2016年6月18日土曜日

ツイッターで授業内容を改善する方法

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かなり多くの大学の先生が自分の氏名や所属を明示してツイッターを利用しておられるが、小中高の先生はあまりというかほとんどそうではない。プロフィールで明示していないだけで利用者は多い気がするが。学校の品格を貶める(これが何を意味するかはともかく)使い方さえしなければ問題ないはずだが。

これは私がずっと前から繰り返し書いてきたことなのだが、ツイッターであろうと他のSNSであろうとブログであろうと、はたまた紙のレジュメであろうと雑誌や紀要の論文であろうと、単著共著であろうと、つまり発表媒体の形式はなんであれ、「字を書く」という点では全く同じであると私は考えてきた。

そのうえで思うのは、140字一単位のツイッターは、自分の考えていることや言いたいこと言うべきことを他の人に伝えるために、それをまとめて字にするためにはかなり便利なツールだということだ。140字で伝わらないことは長大な文章を書いても伝わらない、とまで言うのは言い過ぎかもしれないが。

イマドキ学校の授業(小中高大問わず)で教員が教科書や自分のノートや原稿を棒読みすることはありえない。パワポを表示するなりレジュメを配るなりして、あとはひたすらアドリブを多く含むトークライブになる。そのとき論旨明快にしゃべれるとしたら、それがふだんの継続的な物書き訓練の成果なのだ。

いま書いていることに「だから何」はない。誰がいつ何をしようと、その人の思想的判断に基づく行動なので、少なくとも私はそれを尊重する。児童・生徒・学生に内容が伝わりさえすれば流暢に(日本語を)しゃべる授業でなくても構わないとも思う。ただ、ツイッターも訓練になるよと言いたいだけである。

記憶しておられる方もいてくださるのではないかと思うが、いま書いていることとほぼ同趣旨で「ツイッターで説教原稿を改善する方法」を提案したことがある(2015年5月22日発表)。私の基本的な考え方は、1年前から全く進歩していないようだ。

参考:
「ツイッターで説教原稿を改善する方法」(2015年5月22日発表)


2016年6月15日水曜日

多様性の体系化の必要性(難しくいえば)

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小学校の次に中学があり、中学の次に高校があり、高校の次にそれ以上の学校がある。同じ学校でも1年の次に2年があり、2年の次に3年があり。より下位の土台の上により上位の土台を据える。逆はない。より下位の土台がよほどしっかりしていないとより上位の土台は据えられない。そんなことを考えた。

私が考えたのは、たとえていえば、算数ができなければ、数学はまあできない。数学ができなければ、建築学はたぶんできない。建築学ができなければ、家は建てられないでしょというくらいの単純なことです。私は小1で算数が苦手になって、その後ずっとその方面はダメなので、家を建てる能力はゼロです。

私が家を建てる必要が生じれば算数からやり直さなくてはなりません。独学するか、教えてもらうしかない。今さら感がパねえ、という気持ちを抱えながら。そしてそれは、聖書とか宗教とかを学校でにせよ教会でにせよ習うことに「も」当てはまるし、というか「こそ」当てはまるのではないかと考えました。

でも、たとえばの話ですが、小学校と中学と高校とそれ以上の学校で学ぶことをすべてひとりの教師から教わることができれば、ある意味で一貫していますが、現実には難しいし、たぶんありえない。いま私が思い浮かべているのは「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(Ⅰコリント3:6)という状況です。

前に教わった人と、いま教わっている人が違う。内容や形式にズレがある。教わる側に「多様性」を包容する幅が形成されていない。どちらが正しいかで迷う、悩む(大いに迷い、悩んでほしい)。両方(あるいは二択ではなく多択)を受容し、それぞれの関係性を体系的・包括的に位置づけられるようになる。

それは至難のわざだけれども、時間をかけて造り上げられていくべき重要な認識ではないかと思った次第。まだまだ抽象的なことしか書いていませんが、私が考えたことのざっくりしたアウトラインはこんな感じのことです。

単なる「競争」という次元だけでない「構築」の喜びのようなものを(レゴみたいなものかな)児童・生徒・学生も教員も味わうことができるといいなと私なんかは思います。甘いのかもしれませんが。

2016年6月13日月曜日

未来へと道をつくれ

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「気持ちが上がらないこと」を苦にしているという人の話を聞きつけ、そうであることを自覚できることの重要性と、自覚できないことの危険性と、気持ちが落ちているときは無理をしないで「面倒なことに近づかない」ようにすべきことと、その意義をめっちゃ熱弁した!今日はいいことした!満足した!

