2016年12月4日日曜日
新松戸幸谷教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年12月4日日曜日)は日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市)の主日礼拝に出席させていただきました。「その光はまことの光」と題する吉田好里牧師のアドヴェント説教は、息を呑む素晴らしさでした。聖歌隊の賛美が美しかったです。聖餐式にも与りました。ありがとうございます。
2016年12月2日金曜日
ゼレさんの『神を考える』を読みはじめました
本日(2016年12月2日金曜日)ゼレさんの『神を考える』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)を古書で入手。ずいぶん前に買った『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)に続くやっと2冊めの蔵書。まだまだ。今年の流行語大賞に「ゼレってる」でエントリーしよう。今年はもう終わったか。ゼレ研ぜひいつか。
ゼレさん素晴らしい。じんじん響く。
「テキスト・文脈・神の民は、組織神学の最も基本的な概念である。組織神学はこれら三つの要素すべてを顧慮しなければならず、どれか一つが他のものより優位であると言うことはできない。文字と伝統をいわば不動のものとして繰り返すだけで、このテキストが現在の文脈の中で言おうとしていることを明確に発言しない神学は、神の民に対して担っている課題を果たしていない。信仰の主体である神の民に関連する、テキストと文脈の間の対話がなければならないのである。」
(『神を考える』15ページ)
これも素晴らしい。ずばりそのとおり。
「正統主義は自らの文化的な制約に対して、独特の蒙昧さを持っている。結婚、子どもの教育、労働の倫理に関する正統主義の理解は、これらを美化して批判しない。その結果、ドイツ・キリスト者に対して向けられたバルメン宣言が、今日、新正統主義と保守主義が混じり合う中で、次のように解釈される可能性がある。
教会の側からの政治的な参加は、どんなものであれ非難されなければならない。イエス・キリストはこの世のあらゆる体制を超えて立っている。彼に与するということは、この世の戦いには関わらないことを意味する。キリスト者であることは、政治的な問題に実際に関わることから一定の距離を置くことである。キリストは神の唯一の言葉であるから、すべての体制は―それが社会主義であろうと資本主義であろうと―キリストと同一視されることはできない。イエス・キリストはすべてを超えている。教会はこの世から距離を置き、いわゆる『終末論的条件』を守らなければならない。バルメン宣言の第二の命題が『この世の神なき束縛からの喜ばしい解放』を告げているなら、この告白の保守的な解釈は、バルメンの歴史的文脈から明らかな幾つかの束縛だけではなく、この世の束縛すべてがそれ自体神なきものであると仮定する。文脈の欠如が神学の原則へと高められてゆく。その他の保守派の人たちは、新正統主義のキリスト中心主義を、エキュメニカル運動の解釈学的アプローチと『世界が教会の議題を決定する』という主張に反対するために利用したのである。」
(『神を考える』27~28ページ)
全15章中の最初の1章と2章を読了。40ページ進む。これほど興奮しながら読める、得心が行く組織神学は久しぶりだ。目が疲れてきたのでこれにて。
ゼレさん素晴らしい。じんじん響く。
「テキスト・文脈・神の民は、組織神学の最も基本的な概念である。組織神学はこれら三つの要素すべてを顧慮しなければならず、どれか一つが他のものより優位であると言うことはできない。文字と伝統をいわば不動のものとして繰り返すだけで、このテキストが現在の文脈の中で言おうとしていることを明確に発言しない神学は、神の民に対して担っている課題を果たしていない。信仰の主体である神の民に関連する、テキストと文脈の間の対話がなければならないのである。」
(『神を考える』15ページ)
これも素晴らしい。ずばりそのとおり。
「正統主義は自らの文化的な制約に対して、独特の蒙昧さを持っている。結婚、子どもの教育、労働の倫理に関する正統主義の理解は、これらを美化して批判しない。その結果、ドイツ・キリスト者に対して向けられたバルメン宣言が、今日、新正統主義と保守主義が混じり合う中で、次のように解釈される可能性がある。
教会の側からの政治的な参加は、どんなものであれ非難されなければならない。イエス・キリストはこの世のあらゆる体制を超えて立っている。彼に与するということは、この世の戦いには関わらないことを意味する。キリスト者であることは、政治的な問題に実際に関わることから一定の距離を置くことである。キリストは神の唯一の言葉であるから、すべての体制は―それが社会主義であろうと資本主義であろうと―キリストと同一視されることはできない。イエス・キリストはすべてを超えている。教会はこの世から距離を置き、いわゆる『終末論的条件』を守らなければならない。バルメン宣言の第二の命題が『この世の神なき束縛からの喜ばしい解放』を告げているなら、この告白の保守的な解釈は、バルメンの歴史的文脈から明らかな幾つかの束縛だけではなく、この世の束縛すべてがそれ自体神なきものであると仮定する。文脈の欠如が神学の原則へと高められてゆく。その他の保守派の人たちは、新正統主義のキリスト中心主義を、エキュメニカル運動の解釈学的アプローチと『世界が教会の議題を決定する』という主張に反対するために利用したのである。」
(『神を考える』27~28ページ)
全15章中の最初の1章と2章を読了。40ページ進む。これほど興奮しながら読める、得心が行く組織神学は久しぶりだ。目が疲れてきたのでこれにて。
2016年12月1日木曜日
聖霊の「注ぎ」についての私見の続き
日本語訳の聖書で聖霊について「注ぐ」という言葉が何度も使われているのはそれ以外に訳しようがない原語が用いられているからだと思うので、私も「注ぐ」を用いないわけではないということは繰り返し申し上げている。私の関心は、聞く人の耳にどう聞こえるか、読む人の目にどう読めるかということだ。
「注ぐ」というとどうしても聖霊は水や油のような液体なのかと連想させるものが出てきてしまうがそれでよいかが気になる。また「注ぐ」というとどうしても聖霊それじたいの主体性よりも「聖霊」以外のだれかが「注ぐ」という行為を行うことをイメージさせてしまうものが出てきてしまうがそれでよいか。
「父なる神が、イエス・キリストにおいて、聖霊を」という文脈でなら「注ぐ」でよいとも思うが、聖霊もまた(相対的に)自立した主体性をもつ存在であると考えるなら、聖霊おんみずからがご自分のほうから人間存在の内部に潜り込んでくださることをイメージできる訳語のほうがよいのではないかと思う。
たとえば、テトスへの手紙3章6節のギリシア語には「注ぐ」や「流す」という意味以外に「授ける」という意味がある。「授ける」ならまだましである。「注ぎ」も「満たし」もそれ自体は意志をもたない非人格的な物質のイメージに通じるものがある。三位一体をもっとまじめに考えなくてはだめだと思う。
うまく表現する自信はないが、私がもうひとつ気になるのは、「注ぐ」という言葉につきまとう(と私には感じられる)、注ぐ主体と注がれる客体との関係が、前者にとっての後者が「従属的な」関係であるように感じることである。これを言うのも、三位一体がまじめに考えられていない気がするからである。
「注ぐ」と言うではないかとご指摘いただいた「愛情」にしても、「視線」にしても、「力」にしても、注ぐ主体から発せられる客体ではあると思うが、しかしそれは、それ自体が(相対的に)自立した人格的主体性を持っているものではなくて、あくまでも、注ぐ主体の人格的主体性に従属するものであろう。
父なる神と聖霊の関係やキリストと聖霊の関係はそういうものだろうか。「注ぐ」より「出る」に近いのではないか。「親から子どもが生まれる」や「出る」はありだが、「親から子どもが注がれる」とは言わない。御父と聖霊の関係は親子ではないが、異なるペルソナをもつ両者を言うなら「注ぐ」はまずい。
「聖書解釈から教義が生まれた」という歴史的順序はそのとおりだが、その教義に「教会の聖書解釈」は拘束されている。三位一体の教義に「聖書」は拘束されていないかもしれないが、「教会の聖書解釈」は拘束されている。この話題の出発点は、私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたことからだった。
