2017年8月2日水曜日

真に突き抜けた人は謙虚だ

もちろん「教会」こそがお互いの学歴の自慢大会の場になっていたりする現実も、私はよく分かっています。「くっだらないなあ」と内心ではいつも思っていますが、いちいち目くじらを立てずに適当にお付き合いしています。でも、その自慢大会の中で傷ついている教会員がいることを絶対に忘れないように。

それに、大学でも高校でも「学校」には必ず多くの卒業生がいます。自分だけが卒業したわけではなく非常に多くの「自分と同じ学歴」の人々がいます。自分の学歴を卑下することは「自分と同じ学歴」の人々を貶め、傷つけることを意味します。そういうことを牧師や神学生が率先してすべきではありません。

私は「学歴コンプレックス」は全く持っていませんよ。だって、そういうのを競うレースから降りたのですから。競い合っている人たちを軽蔑するつもりはありませんが、降りる権利がある。マウンティンガー・ゼットみたいな人から距離を置く自由がある。パラダイムシフトですよ。世界が別様に見えますよ。

ここから先は言いにくいことですが、ポスドクで仕事がなくて高校に教えに来る非常勤の先生がたがいますが(聖書科ではない)、生徒の評判が良い先生も良くない先生もいる。自分の学歴を鼻にかけているのが伝わってしまう先生は後者(評判悪い)。そういうオーラを全く感じない先生は前者(愛される)。

今書いたことで私が言いたいのは「学歴コンプレックスを持っていないこと」と「自分の学歴を鼻にかけること」は全く違うことだ、ということです。その違いを説明するのは難しいことですけどね。私が生徒から愛される教員だったとは思いませんが、「どういう先生は嫌われるか」だけはよく分かりますよ笑

すでに始まっていると思いますが、予備校は消滅する可能性があるでしょう。そうでなくても少子化で、大学全入時代で、しかもネットが発達してきて、予備校に行ってもどのみちビデオ講義で、それと同じネット環境が各自宅に完備されている時代ですから。予備校の「功罪」が問われる日が来るでしょうね。

予備校の先生がたを傷つける意図で書いていることではありませんので悪く思わないでくださいね。というか、ご自分たちがいちばんよく分かっておられることだと思う。だって賢い方々だもの。学校の先生がたも同じ。賢いから先生してるんでしょ。自分の道は自分で切り開けよと、周りの人は思ってますよ。

まあ、ここから先は暴言のたぐいですが、中途半端な人がいちばん人を見くだしますよね。自分よりほんの少しでも劣っていると見える(主観の問題)人を見さげ続けることで自分の位置を確認し続けるというか。自信の無さがよく表れている証左じゃないですかね。真に突き抜けた人はそんなことしませんよ。

そう。そのマーチ、マーチのオンパレード。ひとくくりにしすぎですよねえ。MARCHの一校一校ゼンゼン違うだろうと思う。33年前に私がレースから降りた理由も「医学部」か「法学部」かどちらか選べというような進路指導の声を耳にしたから。何それと思った。偏差値教育の空虚さをそれで察知した。


2017年7月31日月曜日

レースはもう終わっている

15年以上前、マウンティングしたがり男と出会った。男の職業は牧師。私が高校を出てストレートで牧師養成専門の「偏差値35と進学塾が表示する大学」に入ったと言っているのに「共通一次は受けただろう。その偏差値はどのくらいだったのか」としつこく聞いてくる。受けていないと言っているのに。

Fランとでも何とでも呼んでもらって構わないが、そういうのからフリーになれよと本気で言いたくなるときがある。もっと大変だけどね。そういうことで評価されることは一切ないから。その代わり手に入れられるものも大きいよ。躊躇なく全く外から(ganz andere)今の競争社会を分析できる。

ちなみに私の出身大学は、私が受験した33年前(1984年)から今日に至るまで、進学塾が「偏差値35」と表示し続けている。高校からのストレート入学者を受け入れる学部1年の定員が、当時も今も10名弱。つまり、その10名弱の椅子を獲得できるかどうかの偏差値が表示されているというわけだ。

よし、争え。その10名弱の椅子を奪い合え。死に物狂いで闘い、見事その椅子をかっさらえ。そういうバトルでも始まれば偏差値はうなぎ上りだろう。ただし、その人は必ず牧師になること。その「牧師になること」という点については最近ごくわずかな緩和策が講じられたようだが、本質は変わっていない。

話を元に戻す。15年以上前に出会ったマウンティングしたがり男。職業は牧師。なんかねえ「牧師のくせに」という言葉はこういうときこそ使うべきだと思う。なんだか意味不明なほど学歴コンプレックス持ちすぎの牧師多すぎなんじゃないの。いいかげん降りてくださいね、レースもう終わってますからね。

あと留学と学位。出身大学の影響であることは間違いないが、私はそういうのに全く興味がなかった。ややナショナリスティックな感覚も含んでいたことを否定しないでおくが、大学や神学校の教授になる方々は別格として、牧師として働くために必然性がないし、何の意味を持つのかが本当に分からなかった。

しかしその後、日本キリスト改革派教会に移ったとき、この教派独特のインターナショナリズムの影響を受けた。いくらか皮肉を込めた言い方をすればインターナショナルな「改革派教会」なるものの日本ブランチであるかのように自らを位置付けることを全く苦にしていないように見える人々の影響を受けた。

神学を重んじる教派にしては日本国内の教派神学校が「大学」でないことが関係しているのかもしれないが、私にはよく分からないほどの外国志向があり、留学と学位に興味津々の牧師たちが結構いたように思う。へえそんなものかと最初は驚いたが、慣れというのは恐ろしいもので、私も興味を持ちはじめた。

