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私が考えたのは、たとえていえば、算数ができなければ、数学はまあできない。数学ができなければ、建築学はたぶんできない。建築学ができなければ、家は建てられないでしょというくらいの単純なことです。私は小1で算数が苦手になって、その後ずっとその方面はダメなので、家を建てる能力はゼロです。
私が家を建てる必要が生じれば算数からやり直さなくてはなりません。独学するか、教えてもらうしかない。今さら感がパねえ、という気持ちを抱えながら。そしてそれは、聖書とか宗教とかを学校でにせよ教会でにせよ習うことに「も」当てはまるし、というか「こそ」当てはまるのではないかと考えました。
でも、たとえばの話ですが、小学校と中学と高校とそれ以上の学校で学ぶことをすべてひとりの教師から教わることができれば、ある意味で一貫していますが、現実には難しいし、たぶんありえない。いま私が思い浮かべているのは「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(Ⅰコリント3:6)という状況です。
前に教わった人と、いま教わっている人が違う。内容や形式にズレがある。教わる側に「多様性」を包容する幅が形成されていない。どちらが正しいかで迷う、悩む(大いに迷い、悩んでほしい)。両方(あるいは二択ではなく多択)を受容し、それぞれの関係性を体系的・包括的に位置づけられるようになる。
それは至難のわざだけれども、時間をかけて造り上げられていくべき重要な認識ではないかと思った次第。まだまだ抽象的なことしか書いていませんが、私が考えたことのざっくりしたアウトラインはこんな感じのことです。
単なる「競争」という次元だけでない「構築」の喜びのようなものを(レゴみたいなものかな)児童・生徒・学生も教員も味わうことができるといいなと私なんかは思います。甘いのかもしれませんが。