私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたのに対して、「聖霊」には「注ぐ」と言うほうがいいのではないかというご指摘を受けた。私に問われているのは「教会の聖書解釈」だった。その返答として私は「聖霊」について「注ぐ」という表現を使うのは意図的に避けていると言い、その理由を説明した次第。
聖霊について「注入、注ぎ」(infusio)という語を用いることにプロテスタンティズムは批判的だったと、ティリッヒが『組織神学』第3巻(私の東神大の学部4年の卒業論文のテーマだった)に書いているのを読んだことが、私がこの問題を考えはじめたそもそものきっかけだったことを思い出した。
なぜプロテスタンティズムがそうなのかといえば、ティリッヒによると、「注ぎ、注入」(infusio)という語には「魔術的・物質主義的こじつけ」(magic-materialistic perversion)があるからだそうだ(ティリッヒ『組織神学』第3巻、英語版では115ページ)。
しかし、ティリッヒが言っているから、とか、プロテスタンティズムがどうだから、とか、三位一体が、とか私が言うのは、私が「聖霊」に「注ぎ」という語を用いることを意図的に避けていることの理由ないし自己弁護を言っているだけであって、自分の立場や考えが絶対に正しいと言いたい思いは全くない。
パウロが三位一体を考えていたかどうかという問いかけは、イエスはキリスト教の創始者だったか、とか、カントがドイツ観念論の哲学者だったか、という問いに似ている。ちなみに、イエスはキリスト教の創始者であり、カントはドイツ観念論の哲学者だったというのは高校の倫理の教科書の言い方である。
11月27日日曜日の説教で私は「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4章6節)は、御子だけの霊ではなく、御子の霊を送った御父の霊でもあるので「御父と御子の霊」としての「聖霊」だと述べた。
パウロの時代に「三位一体」(trinity)という用語は存在しなかった。それはそのとおりである。しかし「御父と御子の霊」としての「聖霊」は前二者と同格のペルソナを持っているという理解は少なくとも西方教会の伝統を受け継ぐ「教会」、そしてもっと多くの「教会」の聖書解釈の基本線である。
その基本線に私も拘束されている。その意味は、「父・子・聖霊なる三位一体の神」を”信奉”する日本基督教団信仰告白の”影響下”にある教団の教師である私は拘束されている、というくらいかもしれない。いま書いた一文に2回使用したダブルクオーテーションはやや皮肉である。大真面目の皮肉である。
「注ぐ」というとどうしても聖霊は水や油のような液体なのかと連想させるものが出てきてしまうがそれでよいかが気になる。また「注ぐ」というとどうしても聖霊それじたいの主体性よりも「聖霊」以外のだれかが「注ぐ」という行為を行うことをイメージさせてしまうものが出てきてしまうがそれでよいか。
「父なる神が、イエス・キリストにおいて、聖霊を」という文脈でなら「注ぐ」でよいとも思うが、聖霊もまた(相対的に)自立した主体性をもつ存在であると考えるなら、聖霊おんみずからがご自分のほうから人間存在の内部に潜り込んでくださることをイメージできる訳語のほうがよいのではないかと思う。
たとえば、テトスへの手紙3章6節のギリシア語には「注ぐ」や「流す」という意味以外に「授ける」という意味がある。「授ける」ならまだましである。「注ぎ」も「満たし」もそれ自体は意志をもたない非人格的な物質のイメージに通じるものがある。三位一体をもっとまじめに考えなくてはだめだと思う。
うまく表現する自信はないが、私がもうひとつ気になるのは、「注ぐ」という言葉につきまとう(と私には感じられる)、注ぐ主体と注がれる客体との関係が、前者にとっての後者が「従属的な」関係であるように感じることである。これを言うのも、三位一体がまじめに考えられていない気がするからである。
「注ぐ」と言うではないかとご指摘いただいた「愛情」にしても、「視線」にしても、「力」にしても、注ぐ主体から発せられる客体ではあると思うが、しかしそれは、それ自体が(相対的に)自立した人格的主体性を持っているものではなくて、あくまでも、注ぐ主体の人格的主体性に従属するものであろう。
父なる神と聖霊の関係やキリストと聖霊の関係はそういうものだろうか。「注ぐ」より「出る」に近いのではないか。「親から子どもが生まれる」や「出る」はありだが、「親から子どもが注がれる」とは言わない。御父と聖霊の関係は親子ではないが、異なるペルソナをもつ両者を言うなら「注ぐ」はまずい。
「聖書解釈から教義が生まれた」という歴史的順序はそのとおりだが、その教義に「教会の聖書解釈」は拘束されている。三位一体の教義に「聖書」は拘束されていないかもしれないが、「教会の聖書解釈」は拘束されている。この話題の出発点は、私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたことからだった。
私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたのに対して、「聖霊」には「注ぐ」と言うほうがいいのではないかというご指摘を受けた。私に問われているのは「教会の聖書解釈」だった。その返答として私は「聖霊」について「注ぐ」という表現を使うのは意図的に避けていると言い、その理由を説明した次第。
聖霊について「注入、注ぎ」(infusio)という語を用いることにプロテスタンティズムは批判的だったと、ティリッヒが『組織神学』第3巻(私の東神大の学部4年の卒業論文のテーマだった)に書いているのを読んだことが、私がこの問題を考えはじめたそもそものきっかけだったことを思い出した。
なぜプロテスタンティズムがそうなのかといえば、ティリッヒによると、「注ぎ、注入」(infusio)という語には「魔術的・物質主義的こじつけ」(magic-materialistic perversion)があるからだそうだ(ティリッヒ『組織神学』第3巻、英語版では115ページ)。
しかし、ティリッヒが言っているから、とか、プロテスタンティズムがどうだから、とか、三位一体が、とか私が言うのは、私が「聖霊」に「注ぎ」という語を用いることを意図的に避けていることの理由ないし自己弁護を言っているだけであって、自分の立場や考えが絶対に正しいと言いたい思いは全くない。
パウロが三位一体を考えていたかどうかという問いかけは、イエスはキリスト教の創始者だったか、とか、カントがドイツ観念論の哲学者だったか、という問いに似ている。ちなみに、イエスはキリスト教の創始者であり、カントはドイツ観念論の哲学者だったというのは高校の倫理の教科書の言い方である。
11月27日日曜日の説教で私は「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4章6節)は、御子だけの霊ではなく、御子の霊を送った御父の霊でもあるので「御父と御子の霊」としての「聖霊」だと述べた。
パウロの時代に「三位一体」(trinity)という用語は存在しなかった。それはそのとおりである。しかし「御父と御子の霊」としての「聖霊」は前二者と同格のペルソナを持っているという理解は少なくとも西方教会の伝統を受け継ぐ「教会」、そしてもっと多くの「教会」の聖書解釈の基本線である。
その基本線に私も拘束されている。その意味は、「父・子・聖霊なる三位一体の神」を”信奉”する日本基督教団信仰告白の”影響下”にある教団の教師である私は拘束されている、というくらいかもしれない。いま書いた一文に2回使用したダブルクオーテーションはやや皮肉である。大真面目の皮肉である。
2016年11月29日火曜日
聖霊の「注ぎ」についての私見
聖霊について「注ぐ」という語を用いることは、私もするが、慎重な思いを持ち続けている。なぜ「注ぎ」とか「注入」という語を聖霊について用いるのかといえば、ラテン語の神学概念infusio Spiritus sanctiのinfusioを「注入、注ぎ」と訳すことになっているからである。
しかし「注入」はともかく「注ぐ」と耳で聞けば、ほとんどの人は「液体的な物質のようなものを流し込む」というイメージでとらえる。「注入はともかく」と書いたのは、「注入」の場合は「風船に空気を注入する」とは言うので、かろうじて気体のイメージまでは許容範囲のようだと言えそうだからである。
しかし「風船に空気を注ぐ」とは、通常の日本語の感覚では言わないだろう。このようなことを私は考えるので(組織神学専攻者の脳内はだいたいいつもこんな感じだ)、聖霊については「注ぐ」とか「注入する」という言い方を、全く用いないわけではないが、なるべく避けるようにしている。