字にすること自体が生まれて初めてのことですが、20年もネットを続けてきた私がいまだかつてネットに書いたことのない話題が少なくとも2つあります。一つは「 」の話で、もう一つは「 」の話です。書けないものは書けないです。そういう心理的規制を幼い頃からインプットされすぎたのでしょうか。

そうなのだ。悩んでいるのは私ではない。生徒のほうがはるかに悩んでいる。「明日、ママがいない」(2014年)の施設長さん(三上博史さん)が言っていたではないか、「子どもを壊すぐらいなら大人が壊れろ」と。忘れられないよ。逆の大人が多すぎるんじゃないか。というかそれって大人じゃないよな。

いまがんばっているのは、私が教科(聖書)を担当している1学年4クラス、2学年4クラスの総勢約300人強の名前と顔が一致できるようになること。就職2ヶ月半だけど、けっこうイケるぞ。ナニそれくらいできなくて教員名乗れるか。えっと、あの生徒の名前なんだっけ。顔は思い浮かぶんだけどなあ。

2016年6月12日日曜日

千葉若葉キリスト教会で説教をしました

今日(2016年6月12日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)の主日礼拝で説教をしました。千葉英和高等学校聖歌合唱部の賛美奉仕がありました。礼拝後、カレー愛餐会にあずかりました。ありがとうございました!

説教「あふれるばかりに感謝しなさい」




あふれるばかりに感謝しなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)

コロサイの信徒への手紙2・6~7

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして作り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」

今日はいろんな意味で緊張しています。千葉若葉キリスト教会の皆さんと、そして千葉英和高校の聖歌合唱部のメンバーと共に礼拝をささげています。私は千葉若葉キリスト教会のメンバーでも牧師でもありませんので、どちらかといえば高校生を快く歓迎してくださった教会の皆さんに感謝しなければならない立場ではあるのですが、気持ちのうえでは、私は断然、教会側の人間です。

私はいま千葉英和高校で聖書の先生をしています。1学年4クラス、2学年4クラスで聖書の授業を担当しています。しかし昨年末(2015年12月)までは、教会の牧師でした。1990年4月から25年、牧師の仕事だけをしてきました。そういう立場の人間です。

自己紹介を兼ねて、私がしてきた教会の牧師という仕事について少しお話しさせていただきます。教会の牧師というのは、日曜日しか働いていないわけではありませんが、日曜日以外は、ものすごく自由な時間の使い方ができる立場です。むしろできるだけ自由でなければなりません。

なぜなら、牧師の仕事の基本は、日曜日の礼拝で説教すること(説教)と、教会の方々の実に様々なお世話をすること(牧会)と、新しく教会に通ってくださる方々を探し求めること(伝道)なので、決まった時間、決まった場所だけで仕事するというのでは対応できないことがほとんどだからです。

ちょうど今、1学年の授業でそのあたりのことを話しているのですが、宗教が果たすべき最も大事な役割の一つは人の「死」を深く考えることです。しかし、教会は死を「考える」だけでは済みません。誤解を恐れずに言えば、教会は死を具体的に扱います。死に直接触れます。

病床へのお見舞いとお祈り、看取り、引き取り、納棺、葬儀、火葬、納骨、記念。そのような形で、遺された家族や友人の心に寄り添い、お世話をします。教会自体は、病院でも施設でもありません。牧師自身は、医者でもセラピストでもカウンセラーでもありません。教会は教会であり、牧師は牧師です。他のものに例えようがない、独自の仕事を担っています。

