2005年9月1日木曜日

東関東中会の設立に向けて

関口 康 (日本キリスト改革派教会東部中会東関東伝道協議会副書記)

東部中会は、去る二〇〇五年四月四日―六日〜一八日の第一回定期会において、二〇〇六年七月一七日に「東関東中会」の設立式を行うことを決議しました。今は、大会における承認の瞬間を待つばかりです。

わたしたち東関東地区諸教会一同は、喜びの日を目前に控え、これまで長きにわたって温かいご理解とご支援を賜わった皆さまに、厚く御礼申し上げます。

わたしたちが東部中会に提出した「東関東中会設立願」に署名捺印したのは教師一二名、長老一〇名です。この総勢二二名が、そのまま東関東中会議員名簿への登録予定者です。

教師一二名の所属教会名は以下のとおりです(署名順)。湖北台教会、松戸小金原教会、勝田台教会、船橋高根教会、千城台教会、稲毛海岸教会、筑波みことば伝道所、花見川キリスト伝道所、新浦安伝道所、ひたちなか伝道所、牛堀みことば伝道所、三郷伝道所。

ただし、このうち二つの伝道所は二〇〇五年度中に教会設立を予定し、また一つの伝道所は廃止を予定しています。従って、新中会設立時には八教会・三伝道所となります。

これでお分かりのとおり、東関東中会は、日本キリスト改革派教会の中では教会・伝道所の総数が最も少ない中会として出発しようとしています。そのために「小中会主義」と称する原則を採用する、ということを、大会的にも繰り返し確認してきたことは、周知のとおりです。

わたしたちは、正直に言って、新しい形で開かれていく中会会議に、大いに期待しています。

第一に、物理的距離が近い諸教会を代表する二二名の中会議員であれば、短時間で一堂に会することができます。たとえば、日曜日の午後に、臨時会や定期会でさえ開くことが可能になります。

第二に、諸教会の距離の近さゆえに、中会内の人的交流が活発になりますので、諸教会の実情や課題をよく知り合うことができ、祈りの内容がより具体的になるでしょう。

第三に、中会の委員会活動についても、出席に要する移動時間や交通費などを削減でき、また、牧師や教会役員の疲労や負担を軽くすることができます。

さらに、第四に、中会の規模が小さくなると、特定の群れや個人に偏った負担が生じるという懸念もないわけではありませんが、ここはむしろ逆に考えて、「負いきれない重荷は負わない」という原則を初めから取り決めておきさえすれば、中会的課題がわたしたちのキャパシティを越えて、際限なく拡大していくのを防ぐことができます。

そして、第五に、これらのことはみな、東関東中会に属する各個教会の益となっていくでしょう。「中会活動が忙しすぎて、説教や牧会が疎かになる」と語らざるをえないような泥沼的状況から、牧師と教会を救い出すことができます。牧師と教会のはたらきが本来の輝きを取り戻すとき、教会に喜びが満ちあふれ、神の栄光が地上に輝きわたるでしょう。

このように、新中会設立は善いことずくめであると、わたしたちは確信しております。

しかしながら、現時点において、わたし個人は、「小中会主義」という言葉が以下のような誤解を招かぬようにと、強く期待しています。

すなわちそれは、「小中会主義」を掲げる東関東中会は、未来永劫「小規模中会」のままであってよい、という誤解です。

そんなことがあってよいはずがないでしょう。たしかに、わたしたちは一時的に小規模中会になります。しかし、それは過渡的・臨時的な形態にすぎません。

たとえば、東関東中会が設立三〇周年(二〇三六年予定)を迎えたとき、設立時と全く同じ数か、あるいは、さらにもっと少ない数の群れが存在するだけであるとしたら、それはまるで、自らの成長と発展を放棄した「怠け者の悪い僕」(マタイ二五章、ルカ一九章)と同じ姿です。こぢんまりとまとまって事足れりとするような行き方は、怠慢のそしりを免れえず、審きの座に耐ええません。

加えて、わたしは、さらに以下の二つの誤解があらかじめ退けられるよう望んでいます。すなわちそれは、東関東中会設立時のいわゆる伝道圏として確認される「埼玉県の一部、千葉県、茨城県」という県境を、未来永劫、決して踏み越えてはならない境界であるかのようにみなす誤解であり、それゆえ、「小中会主義」に「地域限定」という意味を見出そうとする誤解です。

日本キリスト改革派教会においては、かつて上諏訪湖畔伝道所が西部中会に属していたことがあり、いまも岡山教会と岡山西伝道所が四国中会に属し、九州と沖縄の教会が西部中会に属しています。同じ静岡県でも、北沼津伝道所は東部中会に属し、それ以外は中部中会に属しています。

このように、県境というものがただちに「中会」の境界ではありえないことは、わたしたち自身が実践的に確認してきたことでしょう。「東関東中会」という名称が、わたしたちを、関東平野の東半分だけに閉じこもらせるように機能しはじめる日が訪れないことを、期待しています。

わたしたちが目指しているのは、そのような狭い意味での「地域限定型中会」ではありません。むしろ、「地域性密着型中会」(a locality-oriented presbytery)です。

重要な問題は県境や地域間の不可侵条約ではなく、また、教会数や会員数が小さければよいということでもありません。おそらく県境は越えられてもよいし、教会数や会員数は多くなっていくべきなのです。

わたしたちが最も重要視していることは、中会に属する各個教会(local church)が、それぞれ置かれている状況と現実、その意味での「地域性」(locality)というものに温かく寄り添い続けることができるようにする、ということです。各個教会の存在がそのようなものでありうるように、中会が配慮し、助ける、ということです。

わたし個人の確信をたとえて言うならば(あまりよいたとえではありませんが)、教会の存在理由そのものである「宣教」には、飛行機の上から種を蒔くようなマクロ的抽象性が必要な場面も時にはあるかもしれませんが、むしろ、より多く、ミミズの目を探すようなミクロ的緻密さこそが必要である、ということです。

一例として、「日本キリスト改革派松戸小金原教会」は、ごく単純に言って、「日本の」教会であり、「キリストの」教会であり、「改革派の」教会であると同時に、「松戸の」教会であり、「小金原の」教会でもあるわけです。

もっとも、わたしたちが自らを「小金原の」教会であると呼ぶとき、まさか、それ以外の地域の人々を締め出す意図を持っているわけではありません。

「日本の」も「キリストの」も、そして「改革派の」でさえも、その枠内に納まりきらない人々を(十分な伝道や教育もしないうちに初めから)締め出す意味で語られるべきではありません。

そして、わたしたちは、これら各視点のうちのどれがいちばん重要か、と問うべきではありません。むしろ、すべての視点を、等しく・同時に・十分に重んじる必要があります。それは、教会とキリスト者の存在が、地域社会から、さらに言えば「地上の現実」から、遊離し、悪い意味で浮き上がり、抽象化してしまわないためです。

「地域性密着型中会」が真に実現するとき、わたしたちがこの種の抽象化の過ちに陥るのを防ぐことができます。

こういう中会を、わたしたちは、祈り求めてきたのです。

(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)

(日本キリスト改革派教会大会常任書記団発行『大会時報』第187号、2005年9月1日発行掲載)