2015年10月27日火曜日

この難局を乗り越えた先に希望があると信じよう

『30年代の危機と哲学』(イザラ書房、1976年)
『30年代の危機と哲学』読了。フッサール1、ハイデッガー2、ホルクハイマー1。ハイデッガーの「ドイツ的大学の自己主張」と「なぜわれらは田舎にとどまるか」は端的に面白い。「ドイツ民族統率者養成こそ大学の使命!」とアジった哲学者(前者)が、謝罪の明言はないが反省の色を示す(後者)。

職業柄かもしれない(そうでないかもしれない)が、変節する思想家を嫌いになれない。「勇気をもって大胆に変節せよ」と言いたくなる。それも、「我々は常に正義だ。真理は我らの手にある。誤謬の中にいるのは常にあなただ。ほら早く変節せよ」という意味ではない。そういうことは考えたことがない。

それにしても、変節は許容されるべきである。それが、その人自身の救済になり、かつ思想家と教師の影響下にある多くの人々の救済になる。今からでも、いつからでも、遅くない。その思想、その立場を、変えることはできる。

神学も同じだと考えざるをえない。神が変節することはさすがに考えにくい。しかし、神が人にとって捉えがたい(incomprehensive)存在であることは間違いないわけだから(間違いないと断言できるかどうかも考えなおす余地があるかもしれない)、人は幾様にも神を考えなおすことができる。

神は「捉えがたい」存在であるゆえに、人は神を幾様にも考えなおすことができる。と、ここで話を終わると不安がられることが多いことを知っている。しかし、あえてここで止める。安心を求め過ぎるのは我々の悪いくせだ。考え続けることをやめるべきでないのは、宗教も同じ。

気になって、フッサールとハイデッガーとホルクハイマーの年齢差を調べた。フッサール(1859年生まれ)とハイデッガー(1889年生まれ)は30歳差。フライブルク大学総長就任講演「ドイツ的大学の自己主張」のハイデッガーは43歳。ホルクハイマー(1895年生まれ)とハイデッガーは6歳差。

70代のフッサールと40代のハイデッガーと30代のホルクハイマーを想像すると、「白い巨塔」の東と財前と里見を、つい思い出してしまった。2003年版テレビドラマでいえば、石坂浩二と唐沢寿明と江口洋介。老教授と、野心満々の新進気鋭と、両方からいささか距離を置いて批判的に見ている同僚。

さて、今日は忙しい一日になりそうだ。もうお帰りになったが、朝から来客あり。これから出かけ、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはならない。書くべき書類(まだ白紙だが)も増えてきた。この難局を乗り越えた先に希望があると信じよう。各自やれることは、まだたくさんあるはずだ。私にもある。

2015年10月24日土曜日

作文の書き方(続き)

本文とは関係ありません
雑誌は「笑点の大喜利」にたとえられるのではと思います。いるのは司会者さんと噺家さんたちと座布団運びさん。司会者さんが編集長、噺家さんがメイン記事の書き手、座布団運びさんは書評の書き手。とか言うと怒られるでしょうか。そこで怒ると座布団運びさんに怒られますよ。座布団持っていかれます。

笑点の大喜利も計算しつくされた編集の世界ですよね。その中で、リーダーシップを持ちながら目立ちすぎてはいけない司会者さんと、目立つことで競い合う気がないなら出る意味がない噺家さんたちと、噺家さんより目立つことはゼッタイ許されないけど時々キラメク座布団運びさんの三者の絶妙のやりとり。

雑誌もそれと同じ。編集長がメイン記事の書き手たちより目立つ雑誌は純粋に個人誌というべきものですが、だったら編集長が全部自分一人で書けばと言いたくなるようなのもたまに見かけます。そういう雑誌は失敗作です。司会者の歌丸さんの独演会のようなもので、噺家さんたちはうちに帰っていいですよ。

しかも笑点の中で、その人がいなければ全体が成り立たないけど・他の出演者より目立つことはゼッタイに許されないのが座布団運びさん。その人の一人舞台になってしまったら全部ぶち壊し。そのあたりの自分に与えられた位置と役割を正確に理解して立ち回れる人が最適任者であるのは間違いないわけです。

それって、考えれば考えるほど、恐ろしいまでに難しい仕事だと私なんかは思うわけです。座布団運びくらい誰でもできるとか、とんでもない誤解です。その恐ろしいまでに難しい座布団運びの仕事が、雑誌で言えば書評の書き手ではないかと思うのです。あれなめたら、次のチャンスなんかゼッタイないです。