しかしまた、それを「仕事」と呼ぶと嫌がられたり叱られたりします。おやおや、牧師さんはそういうことをビジネスとして割り切っておられるのですかと批判されたりします。もちろんビジネスとして割り切れるものではありえません。ただひたすら奉仕の思いです。しかしまた、これは「仕事」ではないのかというと、そうでもなく、「こういう仕事もあるのです」としか表現しようがないところもあります。

いま言おうとしているのは、牧師の仕事は、日曜日以外はなるべく自由でなければならないことの理由の説明です。人の死を具体的に扱う仕事である以上、いつどなたがどうなるか分からない以上、何か一定の時間を会社勤務などで拘束されることとは、かなりの面で矛盾します。最も短くいえば、牧師はできるだけヒマでなければなりません。

しかし、こういうことを言いますと、これがまたとても誤解されます。いつもぶらぶらしている、まるで遊んでいるようだ、いい御身分だ、などと冷笑されます。しかし、私は大学院を卒業した25歳から25年間、ずっとその仕事をしてきました。25年間ぶらぶら遊んできました。

すでに高校生の何人かから授業中に聞かれたことは「牧師は儲かるのですか」というのと「学校の先生と教会の牧師はどちらが儲かるのですか」という質問です。とても答えにくい質問です。「牧師は儲からないです」と答えるだけで精一杯です。だってお金を儲けるための仕事ではないのですから。その意味でも、私は25年、お金のために働くということをしたことがなく、ただひたすら、ぶらぶら遊んできた次第です。

ついでにいえば、牧師の仕事の中でいちばん中心にあるのは、お話しすることです。聖書について説教することと、お祈りすることと、讃美歌をうたうことです。いわば口を動かしているだけです。そういう批判を受けることがあります。お前は口を動かしているだけではないかと。そんなわけで、教会の牧師はお金儲けもしないし、通勤もしないで、いつもぶらぶら遊んでいて、口を動かしているだけです。そういう25年を私は実際に過ごしてきました。

もう一つだけダメ押し的に付け加えさせていただけば、牧師の仕事のメインは、神の栄光を表すことです。そのため、牧師の自分自身ができるだけ前に出ないようにすることが求められる仕事です。自分がそこにいたこと、働いていたことの形跡が残らないようにする必要があります。

「あの教会は何々先生の教会だ」という言われ方をされているようなら、たちまち批判されます。教会は神のものであり、何々先生のものではありえないと。それは当然の批判ですので、牧師たちは、いかなる意味でも自分の働きの形跡を残してはいけません。何年働こうと、どれほど重くて辛い仕事を果たそうと、まるでその人がいなかったかのように、自分の影もにおいも消し去らねばなりません。

いま言っていることは、半分以上は悪い冗談です。どういうふうに言えば正しく理解してもらえるか分からないので、冗談を言ってごまかしているだけです。しかし、そろそろ冗談は控えめにして、真面目にお話ししなくてはなりません。先ほど司会者に朗読していただきました聖書の箇所に入っていきます。しかし、その前にお断りしておきたいことがあります。

私がいま学校の授業の中で声を大にして言っているのは、「学校は宗教団体ではありません。学校は学校です。学校の中で私が皆さんに特定の宗教をすすめたり特定の宗教団体に勧誘したりするようなことはありません。それは入学時の皆さんと学校との約束事項ですので、どうかご安心ください」ということです。

それに加えて言うことは、「ただし、ここは学校なので、とにかく勉強してください。宗教について徹底的に考えてください。それはしてください。聖書の授業は考える時間(シンキングタイム)です。聖書の授業中は他のことは考えないでください。集中してください。聖書の授業中は内職禁止。他の教科の授業は内職してもいいという意味ではありませんが」ということです。

しかし今日は違います。ここは学校ではありません。教会です。宗教団体です。私は遠慮なく特定の宗教をおすすめしますので、覚悟してください。とか言うと、恐ろしくなって家に帰りたくなるかもしれませんが。

