ルカによる福音書11・1~13
先日予告しましたように、今日から、日曜日の朝の礼拝の中で「主の祈り」を唱えることになりました。ちょうどその最初の日に、はからずも、ルカによる福音書の中の「主の祈り」の個所を開くことができましたことを、神さまのお導きと信じ、感謝しております。
「主の祈り」に関する御言葉は、新約聖書の中にもう一個所、マタイによる福音書6章にも出てきます。両方を読み比べますと、いくつか異なる点があることが、すぐに分かります。
最も大きな違いは、マタイによる福音書に紹介している「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」といういわゆる第三の祈りが、ルカによる福音書のほうには無いことです。
しかし、今日は、読み比べるという作業は、あまりしないでおきます。ルカが紹介している範囲内でお話しできることだけに、とどめておきます。
「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。』」
「ヨハネ」とは、これまでもルカによる福音書の中に繰り返し登場してきた、洗礼者ヨハネのことです。イエスさまご自身に洗礼を授けた、あのヨハネです。
そのヨハネが、自分の弟子たちに、祈りを教えていました。ヨハネの祈りの内容がどのようなものであったかは知られていません。しかし、すでに学びましたルカによる福音書の5・33には、次のように書かれていました。
「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。』」(ルカ5・33)
これで分かることは、ヨハネのグループにもファリサイ派のグループにも、各グループごとに、祈りの定型文のようなものがあった、ということです。祈りの内容が、グループを見分ける標識の役割を果たしていた、ということです。
イエスさまの弟子の一人が「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったことは、彼らと同じように、わたしたちにも、ということです。
わたしたちイエス・キリストを信じる者たちにも、わたしたちのグループのいわば旗印となるような祈りの言葉をください、ということです。
今や、この弟子の願いどおりになっております。全世界のキリスト教会が「主の祈り」を唱えております。ローマ・カトリック教会も、東方正教会も、プロテスタント教会も、です。この祈りにおいては、キリスト教界の分裂は、ありません。
一つ一つの祈りの意味については、いろいろな現代的な解釈もあり、それが悪いと言いたいわけではありませんが、わたし自身は、ハイデルベルク信仰問答(吉田隆訳)の主の祈り解説など、伝統的な解釈のほうが、わたしたちにとっては大いに役立つと考えております。
みなさんにもぜひ、ハイデルベルク信仰問答を開いていただきたいです。
「父よ、御名が崇められますように」とは、ハイデルベルク信仰問答の解説によりますと、要するに「わたしたちが神を賛美することができますように」ということです。
ここで大切なことは、神の御名を崇めるのは、わたしたち自身である、ということです。わたしたち以外の、どこかのだれかの話ではありません。
求められているのは、わたしたち自身が神を正しく知ることです。そして、わたしたち自身の生活すべて、生き方すべてが正しいものとされることによって、わたしたちの存在そのものが神賛美となることです。
「御国が来ますように」とは、これもハイデルベルク信仰問答によりますと、「あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、あなたの御言葉と聖霊とによってわたしたちを治めてください」ということです。
「御国」とは、神の国です。神の支配領域のことです。神によって支配されるのは、これも、わたしたち自身です。わたしたちの知らない、どこかのだれかの話ではないのです。
そして、ハイデルベルク信仰問答は、「あなたの教会を保ち進展させてください」という意味を加えています。
教会と神の国の関係という問題は、これを議論しはじめると、牧師たちの中で大喧嘩になるような難しいものです。
しかし、ここまでくらいは語ってよいであろうことは、教会は神の国のすべてではありませんが、神の国の中心にある、ということです。御言葉と聖霊によってわたしたちが治められている具体的な場所は、教会です。
ですから、わたしたちにとって大切なことは、生活の中心に教会があるということです。教会で、わたしたちは、神の国の生活を、具体的に体験することができるのです。
このことは、とくに日本の国のような場所では、はっきりしている事実です。この国の中で、教会以外の場所で、神の国を具体的に体験することは、非常に難しいといわざるをえません。
続く祈りについても、ハイデルベルク信仰問答の解説を参考にしたいと思います。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」とは、「わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください」ということです。