ただ、今思えば不覚にも留学と学位にほんの少し興味をもってしまったことの理由は本当にひとつだけだった。ここでまたファン・ルーラーが登場する。ファン・ルーラーの翻訳をしてなんとか出版にこぎつけたいと思った。そのときに訳者の肩書きとしては今のままでは足りないなと思った。ただそれだけだ。

しかしファン・ルーラーに関しては紙の本の出版は私の仕事ではないと悟ったので、その問題は片付いた。今の私のもっぱらの関心は日本語にもっと習熟したいということだ。難読漢字や典雅な古典表現を使えるようになりたいという意味ではない。威圧感がなく安心してもらえる言葉を書けるようになりたい。


2017年7月30日日曜日

善いことを躊躇しない(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書5章15~17節

関口 康(日本キリスト教団教師)

「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』」

ヨハネによる福音書の学びの6回目です。先週から数えてなんと4週連続で私が説教です。今日もどうかよろしくお願いします。

先ほど今日の箇所を朗読していただきました。これだけ読んでも意味がよく分からないと思います。と言いますのは、この箇所には、すでに一つの出来事が起こった後に、その結果として起こったことだけが記されているからです。その部分だけを切り取って朗読していただきました。

どのような結果だったかと言えば、ユダヤ人たちがイエスさまを迫害しはじめたという結果です。「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(15節)と記されているとおりです。

もう一つ、イエスさまがその人をいやした日が「安息日」であったこと(9節)も迫害の理由です。しかし、今日は「安息日」の問題は、時間の都合で割愛します。「いやし」の問題だけを扱います。

しかし、これは奇妙な話です。イエスさまは一人の人の病気をいやしたのです。それをきっかけにイエスさまが迫害されはじめたというのです。原因と結果の関係でいえば、原因が病気のいやしで、結果が迫害だったというのです。

内容はあとで見ますが、この人は38年間も病気で苦しんでいました。しかし、イエスさまがその人を長年の苦しみから解放なさったのです。それは善いことです。悪いことであるはずがありません。しかし、それでイエスさまへの迫害が始まったというのです。理不尽としか言いようがありません。

しかし、ここで一つ考えたいことがあります。このような結果になることをイエスさまが全く予測しておられなかっただろうかという問題です。

イエスさまは純粋にご自分は善いことをしたと思っておられた。しかし、全く予想していなかった結果が生じた。「ええっ、びっくり。なぜ私はこんな目に遭わなきゃならないの。こんなはずではなかった。後悔先に立たず」と狼狽えるばかり、ということだったでしょうか。

それは違うと思います。むしろイエスさまはそういう結果になることをよく分かっておられました。しかし、だからといって躊躇なさらなかったのです。この点が大事です。迫害を恐れて何もしないとか、人目を気にして手を引くとか、そういうことをイエスさまは全くなさいませんでした。

イエスさまが躊躇なさらなかったのは、38年間も病気で苦しんでいた人を助けなければならないとお考えになったからです。そのことを決心なさったからです。その人を助けた結果として御自分の身が危険にさらされることになるとしても、そこで躊躇なさるような方ではなかったのです。

そのようなイエスさまだからこそ十字架につけられました。イエスさまの十字架の死は、ご自身は全く予想していなかった不慮の事故などではありません。イエスさまは、あらかじめの決意と覚悟をもって十字架をめざして歩まれました。その点を後から付け加えられた話であるかのように言われるのは困ります。そのことを最初に確認しておきたいと思いました。

5章の冒頭から始まっているのはイエスさまがエルサレム神殿に来られたときの話です。「ユダヤ人の祭りがあったので」(1節)と記されていることから分かるのは、そのときエルサレムは非常に大勢の参拝客で賑わっていたであろうということです。

「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった」(2節)とあります。「羊の門」はエルサレム神殿の北東に、読んで字のごとく羊が通る門として設けられたものです。その羊は神殿の祭儀に犠牲としてささげられるために連れてこられました。

そして、そこに今日の箇所の出来事に直接関係する二つの重要なポイントが出てきます。一つは「回廊」、もう一つは「ベトザタ」という名の「池」でした。

「回廊」に関して「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(3節)と記されています。その場所が、ここに記されているような人々にとっての「居場所」だったと言えるかもしれません。良い意味でも、もしかしたら悪い意味でも。

「もしかしたら悪い意味でも」と申し上げたのは、神殿の門というのは、まさに入り口、あるいは出口です。神殿の中心ではなく周辺であり隅っこです。そういうところに自らの意思で集まっていたのか、それとも追いやられていたのかが気になります。

そしてもう一つ大事なポイントが、その「回廊」が「ベトザタ」という名の「池」に近かったことです。その池には言い伝えがあったようです。そのことを、これからイエスさまが病気をいやすことになる、その人自身が説明しています。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。

これで分かるのは、その「ベトザタ」という池にまつわる言い伝えの内容です。池の水が動くときがある。そのときにその池の中に入れば病気が治る、という言い伝えです。

しかも、この人の言い分をそのまま受け取るとしたら、みんな一緒に入っても効き目がなかったのかもしれません。一回水が動くたびに、ひとりしか入れない。その順番待ちをしていた人々が回廊にいたのかもしれません。

しかし、ここから先は全くの想像ですが、いろいろ考えるべきことがあります。この人はまさか、その同じ場所に38年間も座り続けていたのでしょうか。そういうことがありうるでしょうか。それはさすがにないだろうと私は思います。

むしろ考えられるのは、すでにこれまでにあらゆる手を尽くしてきた可能性です。自分自身もなんとかしてその病気の苦しみから解放されたいと願ってきたが治らなかった。最後の最後にこの池にたどり着いた。来る日も来る日も順番を待っていた。しかし、誰も自分を池に入れてくれる人がいなかったという可能性です。