本題に入ります。今日朗読していただいた聖書の箇所に書かれていることの説明です。「あなたがた」は「主キリスト・イエスを受け入れた」人々のことを指しますので、キリスト教の信者のことです。今この教会にいる人たちも同じです。私も同じです。ですから、この「あなたがた」は「教会」そのものを指していると考えることは間違いではありません。「教会」とは、建物の名前ではなく、信者の集まりの名前ですから。

教会の人たちは目的があって集まっています。その目的が今日の箇所にはっきりと書かれています。それは「キリストに結ばれて歩む」という目的です。「結ばれて」がどのような状態かを説明するのはやや難しいことですが、「結婚」の「結」に近い意味だと言えば、ピンとくる方がおられるかもしれません。家族のような関係になり、日々共に生きることです。それ以上のことはうまく説明できません。

しかし、まだだいぶ抽象的かもしれません。その次の文章が少しだけ具体的な説明になっています。「キリストに根を下ろして造り上げられる」とは、ごく一般向けの言葉づかいで言えば、キリスト教の考え方を土台にしながら自分の人生や世界についての考え方を積み上げていくということで間違いとは言えませんが、もう少し深い次元のことです。なぜなら、すぐ後に「教えられたとおりの信仰をしっかり守ること」と記されているとおり、この件は「信仰」の次元にかかわることだからです。

特定の宗教を信じるとか、特定の宗教団体に参加するというようなことは、したくない、すべきでない、ありえないという拒絶反応が学校の中にも日本社会全体にもあることはよく分かっています。しかし、だからといって、日本人の大勢が「無神論者」なのかというと決してそうではない。「無宗教」は政治的な意味での「無党派」に最も近い関係にあると、先日の授業で話したばかりです。

なぜ「無党派」の人が多いのかは分かります。だって信頼できる政党がないんだもの。信頼できる大人がいないんだもの。特定の政党を支持し、特定の政治家に投票しろと言われても、そんなことは無理だもの、と感じている人が多いからです。

それと「無宗教」はかなり近い、よく似ている関係にあると私は思います。だって信頼できる宗教がないんだもの、尊敬できる大人が教会にいないんだもの。私はこれを決して他人事としては考えていません。自分自身に厳しく問われていることだと思っています。

「あふれるばかりに感謝しなさい」。これが教会に人が集まる究極的な目的です。教会は多くの感謝、そして多くの喜びを持ち寄り、みんなで分かち合う場所です。神の豊かな恵みに対する感謝、お互いの奉仕に対する感謝。それを独り占めするのではなく、共有し合うのが教会です。

教会は、お年寄りばかりが集まっていて、自分と同じ世代の人がいないので、つまらないですか。きみたちもいつかお年寄りになるよ。教会に来るのは、そうなってからでいいか。まあ、あまり無理なことは言わないでおきますが。

でも、言っておきます。良いことは、幼いころ、若いうちから始めるほうがいいです。習いごと、お稽古ごとをしている方には、必ず分かるはずです。ピアノを高校生になってから始める。それでは絶対に遅い、間に合わない、とまでは言えないかもしれませんが、かなり厳しい練習が必要でしょう。それと宗教は同じです。

もう一度言います。良いことは、幼いころから、若いうちから始めるほうがいいです。教会も同じです。主キリスト・イエスに結ばれた生活を始めることに早すぎるということはありません。それはとてもしっかりした人生の土台です。その上に、“キャラブレ”しない、筋の通った、しっかりとした考え方と生き方を造り上げることができます。

今日は学校ではないので、こういう話をすることをお許しください。

(2016年6月12日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)

2016年6月11日土曜日

教務教師の日常


やはりというべきか、何度か受ける質問は「牧師はもうかるのか」というものだ。つまり、教会のお金はどうなっているのかという問題。隠す要素は一切ないので、収入と支出の仕組みを黒板で図解して説明する。それでだいたい納得してもらえる。さすがは高校生、毎日数字(数学)に取り組んでいるだけある。

生徒と先生が廊下や校庭ですれ違うときも、先生同士も「こんにちは」と挨拶しあう良い習慣が根付いている。昨日は私が聖書の授業をしている1学年クラスの前を通ろうとしたら生徒5名女子から声を揃えて「ボンジュール!」と挨拶していただけた。さすがにちょっと度肝を抜かれた。うれしかったですよ。