その代わり「聖霊が人の中に入ってくださり(こちらのほうがinfusio=いわゆる「注入」)、住み込んでくださる(こちらがinhabitatio=いわゆる「内住」)」という言い方を、説教では、するようにしている。神学論文でどう書くかについては、これまた別問題としていつも悩む。
それにしても組織神学者、こと教義学者の中に「我々は世間から顧みられない。流行らない。面白がられない。そもそも学問として認めてもらえない」というようなことをつぶやく人が、昔から多い。19世紀生まれの教義学者バーフィンクもそういうことを書いている。ぶつぶつ言いながら営む学問のようだ。
しかし「注入」はともかく「注ぐ」と耳で聞けば、ほとんどの人は「液体的な物質のようなものを流し込む」というイメージでとらえる。「注入はともかく」と書いたのは、「注入」の場合は「風船に空気を注入する」とは言うので、かろうじて気体のイメージまでは許容範囲のようだと言えそうだからである。
しかし「風船に空気を注ぐ」とは、通常の日本語の感覚では言わないだろう。このようなことを私は考えるので(組織神学専攻者の脳内はだいたいいつもこんな感じだ)、聖霊については「注ぐ」とか「注入する」という言い方を、全く用いないわけではないが、なるべく避けるようにしている。
その代わり「聖霊が人の中に入ってくださり(こちらのほうがinfusio=いわゆる「注入」)、住み込んでくださる(こちらがinhabitatio=いわゆる「内住」)」という言い方を、説教では、するようにしている。神学論文でどう書くかについては、これまた別問題としていつも悩む。
それにしても組織神学者、こと教義学者の中に「我々は世間から顧みられない。流行らない。面白がられない。そもそも学問として認めてもらえない」というようなことをつぶやく人が、昔から多い。19世紀生まれの教義学者バーフィンクもそういうことを書いている。ぶつぶつ言いながら営む学問のようだ。
2016年11月28日月曜日
人生を強く生き抜くためにコネが大事です
自分は観ていないテレビ番組のパクリで申し訳ないが、NHK「ニッポンのジレンマ」をご覧になった方によれば「5つのコミュニティを持つと心が安定しやすい」そうだ。今の私の心のよりどころといえば家族(うち)、教会(宗教)、学校(職場)、学会(勉強)、SNS(発散)。おお、ちょうど5つだ。
説明が必要かもしれないのは「学会」。日本基督教学会とアジア・カルヴァン学会に所属。後者の世話人でもある。グループビデオ通話を利用したカール・バルト研究会は申し訳ないことに今の職場になってから休眠状態。そのうち再開したい。あとは青野太潮先生の本の読書会(十字架の神学研究会)に参加。
アジア・カルヴァン学会との出会いは2006年。翌2007年8月開催予定「第10回アジア・カルヴァン学会日本大会」(東京代々木・国立オリンピック記念青少年総合センター)の準備委員会の末席に加えていただいた。私を選んでいただけた理由は「ネットおたく認定」であったとしか言いようがない。
1999年2月にわずか4人で立ち上げたメーリングリスト「ファン・ルーラー研究会」の登録者が、5年後の2004年までに100人を超えた。オランダの組織神学者ファン・ルーラーの著書を翻訳して議論していただけだが、インターネットを始めたばかりの人が多くて、それなりに面白がってもらえた。
「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリストにアジア・カルヴァン学会の方々が加わってくださった。こういうことは自分で言わないほうがよさそうだが、「こいつは使えそうだ」と思っていただけたようだ。「第10回アジア・カルヴァン学会日本大会」の準備委員会で書記(ネット担当)を任された。
「第10回アジア・カルヴァン学会日本大会」の準備委員会が組織された2006年に、同準備委員会と同じメンバーによる「アジア・カルヴァン学会日本支部」が「第1回講演会」を開催した。会場は日本基督教団銀座教会(東京都中央区銀座)。講師は明治学院大学元学長のカルヴァン研究者、森井眞先生。
私にとって「アジア・カルヴァン学会」と出会った2006年は「学会」なるものへの人生初コミットの年だった。高校からストレートで入学した神学大学の大学院を卒業した1990年から2006年までの16年は地方教会の牧師の仕事だけしていた人間は、「学会」とも「学問」とも無縁の生活をしていた。
ただ、上述どおり、1990年から2006年までの16年間の地方教会の牧師生活の中で、1999年から始めたメーリングリスト「ファン・ルーラー研究会」が「学会」なるものとの接点を生み出してくれた。臆面なく書けば、インターネットが「知の巨人たち」と田舎牧師の出会いの場を創出してくれた。
2009年「カルヴァン生誕500周年記念集会」(会場東京神学大学)実行委員に加えていただいたのも、同年『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』(キリスト新聞社)への寄稿も、同年10月号『福音と世界』(新教出版社)のカルヴァン500年記念鼎談への参加も同学会のおかげだった。
まだある。慶應義塾大学『三色旗』2009年10月号にファン・ルーラーを紹介する小論を書かせていただいたのも、2013年と2014年の2年連続で立教大学全学共通カリキュラムでファン・ルーラーを紹介するゲスト講義をさせていただいたのも、アジア・カルヴァン学会で得た知己のおかげだった。
2013年6月23日、立教大学の全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み」のゲストスピーカーとして教壇に立った私(写真)は、約170人の学生さんに向かって確かにこう言った。「人生を強く生き抜くためにコネが大事です」。微妙な笑いで応じてくださった当時の学生さんたちに今でも心から感謝している。
説明が必要かもしれないのは「学会」。日本基督教学会とアジア・カルヴァン学会に所属。後者の世話人でもある。グループビデオ通話を利用したカール・バルト研究会は申し訳ないことに今の職場になってから休眠状態。そのうち再開したい。あとは青野太潮先生の本の読書会(十字架の神学研究会)に参加。
アジア・カルヴァン学会との出会いは2006年。翌2007年8月開催予定「第10回アジア・カルヴァン学会日本大会」(東京代々木・国立オリンピック記念青少年総合センター)の準備委員会の末席に加えていただいた。私を選んでいただけた理由は「ネットおたく認定」であったとしか言いようがない。
1999年2月にわずか4人で立ち上げたメーリングリスト「ファン・ルーラー研究会」の登録者が、5年後の2004年までに100人を超えた。オランダの組織神学者ファン・ルーラーの著書を翻訳して議論していただけだが、インターネットを始めたばかりの人が多くて、それなりに面白がってもらえた。
「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリストにアジア・カルヴァン学会の方々が加わってくださった。こういうことは自分で言わないほうがよさそうだが、「こいつは使えそうだ」と思っていただけたようだ。「第10回アジア・カルヴァン学会日本大会」の準備委員会で書記(ネット担当)を任された。
「第10回アジア・カルヴァン学会日本大会」の準備委員会が組織された2006年に、同準備委員会と同じメンバーによる「アジア・カルヴァン学会日本支部」が「第1回講演会」を開催した。会場は日本基督教団銀座教会(東京都中央区銀座)。講師は明治学院大学元学長のカルヴァン研究者、森井眞先生。
私にとって「アジア・カルヴァン学会」と出会った2006年は「学会」なるものへの人生初コミットの年だった。高校からストレートで入学した神学大学の大学院を卒業した1990年から2006年までの16年は地方教会の牧師の仕事だけしていた人間は、「学会」とも「学問」とも無縁の生活をしていた。
ただ、上述どおり、1990年から2006年までの16年間の地方教会の牧師生活の中で、1999年から始めたメーリングリスト「ファン・ルーラー研究会」が「学会」なるものとの接点を生み出してくれた。臆面なく書けば、インターネットが「知の巨人たち」と田舎牧師の出会いの場を創出してくれた。
2009年「カルヴァン生誕500周年記念集会」(会場東京神学大学)実行委員に加えていただいたのも、同年『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』(キリスト新聞社)への寄稿も、同年10月号『福音と世界』(新教出版社)のカルヴァン500年記念鼎談への参加も同学会のおかげだった。