いま私の目の前に実例があって、当てこすりか、お小言を書いているわけではありません。ちょこちょこと、さらさらと、小さな小さな文章を締め切りを守って書くことを続けていく中で、でかいものを書かせてもらえるようになるのが「書き物の世界」の常ではないかと当たり前のことを考えているだけです。

いくらたとえと言っても、書評の書き手を笑点の大喜利の座布団運びさんにたとえるなんて、見当違いすぎて間違っていると、やっぱり怒られるかもしれません。私にはだれかをけなす意図はありません。ただ、メインの出演者を食ってしまうような大活躍は控えるほうがいいのではないかと言いたいだけです。

作文の書き方

本文とは関係ありません
これは私(来月50)のことではなく若い世代の方々に言いたいことですが、伝統や権威ある雑誌に論文を掲載してもらうのを狙いつつ待てど暮らせどチャンスが来ないという感じよりも、既成の雑誌という雑誌、紀要という紀要に、ちょこちょこ書き、名前を覚えてもらうというほうが得策だということです。

これは雑誌や紀要の編集側をやらせてもらったことがある人は誰でも知っていることですが、その仕事の最大かつ最悪の悩みは、原稿の締め切り日を守らない人が多いこと。そこ狙い目です。原稿の締め切り日を守れない書き手よりも、守れる書き手のほうが、間違いなく「次の」チャンスが与えられますから。

私にもありました。専門書店に並んでいるような、その筋では著名な雑誌の編集長から電話がかかってきて、「ごめん、関口さん。短い書評なんだけど、予定していた人に急にキャンセルされたので、困ってるんだよね。関口さんなら、さらさらっと書いてくれるかなと思って」と。「あ、いっすよ」で決まり。

雑誌というのもトータルとしての完結した一作品であるために、じっくり時間をかけて書かれた部分だけでなく、さらさらっていう部分も必要。メインの特集記事とか、著名な書き手の連載記事とかと比べて、書評とかそのあたりは「埋め草」のような面がないわけではない。そういうのが狙い目なんだってば。

そのあたりの雑誌発行者のニードをくみ取り、それに合わせた書き方や内容の作文を提供できる書き手は、もてます。「次の」チャンスが必ず与えられます。遅筆なのがいけないわけではないですが、そういう人は初めから、自分は死ぬまでに一冊本を書くことを目標にする、という気持ちでいればいいのです。

でかいのをじっくり時間をかけてドン、みたいな書き方の人は、それなりの生き方を選べばいい。ですが、内容は軽薄かもしれないけど、雑誌発行者のニードを満たしうる作文をさらさらっとたくさん書き、多くの人に名前を覚えてもらえる人になることも、書き手として一つの立派な生き方だと私は思います。

2015年10月21日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 04

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ヨハネによる福音書1・19~28

この箇所の「ヨハネ」はこの福音書を書いたヨハネではなく、イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。このヨハネがそれをするために来たと言われている「証し」の内容が紹介されています。

その「証し」の内容を説明する前に確認しておきたいことがあります。それはバプテスマのヨハネが立たされていた危険な状況です。「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させた」(19節)は「質問」というより「尋問」です。「祭司やレビ人たち」と呼ばれているのは宗教家を引き連れた警察官のような存在です。祭司が宗教家、レビ人が警察官。彼らの意図は取り調べです。「エルサレムのユダヤ人たち」は彼らの上司です。

彼らは噂を聞いたのです。ヨハネという怪しい人間がいるらしい。この男は人を大勢集めて新しいグループを作っている。集まった人に洗礼を授け、「これから来る救い主を待ち望め。そのために準備せよ」と呼びかけていると。ヨハネとは何者か。現地に行って本人に会って調べてこい。

ヨハネが置かれた状況とは次のようなものです。一人のヨハネを大勢の取調官が取り囲んでいる。彼らはヨハネに対し、矢継ぎ早に質問を繰り出し、尋問する。ヨハネが少しでも隙を見せたりぼろを出したりすれば、即刻逮捕して、エルサレムに連行し、処刑する。その状況の中でヨハネが「証し」をしました。彼がこの「証し」の中で語っていることの要点は、次のようなものです。

第一は、ヨハネ自身はメシアではないということです。「あなたはどなたですか」という質問に対し、「わたしはメシアではない」と答えています。「わたし自身はイスラエルが待ち望んだ救い主キリストではない」と言っています。