土曜は朝寝坊しようと考えながら寝たが、今朝も5時に目が覚めた。その後、二度寝させてもらった。最近クビや肩や背中が筋肉痛。スポーツしているわけでもないのにと不思議に思っていたが、いま気づいた(にぶい)。毎日黒板に字を書いているではないか。50歳が50肩なのは、いわば当たり前でもある。

「おいこら、土曜日だからといってサボってないで勉強しろよ。そんなことではどんどん取り残されてしまうぞ」と背後から神学者たちが、ご自分たちは寝そべりながら、私をにらみつけています。はいはい、分かりました、やりますよ(反抗的な応え方)。


土曜に勉強をサボっている私の背後で、私をにらみつけている恐ろしい先生たちです。はっきり言って、ぞっとするんですけど。先生たちにアダ名つけてあげましょうか(反抗的な態度)。明日、説教がありますので、そろそろ本腰入れなくてはなりません。


昔話っぽいけど私、尾崎豊さんと同い年。盗んだバイクで走り出したことないし(ない)、校舎の裏でタバコふかしたこともないし(ほんとにない)、夜の校舎の窓ガラス壊して回ったこともない(ないから)けど、あの時代の感覚は覚えている。退屈な授業がきみたちのすべてじゃないよ。それだけは言える。

最近考えたこと。とにかく個人情報保護と情報管理が最重要課題と言っても過言でない時代の中、「人の道を説く話」をするには聖書とか神話(神学)とか哲学とか小説を持ちだして「比喩的に」説明するのが最も現実的だと再認識した次第。唯一できるリアル話は自分を語ることだけかも。家族のこともNG。

「あのね、えっとね、言いにくいことを口ごもりながら分かりにくくお話ししますけどね」と言いながらの授業を実はしている。宗教はデリケートなものだからだ。デリカシーのない人には決して扱うことができない。私もそうとうデリカシーのないほうの人間ではあるが、経験知が少しずつ蓄積されてはいる。

2016年6月10日金曜日

教会訪問が始まりました


今日分かったのは自分の心のバロメーターだ。職員室の中で交わされる先生がたの小さな声の会話(具体的な内容は分からない)が「せいしょ、せいしょ(聖書)」と聞こえるときはナーバスな状態で、「せいと、せいと(生徒)」と聞こえるときはヘルシーな状態だということが。今日は後者ヘルシーでした。

金曜放課後は、週明け月曜の学校礼拝プログラムの印刷・配布。それが終わり、さあ帰ろうと歩いていたら、今日授業の2学年クラス5名が私の名を呼び、1人走り寄ってくれて「先生これ食べてください!」と『激辛!!地獄の晩餐会(最強激辛ハバネロ味)』。ありがとう!おいしかっ...か、からっ!!

キリスト教学校の恒例行事である全生徒による「教会訪問」(教会の礼拝への出席。後日レポート提出)が始まりました。教会の皆さまにはご迷惑な面もあるかと存じますが、教会の時空に身を置くのは人生初という者も多く、馴染みのない場所ですので、ご寛恕いただきたくどうかよろしくお願いいたします。

2016年6月9日木曜日

反省しきりです


今日は大失敗しました。クラスごとに少しずつ授業の進度が違ってきていて、その事前確認が不十分で、今日授業があったクラスで前回と同じレジュメを配布してしまいました。すぐに回収しましたが、やや準備不足の退屈な授業をしてしまいました。本当にごめんなさい。次は楽しい授業をしたいと思います。

あと、内容は決して書けませんが、私が個人的に(愛するわが家族とも勤務校の生徒や先生とも全く無関係なことです)とても沈む気持ちになるような出来事が昨日あった関係で、心理的ダメダメ状態のままで教壇に立ってしまいました。こんなのでは必死でがんばっている生徒のみなさんに顔向けできません。

学校の教員たる者、「憩い」や「逃げ場」などあってはならないかもしれませんが、職員室の私の机の近くにおられる大先輩や同期の先生がたがどなたもとても温かい方々で、私の悩みや課題を聞いてくださり、その場で即座に親身になって助けてくださいます。素晴らしい先生がたです。明日もがんばります。

