2016年9月29日木曜日

「その鍵は宗教ではない」のか

宗教というかピンポイントのキリスト教への侮辱を罪とせず、平然とと言うか一緒になって「そうそうごもっとも」とか頷きながら納得して聞いていたりするのは、キリスト教のプロテスタントの日本の人たちくらいかもしれません。私もだいたいどちらかといえばそのクチのほうです。いいんだか悪いんだか。 

唐突に書くが、私が高校生の頃は「共通一次試験」(センター試験の前身)真っ只中で、当時の先生がたの進路指導といえば進路未決定の生徒に同一偏差値の「医学部」と「法学部」のどちらかへの進学を勧めるといった具合。そういうのが「気持ち悪い」(ママ)と感じた私は、そういうのすべてからおりた。
9月27日
はっきりいえば、生徒本人の適性など全く眼中になさそうで「高偏差値の大学へ進学すれば明るい未来が待っている」式の進路指導をしていた。もちろんすべての高校がそうだったかどうかは当時の私には知るよしもなかったわけだが。当時の私が感じたことは、繰り返し書けば「気持ち悪い」(ママ)だった。

果たしてその結果はどうだったか。まだ「結果」も「結論」も出ていない段階だろうか。30年以上は経過したわけだが。「(当時の)高偏差値の大学へ進学すれば明るい未来が待ってい」たか。本当にそうだったか。真相はどうだったか。私と同じ今の50歳さんたちには、そろそろ答えられるのではないか。
9月28日
その答えを知ってどうのこうの言いたいわけではない。むしろ何も言いたくない。「そういうのすべてからおりた」私の弁解や自慢をしたいわけでもない。知りたいのは、現時点で高校の教員である私が、眼前の高校生たちに伝えるべき事実だ。ただそれだけだ。(大学の宣伝ではない)真実を知りたいだけだ。

実は意見を求めているわけでもない。いっそ黙って考えてもらいたいと願うばかり(高飛車な言い方で申し訳ない)。偏差の出やすい試験問題を用意して偏差と順位を競わせて勝敗を決めて「勝ち組」だ「負け組」だのラベルを貼るやり方はさすがにもう時代遅れだし、「嫌な社会」を作るだけだと思うばかり。
9月29日
偏差や順位や知能指数のようなものでは全く測ることができないが、仕事をやり抜き人生を生き抜くうえできわめて重要な力を養うための教育実践がもっと必要だ。すでに取り組みを始めている学校はあると思うし、少ないとは思わない。私も真剣に取り組んでいるつもりだし、良い結果が出始めていると思う。

宗教科の教員である私は「その鍵は宗教にある」と書くほうが安心してもらえそうだが、「その鍵は宗教かもしれないがそうでないかもしれない」としか書けない人間であることをお許しいただきたい。でも「そうだそうだ、その鍵は宗教ではない」とは言ってもらいたくない。遠慮して言わないでいるだけだ。