応の内容は、どのようなものであったか、ということです。



それは要するに、「イエスというあの男は、悪霊の頭の力を利用して、悪霊を追い出しているのだ」というものでした。



言うに事欠いて何を言い出すのやら、と思わずにはいられません。彼らが語っていることは、要するに、イエスというこの男が、そのわざのために用いている力の本質は、悪霊的であり、悪魔的である、ということです。



あるいは、もっと別の言い方を許していただきますならば、そもそも宗教というものには独特の「悪魔性」というべきものがある、ということです。



たとえばの話ですが、わたしたちが病気にかかったときに、真っ先に行く場所は、教会でしょうか。おそらく、そうではないはずです。まずは病院に行くでしょう。それでよいと、わたしは考えております。



しかし、問題は、その先です。



わたしたちは、この病気が早くいやされますようにと、神に祈らないでしょうか。わたしのために祈ってくださいと、教会のみんなに訴えないでしょうか。



これについては、わたしは、もちろん、祈ってよいし、訴えてよいと、考えております。



ところが、です。こういうことについて、ある人々は、わたしたちとは全く正反対のことを考えるわけです。宗教というものに対する根本的な不信感を表明する人々がいます。



日本には、お祓いとか、ご祈祷を行う宗教が、山ほどあります。こういうのを最も忌み嫌い、退ける気持ちを持っているのは、じつは、わたしたち自身ではないかと思います。教会に通っているわたしたちです。



ところが、です。そのようなときに、わたしたちが神に祈ることと、お祓いやご祈祷というようなものとの間には、違いはない、という見方をする人々も、必ず出てくるのです。



今日の個所で、イエスさまに対する一種の中傷誹謗の言葉に対しては、イエスさま御自身が、次のようにお答えになっています。



「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。』」



この主イエス御自身のお答えが、果たして、わたしたち自身の素朴な疑問に対する答えになっているかどうか、という点については、正直、まだ心もとないところがあります。



と言いますのは、「あなたたちは、これこれと言うけれども」とか「わたしがこれこれをするのなら」とか、「わたしがこれこれをしているのであれば」というふうに、繰り返し、仮定的な言い方で語られております。



主イエスのお言葉に文句をつけたいわけでは、決してありません。しかし、できますならば、もっとはっきりとした言い方をしていただきたい、と感じなくもありません。



「わたしは悪霊の力で悪霊を追い出しているわけではない」と。



「わたしは神の力で悪霊を追い出しているのだ」と。



このように語っていただけるならば(もちろん、主イエス御自身の意図はそのとおりであると言って間違いないのですが!)、もう少し安心できそうな気もします。



ただ、ここでわたしは、なぜ主イエスが、このような、いくらか曖昧と感じられるようなお答えの仕方をされているのかということに関連していると思われる一つの点に、ぜひ注目していただきたいと、わたしは願っております。



それは19節です。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と書かれている個所です。ここで、とくに考えてみたいのは、「あなたたちの仲間は」とある中の「あなたたち」とは、誰のことなのか、という点です。



ご覧いただけば分かりますとおり、ルカは、そもそもこの論争をイエスさまにふっかけている相手は誰なのか、ということを、明らかにしておりません。



しかし、マタイとマルコは、それを明らかにしています。ただし、マタイとマルコは、食い違っています。



マタイは「ファリサイ派の人々」(マタイ12・24)が主イエスの論争相手であるとしていますが、マルコは「エルサレムから下って来た律法学者たち」(マルコ3・22)としています。



似たようなものだ、と言ってしまえば、それまでかもしれません。いえ、事実、いわば似たようなものです。



ファリサイ派の人々にせよ、律法学者たちにせよ、わたしがしばしば用いてまいりました表現を繰り返しますならば、要するに「宗教の専門家たち」です。当時のユダヤ教の最高権威者たちです。



そうだとするならば、です。「あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と主イエスが問いかけておられる意味が、分かってきます。



問われていることは、あなたたちの仲間、宗教の専門家たちは、悪霊を追い出すことができないのか、ということです。



あるいは、もし悪霊を追い出すことをしているならば、それは何の力で追い出しているのか、ということです。



いやいや、あなたがた、宗教の専門家たちの、そもそもの、本来の務めは、悪霊を追い出すことではないのか、それ以外の何を、あなたがたは、している、というのか、ということです。



もっと突っ込んで言いますならば、宗教とは、そもそも何なのか、という問いでもあるでしょう。



果たして、われわれのしていることは、宗教ではないのか、ということです。少なくともイエスさま御自身は、宗教というものに深くかかわっておられました。一体、もしこれが宗教でないのならば、他の何なのか、ということでもあるでしょう。



あなたがたは、わたしのしていることは、悪魔的であると見ている。しかし、それならば、あなたがたのしていることは、何なのか。わたしのしていることとは、別のことなのか、ということでもあるでしょう。



少なくとも、われわれの目的は、共通ではないのか。それは、困っている人、苦しんでいる人を、なんとかして助けること、です。



もし目の前に、現実に、悪霊というような奇妙な何かにとりつかれている人がいるならば、それを取り除くこと。それ以外に、その人を助ける道があるのか。



こういう問いでもあるでしょう。



「宗教の専門家」と呼ばれる者たちの中に、牧師も数えていただけるのかもしれません。しかし、今日の個所を読みながら、「専門家」の陥りやすい大きな落とし穴がある、ということを、感ぜざるをえませんでした。



それは、他人のしていることは皆、悪魔的であると見ること。そして、自分のしていることだけが正しい、と考えることです。



わたし自身は、宗教はどれも同じなどとは、決して考えておりません。キリスト教の内部においてさえ、どれも同じとも考えておりません。改革派教会の宗教と信仰告白が最も正しいと、確信しております。



しかし、だからといって、他の立場の人々のしていることを、ただこき下ろすだけなら、本当によくないことです。



「彼らは悪魔の力を借りて仕事をしている」。こういう言葉は、厳に慎むべきでしょう。それこそ、「宗教の内輪もめである」と言われても、仕方がないでしょう。



大切なことは、他の人々がしていることを批判することではありません。



大切なことは現実に困っている人、苦しんでいる人を、その苦しみや痛みの中から助け出すことです。



そのために奉仕し、苦労することです。



そのために、イエス・キリストは来てくださいました。



まことの救い主イエス・キリストがそこにおられ、救いのみわざが実現しているところが「神の国」なのです。



(2005年9月11日、松戸小金原教会主日礼拝)