2005年8月28日日曜日

多忙な日々の中で気づくべきこと

ルカによる福音書10・38~42


本日は、ひたちなか教会の皆さまと共に礼拝をささげることができますことを心より感謝いたします。


わたしがこの場所に参りますのは三回目です。最初は長谷部牧師の葬儀です。二回目は李康憲(イカンファン)牧師の就職式です。そして本日です。


何と申すべきでしょうか。ひたちなか教会の皆さまは、この数年の間、激動の中を過ごしてこられたのだと思います。


事情を知らない者が申し上げることができることは何もありませんが、ただ遠くからお祈りしておりました。


そして今日、良い機会を与えられ、皆さまにお目にかかることができると知ったときは、たいへんうれしく思い、この日を心待ちにしておりました。


この礼拝は、すぐに終わってしまいます。しかし、どうかこれからも、末永いお交わりをいただきたく、よろしくお願いいたします。


さて、先ほどお開きいただきましたのは、新約聖書・ルカによる福音書の中ではよく知られた有名な個所です。今日は、この個所を共に学んでいきたいと願っております。


この個所に最初に登場しますのは、イエスさまと弟子たちの一行です。旅行中でした。その一行が、ある村(おそらくベタニア村)にお入りになりました。


その村で一人の女性に出会いました。そして彼女の家に迎えられることになりました。


その女性の名前はマルタでした。その家にはマルタの妹であるマリアもいました。さらに、ここには出てきませんが、この姉妹には、ラザロという名前の弟が、一人いました。


イエスさまは、この兄弟のことを、以前から知っておられたようです。


「長旅、お疲れさまです。ぜひゆっくりお休みになってください。」


「お久しぶりです。ご家族の皆さまは、お元気ですか。」


このような挨拶が、交わされたのではないでしょうか。


そして姉のマルタは、イエスさまのお顔を拝見した瞬間から一種の“戦闘モード”に入ったようです。


さあ、たいへんだ。イエスさまが来てくださった。失礼など絶対にあってはならない。最高のおもてなしをしなくてはならない。そんなふうに考えたに違いありません。


そしてマルタは、まさにトップスピードで忙しく立ち回り始めました。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と書いてあるとおりです。


「いろいろのもてなし」とあります。食事の準備を指していると思われます。ユダヤ人のご馳走は、どんなものでしょうか。肉・野菜・果物、煮物・焼物などいろいろあったでしょう。


わたしたちにも同じようなことがあるでしょう。


急に大切なお客さんが来る。大急ぎで、部屋の掃除。子どもたちが散らかした(!)部屋の掃除。


そして近くの八百屋に買い物。帰ってくると、右手で料理をしながら、左手でテーブルを整え、椅子を並べ、お皿を並べる、などなど。


しなければならないことは、山ほどあります。


目の前におられるのはイエスさまなのですから。最高のおもてなしをしなくてはならない。マルタには、まさに一つの至上命令が下っていたのです。


それで、すっかり戦闘モード。鼻息荒く、目は少し血走っている。


なぜそんなふうに言えるのかといいますと、もちろん根拠があります。二つほどあります。


第一は、そのマルタが、自分のことを手伝ってくれない妹マリアに対して、怒りをむき出しにし、さらにそのことをイエスさまに告げ口していることです。


第二の根拠は、マルタがその怒りを、マリアに対してだけではなく、大切なお客さまであるイエスさまご自身に対してもぶつけているということです。


マルタは明らかに、イエスさまに対しても怒っています。そのように間違いなく語ることができます。マルタはイエスさまに対して、次のように言っています。


「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」


わたしは、このマルタの言葉の中に、彼女の思いの中にある二つの側面を読み取りたいと願っています。


その第一は“怒り”の側面です。そして、第二は“焦り”の側面です。


まず最初に、“怒り”の側面を、読み取ってみたいと思います。


それがよく表われているのは、マルタがマリアを「わたしの姉妹」と呼んでいる点と、「わたしだけにもてなしをさせている」と言っている点です。


マルタがマリアを「わたしの姉妹」と呼んでいることでわたしに思い出されるのは、旧約聖書・創世記4章のカインとアベルの個所です。人類最初の殺人事件です。


弟アベルを殺してしまったカインに神さまが「お前の弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになったところ、カインは、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えます。


「弟の」とカインは言い、「アベルの」とは言いません。名前を呼ぶことができないのです。


わたしたちにも、同じようなことがあると思います。


いま腹が立っている相手がいて、しかし、その相手のことを話題にしなければならないとき、その人の名前を口にすることができません。名前を言わず、「妹が!」とか「牧師が!」とか言うのです。


またマルタとマリアの場合、ただ名前を口にすることができないというだけではなく、やはり、姉と妹という、ある種の上下関係があることを無視できません。


マルタにとってマリアは妹である。どちらが上で、どちらが下かは、はっきりしている。


それなのに、わたしマルタのほうがまるで奴隷のように動き回っていて、妹は静かにお座りになっておられる。立場が逆ではないのかと、マルタは言いたいのです。


しかも、マルタは、この怒りを直接マリアにぶつけているのではなく、イエスさまに言う。イエスさまに言いながら、その目の前に座っているマリアにも間接的に伝えようとしています。


