2016年10月2日日曜日

教会に通って何かメリットあるんですか

内容とは関係ありません
どんなにアンチ宗教の思想家でも、ピンポイントでアンチキリスト教であったりアンチ教会の人でも、本を書いたり、人を集めて教えたり、その思想の日常化を促したりの様子を見ていると、ほぼ宗教だし、ほぼ教会だよねと思うわけで。宗教というだけで敬遠されるのはどうなのと言いたくなるときあります。

以前も同じことを書いた気がしますが、何度も書けば、私がオランダの大学で200人の神学者の前で英文スピーチをしたとき、直前までフロアにいたときの心臓の高鳴りが演台上でピタリと止まったのは「ここにいるのはクリスチャンだ」と思えた瞬間からでした。つまり「ここは教会だ」と思えたわけです。

宗教でも教会でもないところで本を書いたり人を集めたりその思想の日常化を促したりすることを学んだり慣れたりしてきた人が、そのノウハウを宗教と教会に持ち込むこともありうるし、少なからざるケースでもありますが、逆コースもあると思う。宗教と教会で学び慣れたことが、外で十分通用するケース。

ただし、教会そのものは、揶揄する意図で書くのではありませんが、しゃべり方教室そのものではないし、人集め技術を教える教室そのものでもないです。ついでにいえば、そもそも学校そのものではない。教会そのものは、なんら神学教室でも哲学教室でもないです。その区別がなければ教会の「外」もない。

教会の「内」と「外」の線を強調するのは、排他的な意味では全くないです。それは正反対です。「我々は宗教ではないし、教会でもない。一緒くたにしないでほしい」と叱られそうなので、教会側が慎み深くあるべきと思い、遠慮しているつもりです。それが理由。そこはぜひご理解いただきたいところです。

ただ、「教会って何してるんですか」とか「通って何かメリットあるんですか」とか、たまに訊かれることがあるので、どう応えるかを準備しておかなくちゃならない。私はほとんど必ず「何してるんでしょうかね」とか「メリットなさそうですね」とか返すことにしているのですが。否定できないことですし。

しかし、こういう言い方なら場合によってはできるかもしれません。「何をしているか分からないようなことや、そのこと自体にメリットは全くないことを長年続けている中で与えられるものにこそ、どこでも通用する意味と価値があるかもしれませんね」と。意味不明ですかね。まあ、そうかもしれません。

2016年10月1日土曜日

週末のいくぶんか手に負えない感じ

フェイスブックの「1年前の投稿を振り返ってみよう」企画
そうか、彼が私を心配して来てくれたのが1年前か。いろいろ思い出す。フェイスブックの「1年前の投稿を振り返ってみよう」企画は、余計なお世話ではあるが、なんでもかんでも忘れていくアタマカラッポ人間としては助かっています。喜びや楽しみだけでなく、怒りやうらみのほうも思い出させてくれて。

いま30分ほど書斎の座椅子にすわった状態で居眠りした。いつもの自動車のエンジンを止めておりたら見知らぬ白シャツの男性3人が勝手に車に乗り込んできた。うちの子2人と新宿まで電車で来たあと私が自転車に乗り、子どもたちと別行動。今まで観たことがない内容の2本立ての夢を観た。なんだこれ。

「ケータイがない。かばんの中にも、スーツの胸ポケットにも、机の上にも、書斎の中にも、家のどこにもない。あるのはたぶん車の中だろう」と気づいたのが5時間ほど前で、いまだに探しに行っていない。めんどくさい。だめぐちだめし。動けよ。...反応なし。指先の数ミリしか動かん。カシャカシャ。

サクラメンタリズムに行かず、シニシズムに行かず、スープララプサリアニズムに行かず、センチメンタリズムに行かない、ソんなキリスト教とその神学を志向中。というか、長年にわたり本気(最近は「マジ」と読むらしい)で祈り求めてきた。どれも層が厚く、不動の支持があり、どうにもならないのだが。

むむ、まずい。重すぎる腰をやっとあげて、借家から少し離れた月極駐車場に置いてある車までケータイの所在を確認に行ったが、ない。ケータイに電話をかけても、メールを送っても、家の中で鳴らない、ユーヴガットメール(着信音)が聞こえない。職場に忘れたか。往復50キロ。確認しに行くか。迷う。

