ルカによる福音書11・29~36
「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」
主イエス・キリストのこの御言葉は、先週学びました個所に出てくる「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」(ルカ11・16)ことへの対応として語られたものである、と考えることができます。
しかしながら、ここでルカは「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者」とは、具体的に言って誰のことなのか、ということについては、明らかにしておりません。
マタイとマルコは、それを明らかにしています。マタイは「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」(マタイ12・38)が、イエスさまにしるしを求めたとしています。マルコは「ファリサイ派の人々」(マルコ8・11)としています。
ですから、マタイとマルコの線で申し上げますならば、イエスさまに天からのしるしを求めた人々は、要するに、先週の個所にも登場しました、いわゆる「宗教の専門家たち」であった、ということになります。
そうなりますと、次第に分かってくることがあります。それは、今日の個所で主イエスが「今の時代の者たちはよこしまだ」という厳しい批判の言葉を差し向けておられる相手は、具体的に言って誰なのか、という点です。
これが、マタイによれば「律法学者とファリサイ派」、マルコによれば「ファリサイ派」の人々である、と考えることができるのだ、ということが分かってくるのです。
ということは、さらに言うならば、「今の時代の者はよこしまだ」とは、「今の時代の宗教家たちはよこしまだ」という意味でもありえます。
そして、「よこしま」とは「悪い」ということです。つまり、「今の時代の宗教家は悪い」。
こういうことを、すなわち、一種のその時代の宗教家たちに対するたいへん厳しい批判を、主イエスがこの個所で語っておられるという可能性が十分ありうる、ということです。
とはいえ、このような読み方をする場合に、当然見逃してはならないのは、ルカ11・16に明記されている「イエスを試そうとして」という点です。
宗教家たち自身は、何も決して「天からのしるし」というものを、主イエスに対して、本気で求めていたわけではない。彼らは、ただ主イエスを試すためだけに、いわばそれを求めるふりをしていただけである、という読み方も、当然成り立つでしょう。
しかし、ここでさらにもう一つ見逃してはならないと思われるのが、「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた」(ルカ11・17)という点です。
この意味は、主イエスは、当時の宗教家たちの思いをすべてお見通しであった、ということです。
そうであるならば、です。人々が主イエスに対して、本気でしるしを求めようと、それを求めているふりをしているだけであろうと、関係ありません。
イエスさまは、その人々に対して、「ヨナのしるし」以外のしるしを示されることはない、と言われたのです。
ここで語られている「しるし」の意味は、イエスさまというこのお方が、果たして本当に救い主であるかどうかを明らかにするための、目に見える証拠のことです。
当時のユダヤ人は、旧約聖書において預言され、約束された救い主メシア(キリスト)の到来を信じることについては、やぶさかではありませんでした。
ところが、その彼らの前に、実際に「わたしこそ救い主メシア(キリスト)である」と語る人が現れた場合には、その証拠を見せてほしいと、いわば当然のように、迫ることをせざるをえなかったわけです。
そのようなことは、証拠を見せてもらわなければ信じることができそうもない、というのは、わたしたちだって、同じ気持ちを持つことがあるでしょう。
しかし、ここで語られていることは、主イエスは、彼らに対しても、またわたしたちに対しても、「ヨナのしるし」以外のしるしを、お示しになることはない、ということです。
それでは、「ヨナのしるし」とは、何のことでしょうか。主イエスは、次のように語っておられます。
「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」
「ヨナ」とは、旧約聖書・ヨナ書(新共同訳1445〜1448ページ)の主人公の名前です。
ヨナ書は、旧約聖書の中ではたいへん短い書物であり、また内容が分かりやすくて面白いので、非常に多くの人々に愛されている書物でもあります。
ヨナは、神さまからニネベという町に行きなさい、というご命令を受けとります。
それは、ニネベという町に住んでいる人々は、神さまの目からご覧になって悪かったので、その人々に向かって、自分たちの罪を悔い改めるようにと説教するためでした。
もしあなたがたがこのまま悪いことを続けているなら、この町は滅びます、ということを言いに行くためでした。
ところが、ヨナは、あろうことか、その神さまのご命令を、とても嫌がり、逃げようとします。
考えてみれば、そんな仕事は、誰だって嫌なものだと思います。わたしだって嫌です。牧師がどこかの教会に行き、開口一番、「あなたたちは悪い人々です。悔い改めなさい」と語る。そうしますと、必ずや、その教会の人々から嫌われるでしょう。
たとえ、神さまのご命令であっても、です。行った先の人々から嫌われることが初めから分かっているようなところに行きたいと思う人は、ほとんどいないでしょう。
ヨナも同じでした。ですから、彼はとにかく逃げ回ります。船に乗って別の町に行こうとしました。