しかし、私は一つ、とても気になる解説を読みました。それは私がいつも愛読している聖書注解の説明です。それによりますと、ベトザタの池の水の中に入れば病気が治るというようなことは当時のユダヤ人たちは誰も信じていなかったという説明です。つまりそれは迷信であると、当時のユダヤ人たちも考えていたというのです。

それはわたしたちにはよく分かる話です。旧約聖書の教えを思い返してみると、迷信的なこととは全く相容れないものであることがお分かりになるはずです。いわゆる科学的な根拠があり、あの池の水の成分の中には病気をいやす力があるというような実証的な研究が積み重ねられてきたとでもいう話であればともかく、そういう話では全くない。「ベトザタ」に関しては、当時のユダヤ人でさえ、そのような治療効果などは全く信じていなかったことであるというのです。

しかし、そうなるとどうなるのでしょうか。この羊の門の傍らの五つの回廊に集まっていた大勢の病気を抱えた人々は、だまされていたのでしょうか。それとも、自分たちもそんなのは迷信であると分かっていながら、それでも集まっていたのでしょうか。そのどちらであるかは分かりません。

しかし、もし彼らがだまされていたということであれば、問題はきわめて深刻なものになります。だましていたのは誰なのかという問題が必ず生じるからです。エルサレム神殿でしょうか。つまり、当時のユダヤ教団の指導者たちでしょうか。その人々が、エルサレム神殿で行われるお祭りの参拝客をひとりでも多く集めるために、ベトザタの池にまつわる言い伝えなどと称して、ありもしないことを言い広めていたということでしょうか。そういうのを今の私たちは「悪質な宗教ビジネス」と呼ぶのではないでしょうか。

いや、そんなのは全く違うと。そんなのは言いすぎだし、考えすぎだと反論されるかもしれません。回廊に集まっていた病気の人たちも、それが迷信であることくらいみんな分かっていたことなのだと。すべて織り込み済みだった。そのうえで、いわば観光の一環として、遊びの一種として池に入る順番を待つゲームをしていただけなのだと。「悪質な宗教ビジネスだ」などと目くじらを立てて言うようなことでは全くないのだと、そういう見方もできるかもしれません。

しかし、もしそうであれば、事態はもっと深刻になります。この38年間も病気で苦しんでいた人が、イエスさまが「良くなりたいのか」とお尋ねになったときに「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と答えたことの意味は一体何なのかということが、ひどく謎めいたものになります。

2つの可能性を考えることができます。第1の可能性は、もしこの人が自分で言っているとおりのことを本気で信じ込んでいたとしたら、それは完全に詐欺に遭っていたことになります。つまりこの人は100パーセント被害者です。ただし、その場合は誰がこの人をだましていたのかを問題にしなければならなくなります。神殿がだましていたのか、それとも他のだれなのか。

しかし、第2の可能性があります。この人自身も、こんなことは迷信なのだということが分かっていたという可能性です。そんなことは織り込み済みだと。なんだかんだとやかく言われるようなことではないと。

しかし、この人自身もそういうことはよく分かっていたにもかかわらず、イエスさまにこのように答えたのだとしたら、どうなるでしょうか。私はその可能性は十分ありうると思います。しかし、それは最も深刻な状態です。この人の言葉の裏側に潜んでいる、その言葉の「本当の意味」を考えざるをえません。この人の「心の問題」に深く立ち入らざるをえません。

いろんな可能性が思いつきます。もしかしたらすべてジョークで言っているだけかもしれません。皮肉と自嘲の薄笑いを浮かべながら、こんな迷信にすがっている私ってバカでしょう、はははと。

あるいは、自分弁護する意味で言っているかもしれません。病気が治らないのは私のせいではないと言いたがっている。それはそのとおりです。しかし、あの池に私をだれも入れてくれないせいだと言いたがっている。人のせいにし、池のせいにしている。

あるいは、完全な絶望、虚無主義(ニヒリズム)に陥っていたのかもしれません。こんなのが迷信であることなど、とっくの昔に分かっている。しかし、こんなことにでもすがっていなければ、私は生きていられない。いっそ治らなければいい。自分は早く死にたいのだ。早く私を殺してくださいと。そのように言いたがっているのかもしれません。

この人の返事を聞いて、イエスさまはこの人を救う決心をなさいました。このまま放っておくわけにはいかないと思われました。そして言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)と。

そのとき起こったのは、この人を38年間も苦しめてきた病気が一瞬で吹き飛んでいく奇跡でした。しかし、それだけではありません。イエスさまはこの人を、体の苦しみからだけでなく、心の苦しみから解き放ってくださいました。迷信からも、自嘲からも、虚無主義(ニヒリズム)からも、それらすべての背後にある絶望からも、イエスさまはこの人を救い出してくださいました。

わたしたちはどうでしょう。いつまで迷信にとらわれているのでしょうか。いつまで自嘲し続けるのでしょうか。それは何の解決にもなりません。しかし絶望と虚無主義に耐えられる人はいません。

わたしたちにもイエスさまは「良くなりたいか」と、いつも問いかけてくださっています。それは「良くなるための努力をしていますか」という意味ではありません。健康管理をしていますか、とか、ダイエットしていますか、という意味ではありません。しかし、「良くなりたいという希望を捨てていませんか」という意味ではあると思います。

「あなたは絶望していませんか」とイエスさまは今もわたしたちに問いかけてくださっています。そして「絶望してはいけません」と、わたしたちに強く呼びかけてくださっています。

