2016年6月11日土曜日
教務教師の日常
やはりというべきか、何度か受ける質問は「牧師はもうかるのか」というものだ。つまり、教会のお金はどうなっているのかという問題。隠す要素は一切ないので、収入と支出の仕組みを黒板で図解して説明する。それでだいたい納得してもらえる。さすがは高校生、毎日数字(数学)に取り組んでいるだけある。
生徒と先生が廊下や校庭ですれ違うときも、先生同士も「こんにちは」と挨拶しあう良い習慣が根付いている。昨日は私が聖書の授業をしている1学年クラスの前を通ろうとしたら生徒5名女子から声を揃えて「ボンジュール!」と挨拶していただけた。さすがにちょっと度肝を抜かれた。うれしかったですよ。
土曜は朝寝坊しようと考えながら寝たが、今朝も5時に目が覚めた。その後、二度寝させてもらった。最近クビや肩や背中が筋肉痛。スポーツしているわけでもないのにと不思議に思っていたが、いま気づいた(にぶい)。毎日黒板に字を書いているではないか。50歳が50肩なのは、いわば当たり前でもある。
「おいこら、土曜日だからといってサボってないで勉強しろよ。そんなことではどんどん取り残されてしまうぞ」と背後から神学者たちが、ご自分たちは寝そべりながら、私をにらみつけています。はいはい、分かりました、やりますよ(反抗的な応え方)。
土曜に勉強をサボっている私の背後で、私をにらみつけている恐ろしい先生たちです。はっきり言って、ぞっとするんですけど。先生たちにアダ名つけてあげましょうか(反抗的な態度)。明日、説教がありますので、そろそろ本腰入れなくてはなりません。
昔話っぽいけど私、尾崎豊さんと同い年。盗んだバイクで走り出したことないし(ない)、校舎の裏でタバコふかしたこともないし(ほんとにない)、夜の校舎の窓ガラス壊して回ったこともない(ないから)けど、あの時代の感覚は覚えている。退屈な授業がきみたちのすべてじゃないよ。それだけは言える。
最近考えたこと。とにかく個人情報保護と情報管理が最重要課題と言っても過言でない時代の中、「人の道を説く話」をするには聖書とか神話(神学)とか哲学とか小説を持ちだして「比喩的に」説明するのが最も現実的だと再認識した次第。唯一できるリアル話は自分を語ることだけかも。家族のこともNG。
「あのね、えっとね、言いにくいことを口ごもりながら分かりにくくお話ししますけどね」と言いながらの授業を実はしている。宗教はデリケートなものだからだ。デリカシーのない人には決して扱うことができない。私もそうとうデリカシーのないほうの人間ではあるが、経験知が少しずつ蓄積されてはいる。