まだある。慶應義塾大学『三色旗』2009年10月号にファン・ルーラーを紹介する小論を書かせていただいたのも、2013年と2014年の2年連続で立教大学全学共通カリキュラムでファン・ルーラーを紹介するゲスト講義をさせていただいたのも、アジア・カルヴァン学会で得た知己のおかげだった。
2013年6月23日、立教大学の全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み」のゲストスピーカーとして教壇に立った私(写真)は、約170人の学生さんに向かって確かにこう言った。「人生を強く生き抜くためにコネが大事です」。微妙な笑いで応じてくださった当時の学生さんたちに今でも心から感謝している。
2016年11月27日日曜日
聖霊の結ぶ実(千葉若葉教会)
ガラテヤの信徒への手紙5章22~26節
関口 康(日本基督教団教務教師)
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」
今日も使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を開いていただきました。先ほど朗読していただいた箇所のひとつ前の段落から読んでいきます。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません」(16節)と記されています。ここで言われていることの主旨は、「肉の欲を満足させること」と「霊の導きに従って生きること」とは矛盾し、対立する関係にあるということです。
そのとおりのことが次の節に記されています。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。
そしてその続きに「肉の業」とはどのようなものであるかが記されています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(19~21節)。
これは悪徳表と呼ばれるものです。並べられている悪徳は、どちらかといえば個人的な要素が強いものばかりです。社会全体で取り組まなければならない構造的な悪の問題、たとえば戦争、人種差別、搾取、経済格差といったことについては述べられていません。
しかし、個人的なことと社会的なことが無関係であることはありえません。両者がどのような関係にあるかを説明するのは難しいことです。謎めいた関係にあります。しかし、間違いなく言えるのは、個人が集まって社会が形成されるということです。小さな悪や罪の根や種を放置したままでいれば、それらはやがて必ず大きく成長していくでしょう。
いま学校の授業で扱っているのはそのことです。罪の問題を扱っています。一般的な意味での「罪」はほとんどもっぱら行為を指します。それに対し、聖書の意味での「罪」は、行為を含まないわけではありませんが、それ以上に行為の根や種となる心の性質を指します。行為と性質を合わせた全体を、聖書は「罪」と呼びます。そのように説明しています。
いま申し上げたこととの関係でいえば、パウロが記しているこの悪徳表は、「肉の業」とあるとおり、その内容は「業」すなわち「行為」です。しかし「肉の業」と言われていることが大事です。「肉」に罪が潜むのです。そして、その罪が悪を生み出すのです。
しかしそれは、「肉」そのものが罪だとか悪だとかいう意味ではありません。「肉」そのものはただの物質です。物質そのものを悪とするのは、聖書的な価値判断ではありません。別の宗教の思想です。
しかしまた、「肉」とは弱いものです。罪に負けやすく、悪に染まりやすい弱さという性質を持っています。その「肉」に罪が潜みます。悪の行為の根や種を容易に抱え込みます。それを放置すると世界を脅かす巨悪が育ちます。厳密に言おうとするなら、今申し上げたようなことをじっくり丁寧に考えていかなくてはなりません。
ここまでお話ししたうえで、ほんの少しだけ聖書から離れて考えてみたいことがあります。それは肉の弱さについてです。難しい話ではなく、分かりやすい話です。疲れるとか眠いとかという話です。それは昨日の私自身の状態です。
学校の仕事はとても楽しいです。本当に楽しいです。しかし、教会の仕事とは性質が違う疲れ方をするものだということが分かるようになりました。それを説明するのは難しいことですが、土曜日になるとぐったりしています。それでも土曜の朝もいつもと同じ時刻に目が覚めるようになりました。完全な昼夜逆転人間でしたので今の自分に自分で驚いています。しかし「今日は土曜日だ」と気づくとまた布団に潜って昼まで眠ってしまうことがよくあります。
昨日の私もそうでした。これも「罪」でしょうか。そうかもしれません。今日の礼拝で説教させていただくための準備を怠ってぐっすり眠りこんでいる説教者はだめでしょうか。そうかもしれないなと反省して、目が覚めた後は、説教の準備に集中しました。
しかしふと考えました。話が飛躍しているかもしれませんが、パウロが記している悪徳表の内容は、昨日の私の状態と同じような意味での「疲れること」と多くの点で結びつくことばかりではないかと考えさせられました。
お酒やわいせつなことにのめり込む人がいます。すぐに腹を立てる人がいます。その人々の言い訳は多くの場合、ストレスの発散です。そのようなことは全く言い訳にならないし、言い訳にすることが断じて許されないのは、そのとおりです。しかし、ストレス発散の方法を他に知らない人たちは、ストレスをたくさん溜め込み、そのうち心身に不調をきたし、壊れてしまいます。
だからこういうことにのめり込むのはやむをえないのだ、だから許してあげましょうという話にはなりません。そのようなことでは、問題は全く解決しないどころか、家族の関係も友人関係も会社や社会での信頼関係も全く破壊されてしまい、もっと多くのストレスを抱え込むことになるでしょう。全く別のストレス発散の方法が真剣に考えられなくてはなりません。
とにかくよく眠ることが大事です。暇さえあれば眠る。ところかまわず眠る。そのほうがいいです。歳をとると眠りが浅くなると言われます。しかし、じっとしているだけで体も心も休まります。動き回って余計なストレスを抱え込んで、そのストレスを発散するためにいかがわしいことにのめり込むよりは、はるかにましです。
じっとしていても構わないし、引きこもっていても構いません。引きこもって、内弁慶になって、家の中でいばり散らされると、家族は迷惑するかもしれません。でも、そんなことはあまり言わないであげてください。お願いします。
高齢者を揶揄する意図は全くありません。パウロが記している悪徳表に並べられている「肉の業」は厳しい社会で戦っている人々が抱え込むストレスの問題と結びつくところがありそうだと気づいたので、申し上げました。そして、ストレスの問題を解決するためには、全く別の、いわばもうひとつのストレス発散方法を真剣に考える必要があることを訴えたかっただけです。
「これに対して」と、パウロは続けます。今日の箇所にたどり着きました。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22節)。
この「霊」に新共同訳はダブルクオーテーションを付けていませんが(凡例三(2)参照)、だからといってこの「霊」が「聖霊」であることを否定しなくてはならないわけではありません。この手紙の中に記された「霊」という字の多くにダブルクオーテーションが付けられていることを確認することができます(3章2節、3章5節、3章14節、4章29節、5章5節、6章1節)。
また、「聖霊」以外の意味でありえない「霊」にダブルクオーテーションを付けていない箇所があります。そのひとつは4章6節です。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(4章6節)。
この箇所は、気をつけて読まなくてはなりません。「わたしたちの心」に「神」が送ってくださった「御子の霊」について記されています。しかしその意味は、「御子の霊」を送ってくださった御子の父なる「神」の「霊」でもあるということです。御子だけの霊であって父なる神の霊ではないわけではありません。「わたしたちの心」へと送られ、注ぎ込まれるのは「御父と御子の霊」としての「聖霊」です。
しかも、その「霊」(ダブルクオーテーション付き!)は「福音を聞いて信じる」(3章2節)こと、つまり「信仰によって受ける」(3章14節)ものであると記されています。これで分かるのは「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。ばらばらに受け取るわけではありません。
