2017年1月19日木曜日

個人の趣味も長く続ければ何かにはなる

ファン・ルーラーに関する拙論を掲載していただいた雑誌
私がネットに自分のことしか書かないのは、自分のことしかしていないからではなく自分のことしかネットに書けないからであるということを一応書いておかなければ、ネットだけでお付き合いしている方々にまるで私が常に自分のことしかしていないかのように誤解される可能性があるので、一応書いておく。

それにしても、今ほどまでに教会からも学校からも組織神学への関心が失われている只中に呆然と立ち竦んでいると、組織神学は個人の趣味でしかないと見られているのかもしれないという疑念が確信に変わる。現実の組織神学は「書斎の本の並べ方の順序の研究」のようなものかもしれないが、まあそれでも。

組織神学のすべてがそうだという意味ではないが、私が関心を抱くようなタイプの組織神学は、出版社の経営危機を救うほどに飛ぶように売れるようなものではないし、学校や教会を人気スポットにするほど魅力的な内容でもないので、「個人の趣味然」とした紹介の仕方や営み方を細々と続けていくしかない。

そのようなことをずっと続けても鳴きもしないし飛びもしないものだと自分でも分かっているつもり。まあでも、人類史の中から完全に失われるようなことがあってはならない息の長い営みではあるだろうと、自分に言い聞かせている。20年研究を続けてもタテに立つ厚さの本にならない怠慢を許してほしい。

しかし小さな声で言いたいのは、私の仕事上の資格や免許(車の運転免許を除く)のいわば唯一の根拠は「大学と大学院で組織神学を勉強したことがある」ことだったりはする。そこから数えれば30年、ファン・ルーラーに特化した研究の開始時から数えれば20年。個人の趣味も長く続ければ何かにはなる。

「ファン・ルーラーの著作」のアドレスを変更しました

拙ブログの「ファン・ルーラーの著作」ページのアドレス(URL)を変更しました。旧アドレスは削除となります。画像データを増やしました。これからもよろしくお願いいたします。

ファン・ルーラーの著作
http://yasushisekiguchi.blogspot.com/p/vanrulerjp.html


『カイパーのキリスト教的文化の理念』(1939年)
『宗教と政治』(1945年)
『政治は聖なる事柄である』(1946年)
『よみがえれ喜びに』(1947年)
『ヴィジョンと展望』(1947年)
『国家と啓示』(1947年)
『律法の成就』(1947年)
『夢と形』(1947年)
『神の国と歴史』(1947年)
『新しい教会規程における告白教会』(1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』(1948年)
『被われた存在』(1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』(1952年)
『特別職と一般職』(1952年)
『百年後の司教杖』(1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)
『われらの父よ』(1953年)
『世にかかわる勇気を持て』(1953年)
『中高等教育のキリスト教化』(1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』(1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』(1955年)
『政府とヒューマニズム』(1955年)
『司牧書簡の背景』(1955年)
『安心して楽しみなさい』(1955年)
『世界においてキリストが形を取ること』(1956年)
『最も大いなるものは愛』(1957年)
『プロテスタンティズムと動物保護』(1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』  (1958年)
『教会の政治的責任』(1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 (1965年)
『人生の愚かさ』 上巻(1966年)
『人生の愚かさ』 下巻(1966年)
『神学における人間性』(1967年)
『われ信ず』(1968年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第1巻(1969年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第2巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第3巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第4巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第5巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第6巻(1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』(1969年)
『聖書との交わりの形成』(1970年)
『なぜ私は教会に通うのか』(1970年)
『使徒の権威において』(1971年)
『喜びをもって信じる』(1971年)
『マルコ14章』(1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』(1972年)
『祝祭としての人生』(1972年)
『死は打ち負かされた』(1972年)
『幼子のように喜ぶ』(1972年)
『切り口鋭く』(1972年)
『詩編を物語る』(1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
『輪舞』(1974年)
『マルコの歌』(1974年)
『待望と成就』(1978年)
『炎のような舌』(1980年)
『日々の黙想』(1989年)
『ファン・ルーラー著作集』第1巻 神学の本質(2007年)
『ファン・ルーラー著作集』第2巻 聖書と啓示(2008年)
『ファン・ルーラー著作集』第3巻 神、創造、人間、罪(2009年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻上 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻下 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第5巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第6巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第7巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第8巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第9巻(未刊)
『創造から神の国まで』  (2008年

