2005年10月2日日曜日

聖霊の教導

ルカによる福音書12・1~12

今日の個所に記されているのは、先週の個所に記されていた出来事と同じ場所で起こった、時間的にも続いている出来事であると、読むことができます。

「とかくするうちに、数えきれないほどの群集が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」

先週の個所でイエスさまは、ファリサイ派の人々と律法の専門家たちを、非常に厳しい言葉で批判されました。その内容についての説明は、繰り返さないでおきます。

すると、やられたらやり返す、です。イエスさまから批判を受けた人々は、イエスさまに激しい敵意を抱き、反撃を開始しました。「数えきれないほどの群集が集まって来た」とは、大論争が始まったので、野次馬たちが集まってきた、ということでしょう。

「イエスは、まず弟子たちに話し始められた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。』」

「パン種」とは、パンをふくらませるために小麦粉の中に混ぜ込む、酵母のことです。それは、一つ一つのパンにとっては少量で事足りるものです。そして、それ自体は目立ちません。パンの中に隠れてしまいます。

そういうものが、あなたがた、イエスさまの弟子たちの中に入り込まないように、気をつけなさいと、イエスさまは言っておられるのです。あなたがたは、ファリサイ派の人々のような「偽善者」になってはならない、と言っておられるのです。

「偽善者」の原意は、仮面をかぶった人のことです。同じ言葉が、仮面をかぶって劇に出演する“俳優”のことを意味していた時代があります。

人前では、口先では、善いこと、立派なことを語りながら、しかし、腹の中では正反対のことを考え、人の見えないところで悪事を働く人のことです。

しかも、ここでイエスさまが問題にしておられるのは、宗教の専門家たちです。多くの人々に向かって、聖書の御言葉を語る仕事をしている人々のことです。

講壇の上では、「聖書にはこのように書かれている。神の御心はこのようなものである」と語る。ところが、その後、自分の家に帰り、部屋に入る。そこでは、全く正反対のことを語り始める。

そのような人々を、イエスさまは、非常にお嫌いになったのです。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。』」

彼らの悪事については、これを隠すことは、決してできない、ということです。

イエスさまが、宗教の専門家たちに対してこれほどまでに厳しい言葉を語っておられるのは、少し語弊を恐れながら言いますなら、イエスさまというお方は、ある意味で彼らと“同業者”であられたからだ、と考えることができるでしょう。

たとえば、おそらく、イエスさまも、説教が終わったあとの疲労感を味わわれました。説教も、けっこうな労働です。説教前、説教中、説教後のそれぞれに、苦労があります。説教が終わった後、説教者は、自分で語った言葉の責任をとらなければなりません。

イエスさまも、わたしたちと同じ人間の肉体を持っておられるのですから、きっとお疲れになったことでしょう。それは当然のことです。

しかし、まさにそのとき、その瞬間に、油断が起こる。油断もすきも起こるのです。宗教者の犯す罪の温床が、そのあたりにあると言えます。そのことをイエスさまは、よくご存じだったのです。

責任の重さに耐えきれないとか、ひとは誰でもどこかで息抜きが必要である、というのは、もちろん理解できない話ではありません。しかし、それは「単なる甘えにすぎない」と言われても仕方がない面があるでしょう。

人格と生活との表と裏とが、あまりにも落差があり、かけはなれたものにしないためには、どうしたらよいでしょうか。それは、ごく単純なことなのだと思います。表で、あまりにも格好をつけすぎないことです。裏で、あまりにも羽目をはずしすぎないことです。そして、わたしたちの裏も表も、すべてお見通しのお方の前で生きているという自覚を持つことです。そのお方の前では、だれ一人隠れることはできない、と信じることです。

「『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。』」

ここでイエスさまが「友人」と呼んでおられるのは、ひとまずイエスさまの弟子たちのことである、と理解することができます。しかし、おそらく、もう少し広い意味です。

それは、“現在、イエスさまの弟子である人々”のことだけではなく、“これから弟子になる人々”のことが含まれていると考えてよいでしょう。

イエスさまの「友人」になるということで、イエスさまは、わたしと同じ立場に立って、わたしと一緒に、ファリサイ派や律法学者たちの「偽善」と闘ってほしい、と呼びかけておられるのです。

しかし、問題は、その闘いの内容は何か、です。イエスさまの呼びかけに応じて、仲間に加わった人々は、何をすればよいのか、です。

この点についてイエスさまが教えておられることは、「体を殺しても、それ以上何もできない」偽善者たちを恐れるな、ということです。そして、「本当に恐れるべき方」を、もちろん、天地万物の造り主なる神さまを、恐れなさい、ということです。

ここで語られているのは、いわばそれだけです。“闘う”と言いますと、ついわたしたちは、力に対しては力をもって抵抗する、というあり方を思い浮かべてしまうのかもしれませんが、イエスさまは、そのような闘いをお望みになりませんでした。

そしてまた、イエスさまの仲間たちがなすべき“闘い”の内容として、もう一つ考えられることは、イエスさまが最初に語られました「ファリサイ派の人々のパン種に注意すること」です。