第二は、ヨハネ自身は偉大な預言者でもないということです。「あなたはエリヤですか」という質問に「違う」と答え、また「あなたはあの預言者ですか」と問われて「そうではない」と答えています。「エリヤ」は旧約の時代に活躍した預言者です。質問者の意図は「あなたはあの偉大な預言者エリヤの生まれ変わりだと自称するつもりですか」ということです。「あの預言者」と呼ばれているのが誰を指しているのかは不明です。しかし、彼らの質問の意図は「あなたは自分を特別な預言者だと思っているのですか」です。ヨハネはそれを否定します。私は偉大な預言者ではないと言っています。

第三は、ヨハネが答えている「わたしはメシアではない」とか「わたしはエリヤ(のような偉大な預言者)ではない」と言っているとき、その強調点は「わたしは」にあるということです。「メシアはわたしではない。別の方がメシアである」ということです。これはヨハネの責任逃れではありません。はぐらかしているのでも、他者に責任を転嫁しているのでもありません。「わたしはメシアではなく、メシアは別の方である。あなたがたはその方を知らないが、わたしは知っている」と言っています。

ここまで言えばヨハネを追及している人たちは「メシアがだれかを知っているならば、それは誰かを今ここで言え」と口を割らせようとしたことでしょう。しかし、ヨハネは吐きません。もしヨハネがそれをしゃべってしまえば、追及の手はすぐにでもイエスさまのところへと及んだでしょう。それこそが責任転嫁です。しかしヨハネはそうしませんでした。イエスさまをお守りしたのです。

第四は、「わたしはメシアではない」というヨハネの答えの真意は何かという問いのもう一つの答えです。責任転嫁ではないという点はすでに申し上げました。ならば、何なのか。この点で考えられることは二つです。第一はヨハネの謙遜です。第二はヨハネの信仰です。

第一の、ヨハネの謙遜は、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(27節)という言葉に表われています。イエスさまはヨハネよりも年齢的に若かったわけですし、イエスさまはヨハネから洗礼を受けたのであって、その逆ではありません。しかしヨハネは、自分自身はイエスさまよりも劣っており、イエスさまの下に立つ人間であると告白しています。

優劣の関係だの上下関係だのという話は今日では好まれません。私もこのような話はできるかぎり避けたいほうです。しかし問題となっている事柄が「謙遜」にかかわる場合は、優劣とか上下という関係づけを避けることはできません。なぜなら、「謙遜」とは、相手に対して私は徹底的に下であると自覚すること、そして実際に相手よりも下の位置に自分の身を置いてしまうことを意味しているからです。

「謙遜」とは、力にかかわる概念です。話や言葉として「謙遜」を口にするだけでは足りません。文字どおり相手の持っている力の前に圧倒され、押しつぶされ、粉々に砕かれることが求められます。ヨハネはそれを知っていました。これから来られる真のメシア、イエス・キリストは、私ごときは足もとに及ばない真の力、救いの力を持っておられる方であると、ヨハネは告白しています。

第二の、ヨハネの信仰は、イザヤの言葉を用いて語った「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道を真っ直ぐにせよ』と」(23節)という言葉に表われています。

このイザヤの言葉は、実際には次のようなものです。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40・3)。実際のイザヤ書の言葉とヨハネが引用している言葉が少し違っているのは、この引用がヘブライ語の旧約聖書からではなく、ヨハネ福音書が書かれた頃には広く使用されていた七十人訳と呼ばれるギリシア語訳旧約聖書からのものだからです。新共同訳聖書はヘブライ語の原典から訳されていますので、少し違っています。

この点は勘案するとしても、ヨハネがこのイザヤの言葉を引用している意図は明確です。「主の道」とは神の道です。ヨハネにとってこれから来られる救い主なるメシア、イエス・キリストは、主なる神御自身です。イエスさまは自分よりも年齢が下だとか後輩だとか、そのような次元のことはヨハネにとってはどうでもよいことでした。イエスさまは端的に「神」であられるとヨハネは信じたのです。これが「ヨハネの信仰」の内容でした。真の神であられる救い主イエス・キリストが来てくださる、そのための道備えをしなければならないと、ヨハネは自覚したのです。

ヨハネが引用しているイザヤ書40章の言葉は旧約聖書を読む多くの人々を慰め、励ましてきたものです。イザヤが立たされた現実は、最初は悲惨そのものでした。神の民イスラエルが分裂してできた北イスラエル王国と南ユダ王国が争い合いました。分裂した二つの国は、それぞれの隣国アッシリアとバビロンに滅ぼされました。エルサレム神殿は打ち壊されました。神の民の多くが奴隷として隣国に連れ去られました。そして70年間の捕囚期間の後に神の民がエルサレムに戻ることが許されました。打ち壊された神殿を再び建て直す希望が与えられました。