2016年6月8日水曜日

昨日うれしかったこと


昨日の放課後、大きな金属製のカートに大量の資料(進路関係)を載せて押している私を見た数名男女1年生が率先して助けてくれて、あっという間に仕事が片付きました。今日担任の先生に報告したら(私は特定クラスをもたない2年副担任)、とても喜んでくださいました。こんな幸せな気持ち人生初めて。

もう一つうれしいご報告。昨日の放課後、2年生の授業が終わって職員室に帰ってきた私を見た1年生男子が「聖書の授業、楽しみにしてますからね!」と言いながら、私のふくらんだお腹めがけてガシっとタックル、いえ、ハグしてくれました。本当にどうもありがとう。きみたちのおかげで楽しい毎日です。

同僚自慢。高校に「長」含む聖書の先生が5人。私以外は優秀な先生揃い。私の担当でないクラスの1学年の試験監督のとき「聖書の先生はどなた」と質問し「○○先生です」との返事に「面白いでしょ」と聞いたら、うくくくくくと思い出し笑いの後「面白いです!」という答えが返ってきて、うれしかった。

2016年6月6日月曜日

互いに重荷を担いなさい(千葉英和高等学校)


ガラテヤの信徒への手紙6・1~5

関口 康

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

初めて礼拝で説教させていただきます。4月から聖書の先生になりました関口康です。1年生の4クラス、2年生の4クラスの聖書の授業を担当させていただいています。今年は礼拝で6回説教する予定です。1回15分話すようにとのことですので、1年90分です。よろしくお願いいたします。

宗教委員の生徒の方々に朗読していただきました聖書の箇所についてお話ししたいと思います。今日皆さんに考えていただきたいのは、「互いに重荷を担いなさい」(2節)という御言葉についてです。またすぐ後に出てくる「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(5節)にも注目していただきたいと思いました。

二つのことは似ていますが、違うことでもあります。一つは「互いに重荷を担いなさい」です。もう一つは「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」です。後者は、言い方を換えれば「自分の重荷は自分で担いなさい」ということになります。

「重荷」は読んで字のごとく重い荷物です。毎日学校に持ってくるカバンは重いでしょうか。もし重いとしたら、皆さんのカバンが「重荷」です。「自分のカバンは自分で持ちなさい」ということです。当たり前です。自分のカバンくらい自分で持て。他人に持たせるな。

大人になっても社長さんとかになっても同じです。自分のカバンくらい自分で持て。でも、ひとりで持てないほど中身が増えてしまった場合は、遠慮なく助けてもらいなさい。それは恥ずかしいことではないし、間違ったことでもありません。

これが「互いに重荷を担いなさい」の意味です。他の人に助けてもらっているとき、自分の手を完全に放してしまえば「互いに重荷を担うこと」にならないかもしれません。怪我をしているときや、体調不良などで、自分のカバンに手をかけることが自分で不可能な場合はあります。その場合はあとでお返しすればいい。

「今日は私のカバンを持ってくれてありがとう。今度は私が持つ番だね」と約束して選手交代すればいい。それで「互いに重荷を担うこと」ができます。助け合いの精神は、相手のためにもなりますし、自分のためにもなります。助けてもらった恩は忘れないほうがいい。 

しかし、今日の箇所の「重荷」は、カバンでたとえるだけでは不十分です。もっと深刻な内容です。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」が「互いに重荷を担いなさい」の内容です。

そして「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」が「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」の内容です。つまり、この箇所で「重荷」の意味は「罪」です。「罪を互いに担う」とつなげると、なんだかまるで一緒に悪いことをするというような意味になってしまい、話がおかしくなりますが、ここに書かれていることの趣旨は「罪を犯した人を正しい道に立ち帰らせなさい」ということです。