ところが、その船が嵐に遭い、船員たちがその嵐の責任をくじで決めようとしたとき、ヨナがそのくじを引いてしまい、彼は海の中に放り込まれてしまいました。
しかし、ヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中で生活した後、その魚はヨナを吐き出しました。面白い話だと思います。
そんなことがあって、仕方なく、ヨナは、ニネベに行きました。
すると、驚いたことに、ニネベの人々は、ヨナを嫌うどころか、ヨナの言葉を素直に受け入れて、自分たちの罪を悔い改めました。そして、その様子をご覧になった神さまは、ニネベの町の人々に災いを下すことをおやめになったのです。
ところが、ヨナは、そこで非常に腹を立てました。この場面でなぜヨナは腹を立てたのかについては、どのように理解してよいのか分からない面があります。しかし、どうやら、ヨナはニネベの人々に悔い改めてほしくなかったようです。
ニネベはユダヤ人にとっては異教の町だったからです。異教の町は滅びるべきだという確信があったのかもしれません。
しかし、神さまは、そのようなヨナの考えを否定されました。そして、神さまは、異教の町に生まれ育ったとしても、自分の罪を真に悔い改める人々に対しては、救いの恵みと憐れみの御心とをお示しになるお方であることを、ヨナに教えようとされました。
これがヨナ書の内容であり、主イエスがお語りになった「ヨナのしるし」の意味です。
また、主イエスは、もう一つ、「南の国の女王」のたとえを引き合いに出しておられます。しかし、これについては、詳しくお話しする時間がありません。
これは列王記上10章と歴代誌下9章に出てくる有名な話です。
現在のエチオピアあたりと言われるシェバの国の女王が、ダビデの子ソロモンのもとを訪れ、ソロモンにいろんな質問をしたところ、ソロモンはそのすべてに答えを与えることができた、という話です。そして、その後、シェバの国はユダヤ教に改宗したと言われています。
主イエスが、シェバの女王の話を、ヨナの話と一緒にしておられる理由は、明白です。二つの話は、内容的に重なり合います。要するに、異教の町に生まれ育った人々が、真の神を信じるようになった、という点で、一致しています。
そして、これこそが「しるし」であると、主イエスは語っておられるのです。「しるし」とは、主イエスこそが真の救い主メシアであることの証拠です。すなわち、それは、異教の国の人々の救いです。異邦人の救いです。
それは、ヨナのような人に言わせると、ありえないこと、あってはならないことでした。
ひどく乱暴な言い方を許していただくなら、異教の町に生まれた人は、その教えを信じたままで生きていくこと、死んでいくことこそが、その人の定めなのであって、それ以外の選択肢はありえないし、あってはならないのだ、ということです。
このような考えに対しては、わたしたちは、大いに腹を立てるべきです。
この日本という国も、歴史的に見れば、あるいはヨナのような人の目から見れば、まさに異教の国、異邦人の国です。
しかし、です。わたしたちは、この国の中で生まれた者であるから、という理由で、真の神さまを受け入れることも信じることも、ありえないこと・あってはならないことだと、言われなくてはならない存在なのでしょうか。
そんなことはありえません。そのような考えこそ、あってはなりません。わたしたちは、今やまさに、現実に神さまを信じ、現実に救われています。この事実もまた、誰にも否定されてはならないものなのです。
しかしまた、このことは、すなわち、わたしたちが救われていることは、ある意味で、たしかに「しるし」、あるいは「奇蹟」と呼ぶにふさわしいことであるかもしれません。
それは、わたしたち自身にとって、おそらく非常に身に覚えのあることであるに違いありません。
「わたしが今や、毎週喜んで教会に通っていることは、一年前には想像もつかなかったことです」と。
「わたしが今や、牧師などをしているということは、数年前には想像もつかなかったことです」と。
そのように感じている人は、おそらく、非常に多いのです。「ありえない」と思い込んでいたことが、ありえた。このことをわたしたちは「奇蹟」と呼ぶのです。
あの人が救われることなど、ありえない。このわたしが救われることなど、ありえない。そのような思いは、言うならば、「人間の思い」です。
しかし、そのような「人間の思い」は、しばしば打ち破られます。打ち破られてよいのです。「神の思い」が実現するときに、「人間の思い」が打ち破られるのです。
「ここに、ソロモンにまさるものがある。」「ここに、ヨナにまさるものがある。」
ここで主イエスが語っておられる「ここにある、ソロモンにも、ヨナにも、まさるもの」の意味は、要するに、主イエス・キリストの存在と御言葉のことです。
そのとおり、まさにイエス・キリストは、ソロモンにも・ヨナにも、まさっています。
ソロモンやヨナでさえ、説教によって異邦人を真の救いに導くことができたのであれば、「ヨナにまさる」イエス・キリストに、できないはずがありません。
イエス・キリストの御言葉によって、わたしたちは、現実に救われます。たとえそれが根っからの異教徒・異邦人であっても、です。
これこそが、主イエスが真の救い主メシア(キリスト)であることの、真の「しるし」なのです。
ですから、わたしたちは、あきらめませんし、あきらめてはなりません。わたしたちは、自分の家族や友人たちも救われるのだということを信じてよいし、信じなければならないのです。
「日本をあきらめない」。これは、わたしたちキリスト者こそが語るべき言葉なのです。
(2005年9月18日、松戸小金原教会主日礼拝)