イザヤ書40章の状況は、いま最後に申し上げた、神の民の希望が取り戻された状況です。イザヤにとっての「荒れ野」は、単なる地理的な意味での砂漠を意味しているだけではありません。宗教的・精神的・内面的に荒廃した人間の心の砂漠をも意味しています。

ヨハネが自分自身を「荒れ野で叫ぶ声」であると呼んでいる意図も、まさにそれです。宗教的・精神的・内面的に荒廃した人間の心の砂漠の中で、彼は叫ぶのです。「真の救い主が来てくださる!あなたの心の砂漠は、豊かな恵みにあふれる地に変えられる!イエス・キリストを信じてください!」

この叫び声は、わたしたちの時代、この状況のなかで、今なお響き続けています。

(2015年10月21日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)

2015年10月20日火曜日

青野太潮先生の『十字架の神学』について

十字架の神学研究会(2015年10月20日、千葉県八千代市)
御自身の「十字架の神学」に関する青野太潮先生の論考に一貫しているのは、我々がしばしば犯す自己の思想的前提を聖書テキストに「読み込むこと」(Eisegese)を徹底的に排し、テキストの趣旨を「読みだすこと」(Exegese)に集中することである。聖書学でも神学でも基本中の基本ではあるが、青野先生の徹底性に圧倒される。

説教はある意味で、もっと自由であっていいのではと私は考えている。「私はこの個所をこう読む」という面が、説教にはもっとあっていいと思う。しかし、そのようなことはそのテキストのどこにも書かれていないのに、あたかも明示的にそのように書かれているかのように言い張るべきではない。「あくまでも私の想像ですが」とか「ここにはっきり書かれているわけではありませんが」とか断りを入れながら、自由に語ればよい。

我々が聖書を読むときに徹底的に排すべき「自己の思想的前提」は、青野先生の場合には「教会の伝統的な教理」と同一かどうかについては、必ずしもそうではないというか、それ「だけ」ではないと、青野先生のご著書を読みながら思わされている。青野先生から直接お話を伺ったとき、「私は教会大好き人間なので、教会の伝統的な教理そのものを否定したことはない」とおっしゃった。テキストに書いていないことを、まるで書いてあるかのように言ってしまうことをお嫌いになっているのだ。

とはいえ、作業過程としては「教会の伝統的な教理に基づく聖書の読み」から一度は「解放されること」が必要だと青野先生が考えておられることは、おそらく間違いない。一例というか、ほとんどそれが青野神学の核心と言えるところだが、「イエスの十字架上の死」の個所を読むと、いつでも必ず判で押したように「わたしたちの身代わりに死んでくださった」という贖罪論に自動的に連結させるような読み方は「あまりにも一面的すぎる」と、青野先生はお考えになっている。

それ「だけ」だと、イエスの死、あるいは「死ということ」そのものが、どうしても美談化されてしまう。イエスの死には「殺害された」というネガティヴな面が間違いなくある。そのネガティヴな面がまるでなかったかのように美談化することは危険であるという考え方(大意)である。しかし、だからといって、青野先生は贖罪論を否定しているというふうに見てしまうのは、それこそ青野先生のテキストへの「読み込み」に通じるであろう。

これまでにも、多くの聖書学者や神学者が「青野先生は贖罪論を否定している」と誤解した上で、ありとあらゆる罵詈雑言や非難を青野先生に浴びせてきたようで、それに対する青野先生からの反論が縷々『「十字架の神学」の展開』(新教出版社、2006年)にも『「十字架の神学」をめぐって~講演集』(新教出版社、2011年)にも記されている。それを丁寧に読むと、青野先生は決して贖罪論そのものを否定しておられるわけではないことが必ず分かる。

日本国内においても、贖罪論を全否定するような論調の聖書学者や神学者がおられることを、私も存じている。その方々が青野先生のご主張を論拠にしておられるかどうかを確認したわけではない。しかし、もしその方々が「青野先生のご主張を論拠にしている」と明言されるようなら、青野先生にとっては、ややご迷惑かもしれない。

ただ、こういう考え方もできるのではないだろうか。贖罪論を外見上、全否定しておられるように見える方々でも、「贖罪論一本槍の神学」(という言い方を青野先生はなさっている)の方々と同一の教団・教派の中にとどまっておられる場合には、お互いに対立し、場合によっては「憎しみの感情」さえ抱きながらも、もっとメタな視点から俯瞰して見れば、両者は「相互補完的に」立っているように見えなくもない。