(2017年7月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年7月29日土曜日

「宣教の課題」ではあるが「伝道集会」ではない

ブライダルは牧師としての行き場を失った者のバイト先などではありえず(新郎新婦にも司式者にも失礼な言い方だ)、教会の宣教の課題だと私も思います。ただ、結婚式あるいは葬式は「みことばを聞いてもらう良い機会」だとはとらえていません。結婚式も葬式も伝道集会にしてはならないと思うからです。

もちろん牧師であるかぎりどこかの教会ないし教団に所属しているはずであり、その教会ないし教団には「一人でも多くの会員を!」という渇望があり、その要請と事情を熟知する牧師たちが、それでも「無私の奉仕」として結婚式や葬式を行わなければならないなどと、いま申し上げているのではありません。

しかし結婚式も葬式も「みことばを聞いてもらう良い機会」ではありませんし、そういう動機付けでもないかぎり、教会が(教会員以外の)結婚式や葬式を引き受けることも、牧師を式場のブライダルに喜んで送り出すこともできないというのでは困ります。言葉の最も正しい意味で「あざとい」と言うのです。

今書いていることは、先生がお書きくださったことを批判する意図ではなく、もっと自由になりましょうよと、「えらそうに!」と思われるでしょうけど(すみません)お励ましの気持ちです。新郎新婦も参列者も「みことば」を求めていません。そこで牧師だけドン・キホーテになる必要はないと思うのです。

最初から最後まで式文を読み上げるだけでも、我々は結婚式において十分に牧師としての役割を果たせています。あるいは逆に、最初から最後まで冗談を言って笑わせ続けることができる話力があれば、聖書のみことばに一言も触れなくても、結婚式において十分すぎるほど牧師としての役割を果たせています。

しかし結婚式も葬式も伝道集会ではありません。そのような場にしてはなりません。教会が牧師を式場のブライダルに送り出すときに「先生、伝道してきてくださいね」と言うなら、それは間違っています。そういう意味付けができないところなら牧師を送り出すことはできないと阻止するのも間違っています。


2017年7月28日金曜日

ネットを使う牧師は全員「サイバー牧師」だ

ネットを使う牧師はいわば全員「サイバー牧師」だ。「使う」かどうかはもはや問題ではない。ユーチューブで伝道している人がいると伺った。それ自体で献金を集めておられるか、アフィリエイトか。私の根本的な問いは、ネットでしていること自体を「職業」と認める「教会」が存在するかという点にある。

ユーチューブであれメールであれ、それを使っての「伝道」を個人でしているかぎり、従来のカテゴリーで言えばいわゆる「個人伝道」に該当する。それはそれで尊重されるべきである。第三者がとやかく言うべきではない。でも、それは私が思い描く「ネット専属牧師」(仮称)とはまるきりベツモノである。

「勤務時間中のSNSは禁止」という会社や学校はまだ多い。もちろん公私混同はよくない。しかし牧師にとって「公」とは何か「私」とは何かという問題は難しい。どこまでが「勤務」でどこから「勤務外」かを区別できない。すべてが勤務であるとも言えるし、すべて遊びだと見られるなら甘受する他ない。

さらに違う問い方をすれば、そもそも牧師にとっての「勤務」ないし「仕事」とは何なのかという問題がかかわってくる。専門用語で言うとそれは「伝道」と「牧会」だが、「伝道」とは日曜朝の礼拝出席者を増やすことか、それ「だけ」なのか、献金額を増やし、教会財政を潤すことか、それ「だけ」なのか。

「牧会」とは家庭訪問をすることか、個人面談をすることか、それ「だけ」か。「手書きの書簡を送ること」なのか、メールやチャットではだめなのか。今やもはやSNSで90パーセントくらい代替できることばかりではないのか。SNSはだめだが、メールやブログならいいのか。本質的な違いがあるのか。

教会自体が牧師たちに教会と隣接ないし併設されている「牧師館」への居住を要請しているために「通勤時間ゼロ」の牧師がまだ多い中で、「通勤で汗を流さぬ牧師たちがパソコンをいじってSNSで遊んでばかりだ、けしからん」とか言い出されてしまうに至っては、言葉を失う牧師が続出するのではないか。

そもそも、「牧師としての行き場をなくして」ブライダルをしながらユーチューブで伝道しているという牧師さんの話から分かるのは、ブライダルそのもの、ネットそのものは「牧師の仕事そのもの」としては認められていないということだ。「牧師としての行き場」そのものとしては認められていないわけだ。

牧師たちまでが、というか、牧師たちこそが率先して「ブライダルなんか」と見下げるようなことを書いている。よく書けるわと思う。明日は我が身だろうに。こういうことを書いていると「ネット専属牧師にお前がなりたいのか」と言われそうだが、私の話ではない。そういう言いがかりは謹んでお断りする。

そうね、たとえばもし私が将来、複数の牧師が必要な規模の教会の主任牧師になったら、副牧師になってもらいたいのは年がら年中パソコンかスマホをいじっている人のほうがいいや。人間と世界に関心がある証拠だし、言葉を用いてのコミュニケーションに長け、広い視野と知識を持っている人だと思うから。

高校の授業を思い返しても、お世辞抜きで感心したのは、私が原稿なしでフリートークしているとき、耳慣れない言葉を聴いたと思ったらしい生徒が手元の電子辞書で瞬時に意味を調べ、納得しながら続きを聴いてくれていたことだ。スマホならもっと広く調べることができただろう。今はそういう時代なのだ。

いまだに散見する「ネット害悪論」の趣旨を全く理解できないと思っているわけではない。しかし、牧師を含む教会関係者ないし宗教関係者の方々ならばこそ、ネットにどんどん良質の情報を発信なさったらいいと思う。玉石混淆だと思うならばこそ、玉のほうの数を増やす努力をしていくしかないではないか。