2017年1月15日日曜日

古本屋でもカオスでもない私の書斎

拙ブログにも楽屋裏があり、どの記事にどれだけアクセスがあったかが分かる。各記事のアクセスは少ない。寂しくはない。世と人に役立つことを書いていないので当然だ。なるべく目立たないことを書こうと意識している。騒ぎになることは絶対書かない。


古本屋ではない。私の書斎。カオスではない。多様性。


増強の願いはある。たとえばシュライアマハー。今あるのは『宗教論』(日本語2種)、『独り語る』(日本語2種、英語)、『解釈学の構想』、渡邊泰三『シュライエルマッヘル』、A. A. Vogelsangの博士論文『シュライアマハーの説教』(オランダ語、1916年)。もうちょっと欲しい。


カール・バルトの(「についての」含む)本は180×90cmの本棚の奥側をすべて提供しても足りず、前側まで要求してきた。さすがは前世紀「最大」の神学者だ。『教会教義学』の英語版は持っていない。デジタル版には興味ない。バルト関係の蔵書リストは作っていないが、そろそろ必要かもしれない。

そう。こんなに邪魔な存在でも紙の本の蒐集にこだわり、デジタル版に興味ない理由は、本は内容だけがデータではないからだ。本の存在そのものがデータだ。どうしてこういう装丁なのか、どれくらい邪魔な存在かも重要なデータ。写真を撮ればある程度のイメージは保存できるが、撮影者の主観にとどまる。

勝田台教会の主日礼拝に出席しました

今日(2017年1月15日日曜日)は日本基督教団勝田台教会(千葉県八千代市勝田台北3-13-5)の主日礼拝に出席させていただきました。少し(いやかなり)遅刻してしまって申し訳なかったのですが、水谷勤牧師はじめ教会の皆さまがとても温かく歓迎してくださいました。ありがとうございます。

2017年1月14日土曜日

週末は「また」または「まだ」書斎整理

某社から書評依頼を一昨日いただいた新刊書の原著ドイツ語版を昨日の昼休みにアマゾンで注文したら24時間以内に自宅(借家)に届いたことに、ひたすら驚愕している。このウルトラハイスピード社会に全くついていけていない。恩恵を享受しているものの血圧の上昇を感じる。いやべつに血圧は関係ない。


週末は「また」または「まだ」書斎整理。左上から。すべて奥側。一列目プラトン、アリストテレス、フィヒテ、ヒューム、カント、ヘーゲル、デリダ、レヴィナス、ハーバーマス、ジンメル、フルキエ、ホルクハイマー、宗教学、政治学、社会学。二列目聖書学。三列目トレルチ、ヴェーバー、キリスト教史。


依然平積みだった本を整理中、昨冬お世話になった本を掘り出した。昨年すでに50歳だったので人生最初で最後の更新だった。25年どこに行ったか分からない状態で放置していた教員免許状のほこりをはたいて使うことになったのは神の恩寵としか言いようがない。更新講習修了認定試験は緊張しまくった。


15年も更新していない中学と高校の同窓会名簿。悪い卒業生で申し訳ない。


書斎がすっかり片付いたので、今夜も安心して眠れそうだ。

2017年1月12日木曜日

うれしいことがありました

2017年1月12日午前6時40分、自宅(借家)にて撮影
いま気づいた。20年前の今日(1月12日)は日曜日だった。日本基督教団の教師として最後の説教をした。20年後の私は日本基督教団の教師である。「分かってくれとは言わないが~」という歌をなぜか思い出す。「神さまのお導きですね~」とあまり言われたくない。途中を省いた結論はそれでいいが。

今月で拙ブログが9周年を迎えたことも忘れていた。2008年1月1日に開設した。早くやめるつもりだった。1997年から始めたファン・ルーラーの翻訳の「翻訳調」を脱したく流暢な日本語を書けるようになるための練習帳だった。ブログをやめられないのは、いまだに流暢な日本語が書けないからだ。

今日うれしいことがあった。新刊書の書評の依頼を何年かぶりに受けた。もちろん即答で受諾した。そういう世界からは完全に忘れ去られたと思っていた。そういう世界に加えていただいたと実感したことは一度もないが。「軽薄だ」なんだと私を叩く人がいることを知っている。よく分かっているではないか。