「聖霊」が先か「福音」が先か、それとも「信仰」が先かについて順序や時間差があるかどうかには議論があります。申し訳ないことに、私はバプテスト教会の教えを存じませんので、もしかすると皆さまのお考えに反することを申し上げるかもしれません。それを避けるために詳細に立ち入ることは控えます。
ただ、これだけははっきり言えると思いますのは、先ほど申し上げたとおり、「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。そして、この場合の「福音」は「説教」と呼びかえることができます。
その意味は、「説教」は聞かないが「聖霊」も「信仰」もある、ということはない、ということです。あるいはまた、「説教」を聞いても「信仰」に至らないが(それはよくあることです)「聖霊」はある、ということもない、ということです。
そして「聖霊」を理解するためにもうひとつ大事な点、そして私がそれこそが最も大事だと考えている点は、「聖霊」はすべての人が生まれつき持っているものではないということです。すべて後から追加されるものです。
もし生まれつき「聖霊」を持っている人がいるなら、「福音」も「信仰」も不要です。「教会」も不要です。「聖霊」を生まれつき持っている人がいるなら、それを生まれつき与えられていない人に後から与えられることを期待するのはおかしいことだからです。
しかし、そういう事情でないからこそ、わたしたちは「教会」を続けているのではないでしょうか。「福音」も「信仰」も必要だからこそ、それを宣べ伝える「教会」が必要だと信じているのではないでしょうか。「聖霊」も「信仰」も親や先祖から遺伝するものではありません。だからこそわたしたちに「教会」が必要であり、福音の説教による「伝道」が必要なのです。
これは私の心の底からの問いかけです。そしてこの思いは、パウロ自身も持っていたのではないかと、私が信じたいと願っているところです。
「霊の結ぶ実」とは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。すべてを暗記する必要はありません。ばらばらのことではありえないからです。先ほど申したこととの関係でいえば、ストレス発散のもうひとつの方法がこれです。それは「教会」で「福音の説教」を聞き、「聖霊の結ぶ実」を実らせていくことです。これは確かに効き目があります。効き目があるということを教会の歴史が証明しています。
そしてまた、わたしたちは、教会でストレスを抱え込むことがないように、「聖霊の結ぶ実」が実るような教会をかたちづくっていくのを目指すことが大切です。そのことを最後に一言だけ申し上げておきます。
(2016年11月27日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)
関口 康(日本基督教団教務教師)
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」
今日も使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を開いていただきました。先ほど朗読していただいた箇所のひとつ前の段落から読んでいきます。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません」(16節)と記されています。ここで言われていることの主旨は、「肉の欲を満足させること」と「霊の導きに従って生きること」とは矛盾し、対立する関係にあるということです。
そのとおりのことが次の節に記されています。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。
そしてその続きに「肉の業」とはどのようなものであるかが記されています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(19~21節)。
これは悪徳表と呼ばれるものです。並べられている悪徳は、どちらかといえば個人的な要素が強いものばかりです。社会全体で取り組まなければならない構造的な悪の問題、たとえば戦争、人種差別、搾取、経済格差といったことについては述べられていません。
しかし、個人的なことと社会的なことが無関係であることはありえません。両者がどのような関係にあるかを説明するのは難しいことです。謎めいた関係にあります。しかし、間違いなく言えるのは、個人が集まって社会が形成されるということです。小さな悪や罪の根や種を放置したままでいれば、それらはやがて必ず大きく成長していくでしょう。
いま学校の授業で扱っているのはそのことです。罪の問題を扱っています。一般的な意味での「罪」はほとんどもっぱら行為を指します。それに対し、聖書の意味での「罪」は、行為を含まないわけではありませんが、それ以上に行為の根や種となる心の性質を指します。行為と性質を合わせた全体を、聖書は「罪」と呼びます。そのように説明しています。
いま申し上げたこととの関係でいえば、パウロが記しているこの悪徳表は、「肉の業」とあるとおり、その内容は「業」すなわち「行為」です。しかし「肉の業」と言われていることが大事です。「肉」に罪が潜むのです。そして、その罪が悪を生み出すのです。
しかしそれは、「肉」そのものが罪だとか悪だとかいう意味ではありません。「肉」そのものはただの物質です。物質そのものを悪とするのは、聖書的な価値判断ではありません。別の宗教の思想です。
しかしまた、「肉」とは弱いものです。罪に負けやすく、悪に染まりやすい弱さという性質を持っています。その「肉」に罪が潜みます。悪の行為の根や種を容易に抱え込みます。それを放置すると世界を脅かす巨悪が育ちます。厳密に言おうとするなら、今申し上げたようなことをじっくり丁寧に考えていかなくてはなりません。
ここまでお話ししたうえで、ほんの少しだけ聖書から離れて考えてみたいことがあります。それは肉の弱さについてです。難しい話ではなく、分かりやすい話です。疲れるとか眠いとかという話です。それは昨日の私自身の状態です。
学校の仕事はとても楽しいです。本当に楽しいです。しかし、教会の仕事とは性質が違う疲れ方をするものだということが分かるようになりました。それを説明するのは難しいことですが、土曜日になるとぐったりしています。それでも土曜の朝もいつもと同じ時刻に目が覚めるようになりました。完全な昼夜逆転人間でしたので今の自分に自分で驚いています。しかし「今日は土曜日だ」と気づくとまた布団に潜って昼まで眠ってしまうことがよくあります。
昨日の私もそうでした。これも「罪」でしょうか。そうかもしれません。今日の礼拝で説教させていただくための準備を怠ってぐっすり眠りこんでいる説教者はだめでしょうか。そうかもしれないなと反省して、目が覚めた後は、説教の準備に集中しました。
しかしふと考えました。話が飛躍しているかもしれませんが、パウロが記している悪徳表の内容は、昨日の私の状態と同じような意味での「疲れること」と多くの点で結びつくことばかりではないかと考えさせられました。
お酒やわいせつなことにのめり込む人がいます。すぐに腹を立てる人がいます。その人々の言い訳は多くの場合、ストレスの発散です。そのようなことは全く言い訳にならないし、言い訳にすることが断じて許されないのは、そのとおりです。しかし、ストレス発散の方法を他に知らない人たちは、ストレスをたくさん溜め込み、そのうち心身に不調をきたし、壊れてしまいます。
だからこういうことにのめり込むのはやむをえないのだ、だから許してあげましょうという話にはなりません。そのようなことでは、問題は全く解決しないどころか、家族の関係も友人関係も会社や社会での信頼関係も全く破壊されてしまい、もっと多くのストレスを抱え込むことになるでしょう。全く別のストレス発散の方法が真剣に考えられなくてはなりません。
とにかくよく眠ることが大事です。暇さえあれば眠る。ところかまわず眠る。そのほうがいいです。歳をとると眠りが浅くなると言われます。しかし、じっとしているだけで体も心も休まります。動き回って余計なストレスを抱え込んで、そのストレスを発散するためにいかがわしいことにのめり込むよりは、はるかにましです。
じっとしていても構わないし、引きこもっていても構いません。引きこもって、内弁慶になって、家の中でいばり散らされると、家族は迷惑するかもしれません。でも、そんなことはあまり言わないであげてください。お願いします。