映画もテレビも観ることができていないので、流れについて行けていないのが恥ずかしくて心苦しいかぎり。引っかけたジョークをうまく拾ってあげることもできず。「君の縄」とかボケられても反応まで数時間かかる感じというか。歳を感じますね。私より歳上の方はもっと感じるほうがいいのでは(僭越)。

ファン・アッセルト先生の『改革派正統主義の神学』日本語版(教文館)のご出版おめでとうございます

まだ買えても読めてもいなくて申し訳ないのですが、青木義紀先生訳のファン・アッセルト先生の『改革派正統主義の神学』のご出版おめでとうございます。ファン・アッセルト先生とは2008年12月10日アムステルダムで青木先生と石原知弘先生と共にお会いしました。一昨年68歳で逝去の一報は衝撃でした。

訳書出版お祝いとして、以前も公開しましたが、2008年12月の国際ファン・ルーラー学会(アムステルダム自由大学)の画像をご紹介します。私がスピーチをしている最中の画像ですが、最も手前に写っているシルバーの髪の方がファン・アッセルト先生です。すみません、お顔は写っていないのですが。

青木先生がご訳書の「あとがき」あたりに書いておられるかもしれませんが(心苦しいことに未購入につき未確認)、ファン・アッセルト先生のご専門は17世紀の「契約神学」で知られるヨハネス・コクツェーユスの研究でした。日本語で読めるようにしてくださった青木義紀先生に、心より感謝いたします。

ファン・アッセルト先生は、ファン・ルーラーがユトレヒト大学神学部で教えた学生のひとりです。2007年からオランダで刊行が始まった(まだ完結していない)新しい『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld Werk)の出版委員の中心的なメンバーでもありました。惜しい方を失いました。

2008年12月の国際ファン・ルーラー学会でも、ファン・アッセルト先生が、ファン・ルーラーとの関連で「改革派正統主義の神学」について講演をしてくださいました。その講演は、後日出版された国際ファン・ルーラー学会講演集に収録されています。それも日本語に訳されますようにと願っています。
国際ファン・ルーラー学会(2008年12月10日、アムステルダム自由大学)

2016年9月30日金曜日

今日もガーネット・クロウさんの歌に励まされて


画像とは全く関係ないが(ほんとに全く関係ない)、一日の仕事を終えてさて帰ろうかの瞬間、ガーネット・クロウさんの「タイムレス・スリープ」という歌(2001年)の「かろうじて憎しみに変えずいれた 私がんばれたよね?」という歌詞を、なぜか思い出した。日々穏やかでいられることが何より。

激辛のいやみ、えぐい皮肉、あとは逆説や罵倒や恫喝なんかで人が救われることはありえないと、ここ数年ずっと考えてきたつもりだが、そうでもないのかな。罵倒と恫喝は論外にしておくが、それ以外のそういうのにこそなんだか生き生きしはじめる人たちがいる気がしてきた。自信がなくなってきた。苦笑。

ネットつながりの方々との関係の話ではありませんので、どうかどうかご安心くださいませ。私は「ネットのことば」で傷つくような人間ではありません。言葉「だけ」ではなんともありません。寝そべっていたって、はなくそほじくりながらだって、どんなことでも書けるのが「字」であり「言葉」ですから。

語気を荒げて書くようなことではないが、「神ともにいます(インマヌエル)」は、論じることではなくて、信じることだと思いますよ、実際問題として。私信じてますからね。めっちゃ信じてます。「我ここに立つ。他にどうしょーもないけーな(語尾は岡山弁)」と宣言しつつ穏やかに日々過ごすためにね。

2016年9月29日木曜日

「その鍵は宗教ではない」のか

宗教というかピンポイントのキリスト教への侮辱を罪とせず、平然とと言うか一緒になって「そうそうごもっとも」とか頷きながら納得して聞いていたりするのは、キリスト教のプロテスタントの日本の人たちくらいかもしれません。私もだいたいどちらかといえばそのクチのほうです。いいんだか悪いんだか。 