そして、このことを神に向かって祈ることによって、「わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられることを・・・知らせてください」ということです。
「いや、わたしは自分の力、自分の戦いによって、すべてのものを得てきたのであって、神から得たのではない」と、抵抗したい気持ちになる人々がいることも、承知の上です。
そのような抵抗への抵抗を、この祈りによって表わすことができます。
だれが、一体、自分の力、自分の戦いだけで、何かを得てくることができたでしょうか。
夫である人が妻の前で、そのようなことを言おうものなら、妻が怒りはじめるでしょう。「あなた一人で、何ができたのですか。冗談を言わないでください」と。
親である人が子どもたちの前で、そのようなことを言おうものなら、子どもたちが怒りはじめるでしょう。「お父さんやお母さんだけが苦労しているなどと言わせない。ぼくたちわたしたちも、苦労しているよ」と。
少なくとも、です。多くの人々の苦労、みんなの涙が、このわたしを支えている、ということに気づく必要があるでしょう。
そして、そのような人と人との関係、この世における人間同士の付き合いを含む、わたしたちの存在を支えている関係のすべては「良きものすべての唯一の源」としての神から与えられたものである、ということに気づく必要があるのです。
「わたしたちの罪を赦してください」とは、「わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください」ということです。
ハイデルベルク信仰問答を読みながら気づかされることは、この祈りの中で問題になっていることは「わたしたちのあらゆる過失」という点である、ということです。
「過失」とは、ご承知のとおり、故意に犯したわけではないけれども、不注意や怠慢などが原因で起こる失敗のことを意味します。
子どもたちは「わざとやったわけじゃないもん」と言い訳します。そう言って、ますます叱られます。「わざとじゃなくても、悪いことをしたら、ごめんなさいと、謝らなきゃならんのだよ」と。
しかし、実際のところを考えてみますならば、「過失」というのは、それを犯した者たちの心を、まさにどん底まで追い詰めてしまうものがあります。
日本は、過失に寛容な社会でしょうか。それとも、不寛容な社会でしょうか。ぜひ教えていただきたいです。
一言の赦しの言葉が、語れないものでしょうか。それが過失の負い目に苦しんでいる人々にとって、どれだけ大きな救いとなるでしょうか。
わたしたちは、その一言も語ることができない、ケチな人間のままでよいのでしょうか。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」の意味として理解しうる第一のことは、「わたしたちは、自分自身あまりに弱い」ということです。
「その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が絶え間なく攻撃をしかけてくる」ということ。
そして、それに対して、「あなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください」ということです。
これについても、当然のように、反論が予想されます。その中で最も答えにくい反論は、次のようなものでしょう。
「この世の中で、わたしたちにいろいろな種類の攻撃が仕かけられる。そういう話は、よく分かる。しかし、だからといって、神に祈って何になるのか。われわれの抵抗や反撃の方法は、祈りではないはずだ。宗教ではないはずだ。」
しかし、わたしたちは、そういうときにこそ、祈るべきです。主の祈りを唱えるべきです。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈るようにと、わたしたちの主イエス・キリストが「祈るときには、こう言いなさい」と命じておられるからです。
この夏に久しぶりに再会した一人の青年(大学2年生)から、こんな話を聞きました。
「父が、キリスト教なんかやめろ、と言いました。宗教は弱い人間が頼るものだ。そんな負け組のような生き方から、早く足を洗いなさい、と」。
「きみはどう答えたの?」と尋ねましたところ、「じつは、何も言い返せませんでした」と正直に答えてくれました。わたしは言いました。「それでいい。何も言い返さなくていいよ」と。
ただ、もう一言、「でも、きみ自身はどうなの?キリスト教をやめられますか?」と付け加えましたところ、
「それはできません。この道に入ることができて本当によかったと、感謝していますので」と答えてくれました。
「それでいい」と、わたしは言いました。「いつかきっと、お父さんも分かってくれるときがくるんじゃないかな」と。
分かってくれない人がいるからこそ、わたしたちは祈ります。
議論してはならない、と言いたいわけではありません。しかし、それだけではなく、わたしたちは、「神に委ねる」という手段を用いることができるのです。
最後に加えておきたいことは、文語訳の「主の祈り」は、悪い意味のお題目になりやすい、ということです。
一つ一つの祈りの意味をよく理解しながら、「主の祈り」を唱えようではありませんか。
(2005年9月4日、松戸小金原教会主日礼拝)