ネットを使っての「伝道」に取り組んでおられるとのこと。もしそれに教会自体が取り組んでいる、または牧師個人の働きを教会が理解し支援しているなら、素晴らしいことです。

しかし、問題はその先です。ツイッターはどうですか、フェイスブックはどうですか。説教や教理解説でない、ただのおしゃべりはどうですか。「そんなヒマがあるなら仕事しろ」と言われませんか。

ツイッターやフェイスブックを「仕事の合間の息抜き」に利用するのはもちろん良いことだと思いますが、どう言ったらいいのか、そもそも牧師の仕事というのは「キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること」だったりするわけで、他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね。

しかも、ホームページやブログに文章や音声や動画(録画)を公開しても、それはどこまで行っても固定された過去の情報でしかない。「生きた会話」(それが音声なのかチャットの字なのかは実は問題ではない)ではない。「ああ疲れた、息抜きしたい」と思っている人は「会話」を求めている可能性が高い。

私が問題にしたがっているのは、今書いた意味での「生きた会話」をSNS越しにしている部分は、牧師の「仕事」なのか、そうでないのかというあたりです。しかも、その意味での「仕事」は何分・何文字書いたらいくらもらえるというようなお金の問題とダイレクトに結びつくわけではない(ありえない)。

そういうお金の話ではなく(ありえず)、「教会」がそれ(牧師がそういうことをしていること)を白眼視したり、「そんなことをしているヒマがあるなら仕事しろ」などと言って非難したり拒絶したりせずに、「あれもれっきとした牧師としての働きなのだ」と認め、応援してくれているかどうかの問題です。

つまり言い方を換えれば、「ネット伝道」という概念がもしあるなら、その定義の問題だということです。どこまでのことがその定義に含まれるのか、です。

(追記)

自分で書いた言葉を直したくて仕方がない。「そもそも牧師の仕事というのは『キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること』だったりするわけで」の続きは「他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね」ではなくて「他の人の息抜きに付き合うのが牧師の仕事ですよね」だなあと。

神学は嫉妬心が強い


たまに見せびらかしたくなる岩波文庫コレクション(現在299冊)。4段目前列はサイボーグ009(豪華版、サンデーコミックス版、メディアファクトリー版、文庫版、コンビニコミックス版)。後列にプラトン全集、アリストテレス全集、ヘーゲル全集、ジンメル著作集、トレルチ著作集、聖書注解など。


見せびらかしたくないカオスな本棚はこちら。テルトゥリアヌス、オリゲネス、アウグスティヌス、アクィナス、リュースブルク、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルト、ボンヘッファー、カイパー、バーフィンク、ベルカウワー、ファン・ルーラー、モルトマン、パネンベルク、ゼレ他。どなたも後列に。

神学でも競争が激しいテーマはある。各教団の創設者ないし中興の祖の主要思想を扱う場合。各教団にとっての事実上の死活事項(articulus stantis et cadentis ecclesiae)を扱う場合。しかもそれを論者自身もその教団の継承者として自己を位置付けて扱う場合。

デキル人はそこをとことんやるべきだと私なんかはいつも思っている。やる人はやっているが。アウグスティヌス、アクィナス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルト、ボンヘッファー。研究会や学会は日本にもある。競争が激しいのは仕方ない。語弊を恐れながら言えば、すきまや周辺でなくど真ん中を。

おそらく神学は最終的には評論家を嫌うのだと思う。ハスに構えて遠くからあれこれ論評してくる存在から神学もまた距離を置く。自らを「担ってくれる」存在に神学は憑依し、宿る。神学は嫉妬心が強い。「ルターになってくれる人」「カルヴァンになってくれる人」「バルトになってくれる人」を募集する。

せっかくデキルのに、やればデキそうなのに「ど真ん中」をやろうとしない人を何人か知っている。もったいないと思う。もちろん人それぞれの生き方だ。選択の自由はある。でも、あなたにしか座れない操縦席があるよ、あなたしか動かせないロボがあるよと言いたくなる。逃げちゃだめだ逃げちゃだめだと。

2017年7月27日木曜日

ネットこわいと久々に思った

おお、なんだかいつの間にかユーチューブで観える映画やアニメが一気に増えた気がする。もちろんすべて有料だが。観たいとも思わないようなのでなく、けっこう話題作が揃っている。近いうちにレンタルの店舗が一気に姿を消すときが来るのかな。どっと来る感、久々にネットこわいと思った(今さらか)。

この恐怖感というか威圧感というか急激性かもしれないなと。教会や神学にネットを使うことにいまだにストップがかかる理由というか要素は。教会やいわゆる神学校が100%ネットで代替される日が来るとは少なくとも私には全く思えないが、90%くらい代替できてしまうかもしれないと思わなくもない。

牧師さんたち、そろそろネットから引き上げよっかとか言いたくなったりして。私がネットを始めた20年前もブログやSNSを始めた9年くらい前も「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の気持ちでいたが、今そうでもないよ。私の、というより牧師さんたちの書き込み、すんごい読まれていると思う。

だけどさ、私もそうだが、何の反応もないときは平気で言えたり書いたりできるのに、注目されたり話題にされたりすると急に赤面して凹んだりする。持ち上げられたりすると逃げる、隠れる。だって恥ずかしいもの。出たがりなのか恥ずかしがりなのかワケわからんタイプ、私と同じ仕事の人に多いと思うよ。

今書いたことは横に置くとして、「教会を失いたくない」と願いながら自分が果たすべき機能の大部分をネットで代替させてしまっているとしたら、これどう考えても矛盾なんだよね。それはずっと前から感じていたことだけど、そろそろ「無料お試し期間終了」というところかもね。はは、まあ冗談だけどね。