唐突に書くが、私が高校生の頃は「共通一次試験」(センター試験の前身)真っ只中で、当時の先生がたの進路指導といえば進路未決定の生徒に同一偏差値の「医学部」と「法学部」のどちらかへの進学を勧めるといった具合。そういうのが「気持ち悪い」(ママ)と感じた私は、そういうのすべてからおりた。
9月27日
はっきりいえば、生徒本人の適性など全く眼中になさそうで「高偏差値の大学へ進学すれば明るい未来が待っている」式の進路指導をしていた。もちろんすべての高校がそうだったかどうかは当時の私には知るよしもなかったわけだが。当時の私が感じたことは、繰り返し書けば「気持ち悪い」(ママ)だった。

果たしてその結果はどうだったか。まだ「結果」も「結論」も出ていない段階だろうか。30年以上は経過したわけだが。「(当時の)高偏差値の大学へ進学すれば明るい未来が待ってい」たか。本当にそうだったか。真相はどうだったか。私と同じ今の50歳さんたちには、そろそろ答えられるのではないか。
9月28日
その答えを知ってどうのこうの言いたいわけではない。むしろ何も言いたくない。「そういうのすべてからおりた」私の弁解や自慢をしたいわけでもない。知りたいのは、現時点で高校の教員である私が、眼前の高校生たちに伝えるべき事実だ。ただそれだけだ。(大学の宣伝ではない)真実を知りたいだけだ。

実は意見を求めているわけでもない。いっそ黙って考えてもらいたいと願うばかり(高飛車な言い方で申し訳ない)。偏差の出やすい試験問題を用意して偏差と順位を競わせて勝敗を決めて「勝ち組」だ「負け組」だのラベルを貼るやり方はさすがにもう時代遅れだし、「嫌な社会」を作るだけだと思うばかり。
9月29日
偏差や順位や知能指数のようなものでは全く測ることができないが、仕事をやり抜き人生を生き抜くうえできわめて重要な力を養うための教育実践がもっと必要だ。すでに取り組みを始めている学校はあると思うし、少ないとは思わない。私も真剣に取り組んでいるつもりだし、良い結果が出始めていると思う。

宗教科の教員である私は「その鍵は宗教にある」と書くほうが安心してもらえそうだが、「その鍵は宗教かもしれないがそうでないかもしれない」としか書けない人間であることをお許しいただきたい。でも「そうだそうだ、その鍵は宗教ではない」とは言ってもらいたくない。遠慮して言わないでいるだけだ。

2016年9月25日日曜日

再びこの地に思い出が刻まれました

今日の午後は「日本ルーテル神学大学跡地」に行ってきました。とか無邪気に書いていると、もうすぐ叱られそうですねすみません。昔の看板がガラス箱の中に静かに安置されていました。ルターが笑顔なのは歴史修正主義の疑いがあると、一緒にいた方(卒業生)と話しました。もっとコワモテだったはずと。





小金教会の「特別伝道礼拝」に出席しました

今日(2016年9月25日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の「特別伝道礼拝」に出席しました。借家から最も近い教会。説教は同教会牧師の今泉幹夫先生でした。力強い御言葉によって励まされました。礼拝後の愛餐会にも出席させていただきました。ありがとうございました!
日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)

「無料で効果的に」情報拡散する方法

ほとんど顧みられない地味なブログに起こった一瞬の出来事
私がブログを始めたのは2008年1月。最初は有料の「ココログ」を使っていました。無料の「ブロガー」に変更したのが2010年5月。それ以降の全期間で最多アクセスを得た記事は「転職のお知らせ」(2016年1月4日)でした。ほとんど顧みられない地味なブログに起こった一瞬の出来事でした。

ブログよりSNSのほうが簡単ですが、SNSの「最大の」欠点だと感じる「過去ログ検索の難しさ」がブログにないので、ブログを続けています。最近しているのはツイッターで断想を書き、フェイスブックでまとめ、コメントを参考にしながら書き直し、流れができたらブログに保存するというやり方です。

以前は、逆の順序で、まずブログに書いて、それをフェイスブックに貼り付けて拡散し、ツイッターで広報していました。後者は「三段ロケット方式」と名付けたことがありますが、前者は名前がまだありません。強いて言えば、ツイッターは「講義」、フェイスブックは「ゼミ」、ブログは「レジュメ」です。