2017年1月10日火曜日

「書斎の本の説明」への追記

このたび書斎の本を本棚に並べてみた感じでいえば、A5判ハードカバーの本1冊を500グラムとすれば、ひとつの本棚に前後入れれば(ひとつの棚に2列置く)120冊入るので500グラム✕120冊=60キロ。ハードカバーの本ばかりではないので、本棚1台につきざっと50キロの本があるとする。

その本棚をこのたび6.5台(うち半分量のもの1台)揃える。50キロ✕6.5台で325キロ。あとは押し入れにしまったのが150キロから200キロの間くらいありそうなので、全部でざっと500キロちょっと。「推定1トン」と言い続けてきたのは大げさすぎる目分量だったことになり申し訳ない。

500キロちょっとなら、私が5人と半分くらいいるだけなので、大したことない。むしろ安定感が出てしっかりすると思う。それと本棚そのものが1台28キロなので、180キロほど加わる。全部でざっと700キロ。私が8人いるだけだ。大したことない。床なんて抜けるわけない(だんだん自信ない)。

書斎の本の説明


画像の説明、左上から。一列目古代教父、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、リュースブルク、ルター、カルヴァン、ウェスレー、二列目バルト、三列目ノールトマンス、ミスコッテ、ベルカウワー、ティリッヒ、ボンヘッファー、カイパー、バーフィンク、四列目ファン・ルーラー、現代神学、辞書類。

ノールトマンス(Noordmans)、ミスコッテ(Miskotte)、ファン・ルーラー(Van Ruler)は、20世紀オランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の「三大神学者」(derde grote theoloog)と呼ばれている存在。

ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラーが20世紀に属した「オランダ改革派教会」(NHK)は今は存在しない。もうひとつのオランダ改革派教会(GKN)とオランダ福音ルーテル教会とNHKが合同して「オランダプロテスタント教会」(PKN)として現存する。「三大」神学はPKNに継承。

「改革された(英語でもドイツ語でもオランダ語でも過去形で表現する)教会」を名乗るかぎり16世紀に縛られているイメージを保持し続けてしまう。「プロテスタント教会」だって何かにプロテストしていると言いたいのだろうと見られてしまうかもしれないが、歴史的名称としては他に名乗りようがない。

プロテスタント教会の神学は、カトリック教会、オーソドックス教会に次ぐいわば「第三の」神学なので、すべてをカバーしうるような蔵書は個人的には不可能であるにしても、どうしても相対的に蔵書量が多くなってしまうと言えると思う。「第三の」神学は前二者を「包括する」という自負を持つがゆえに。

1月5日(木)千葉県北西部(現住所の柏市含む)震度3以上(震源地福島M5.8)でピクリともしなかった。東日本大震災のとき千葉県北西部は震度4だが、当時の住所地(松戸市)の本棚から1冊も本は落ちなかった。震度5以上の経験はないが、その場合はうちだけではなく首都圏全体の問題だと思う。

説教もまた「言葉」であるかぎり、それなりの結果責任は生じるので、何らかの根拠に基づいて語らざるをえない。それが蔵書が増えていく理由。単なる蔵書趣味ではないつもり。

2017年1月9日月曜日

書斎の本棚の大幅な並べ替えをしました

今日(2017年1月9日月曜日)は、先週金曜日の時点ではただランダムに突っ込んだだけだった書斎の本棚の大幅な並べ替えをしている。満を持して始めたものの、片付けているのか散らかしているのか分からない状況がえんえんと続いている。だが、そろそろ時間切れだ。このままだと寝るところがない。


とりあえず寝られる場所は確保できたので書斎整理終了。今日で休みは終わり。明日から多忙。次の書斎整理は来年かも。地震の心配はしている。今日もひどく重い全3巻の『へメーネ・フラチー』という呪文の本が足に落ちて痛かった。『夜中にラーメンを食べても太らない技術』の本を久しぶりに見つけた。


今夜で終わる年末年始の休暇を振り返って思うのは、過去に例がないほど最も体を動かした休暇だったのではないかということだ。ほとんど書斎に引きこもりっぱなしだったが、1年前からの懸案だった書斎整理に取り組めた。これからはいろんな質問に迅速に対応できる。いちおうこれでも「先生」なので。

2017年1月8日日曜日

神があなたの行く道を教える(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章28~30節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。今日もよろしくお願いいたします。

豊島岡教会南花島集会所で前回説教させていただいたのが昨年11月13日ですので、2ヶ月前です。そのあいだに日曜日は7回ありました。それぞれ私がどこにいたかを明かします。