ありがとうございます。私の話ではないですよ。私はネットは全く苦にならないので。ただ、ネット人口がこれだけ増えると「ネットに献身する人」が必要ですね。でも、その姿をハタから見ると、教会からも家族からも背を向けてPCの画面だけ見て指先だけ動かしている牧師ってことになっちゃうんですよね。

そういう「ネット専属牧師」をサポートする仕組みができるといいのかもしれません。それを可能にするだけの力が日本の教会にないんですけどね。

そうですそうです。残る問題は、教会の理解だけです。やや誇張気味に言えば「ぜひネットに献身してください。わたしたちの顔など見なくていいです。PCの画面だけを見つめ、字を書くことだけに集中、専念してください。それがあなたのミッションです」と喜んで派遣してくださる教会が必要です。

はい全くおっしゃるとおりです。ネットが苦にならなくて、瞬時にいろいろ考えられて、炎上とかしないように言葉を選べて、しかも笑えることを書ける熟練したネット伝道者の育成が急務かもしれません。

呼称はともかく「ネット専属牧師」に対するニードは潜在的にものすごくある。私がなりたいという意味ではない。「日曜日に教会に通うこと」は仕事や病気や加齢、家族の同意を得られないなどの理由で「不可能」だが、聖書は知りたい、自分の悩みに答えを求めているという方は、ものすごくたくさんいる。

ネットに公開された説教や教理解説の文章を読め、録画を見ろ、音声を聴けと言われても、それはそれで一方通行だし、自分の問いにぴったりの答えが得られない。そういう場合にSNSのような双方向の、しかも「1対1の」閉鎖空間でない「みんなの中でさりげなくやり取りできる」開放空間が意味を持つ。

いつもはほぼ冗談しか言い合っていないけど、なんとなくそこにいてくれると安心するという存在が、「自称」も「公式」も含めた「ネット専属牧師」について私が描いているイメージだ。信頼できて威圧感がない存在。たとえていえば、ドラゴンクエストの世界に登場する「教会」のような存在かもしれない。

2017年7月26日水曜日

あの頃はきつかった

一昨年の後半は、25年もゴミ山の中に放置していた教員免許を探し、更新講習を受講して修了試験を受け、教員採用試験(筆記、模擬授業、面接)を受け、日本基督教団転入試験(補教師試験、正教師試験、改革派加入試験に次ぐ4度目の牧師試験)を受けるという三段階認証をクリアするために必死だった。

それを毎週説教し、牧師の仕事を続けながらしていた。なので私は、試験を前にしてプレッシャーを感じている人の気持ちが痛いほど分かる。だけどね、逆の立場に立ってみれば、いいかげんな試験で「牧師」だの「教員」だの名乗っている人間がいたらどうだろうと思うのよ。厳しい試験のほうがいいよねえ。

「三段階認証」と書いたが、それはもののたとえとして書いたまでだ。日本基督教団転入試験は、教員免許更新試験とも教員採用試験ともリンクしていたわけではない。採用条件の中に「日本基督教団教師に限る」と明示されていたわけではない。誤解されると困るので、はっきり書いておくほうがよいだろう。

その3つの試験の準備をしながら、転居先の借家を探したり、家の片づけをしていた。こういうことを少し書けるようになったのは、時間に人の心をいやしてくれる面があるからだ。時間は偉大だ。記憶力が低下しているだけかもしれないが、それも含めて時間は偉大だ。すべて鮮明に覚えていたらたぶん狂う。

あの苦しかったときもネットつながりの方々に助けていただいた。あのお励ましがなかったらたぶん心が折れていたと思う。感謝の言葉以外にない。ありがとうございました。「ただいいねのみ」(ソラ・イーネ)で人は結構立っていられるものだ。不思議なこととは思わない。人はそういうものだと思うから。

ついにブルンナーの教義学を読み始めた。バルトの教義学と比較しながら読み進めるのも面白そうだが、混ぜながら読むのも面白そうだ。バルンナーとかブルトがいてもよいだろう。読者はどちらかの、あるいは誰かの主義者になる必要はないし、他方を全否定する必要もない。すべての神学に一長一短がある。

1931年発行ブルンネル『危機の神学』(新生堂)の「訳者序」に岡田五作氏が次のように書いている。「ボン大学に於けるバルト教授と相並んで、此の学派の重きをなす指導者の一人は、スウィッツル、ツーリヒ大学の組織神学教授、H. エーミル・ブルンネル博士であらう」(2頁。新漢字に改めた)。

そうなのだ。ブルンナーとバルトは勝ち負けの関係ではなく「相並ぶ関係」なのだ。両神学者の日本での紹介のされ方がバルト側に偏りすぎていただけだ。21世紀神学は、前々世紀生まれのこの2人を対等に重んじつつ、両者に対して等距離を保ち、それぞれの長所と短所を見抜く作業に取り組むほうがいい。

どうにも持って行きどころのない、ふつふつわいてくるものは、どこと限らず「学校を作ればもうかる」という前提でもなければ今の事態にそもそもなっていないだろうと感じられてならないことだが、学歴だ経歴だ、プライドだ屈辱だという人の最も弱いところを。みんながもっと独学すれば前提崩れるかも。

教員の受け取りをとやかく言うつもりはない。非常勤だけでなく有期の常勤講師も不安定そのもの。専任者も定年で終わるので、それはそれで戦々恐々。それより、いつから学校が真顔で「教育ビジネス」だのほざくようになったのか。私なんか古い頭の人間なので、そういうことを思うのだ。くっだらねえと。

2017年7月24日月曜日

拙「説教」アクセスランキング

日本基督教団置戸教会(北海道置戸町、2016年2月14日)

2016年1月から2017年7月24日現在までの拙ブログ掲載「説教」(全47編)のアクセスランキングトップ10を調べた。興味深い結果となった。「学校」の影響は強大だった。しかし「教会」も負けていない。