妹とは向き合いたくない。口を聞くのも嫌だ、という気持ちがあるのかもしれません。


また、もう一つの点ですが、マルタがイエスさまの前で、マリアは「わたしだけにもてなしをさせている」と言っているところも、マルタが怒っている、何よりの証拠です。


「わたしだけにもてなしをさせている」とは、言い方を換えると、「わたしだけがもてなしをさせられている」ということでしょう。


考えてもみてください。


いつ、だれが、マルタに「もてなしをさせた」のでしょうか。マリアがマルタは「させられた」ので嫌々ながら、もてなしていたのでしょうか。自発的に喜んでしていたのではないのでしょうか。


しかも、そういうことをマルタは、大切なお客さまであるイエスさまの前でズケズケと言い始めています。心の中がかなり混乱している様子が、分かります。


しかしまた、わたしはこのマルタの言葉には、もう一つの見逃せない側面があると考えております。それは“焦り”の側面です。


この側面が見逃せないと、なぜそのようにわたしが考えているかと申しますと、この面については、マルタに対してわたしたちが相当の部分で同情に値するところがある、と感じるからです。


マルタは、明らかに非常に焦っていました。それが、彼女の言葉の中に非常によく表われています。


「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」


マルタが、これほどまでに腹を立てた理由の、少なくとも一つとして考えられることがあります。


それは、ひとことでいいますと、マルタとしては、大切なお客さまとしてイエスさまをお迎えできたことに対するもてなしの準備を、一刻も早く終わらせたかったのです。


その気持ちが表われているのが、「わたしだけに」という言葉です。


もしここで、「わたしだけ」ではなく、一人だけではなく、せめてもう一人、手伝ってくれる人がいれば、今わたしがしている仕事は、半分の時間で済むのに、と。


今の仕事を半分の時間で済ませることができたなら、そうすれば、わたしもまたイエスさまのみそばに駆けつけて、心静かに、御言葉に耳を傾けることができるのに、と。


おそらくマルタの思いは、ただ仕事を早く終わらせたいだけなのです。その意味で、彼女はまさに焦っているのです。


これはとてもよく分かる話であり、また、十分に同情に値する話です。


たとえば、これは、家庭や職場や教会に当てはまる話です。


特定の人だけが苦労して、他の人が楽をしている。重荷を負っている人々が極端に偏っている。みんなで力を合わせれば、早く済ませられる仕事なのに、協力しないので、いつまでも終わらない。


しかし、です。マルタがイエスさまにガミガミとまくし立てていることには、やはり、かなりの部分、行き過ぎがあるといわざるをえません。


このマルタに対するイエスさまのお答えは、次のようなものでした。


「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


ここでイエスさまは明らかに、マルタの怒りを抑制するような、忠告するような口調で語っておられるます。ただし、それだけではありません。


まず一つの点として言いうることは、「マルタ、マルタ」と、マルタの名前を二回繰り返して読んでおられるのは愛情表現である、ということです。マルタの心を落ち着かせるために、愛情をこめて、二度、名前を呼んでおられるのです。


またもう一つの点として言いうることは、「必要なことはただ一つだけである」というイエスさまのお言葉も、多くの仕事を抱えて呻いていたマルタのことを冷たく裁くことが目的であるだけの言葉ではありえない、ということです。


いくらなんでも、です。イエスさまともあろうお方が、マルタに対して、多くのことを抱えているあなたのしていることは不必要であり、無駄であるなどと、そんな冷たいことをおっしゃるはずがないでしょう。


イエスさまが、そんなことをおっしゃるかどうかを考えてみれば、すぐ分かることだと思います。


そうではない。そうではないのです。


そうではないのだけれども、しかし・・・、というわけです。


少し落ち着きなさい。忙しいときにこそ、必要なこと、最も大切なことは何かをよく思い起こしなさい、ということを、イエスさまはマルタに求めておられるのです。


それは、次のようなことです。


あなたが最高のおもてなしをしようとしている相手の顔をよく見なさい、ということです。


その方の言葉をよく聞きなさい、ということです。


マルタがマリアに求めていることの意味をよく考えてみていただきたいと思います。


それは、最初から意図的にではないと思いますが、結果的・無意識的に「イエスさまの御言葉を聞くのは、後回しにしなさい。そんなヒマがあるくらいなら、わたしの仕事を手伝いなさい」という意味になってしまっています。


わたしがかつて田舎のほうの教会で働いていましたとき、ご近所の方から「毎週毎週、教会ナンカに通える人は、ヒマでよろしいですねえ」と皮肉を言われたことがあります。


わたしは、むきになって反論したりはしませんでした。とはいえ、もちろん、はっきり言いたいことがなかったわけではありません。


わたしたちは何も、ヒマだから教会に通っているわけではありません。


神さまの御言葉を聞くことが、わたしたちの人生において、他の何ものにも換えがたい、かけがえのないことであるゆえに、わたしたちは毎週、教会に通っているのです。


わたしたちから教会を、礼拝を、そして神の御言葉を取り去ることは、だれにもできないのです。


多忙さえも、わたしたちが神の御言葉、イエス・キリストの御言葉を聞かなくてよい理由にはなりません。


仕事が忙しいから礼拝を欠席するということは、現実には十分ありえますし、仕方がない面が、もちろんあります。


しかし、その理由を自分に与えすぎているうちに、わたしたちは、いつの間にか「ヒマだから教会に通っている。ヒマがないから教会に通えない」という話をしているのと同じことになるのです。


わたしたちは、このあたりで思い違いをしてはならないのです。


ここまでにいたします。


ひたちなか教会の皆さまがこれからも、ますます成長し、発展して行かれますよう、心からお祈りしております。


(2005年8月28日、ひたちなか伝道所主日礼拝)