日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東) |
コロサイの信徒への手紙2・6~7
「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして作り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」
今日はいろんな意味で緊張しています。千葉若葉キリスト教会の皆さんと、そして千葉英和高校の聖歌合唱部のメンバーと共に礼拝をささげています。私は千葉若葉キリスト教会のメンバーでも牧師でもありませんので、どちらかといえば高校生を快く歓迎してくださった教会の皆さんに感謝しなければならない立場ではあるのですが、気持ちのうえでは、私は断然、教会側の人間です。
私はいま千葉英和高校で聖書の先生をしています。1学年4クラス、2学年4クラスで聖書の授業を担当しています。しかし昨年末(2015年12月)までは、教会の牧師でした。1990年4月から25年、牧師の仕事だけをしてきました。そういう立場の人間です。
自己紹介を兼ねて、私がしてきた教会の牧師という仕事について少しお話しさせていただきます。教会の牧師というのは、日曜日しか働いていないわけではありませんが、日曜日以外は、ものすごく自由な時間の使い方ができる立場です。むしろできるだけ自由でなければなりません。
なぜなら、牧師の仕事の基本は、日曜日の礼拝で説教すること(説教)と、教会の方々の実に様々なお世話をすること(牧会)と、新しく教会に通ってくださる方々を探し求めること(伝道)なので、決まった時間、決まった場所だけで仕事するというのでは対応できないことがほとんどだからです。
ちょうど今、1学年の授業でそのあたりのことを話しているのですが、宗教が果たすべき最も大事な役割の一つは人の「死」を深く考えることです。しかし、教会は死を「考える」だけでは済みません。誤解を恐れずに言えば、教会は死を具体的に扱います。死に直接触れます。
病床へのお見舞いとお祈り、看取り、引き取り、納棺、葬儀、火葬、納骨、記念。そのような形で、遺された家族や友人の心に寄り添い、お世話をします。教会自体は、病院でも施設でもありません。牧師自身は、医者でもセラピストでもカウンセラーでもありません。教会は教会であり、牧師は牧師です。他のものに例えようがない、独自の仕事を担っています。
しかしまた、それを「仕事」と呼ぶと嫌がられたり叱られたりします。おやおや、牧師さんはそういうことをビジネスとして割り切っておられるのですかと批判されたりします。もちろんビジネスとして割り切れるものではありえません。ただひたすら奉仕の思いです。しかしまた、これは「仕事」ではないのかというと、そうでもなく、「こういう仕事もあるのです」としか表現しようがないところもあります。
いま言おうとしているのは、牧師の仕事は、日曜日以外はなるべく自由でなければならないことの理由の説明です。人の死を具体的に扱う仕事である以上、いつどなたがどうなるか分からない以上、何か一定の時間を会社勤務などで拘束されることとは、かなりの面で矛盾します。最も短くいえば、牧師はできるだけヒマでなければなりません。
しかし、こういうことを言いますと、これがまたとても誤解されます。いつもぶらぶらしている、まるで遊んでいるようだ、いい御身分だ、などと冷笑されます。しかし、私は大学院を卒業した25歳から25年間、ずっとその仕事をしてきました。25年間ぶらぶら遊んできました。
すでに高校生の何人かから授業中に聞かれたことは「牧師は儲かるのですか」というのと「学校の先生と教会の牧師はどちらが儲かるのですか」という質問です。とても答えにくい質問です。「牧師は儲からないです」と答えるだけで精一杯です。だってお金を儲けるための仕事ではないのですから。その意味でも、私は25年、お金のために働くということをしたことがなく、ただひたすら、ぶらぶら遊んできた次第です。
ついでにいえば、牧師の仕事の中でいちばん中心にあるのは、お話しすることです。聖書について説教することと、お祈りすることと、讃美歌をうたうことです。いわば口を動かしているだけです。そういう批判を受けることがあります。お前は口を動かしているだけではないかと。そんなわけで、教会の牧師はお金儲けもしないし、通勤もしないで、いつもぶらぶら遊んでいて、口を動かしているだけです。そういう25年を私は実際に過ごしてきました。
もう一つだけダメ押し的に付け加えさせていただけば、牧師の仕事のメインは、神の栄光を表すことです。そのため、牧師の自分自身ができるだけ前に出ないようにすることが求められる仕事です。自分がそこにいたこと、働いていたことの形跡が残らないようにする必要があります。
「あの教会は何々先生の教会だ」という言われ方をされているようなら、たちまち批判されます。教会は神のものであり、何々先生のものではありえないと。それは当然の批判ですので、牧師たちは、いかなる意味でも自分の働きの形跡を残してはいけません。何年働こうと、どれほど重くて辛い仕事を果たそうと、まるでその人がいなかったかのように、自分の影もにおいも消し去らねばなりません。