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拙「説教」アクセスランキング(2016年1月1日~2017年7月24日)


第1位「一タラントンを地に埋めたしもべはなぜ主人に叱られたのか」
2017年3月19日、日本基督教団習志野教会(千葉市花見川区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/03/19.html

第2位「神は世界を傲慢から救う」
2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/08/21.html

第3位「熱く生きろ!」
2017年6月27日、東京女子大学(東京都杉並区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/06/27.html

第4位「失敗を恐れるな」
2016年3月13日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/03/13.html

第5位「礼拝の意味」
2016年7月14日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/07/04.html

第6位「人を助ける働きをするとは」
2017年2月13日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/02/13.html

第7位「互いに重荷を担いなさい」
2016年6月6日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/06/06.html

第8位「新しい時代に伝道を」
2017年5月14日、日本基督教団青戸教会(東京都葛飾区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/05/14.html

第9位「友達を作りなさい」
2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/08/14.html

第10位「神があなたと共に苦悶する」
2016年11月13日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/11/13.html

第10位「キリストに従う」
2016年2月14日、日本基督教団置戸教会(北海道置戸町)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/02-14.html

2017年7月23日日曜日

信じる前に失望しない(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書4章48~50節

関口 康(日本基督教団教師)

「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」

ヨハネによる福音書の学びの5回目です。前回が4章で、今日も4章です。

回数を数えやすいように1章ずつ進めていくことも考えましたが、今日の箇所にはどうしても触れておきたいと思いました。と言いますのは、今日の箇所の出来事は、2回目(2017年5月28日「喜びを追い求めよう」)の2章の出来事と密接な関連があるからです。

それはイエスさまがカナでの結婚式のときに水をぶどう酒にされた出来事です。それと今日の箇所が密接に関係しています。次のように記されています。

「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に替えられた所である」(46節)。「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」(54節)。これは明らかに、2章の出来事と今日の箇所の出来事は関係があるということを読者に教えようとしている言葉です。

別の言い方をすれば、今日の箇所の出来事にはイエスさまが水をぶどう酒にしたあの出来事と本質的に共通する要素があるということです。それが「しるし」です。前回も今回も「しるし」だった。そしてこれは「二回目のしるし」だったと記されているのです。

まとめていえば、そもそもの大前提として、今日の箇所に記されている出来事は「しるし」なのだという観点からすべてを読み解く必要があるということです。

しかし、その場合の問題は「しるし」とは何かということです。その答えははっきりしています。それを見ればイエスさまこそ救い主キリストであると信じることができる、信仰の理由ないし根拠が「しるし」です。空が黒い雲でおおわれる。まもなく雨が降る。その雲が雨の「しるし」です。

そして、それはもちろん、単にイエスさまが救い主であるという客観的な事実がその「しるし」によって明らかにされたというだけで済む問題ではありません。救い主であるイエスさまがかつて大昔の人を救ったことがあるというだけでなく、そのイエスさまが今もこの私を救ってくださっているという事実が重要です。以上のことを最初に申し上げておきます。

さて、ここから内容に入ります。カナにおられたイエスさまのもとに、カファルナウムから「王の役人」(46節)が来ました。カファルナウムはイエスさまが伝道活動をお始めになった最初の拠点です。ガリラヤ湖畔の漁師の町。

そのカファルナウムから「王の役人」がイエスさまのもとに来たその目的は、その人の「息子」が「病気」だったので、イエスさまに「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼む」ためでした(47節)。

「息子が死にかかっていたからである」(47節)と記されています。自分の子どもを失うことの親の悲しみは体験した方にしか分かりません。体験したことのない者には語る資格はありません。想像をめぐらして物を言うこと自体、慎重でなければなりません。ただ確実に言えるのは、この「王の役人」は、あらゆる意味で切羽詰まった思いでいたに違いないということです。

そして、そのような追い詰められた、窮地に立たされたこの人が自分の子どもの命を救ってほしいとイエスさまのもとに助けを求めてきたということは、助けてくれるならイエスさまでなくてもだれでもよかったが、たまたまイエスさまにお願いした、ということではなかっただろうと思うのです。

今の世の中ではいろいろ語弊が出てくるところではありますが、たとえば、この人が「王の役人」であったということは、客観的な意味で社会的地位の高い人であったと考えられます。その人の息子さんであるということは、いわゆる跡取りのことなどが関係してくるかもしれない、将来を相当嘱望されていた子どもさんだったかもしれない、などなど。

だからどうしたと、それ以上のことは言えません。しかし、「王の役人」にとって自分の息子の命を預け、なんとかして助けてもらいたいと願ってイエスさまのところに来たときに、助けてもらえさえすればイエスさまでなくてもだれでもいいと思っていたわけではありません。イエスさまに対する絶大なる信頼をすでに持っていたからこそ、イエスさまに助けを求めて来たのです。

しかし、ここから先はまた非常に難しい問題に立ち入ることになります。問題はこの「王の役人」がイエスさまにそれほどまでの絶大なる信頼をすでに持っていた理由ないし根拠です。それが先ほどから申し上げている「しるし」の問題です。

最初のしるし、すなわち、カナでの結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変えるという、とんでもなくありえない、異常なことをなさった。そういうことができる方ならば、私の息子の死に至る病もいやしてもらえるに違いない。そういう信じ方をしたのだと思います。

すると、イエスさまはこの人に次のようにおっしゃいました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。イエスさまは冷たいことをおっしゃっているわけではありません。しかし、突き放しておられるようでもあります。