まず千葉市の日本バプテスト連盟の教会に3回。そのうち2回は私が説教しました。先週1月1日は千葉県いすみ市の日本基督教団上総大原教会で説教しました。元日の朝に片道200キロ離れた教会に車で行きました。残り3回は松戸市の日本基督教団小金教会、新松戸幸谷教会、そして千葉市の西千葉教会の主日礼拝に出席しました。

本来でしたら、どこかひとつの教会に落ち着いて、続けて礼拝に出席すべきであることは分かっています。ふらふらしているように思われるのは、よいことではありません。しかし、少しわがままな言い方をお許しください。今のような教会生活は、私にとって生まれて初めての貴重な経験なのです。

私は昨年11月に51歳になりました。51年、教会に通ってきました。前回申し上げたとおり、私の父は日本基督教団松戸教会で60年前に洗礼を受けました。母は岡山市内の日本基督教団の教会で洗礼を受けました。その両親の二男として生まれ、その後ずっと教会に通ってきました。そして高等学校を卒業してすぐに東京神学大学に入学し、大学院を卒えてすぐに日本基督教団の教師になりました。それが27年前です。当時は24歳でした。

それ以降はずっと教会で説教する立場にいました。それは他の牧師の日曜日の礼拝説教を聴く機会がほとんどなくなったことを意味します。しかし、今は違います。自分が説教を担当させていただく日曜日以外は、毎週違う教会に行き、他の牧師の礼拝説教を聴かせていただいています。それは私にとって大きな恵みです。そして私にとって貴重な学びの機会でもあります。

大きな声では言えないことですが、と言いながら大きな声で言っていますが、高校を卒業するまで18年も通った教会の牧師の説教は全く理解できませんでした。

それは単に私が子どもだったからだという面ももちろんあるとは思いますが、それだけではありません。そんなふうにだけ言うと、子どもをばかにしていることになります。中学生、高校生には聖書についても、あらゆるものごとについても十分な理解力があります。それは私がいま高校生を相手にしながら思うことでもあります。

その教会に18年も通いました。生まれたときから。私はその教会の附属幼稚園の卒園生でもあるのです。それでも全く理解できませんでした。何を言っているのかが分からなかったのではありません。納得できませんでした。内容を受け容れることができませんでした。教会に行くたびに「違う、違う、そうじゃない」と首を横にふり続けていました。

だから、自分が牧師になろうと決心しました。高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学することを決心した理由は、自分の眼前のこの牧師の代わりに私が説教すべきであると本気で思ったからです。そういうことを考える高校生もいるのです。

ですから私は、教会の説教が理解できないことで苦しんでいる人の気持ちがとてもよく分かります。深く同情します。

はっきり言っておきますが、説教が理解できないのは、聴く側の人の聴き方の問題ではありません。勉強不足だから、自分の知識が足りないから理解できないというのでもありません。100パーセント、説教者の側の問題です。これは感情に任せて言っていることではなく、厳密に考えて申し上げていることです。

どうしてそうだと言えるのでしょうか。それは、私の先生でもある加藤常昭先生が、私が東京神学大学の学生だった30年前から言っておられたし、その後もずっと加藤先生の十八番になっている話と関係しています。東京神学大学の先生たちの話は、私の心に深く刻まれています。

加藤先生が繰り返しおっしゃるのは、ゲアハルト・エーベリンクというドイツの神学者が、日本語版も出版されている『キリスト教信仰の本質』(飯峯明訳、新教出版社、第一版1963年、第二版1983年)という本の冒頭に書いていることです。

そこにエーベリンクが書いているのは「興味」という言葉の意味の説明です。英語のインタレスト、ドイツ語でもインタレッセです。それはラテン語のinter-esseである。そして、その文字通りの意味は「~の間にあること、そのそばにいること、その事柄のもとにあること、その事柄にかかわること」であると書いています(同上書11ページ)。

そのうえでエーベリンクが続けていることを加藤先生がまとめておっしゃいます。それは、何かに興味や関心を持つことができるかどうかは、結局のところ「自分に関係があるかどうか」に尽きるということです。

高校で授業をしていると、てきめんに分かります。生徒は「自分に関係ある」と感じているところでは目を覚ましています。「自分に関係ない」と感じた瞬間から居眠りを始めます。教壇から見ていると、とてもよく分かります。全員が目を覚ますときがあります。それは「これはテストに出ます」と言うときです。テストと無関係な生徒は、学校にはひとりもいないからです。