高齢者を揶揄する意図は全くありません。パウロが記している悪徳表に並べられている「肉の業」は厳しい社会で戦っている人々が抱え込むストレスの問題と結びつくところがありそうだと気づいたので、申し上げました。そして、ストレスの問題を解決するためには、全く別の、いわばもうひとつのストレス発散方法を真剣に考える必要があることを訴えたかっただけです。
「これに対して」と、パウロは続けます。今日の箇所にたどり着きました。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22節)。
この「霊」に新共同訳はダブルクオーテーションを付けていませんが(凡例三(2)参照)、だからといってこの「霊」が「聖霊」であることを否定しなくてはならないわけではありません。この手紙の中に記された「霊」という字の多くにダブルクオーテーションが付けられていることを確認することができます(3章2節、3章5節、3章14節、4章29節、5章5節、6章1節)。
また、「聖霊」以外の意味でありえない「霊」にダブルクオーテーションを付けていない箇所があります。そのひとつは4章6節です。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(4章6節)。
この箇所は、気をつけて読まなくてはなりません。「わたしたちの心」に「神」が送ってくださった「御子の霊」について記されています。しかしその意味は、「御子の霊」を送ってくださった御子の父なる「神」の「霊」でもあるということです。御子だけの霊であって父なる神の霊ではないわけではありません。「わたしたちの心」へと送られ、注ぎ込まれるのは「御父と御子の霊」としての「聖霊」です。
しかも、その「霊」(ダブルクオーテーション付き!)は「福音を聞いて信じる」(3章2節)こと、つまり「信仰によって受ける」(3章14節)ものであると記されています。これで分かるのは「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。ばらばらに受け取るわけではありません。
「聖霊」が先か「福音」が先か、それとも「信仰」が先かについて順序や時間差があるかどうかには議論があります。申し訳ないことに、私はバプテスト教会の教えを存じませんので、もしかすると皆さまのお考えに反することを申し上げるかもしれません。それを避けるために詳細に立ち入ることは控えます。
ただ、これだけははっきり言えると思いますのは、先ほど申し上げたとおり、「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。そして、この場合の「福音」は「説教」と呼びかえることができます。
その意味は、「説教」は聞かないが「聖霊」も「信仰」もある、ということはない、ということです。あるいはまた、「説教」を聞いても「信仰」に至らないが(それはよくあることです)「聖霊」はある、ということもない、ということです。
そして「聖霊」を理解するためにもうひとつ大事な点、そして私がそれこそが最も大事だと考えている点は、「聖霊」はすべての人が生まれつき持っているものではないということです。すべて後から追加されるものです。
もし生まれつき「聖霊」を持っている人がいるなら、「福音」も「信仰」も不要です。「教会」も不要です。「聖霊」を生まれつき持っている人がいるなら、それを生まれつき与えられていない人に後から与えられることを期待するのはおかしいことだからです。
しかし、そういう事情でないからこそ、わたしたちは「教会」を続けているのではないでしょうか。「福音」も「信仰」も必要だからこそ、それを宣べ伝える「教会」が必要だと信じているのではないでしょうか。「聖霊」も「信仰」も親や先祖から遺伝するものではありません。だからこそわたしたちに「教会」が必要であり、福音の説教による「伝道」が必要なのです。
これは私の心の底からの問いかけです。そしてこの思いは、パウロ自身も持っていたのではないかと、私が信じたいと願っているところです。
「霊の結ぶ実」とは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。すべてを暗記する必要はありません。ばらばらのことではありえないからです。先ほど申したこととの関係でいえば、ストレス発散のもうひとつの方法がこれです。それは「教会」で「福音の説教」を聞き、「聖霊の結ぶ実」を実らせていくことです。これは確かに効き目があります。効き目があるということを教会の歴史が証明しています。
そしてまた、わたしたちは、教会でストレスを抱え込むことがないように、「聖霊の結ぶ実」が実るような教会をかたちづくっていくのを目指すことが大切です。そのことを最後に一言だけ申し上げておきます。
(2016年11月27日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)
2016年11月26日土曜日
受験生や就活中の人たちの「突破」をただ祈る
就活中の人を過度に刺激するかもしれないので勘弁してほしい記事のひとつが、人工知能やロボに代替されることになるらしい「これから消える仕事」という企画もの。教員は消える予測対象のようだが、牧師は見当たらない。まだ必要とされるからか、それとももうすでにほとんど消えているからなのか不明。
文転・理転という言葉が、私が高校生だった頃から使われていたかどうかの記憶がないが、意味はもちろん分かるし、必要性も理解できる。全く関係ないが、カト転とかプロ転という言葉は、私は聞いたことがない。キリ転とか仏転とかも、私は聞いたことがない。なんでも短くする人たちは、一定いるようだ。
私が「神学」を強調してきたのは自己弁護をしてきただけだ。ハイスクール卒業後いきなりユニヴァーシティでもカレッジでもないセミナリーに入学し、卒業後他の仕事は一切せずパスターだけをしてきた人間でも、アカデミックな面でとりあえず遜色ないところを分かってもらいたいと願っていただけなので。
「信仰」と「牧師になる意志」さえ明確ならだれでも入れる「大学」がいわば私の唯一の学歴だが、それで困ったり引け目を感じたりしたことは、いまだかつて一度もない。ついでにいえば、中学は国立、高校は県立、大学は教団立で、税金と献金で勉強させていただいた、考えうる「最安」コースでもあった。
こういうわけで、私自身は学歴に引け目を「感じていない」ので、「感じている」人たちへの励ましのメッセージを書いているつもりは全くないし、そういうメッセージにはなんらなっていないと考えている。「一緒くたにしないでほしい」とさえ感じている。偏差値偏重教育の二次被害のようなものだと思う。
とはいえ、何事も結果が大事であることは事実である。人一倍努力した人とそうでない人が全く一緒ということは通常ないし、手抜きやごまかしは見る人が見ればすぐバレる。私が学生だった頃と今とでずいぶん変わっているところもある。受験生や就活中の人たちの「突破」(ブレイクスルー!)をただ祈る。
私の「履歴」をご覧になりたい方はどうぞこちらへ(誘導リンク)
文転・理転という言葉が、私が高校生だった頃から使われていたかどうかの記憶がないが、意味はもちろん分かるし、必要性も理解できる。全く関係ないが、カト転とかプロ転という言葉は、私は聞いたことがない。キリ転とか仏転とかも、私は聞いたことがない。なんでも短くする人たちは、一定いるようだ。
私が「神学」を強調してきたのは自己弁護をしてきただけだ。ハイスクール卒業後いきなりユニヴァーシティでもカレッジでもないセミナリーに入学し、卒業後他の仕事は一切せずパスターだけをしてきた人間でも、アカデミックな面でとりあえず遜色ないところを分かってもらいたいと願っていただけなので。
「信仰」と「牧師になる意志」さえ明確ならだれでも入れる「大学」がいわば私の唯一の学歴だが、それで困ったり引け目を感じたりしたことは、いまだかつて一度もない。ついでにいえば、中学は国立、高校は県立、大学は教団立で、税金と献金で勉強させていただいた、考えうる「最安」コースでもあった。
こういうわけで、私自身は学歴に引け目を「感じていない」ので、「感じている」人たちへの励ましのメッセージを書いているつもりは全くないし、そういうメッセージにはなんらなっていないと考えている。「一緒くたにしないでほしい」とさえ感じている。偏差値偏重教育の二次被害のようなものだと思う。
とはいえ、何事も結果が大事であることは事実である。人一倍努力した人とそうでない人が全く一緒ということは通常ないし、手抜きやごまかしは見る人が見ればすぐバレる。私が学生だった頃と今とでずいぶん変わっているところもある。受験生や就活中の人たちの「突破」(ブレイクスルー!)をただ祈る。
私の「履歴」をご覧になりたい方はどうぞこちらへ(誘導リンク)