イエスさまがおっしゃっていることの意図は、「なぜあなたはわたしを信頼するのか」ということです。自分の子どもの命を他人に託すという重大な事柄をこのわたしに任せようとする、そのあなたの理由ないし根拠は何なのかという問いかけです。「しるし」なのか、「不思議な業」なのか。そんなことが理由なのかと。

このイエスさまの言葉を聞いて、「ああうるさい」と、「ああ、もうそんなことを言われるならここに来るんじゃなかった。ただ助けてほしいだけだ。助けてくれるなら、あなたではなくても、だれでもいい。うるさいことを言われるなら、もう結構だ」と、そのような反応が、もしかしたらこの人の心の中に起こったかもしれません。

そうする権利はこの人にあったと思います。しかしそれは、逆の視点に立てばイエスさまも同じだということです。ここから先は、イエスさまならそうお考えになるだろうという意味ではなく、あくまでも私の感覚で申し上げることですが、イエスさまのほうにも断る権利があるといえばあるわけです。

皆さんはどうでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。「助けてください」と死にそうな顔と声で頼ってくる人を必ずすべて助けてきたでしょうか。今の私はひどく困っていますが、私が死にそうな顔で「助けてください」と言えば、みなさんは私を助けてくださいますか。

教会にはいろんな問題を抱えた方々が具体的な助けを求めてこられます。そのすべての人々を教会は必ず助けてきたでしょうか。そういうことは実際には不可能ですし、本人のためにならないという理由でお断りする場合も多くあります。

私たちも体験することがあると思います。私もあります。助けを求めてきた人を助けたら、他でも同じことを繰り返している詐欺師だった。あるいは、助けを求められたがやむをえずお断りしたら、あとで逆恨みされた。

いま私が申し上げていることと、今日の箇所に書かれていることとは全く関係ないと思われるかもしれません。この王の役人の子どもさんは死にそうになっていたのですよ。人の命がかかっていたのですよ。そのような切羽詰まった場面でイエスさまが「なぜ私を信頼するのか」などと、そのようなことを問題になさるはずがない。たとえ詐欺師であってもイエスさまなら助けてくださるに違いない。イエスさまを侮辱しないでほしいと思われるかもしれない。

しかし、今日の箇所に確かに記されているのは、イエスさまがこの人に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃったその言葉です。この言葉の意味をわたしたちはよくよく考える必要があると思うのです。

この人が他の人ではなくイエスさまをあえて選んで助けを求めに来た理由は、イエスさまがカナで行われた「最初のしるし」だったことは間違いありません。つまりこの人は、魔法使いか超能力者が引き起こす奇々怪々の超常現象をイエスさまに期待したのです。そういう助けの求め方をしたのです。

しかしイエスさまは、そのような理由でご自分を信頼し、助けを求めてくる人々を退けておられました。そのことがはっきり書かれている箇所があります。「最初のしるし」が描かれていた箇所のすぐ後です。2章23節から25節です。次のように記されています。

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2章23~25節)。

さっと読むだけではよく分からない難しい言葉が並んでいますが、はっきり分かるのは、イエスさまは、御自身が行われた「しるし」を見て信じる人々を信用なさらなかった、ということです。

しかし、これは本当に難しい問題です。こういうたとえはどうでしょうか。会社が社員を募集し、応募してくれた人と面接する。その場合、客観的な意味での才能や技能や業績などをその人が持っているかどうかが全く分からない、正体不明の相手をいきなり信用して採用することがありうるでしょうか。

まして、自分の子どもの命を預けるという重大な決断を、何の「しるし」もない正体不明の相手に対してできる人がいるだろうかと考えていただけば、私が今ムニャムニャ口ごもりながら申し上げていることの趣旨をお分かりいただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

いま私が申し上げているのは、「イエスさまが、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と指摘されたことは全く反論の余地がないということです。全くイエスさまのおっしゃるとおりです。しかし、イエスさまはそういう相手は信用なさらないということです。さて困りました。

イエスさまがお求めになるのは、「しるし」ではなく、「わたし」を信じることです。イエスさまがなさる「しるし」や「わざ」を信じるのではなく、イエスさまご自身を信じることです。

その意味は、イエスさまという方はこんなにすごいことができる方だから信じるとか、こんなことを私にしてくださった方だから信じるというような、相手の業績を見て、その評価として信じるというような信じ方をする相手を、イエスさまは信用しない、ということです。

「王の役人」がイエスさまに必死でお願いしている言葉の中に、一つ気になる点があります。本人に悪気などは全くないと思います。しかし、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(48節)と言っています。

気持ちはものすごく分かります。しかし「子供が死なないうちに」という言葉には脅しの要素があります。あるいは命令。私の子どもが死にそうなのはあなたのせいだという意味を持ちはじめます。あのマルタとマリアが弟ラザロが死んで4日も経ってやっと来てくださったイエスさまに向かって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言い放ったように(ヨハネ11章)。

イエスさまは、だれの脅迫にも命令にも、お従いになりません。人から頼まれるとどんなことでも断ることができないというような、お人よしの方でもありません。「しるし」を見ました、そのご立派な業績の評価としてあなたを信じてあげます、というような近づき方をする相手はお嫌いになります。

イエスさまがお求めになるのは「わたしを信じること」です。その相手を必ず助けてくださいます。私たちも同じです。私たちにもイエスさまが行った「しるし」ではなく「イエスさま」を信じることが求められています。

イエスさまは私たちの願いを願い通りに叶えてくださらないかもしれません。なぜなら、イエスさまは、私たちの自己実現の手助けをしてくださらないからです。そういうふうな求め方をする相手を退けられるからです。

イエスさまは、私たちの要望に応じるのではなくご自身の御心に従って私たちを助けてくださいます。だから、私たちは「イエスさまを信じる前に」失望してはならないのです。

(2017年7月23日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)