罪を犯した人は、はっきり言えば悪い人です。しかし、だからといって、死んじゃえばいいとか、目の前から消えてほしいとか言い、その人を見捨て、切り捨て、すっきり軽くなることの反対です。罪を犯した悪い人が正しい道に立ち帰るまで見捨てず、見限らず、見殺しにせず、切り捨てず、背負い続けなくてはならないことが求められています。

それがなぜ「互いに」なのかといえば、罪の問題は「お互いさま」だからです。罪を犯さない人は一人もいないからです。お互いに我慢しあっているという面が必ずあるからです。自分はいつも必ずだれかの重荷を背負うだけ、ということはありえないからです。

もっとも、今日の箇所では、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とありますとおり、「不注意」の罪、つまり過失が問題になっています。しかし罪は「わざと」、つまり故意に犯されるものも決して少なくありません。だとしたら、故意の罪を犯した人は見捨てても構いませんという意味でしょうか。そうではありません。

なぜなら、その罪が「故意」なのか「過失」なのかを判断することは、もしかしたらその罪を犯した本人ですら、とても難しいことだからです。人の心の中は第三者には見えません。自分自身ですら制御しきれないのが人間の心です。その心が、罪を犯すのです。故意に罪を犯した人は見捨てるべきだという単純な話にはなりません。

しかし、要求の内容が大変なことであるのは間違いありません。自分の重荷は自分で担いながら、他人の重荷も同時に担うとなると負担が大きすぎることになるのは避けられません。実際にそのようなことは不可能だと感じるかもしれません。それは分かります。

しかし、だからこそ、ここでカバンのたとえが役に立ちます。罪の問題は「お互いさま」ですから。今は他人のカバンを持てるほど余裕がない。それどころか自分のカバンを持ってもらいたいくらいだというときはあります。そのときは、遠慮なく助けを求めてください。そして、助けてもらった人は、いつの日か、誰かのカバンをもってあげてください。

授業では話していることですが、私は大学卒業後25年、教会の牧師の仕事だけをしてきました。学校で教えるのは初めてです。慣れなくてもたもたしているところは、どうかお許しください。

しかし、みなさんからどう見えているかは分かりませんが、私の自覚としては教会と学校は全く違うものだという感覚はほとんどなく、むしろ共通点が多いと感じています。教会で私は聖書を教えてきました。いま学校でも聖書を教える立場です。お話しする相手が人間であるという点では、学校も教会も同じです。そして人間が相手である以上、罪の問題を抱えている存在であるという点で同じです。

聖書を教えるということと同時に、さまざまな個人的な悩みや相談にのり、解決していくためのお助けをしてきました。個人情報の要素が多く、守秘義務の観点からすべてをお話しすることはできません。

ただ、どちらかといえば人間のネガティヴな面の問題に取り組んできました。人間の光の側面よりも、影の側面、闇の側面のほうにどちらかといえばかかわってきました。経済的に行き詰った。家庭が崩壊した。夫婦関係や親子関係が険悪だ。してはいけないことをした。

病院に行った。役所にも相談した。関係諸機関のすべてに相談した。ありとあらゆる手を尽くした。だけどどうにもならなかった、とおっしゃる方が、最後の最後のところで教会に来る。宗教に頼る。神を求める。そういう方々とかかわってきました。

もうちょっと早く教会に来てくださればよかったのに、と言いたくなることも、しばしばでした。でも、私も他人事だとは思えません。自分だっていつ同じ立場に立つことになるか分かりません。一寸先は闇です。

皆さんにお願いしたいことがあります。「教会の牧師になってください」とは言いません。止めもしませんが、お勧めはしません。けっこう大変な仕事ですので。そういうことよりも、最後の最後まで「自分以外の人の重荷を担う」人になってほしいです。簡単に見捨てないで、切り捨てないで。

私も人のことは言えません。しかし、私には私の重荷を担ってもらえる「方々」が、また「方」がいます。最後の最後まで私のことを見捨てないでくれる仲間がいます。そして最後の最後まで私のことを見捨てない神がいてくださいます。皆さんにも必ずそのような仲間が与えられます。神はあなたを見捨てない。それが最後の最後の望みです。

(2016年6月6日、千葉英和高等学校 学校礼拝)