あなたがた、わたしの弟子たちの中にそれが入り込まないように、注意することです。わたしたち自身が、「偽善者」にならないように気をつけることです。

誰かを悪者にし、その人々を批判するだけで、済ませることはできません。イエスさまの弟子である者たちには、自分自身の信仰と悔い改めこそが、求められているのです。

「『言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。』」

ここで語られていることを一言にまとめて言いますなら、イエスさまの弟子である者が「わたしはイエスさまの仲間である」ということを公の場で告白するときには、他ならぬイエスさま御自身が、そして、父なる神と聖霊なる神が、天にあって、天使たちと共に、味方してくださる、ということです。「人の子」とは、イエスさまご自身のことです。

そして、だからこそ、あなたがたは、イエスさまを否定する権力者たちを前にしても、恐れることはないし、言い訳の言葉を、あらかじめ考えたり、原稿を書いておいたりする必要はない、ということです。

語るべきことは、そのとき、その瞬間に、聖霊なる神が、教えてくださるからです。

この個所で、しばしば問題になるのは、「聖霊を冒涜する者は赦されない」というイエスさまの御言葉です。

この言葉には、さまざまな解釈があります。しかし、今日、わたしは、これが置かれている文脈の前後関係から、この言葉の意味を考えてみたいと思います。

イエスさまを否定する権力者たちの前で何を語るべきかをわたしたちに教えてくださる聖霊なる神を冒涜する、とは、逆に言えば、そういうことをそのとき、その瞬間に教えてくださる聖霊なる神などというものは存在しない、と考えたり語ったりすることでしょう。「冒涜する」とは、悪口を言うことであり、その存在や働きを否定し、信じないことです。

「聖霊なる神」だの「聖霊の導き」だの、そんなものは存在しないのだから、やはり、わたしたちは、そのような場面に備えて、あらかじめ原稿を書いておくべきだ、という考えを持つこと、実際に原稿を書いてしまうことも含まれている、と語りうるかもしれません。

今、わたしは、“あらかじめ原稿を書く”という表現を、あえて用いています。このことによって、わたしが申し上げたいのは、原稿ということ自体ではなく、むしろ、そのような努力をすること自体です。すなわち、「聖霊なる神」など存在しないという確信を持ち、それゆえに「聖霊の導き」というようなことに身を委ねることができず、いわばその代わりに、すべてを自分が準備し、自分で実行し、自分で後始末すること、つまり、事柄の最初から最後まで、自分自身が、ひとりで、すべての責任をとらなければならないと考え、実際に責任をとろうとする、そのような態度や生き方自体です。

それは、ある意味で、非常に真面目な、生真面目な生き方です。悪く言えば、クソ真面目です。

しかし、そのような真面目さの正体が、「聖霊なる神の導き」というような次元の事柄を信じることができないゆえに生じているものであるとするならば、そこにこそ、罪があるのです。

そして、それこそが、イエスさまが語られている「聖霊を冒涜する罪」の意味である、と考えることができるのです。イエスさまは、この罪は赦されない、と語っておられます。どんな罪でも赦されるはずではなかったのかとお感じになる方も、きっとおられるでしょう。

しかし、ここはよく考える必要があります。聖霊なる神が、わたしたちにもたらしてくださるものは、まさに罪からの救いであり、罪の赦しの恵みです。

先ほど、わたしたちは、日本キリスト改革派教会が定める式文に基づいて、「罪の告白と赦しの宣言」を行いました。

「あなたがたは、おのおの真心から自分の罪を悔い、イエス・キリストにおいて提供された神の憐れみと赦しによりすがろうとしています。このように、心から悔い改めてイエス・キリストによりすがる人には、父と子と聖霊の御名によって、罪の赦しを宣言します。アーメン。」(日本キリスト改革派教会式文集より)

この“罪の赦しの宣言”を、わたしは、牧師としての職責において、読ませていただきました。そのわたしは、この言葉を、皆さんに、ぜひ、本気で信じていただきたいのです。「わたしの罪は赦された」ということを、です。

その聖霊のみわざを冒涜し、否定するというのですから、それは、「自分の罪は、決して赦されない。そのようなことは、永久にありえない。そのような神の恵みがあることなど、全く信じられない」というような確信を持つことをも意味しているのです。

要するに、「罪の赦しを信じることができない罪は、赦されない」ということです。逆に言えば、「罪の赦しを信じる人の罪は、すべて赦される」のです。

この話は“循環”していることが、お分かりでしょうか。堂々巡りです。だからこそ、この循環は、断ち切られなければなりません。

わたしの罪は、決して赦されない。わたしの罪の重荷のすべては、自分自身で背負っていかなければならない。それは、あまりにも重苦しい考え方です。

イエスさまが、こう言われたではありませんか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11・28)

ファン・ルーラーは、イエスさまのこの御言葉〔マタイ11・28〕の解説として、「わたしたちの真面目な生き方が、わたしたちにとって、とても重荷になることがありえます」(A. A. van Ruler, Dichter bij Marcus, over het evangelie naar Marcus 1-8. G. F. Callenbach B. V. - Nijkerk, 1974, p. 50)と語っています。

これは、不真面目で不誠実な生き方を選んでよい、という意味ではありません。

そうではなく、何もかも自分ひとりで背負い込まないでよい、ということです。

わたしたちは、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神の恵みと導きを選びとり、身を委ねることができます、ということです。このことこそが、わたしたちを、真の意味で“楽にする”のだ、ということです。

わたしたちは、神さまと共に生きることによって、人生を楽しむことができるのです。

(2005年10月2日、松戸小金原教会主日礼拝)