2016年9月22日木曜日

高校と大学の関係、そして学校と教会の関係について

内容とは関係ありません
今年4月からの大きな変化は、わりと躊躇なく皮肉を書けるようになってしまったことだったりする。これまで気を使いすぎていたかも。これに慣れると戻れる気がしないので、ちとまずい。いまタイプミスで「わりとちゅうしょなく」と打ってしまったら「割と中所(´;ω;`)ウゥゥ」と変換した(無関係

つい最近お会いした大学の先生(私の大学時代の先生という意味ではない)が「翻訳は業績にカウントしてもらえない。とにかく論文を書かなくては」と言っていた。そういうものかと初めて知った。大学教員界は大変そうだ。高校教員界は、論文を書いても翻訳してもそれ自体が評価されることはたぶんない。

夏休みのあいだ自分の勉強のために文科省検定済教科書の『倫理』の複数社のぶんを読み比べていた。それでお恥ずかしながら初めて知ったことだが、大学の先生たちだけで書いたものと、高校の先生が参加して書かれたものがあった。だからどうと言いたいのではないが、表現しにくい微妙な気持ちになった。

何を思ったかといえば私はどうやら権威主義者らしいということだ。大学の先生たちだけで書いた教科書のほうが、高校の先生が参加して書かれた教科書より信頼できそうだと、つい考えてしまう。厳密な比較ができたわけではないが、前者のほうが後者よりいくぶん読みやすいと感じたことは事実でもあった。

読みやすい教科書のほうに感じたことの中には「ああ、私も高校時代にこういうふうに教えてもらえていれば、もっと理解できただろうのに」という過去の恨みが含まれていた。後の祭りだが。結論を急ぐ必要はないが、教科書書きは現場主義より書斎主義(?)のほうがいいのかもしれないとさえ思わされた。

いま書いたことと直接関係はないが、夏休み中にもうひとつ、「高大接続」について文科省HPに掲載されているいくつかの文書をダウンロードして読んだ。センター試験を廃止して到達度テスト(ベーシックとアドバンス)のようなものに切り替える計画についても。これからいろいろと変わっていくようだ。

それでなんとなく思ったのは、「高大接続」だからこそ高校と大学は分業を徹底すべきなのだろうということだった。学校界のことは、入ったばかりなのでまだよく分からないが、高校には高校の、大学には大学の固有の課題がある。大学と高校の関係は単純な上下関係ではないと思う。取り組む課題が異なる。

教会界はどうか。「学校は教会ではない」のと同様「教会は学校ではない」。学問はしばしば宗教の腐敗をそしる。しかし学問も腐敗する。その監視役は宗教だと思う。教会は学校を「外から」見る。宗教の腐敗は学問が容赦なく指摘する。学問の腐敗は宗教が指摘する。そういう役割分担がありうるはずだ。