2016年11月20日日曜日
「キリスト教が日本で広まらなかった理由」を読んで思ったこと
51歳になったので「50年しか経っていない」という言い方をそろそろ許していただけるだろうか。「横浜バンド」が生まれた1870年代から「弁証法神学」が輸入された1920年代までがたったの50年。私は50年前のことなら(1歳だったが)よく覚えている。50年前など「ついこのあいだ」だ。
逆算した言い方もできる。その言い方のほうが、私が考えていることに合うところがある。「弁証法神学」が日本でも紹介される1920年代のわずか50年前に、やっと日本史上初めてある程度の形をなしえたプロテスタント・キリスト教会の小さな苗木が植えられた。「弁証法神学」が倒そうとした苗木が。
唐突に書き始めたのは、1年ほど前に公表された「キリスト教が日本で広まらなかった理由」というある宗教学者の文章をネットで目にしたからだ。私の感想は「違う違う、そうじゃない」だ。理由なんて簡単だ。日本の教会は、政治を利用するのも政治に利用されるのも大嫌い。そういうのは「汚い」と見る。
「日本の教会は」と大雑把に書いた。「違う違う、そうじゃない」という拒絶反応が起こることは、ある程度覚悟している。しかし、大方の同意や共感は得られるのではないか。「日本の教会は、政治を利用するのも政治に利用されるのも大嫌い」。キリスト教が日本で広まらなかった理由はこれだと私は思う。
私はいま「『日本の教会は』と大雑把に書いた」と、言葉を選んで丁寧に書いた。「日本のキリスト教は」とは書いていない。「キリスト教」というルートディレクトリの下に「の教会」や「の学校」や「の施設」や「の病院」などいくつかのサブディレクトリが置かれる。「の教会」はそのひとつにすぎない。
「の学校」「の施設」「の病院」などは、当然のことながら政治との親和性はある。それは「汚い」ことではないし、悪いことでもない。政治力と全く無関係に国民的な規模やレベルの教育や福祉や医療をなしうるとは思えない。だが「の教会」は違う。日本の教会は政治が嫌い。利用するのも利用されるのも。
どう読まれるかは分からないが、私の趣旨は日本の教会の批判ではない。「日本でキリスト教が広まらなかった理由」を論じた宗教学者の文章を読んで「違う違う、そうじゃない」と思った理由を書いているだけ。キリスト教を広めるために教会は政治力を利用しようとしないし、利用するのが下手。それだけ。
「日本の教会は政治を利用すべきである」と、ここでただちに言いたいのでもない。日本の教会と牧師は「政治が苦手」のほうがサマになるところがあるかもしれない。朴訥とか愚直とか手作りとか草の根とかのほうが。それも政治のあり方の一種ではあるが。ドブ板というのもあるが宗教の訪問は拒絶される。
アメリカ大統領選では両者とも所属キリスト教団(いずれもプロテスタント)を明かしていた。ドイツのメルケル首相は「キリスト教民主同盟」の党首である。日本の皇室から「国際キリスト教大学」への進学者。これだけあっても日本の教会には全く影響がない。なぜなら日本の教会は政治を利用しないので。
日本の教会は本格的に立ち行かなくなっている。ずっと前から教会自身が計算上予測してきた深刻な事態が現実化している。「日本のキリスト教が」ではない。「の学校」や「の施設」はむしろ盛んである。立ち行かなくなっているのは「の教会」だ。教会に外からの援助はない。教会同士で助け合うしかない。
日本の教会が政治を敬遠する理由は何かを知りたいと長年願ってきた。キリスト教の教えが初めからそういうものだからだろうか。そうかもしれないがそうでないかもしれない。日本の教会におよそ1世紀にわたって影響を与えた神学思想がその理由に含まれるかもしれないという仮説を立てて私は考えてきた。
それを私は「弁証法神学」であると考えているが、それはなんら特定の個人の思想ではない。まとめ役になった天才はいるが、その人にも多面性があり、時代と共に変遷があったことが昔から知られていることもあり、その人を名指しで批判してもあまり意味がない。いずれにせよ、個人攻撃の意図は全くない。
しかも私の関心事は「日本の教会」にある。「弁証法神学」との関係を言えば「日本の教会における弁証法神学受容史」ということになる。その行き着く先が、今の日本の教会だ。全く立ち行かなくなっている今の日本の教会だ。「弁証法神学には何の責任もない」とは言えないはずだ。少なくとも思想的に。
来年(2017年)個人的に20周年を迎える私の「ファン・ルーラー研究」も「日本の教会における弁証法神学受容史」と大いに関係がある。ファン・ルーラーこそ弁証法神学の最初の挑戦者の偉大なひとりだったからだ。それは繰り返し明らかにしてきたつもりだが、私の説明が説得力をもったことはない。
教会での説教をしなかった日曜日の夜は、なんだか妙に理屈っぽくなるのは何のせいだろう。今の借家に引っ越してきてから来月で丸一年になろうとしているのにいまだほとんどの本が平積み状態なのは、読書にふけって翌日の勤務に響かないように神が禁じておられるのかもしれないということにしておこう。
逆算した言い方もできる。その言い方のほうが、私が考えていることに合うところがある。「弁証法神学」が日本でも紹介される1920年代のわずか50年前に、やっと日本史上初めてある程度の形をなしえたプロテスタント・キリスト教会の小さな苗木が植えられた。「弁証法神学」が倒そうとした苗木が。
唐突に書き始めたのは、1年ほど前に公表された「キリスト教が日本で広まらなかった理由」というある宗教学者の文章をネットで目にしたからだ。私の感想は「違う違う、そうじゃない」だ。理由なんて簡単だ。日本の教会は、政治を利用するのも政治に利用されるのも大嫌い。そういうのは「汚い」と見る。
「日本の教会は」と大雑把に書いた。「違う違う、そうじゃない」という拒絶反応が起こることは、ある程度覚悟している。しかし、大方の同意や共感は得られるのではないか。「日本の教会は、政治を利用するのも政治に利用されるのも大嫌い」。キリスト教が日本で広まらなかった理由はこれだと私は思う。
私はいま「『日本の教会は』と大雑把に書いた」と、言葉を選んで丁寧に書いた。「日本のキリスト教は」とは書いていない。「キリスト教」というルートディレクトリの下に「の教会」や「の学校」や「の施設」や「の病院」などいくつかのサブディレクトリが置かれる。「の教会」はそのひとつにすぎない。
「の学校」「の施設」「の病院」などは、当然のことながら政治との親和性はある。それは「汚い」ことではないし、悪いことでもない。政治力と全く無関係に国民的な規模やレベルの教育や福祉や医療をなしうるとは思えない。だが「の教会」は違う。日本の教会は政治が嫌い。利用するのも利用されるのも。
どう読まれるかは分からないが、私の趣旨は日本の教会の批判ではない。「日本でキリスト教が広まらなかった理由」を論じた宗教学者の文章を読んで「違う違う、そうじゃない」と思った理由を書いているだけ。キリスト教を広めるために教会は政治力を利用しようとしないし、利用するのが下手。それだけ。
「日本の教会は政治を利用すべきである」と、ここでただちに言いたいのでもない。日本の教会と牧師は「政治が苦手」のほうがサマになるところがあるかもしれない。朴訥とか愚直とか手作りとか草の根とかのほうが。それも政治のあり方の一種ではあるが。ドブ板というのもあるが宗教の訪問は拒絶される。
アメリカ大統領選では両者とも所属キリスト教団(いずれもプロテスタント)を明かしていた。ドイツのメルケル首相は「キリスト教民主同盟」の党首である。日本の皇室から「国際キリスト教大学」への進学者。これだけあっても日本の教会には全く影響がない。なぜなら日本の教会は政治を利用しないので。
日本の教会は本格的に立ち行かなくなっている。ずっと前から教会自身が計算上予測してきた深刻な事態が現実化している。「日本のキリスト教が」ではない。「の学校」や「の施設」はむしろ盛んである。立ち行かなくなっているのは「の教会」だ。教会に外からの援助はない。教会同士で助け合うしかない。
日本の教会が政治を敬遠する理由は何かを知りたいと長年願ってきた。キリスト教の教えが初めからそういうものだからだろうか。そうかもしれないがそうでないかもしれない。日本の教会におよそ1世紀にわたって影響を与えた神学思想がその理由に含まれるかもしれないという仮説を立てて私は考えてきた。
それを私は「弁証法神学」であると考えているが、それはなんら特定の個人の思想ではない。まとめ役になった天才はいるが、その人にも多面性があり、時代と共に変遷があったことが昔から知られていることもあり、その人を名指しで批判してもあまり意味がない。いずれにせよ、個人攻撃の意図は全くない。