エーベリンクの言葉を一箇所だけ引用させていただきます。愛とは何か、死とは何かなどのことが問題になっているときに、人の心の中に起こる反応について書いているところです。

「このような問いを取り扱うとき、たといわたし自身があらわに話題になっていないときでも、事実的にはわたし自身が話題になっているのと全く同じことが、語られていることになる。つまり、そこでかかわってくる問いは、わたし自身につき当たっている問題であるからであり、わたし自身がそれらの問いの中で現われてき、そこでわたし自身が問われているからである」(同上書、12ページ)。

この中に出てくる「わたし自身につき当たっている問題」というのは、今の若者ことばの「刺さる」です。べつに若者だけが使っていることばでもないのですが、若者たちが使う場合は「グッと来る」というような意味です。グッと来る言葉や、グッと来る音楽が「刺さる」と言います。

それは「自分に関係ある」ということです。「私の話をしてくれていると感じる」ということです。そのときに興味がわく、関心を抱く。興味や関心とは、それ以上でもそれ以下でもないのです。

私が高校生のときに考えたことと、エーベリンクの話がストレートに結びつくわけではありません。しかし18年聴き続けても理解も納得もできなかった説教は、私の心には「刺さり」ませんでした。

そういうわけで、私はいま教えている高校生の中からぜひ私と同じ志を持つ生徒が出てきてくれることを願っています。いまお笑いになった方は、私が言おうとしていることがお分かりになったからでしょう。

そうです。私がワケの分からない授業とワケの分からない説教を続ければ、「あの教師を教壇から引きずり下ろして自分が聖書の授業をする。チャペルの講壇から引きずり下ろして自分が説教をする」と言い出す生徒が出てきてくれるのではないかと期待しています。

しかし、今日はこのままずっと私の話だけしてこの説教を終わらせようとしているわけではありません。先ほど朗読していただいた聖書の箇所と今までお話ししたことが深い次元で関係していると思っているので、かなり長く自分のことを話させていただきました。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と書かれています。

この箇所は時々誤解されるところがあるので、気をつけなくてはなりません。「御計画に従って召された者たち」とはキリスト者のことです。教会のことです。狭い意味で牧師、説教者になった者たちだけのことではありません。

その者たち、すなわちキリスト者のことを、神は「前もって知っておられ」、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(29節)、そして「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった」(30節)とまで書かれています。

これだけを読むと、なんだかまるでベルトコンベアに載せられて自動的にキリスト者が製造される工場のようなものを思い浮かべる人が出てくるとも限りません。

すべては神の御計画。人間の側の意思も決断も一切関係なし。我々の悩みも苦しみもすべて神のたなごころ。手のひらの上でころころと転がされているだけ。我々が苦しんでいる姿を、山のあなたの空遠くから、神がニヤニヤ笑いながら見おろしておられる。そういうふうなイメージでとらえる人が出てくるかもしれません。

しかし、それは全く違いますから。そのような話ではありませんから。完全な誤解ですから。どうかご安心いただきたいし、もし誤解しておられるようでしたら考えを改めていただきたいです。

どう言えば理解していただけるのかは難しいところではあります。あまり説得力はありませんが、ひとつの点を言えば「神を愛する者」と書かれていることは重要です。

ベルトコンベア式で考えれば、我々は「神を愛する者」ではなく「神を愛させられている者」(?)と奇妙な受動形を使って言わなくてはならないでしょう。もしキリスト者の存在を、自分の意思が働く要素はなく、100パーセント完全に神のコントロール下で動かされているようにとらえるのであれば。

しかし、それは違いますから。全くの誤解ですから。そこに人の意思は必ずあります。決断も当然あります。我々自身の主体性があります。そこにはまた必ず葛藤があり、悩みがあります。

「万事が益となる」の「万事」に、それら一切が含まれます。「あの牧師を講壇から引きずり下ろさなければならない」という苦渋に満ちた決心が含まれます。その後の長年にわたる苦闘がすべて含まれます。

神がすべての道を備えてくださいます。わたしたちの行く道を教えてくださいます。しかし、その道の上を歩いていくのは、あくまでも私自身です。それらすべてが「共に働く」のです。

ローマの信徒への手紙8章28節は、私が高校を卒業して東京神学大学に入学することになったときに、私の母が送ってくれた言葉です。「この御言葉を大事にしなさい」と教えてくれました。

(2017年1月8日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)