お金がないので、どうしたら「無料で効果的に」情報拡散できるかをずっと考えてきました。

NO MORE 説教泥棒

内容とは関係ありません
他人の説教文書を盗用することの最大の問題は著作権の問題などでなく、目の前でその説教を聴く人々の顔や姿や生活を思い浮かべ当てはめながら書き下ろされたものではない点だ。書かずもがなだが、「当てはめ」は「当てこすり」ではない。その教会の寸法に合うオーダースーツを慎重に縫い上げることだ。

「オーダーメイドのスーツなど不要で、既製品で十分間に合うし、そのほうがむしろありがたい」などと言われてしまえば、大方の牧師は廃業を余儀なくされる。なかには、既製品のスーツのほうに自分の寸法を合わせるべくダイエットなさる御仁もいるだろう。オーダースーツが高くつくことは否定できない。

だが、牧師たちが受けてきた訓練は、自分の教会にぴったり合うスーツを縫い上げるためのものだ。いま書いているのはもちろん比喩だ。キツキツでもなくブカブカでもない、ちょうどよい寸法をさぐり当てる。着る人々の体型が変わるたびに採寸しなおし、微調整を重ねていく。盗用説教にはそれができない。

比喩はスーツでなくてもクッキーでもお好み焼きでもいい。甘すぎるクッキーや、焼いてから時間が経ってシナシナしているお好み焼きでも「おいしい」と思える人にはそれでいいかもしれない。だが各自の嗜好を熟知しつつぴったりの味で、つくりたて焼きたてのごちそうを出してもらえるほうがたぶんいい。

「牧師いらんかえ。教会いらんかえ」と闇夜に向かって叫びたい日曜日の未明の私。

2016年9月22日木曜日

高校と大学の関係、そして学校と教会の関係について

内容とは関係ありません
今年4月からの大きな変化は、わりと躊躇なく皮肉を書けるようになってしまったことだったりする。これまで気を使いすぎていたかも。これに慣れると戻れる気がしないので、ちとまずい。いまタイプミスで「わりとちゅうしょなく」と打ってしまったら「割と中所(´;ω;`)ウゥゥ」と変換した(無関係

つい最近お会いした大学の先生(私の大学時代の先生という意味ではない)が「翻訳は業績にカウントしてもらえない。とにかく論文を書かなくては」と言っていた。そういうものかと初めて知った。大学教員界は大変そうだ。高校教員界は、論文を書いても翻訳してもそれ自体が評価されることはたぶんない。

夏休みのあいだ自分の勉強のために文科省検定済教科書の『倫理』の複数社のぶんを読み比べていた。それでお恥ずかしながら初めて知ったことだが、大学の先生たちだけで書いたものと、高校の先生が参加して書かれたものがあった。だからどうと言いたいのではないが、表現しにくい微妙な気持ちになった。

何を思ったかといえば私はどうやら権威主義者らしいということだ。大学の先生たちだけで書いた教科書のほうが、高校の先生が参加して書かれた教科書より信頼できそうだと、つい考えてしまう。厳密な比較ができたわけではないが、前者のほうが後者よりいくぶん読みやすいと感じたことは事実でもあった。

読みやすい教科書のほうに感じたことの中には「ああ、私も高校時代にこういうふうに教えてもらえていれば、もっと理解できただろうのに」という過去の恨みが含まれていた。後の祭りだが。結論を急ぐ必要はないが、教科書書きは現場主義より書斎主義(?)のほうがいいのかもしれないとさえ思わされた。

いま書いたことと直接関係はないが、夏休み中にもうひとつ、「高大接続」について文科省HPに掲載されているいくつかの文書をダウンロードして読んだ。センター試験を廃止して到達度テスト(ベーシックとアドバンス)のようなものに切り替える計画についても。これからいろいろと変わっていくようだ。

それでなんとなく思ったのは、「高大接続」だからこそ高校と大学は分業を徹底すべきなのだろうということだった。学校界のことは、入ったばかりなのでまだよく分からないが、高校には高校の、大学には大学の固有の課題がある。大学と高校の関係は単純な上下関係ではないと思う。取り組む課題が異なる。

教会界はどうか。「学校は教会ではない」のと同様「教会は学校ではない」。学問はしばしば宗教の腐敗をそしる。しかし学問も腐敗する。その監視役は宗教だと思う。教会は学校を「外から」見る。宗教の腐敗は学問が容赦なく指摘する。学問の腐敗は宗教が指摘する。そういう役割分担がありうるはずだ。