しかも私の関心事は「日本の教会」にある。「弁証法神学」との関係を言えば「日本の教会における弁証法神学受容史」ということになる。その行き着く先が、今の日本の教会だ。全く立ち行かなくなっている今の日本の教会だ。「弁証法神学には何の責任もない」とは言えないはずだ。少なくとも思想的に。
来年(2017年)個人的に20周年を迎える私の「ファン・ルーラー研究」も「日本の教会における弁証法神学受容史」と大いに関係がある。ファン・ルーラーこそ弁証法神学の最初の挑戦者の偉大なひとりだったからだ。それは繰り返し明らかにしてきたつもりだが、私の説明が説得力をもったことはない。
教会での説教をしなかった日曜日の夜は、なんだか妙に理屈っぽくなるのは何のせいだろう。今の借家に引っ越してきてから来月で丸一年になろうとしているのにいまだほとんどの本が平積み状態なのは、読書にふけって翌日の勤務に響かないように神が禁じておられるのかもしれないということにしておこう。
小金教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年11月20日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。借家から最も近く徒歩で行ける教会です。マタイによる福音書11章16節から19節に基づく今泉幹夫牧師の説教がいつにもまして身にしみました。心から感謝いたします。
2016年11月19日土曜日
「どっちでもいい」は無関心で「どっちもでいい」はハイブリッド
史的イエス研究もキリスト論の一種ではあろう。前者が後者に影響を及ぼさないわけにはいかない。前者が非神話化の作業過程を経た帰結であれば、それ自体がそういう作業過程を経た後者でありうる。しかし、非神話化されたキリスト論とは何を意味するか。古代人の神話的表象から解放されたキリストとは。
非神話化されたキリスト論とは「主は聖霊によりてやどらず、おとめマリヤより生まれず、陰府にくだらず、三日目に死人のうちよりよみがえらず、天に昇らず、全能の父なる神の右に座したまわず、かしこより来たらず、生けるものと死ねるものとを審きたまわず」というところか。いろいろ考えさせられる。
かろうじて残せそうなのは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」くらいか。口を開けば逆説しか言わず、行えてもいない奇跡を行えた行えたと人々に触れまわられ、宗教と政治の当時の権力者を激しく批判して捕獲され、死刑台で「神に見捨てられた」と絶叫して絶命。
いもしない神の国、ありもしない天国が「これから来る、近づいた」と教え、治せもしない病気を手で触っただけで治った治ったと思ってもらえ、増えもしないパンと魚が増えた増えたと言ってもらえ、ただの水が美味しいワインになったと喜んでもらえ、他の人なら溺れる湖面を歩いた歩いたと騒いでもらえ。
「そんなことはない。すべてできたのだ。史的事実なのだ」と言おうものなら「狂信的だ」と言われる。史的イエス研究に基づく非神話化されたキリスト論は今やおそらくほぼ完成の域に達している。それを認めない人は少数の狂信者なのだろう。あるいは古代人の神話的世界観を止揚できずにいる不勉強な人。
私は「どっちでもいい」とは思わないが「どっちもでいい」とは思っている。早口で言うと同じように聞こえてしまう可能性があり誤解を招きかねないが、前者と後者は全く違う。「で」と「も」の順序が重要だ。「でも」ではなく「もで」。「どっちでもいい」は無関心で「どっちもでいい」はハイブリッド。
話は飛躍するが、私の郷里岡山はじめ(「はじめ」と言うと叱られる可能性あり)他の地域にも伝わる「桃太郎」。川で洗濯していたおばあさんが上流からどんぶらこどんぶらこと流れてきた桃をおじいさんと一緒に家に持ち帰ったら桃の中から男の子が出てきた。これを「非科学的」とか言っても仕方がない。
「桃太郎」は古代人の言い伝えだろうか。たぶん違うだろう。最初に作られたのはいつ頃だろう。ある意味で「どっちでもいい」(無関心)ことだが、縄文時代や弥生時代の話ではないだろう。ただの勘だが、ごく最近ではないかという気がする。といっても200年とか300年とかくらい前という意味だが。
「桃太郎は非科学的だ」とかなんとか、そういう方向で目くじらを立てる人を私は寡聞にして知らないが、「聖書は非科学的だ」と目くじらを立てる人なら困るほど知っている。「桃太郎」は童話だが「聖書」は宗教の本なのだから同次元に扱うのは間違っている、だろうか。私は実は、あまりそうは思わない。
「聖書に書かれていることや教会が教えていることは非科学的だ。だから私は聖書を読まないし、教会に通わない」と言う人々は、そうであることを教会が全面的に認め、非科学的な箇所をすべて削除し、思想や行動の方向性を改めたからといって、それならばと教会に通うようになるわけではないと私は思う。
3日前の11月16日水曜日、私の51歳の誕生日に、お祝いのメッセージを寄せてくださった方々へのお礼の返信が終わらぬまま週末を迎えてしまったことをとても心苦しく思っている。というわけで、今日こそ書きます。体力なくて申し訳ありません。みなさまいつも力強いお励ましありがとうございます。
非神話化されたキリスト論とは「主は聖霊によりてやどらず、おとめマリヤより生まれず、陰府にくだらず、三日目に死人のうちよりよみがえらず、天に昇らず、全能の父なる神の右に座したまわず、かしこより来たらず、生けるものと死ねるものとを審きたまわず」というところか。いろいろ考えさせられる。
かろうじて残せそうなのは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」くらいか。口を開けば逆説しか言わず、行えてもいない奇跡を行えた行えたと人々に触れまわられ、宗教と政治の当時の権力者を激しく批判して捕獲され、死刑台で「神に見捨てられた」と絶叫して絶命。
いもしない神の国、ありもしない天国が「これから来る、近づいた」と教え、治せもしない病気を手で触っただけで治った治ったと思ってもらえ、増えもしないパンと魚が増えた増えたと言ってもらえ、ただの水が美味しいワインになったと喜んでもらえ、他の人なら溺れる湖面を歩いた歩いたと騒いでもらえ。
「そんなことはない。すべてできたのだ。史的事実なのだ」と言おうものなら「狂信的だ」と言われる。史的イエス研究に基づく非神話化されたキリスト論は今やおそらくほぼ完成の域に達している。それを認めない人は少数の狂信者なのだろう。あるいは古代人の神話的世界観を止揚できずにいる不勉強な人。
私は「どっちでもいい」とは思わないが「どっちもでいい」とは思っている。早口で言うと同じように聞こえてしまう可能性があり誤解を招きかねないが、前者と後者は全く違う。「で」と「も」の順序が重要だ。「でも」ではなく「もで」。「どっちでもいい」は無関心で「どっちもでいい」はハイブリッド。
話は飛躍するが、私の郷里岡山はじめ(「はじめ」と言うと叱られる可能性あり)他の地域にも伝わる「桃太郎」。川で洗濯していたおばあさんが上流からどんぶらこどんぶらこと流れてきた桃をおじいさんと一緒に家に持ち帰ったら桃の中から男の子が出てきた。これを「非科学的」とか言っても仕方がない。
「桃太郎」は古代人の言い伝えだろうか。たぶん違うだろう。最初に作られたのはいつ頃だろう。ある意味で「どっちでもいい」(無関心)ことだが、縄文時代や弥生時代の話ではないだろう。ただの勘だが、ごく最近ではないかという気がする。といっても200年とか300年とかくらい前という意味だが。
「桃太郎は非科学的だ」とかなんとか、そういう方向で目くじらを立てる人を私は寡聞にして知らないが、「聖書は非科学的だ」と目くじらを立てる人なら困るほど知っている。「桃太郎」は童話だが「聖書」は宗教の本なのだから同次元に扱うのは間違っている、だろうか。私は実は、あまりそうは思わない。
「聖書に書かれていることや教会が教えていることは非科学的だ。だから私は聖書を読まないし、教会に通わない」と言う人々は、そうであることを教会が全面的に認め、非科学的な箇所をすべて削除し、思想や行動の方向性を改めたからといって、それならばと教会に通うようになるわけではないと私は思う。
3日前の11月16日水曜日、私の51歳の誕生日に、お祝いのメッセージを寄せてくださった方々へのお礼の返信が終わらぬまま週末を迎えてしまったことをとても心苦しく思っている。というわけで、今日こそ書きます。体力なくて申し訳ありません。みなさまいつも力強いお励ましありがとうございます。
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