いま言っていることは、半分以上は悪い冗談です。どういうふうに言えば正しく理解してもらえるか分からないので、冗談を言ってごまかしているだけです。しかし、そろそろ冗談は控えめにして、真面目にお話ししなくてはなりません。先ほど司会者に朗読していただきました聖書の箇所に入っていきます。しかし、その前にお断りしておきたいことがあります。
私がいま学校の授業の中で声を大にして言っているのは、「学校は宗教団体ではありません。学校は学校です。学校の中で私が皆さんに特定の宗教をすすめたり特定の宗教団体に勧誘したりするようなことはありません。それは入学時の皆さんと学校との約束事項ですので、どうかご安心ください」ということです。
それに加えて言うことは、「ただし、ここは学校なので、とにかく勉強してください。宗教について徹底的に考えてください。それはしてください。聖書の授業は考える時間(シンキングタイム)です。聖書の授業中は他のことは考えないでください。集中してください。聖書の授業中は内職禁止。他の教科の授業は内職してもいいという意味ではありませんが」ということです。
しかし今日は違います。ここは学校ではありません。教会です。宗教団体です。私は遠慮なく特定の宗教をおすすめしますので、覚悟してください。とか言うと、恐ろしくなって家に帰りたくなるかもしれませんが。
本題に入ります。今日朗読していただいた聖書の箇所に書かれていることの説明です。「あなたがた」は「主キリスト・イエスを受け入れた」人々のことを指しますので、キリスト教の信者のことです。今この教会にいる人たちも同じです。私も同じです。ですから、この「あなたがた」は「教会」そのものを指していると考えることは間違いではありません。「教会」とは、建物の名前ではなく、信者の集まりの名前ですから。
教会の人たちは目的があって集まっています。その目的が今日の箇所にはっきりと書かれています。それは「キリストに結ばれて歩む」という目的です。「結ばれて」がどのような状態かを説明するのはやや難しいことですが、「結婚」の「結」に近い意味だと言えば、ピンとくる方がおられるかもしれません。家族のような関係になり、日々共に生きることです。それ以上のことはうまく説明できません。
しかし、まだだいぶ抽象的かもしれません。その次の文章が少しだけ具体的な説明になっています。「キリストに根を下ろして造り上げられる」とは、ごく一般向けの言葉づかいで言えば、キリスト教の考え方を土台にしながら自分の人生や世界についての考え方を積み上げていくということで間違いとは言えませんが、もう少し深い次元のことです。なぜなら、すぐ後に「教えられたとおりの信仰をしっかり守ること」と記されているとおり、この件は「信仰」の次元にかかわることだからです。
特定の宗教を信じるとか、特定の宗教団体に参加するというようなことは、したくない、すべきでない、ありえないという拒絶反応が学校の中にも日本社会全体にもあることはよく分かっています。しかし、だからといって、日本人の大勢が「無神論者」なのかというと決してそうではない。「無宗教」は政治的な意味での「無党派」に最も近い関係にあると、先日の授業で話したばかりです。
なぜ「無党派」の人が多いのかは分かります。だって信頼できる政党がないんだもの。信頼できる大人がいないんだもの。特定の政党を支持し、特定の政治家に投票しろと言われても、そんなことは無理だもの、と感じている人が多いからです。
それと「無宗教」はかなり近い、よく似ている関係にあると私は思います。だって信頼できる宗教がないんだもの、尊敬できる大人が教会にいないんだもの。私はこれを決して他人事としては考えていません。自分自身に厳しく問われていることだと思っています。
「あふれるばかりに感謝しなさい」。これが教会に人が集まる究極的な目的です。教会は多くの感謝、そして多くの喜びを持ち寄り、みんなで分かち合う場所です。神の豊かな恵みに対する感謝、お互いの奉仕に対する感謝。それを独り占めするのではなく、共有し合うのが教会です。
教会は、お年寄りばかりが集まっていて、自分と同じ世代の人がいないので、つまらないですか。きみたちもいつかお年寄りになるよ。教会に来るのは、そうなってからでいいか。まあ、あまり無理なことは言わないでおきますが。
でも、言っておきます。良いことは、幼いころ、若いうちから始めるほうがいいです。習いごと、お稽古ごとをしている方には、必ず分かるはずです。ピアノを高校生になってから始める。それでは絶対に遅い、間に合わない、とまでは言えないかもしれませんが、かなり厳しい練習が必要でしょう。それと宗教は同じです。
もう一度言います。良いことは、幼いころから、若いうちから始めるほうがいいです。教会も同じです。主キリスト・イエスに結ばれた生活を始めることに早すぎるということはありません。それはとてもしっかりした人生の土台です。その上に、“キャラブレ”しない、筋の通った、しっかりとした考え方と生き方を造り上げることができます。
今日は学校ではないので、こういう話をすることをお許しください。
(2016年6月12日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)