なぜそのように私には見えるのか。間違いなく言えるのは、贖罪論の効力が遺憾なく発揮される場は「教会」であるが、その「教会」と「神の国」とは同一なのかという問いが出てくるからである。たとえば、キリスト教主義の学校や病院や福祉施設や政党。そういった場の今の現実は99パーセントが非キリスト者で構成されているケースも決して稀ではない。そのような場で「贖罪論一本槍の神学」だけでキリスト教的言説をどこまでも押し通すことが適切かどうかという問いは十分検討に値すると思われるからである。

私が青野先生のご主張に惹かれるのは、私の主要な研究対象としてきたファン・ルーラーのバルト批判に通じるところがあると感じるからである。ファン・ルーラーもまたバルトの神学を「キリスト一元論の神学」という言葉で批判した。しかしそれは「キリストは不要である」という意味ではない。神は三位一体であり、御子だけではなく、御父も聖霊もおられることをもっと多元的にとらえるべきであるという考えである。

経綸的三位一体についても、神は贖罪の主であるだけでなく、創造の主でもあり、聖化と完成(終末)の主でもある。経綸的三位一体は「区別されない」(opera Dei trinitatis ad extra sunt indivisa)。しかし、区別性がなければ関係性もないわけだから、区別性は「ある」。創造のみわざを贖罪のみわざに吸収することはできないし、聖化のみわざや完成のみわざ(終末)を贖罪のみわざに吸収することもできない。キリスト教的言説の「切り口」ないし「入り口」は、なにがなんでも贖罪論のみからでなくても構わない。終末論から教義学を始めることだってできる、というのがファン・ルーラーの考えである。

青野先生も、西南学院大学や九州大学の著名なバルト研究者の方々とのかなり熾烈な闘いを今でもしておられるようである。

私自身は主に組織神学・教義学の関心や観点から青野先生の本を読ませていただいているが、今の我々が「教会の伝統的な教理に基づく聖書の読み」をする場合の「教会の伝統的な教理」の成立過程を反省してみると、聖書学は教義学の下部構造のように位置づけられ、教会の教理(教会会議の決議事項)の「論拠聖句」を聖書の中から探しだすという仕事を(旧来の)聖書学者が担わされてきたことは否定できない。しかしその「論拠聖句」の個所を「釈義」(Exegese)してみると、コンテクスト的にはそんなことが書かれているわけではない個所であったりすることが分かってしまったりする。

そういうことの反省を、「21世紀の神学」は、もっとしなくてはならないと私は考えている。

私も釈義を万能であるとは思わないし、パーフェクトな無前提の釈義は不可能であると考えている。聖書の言葉を、教会の伝統的な教理を根拠づけるため「だけ」の牽強付会・我田引水の道具に用いることへの警戒心を持つべきだ、と考えているだけである。

(2015年10月20日)

2015年10月18日日曜日

平和のきずな(松戸小金原教会)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
エフェソの信徒への手紙4・1~6

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

今お読みしました個所に記されているのは、すべて教会のことです。すでに学んだ個所に書かれていたのは「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(1:23)でした。教会は「キリストの体」です。キリストは教会の頭(かしら)です。

頭と体は切り離すことができない、切り離してはならない関係です。切り離すと、両方とも死んでしまいます。キリストと教会の関係も同様です。ただし、キリストと教会の関係は、肉体的な関係というより霊的な関係です。キリストから離れた教会は霊的に死んでしまいます。

しかし、キリストと教会の関係は、父なる神がイエス・キリストにおいて聖霊によって生み出してくださった特別な関係です。教会がキリストにしがみつくことによって、いまにも壊れそうな関係を必死で維持しているというようなものではありません。神がわたしたちを招いてくださったのです。

もちろんその関係は、神の招きがなければ成立しないものであるとも言えます。神が招いておられもしないのにわたしたちの側で必死にしがみついているというような関係ではありません。しかし、心配する必要はありません。もしわたしたちの中に、ほんの少しでも「信仰」が与えられているならば、神はわたしたちを必ず招いてくださっています。たとえその「信仰」が、遠い過去にほんの一瞬感じた程度のことであるとしても。

なぜそのように言えるかといえば「信仰」もまた「神の賜物」だからです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(2:8)と書かれているとおりです。神は御自身が招いてくださる人々に「信仰」を与えてくださるのです。

聖書が教える「信仰」の意味は、わたしたち人間が生まれつき持っている遺伝的な性質とは異なるものです。すべての人が持っていると言われる宗教心や信心とは異なるものです。聖書が教える意味の「信仰」は、わたしたちが生まれたあとに、外から与えられるものです。

だからこそ、その点においては「ユダヤ人」も「異邦人」も、差がありません。聖書の神を信じる家庭に生まれた子どもたちも、そうでない家庭に生まれた子どもたちも、差がありません。すべての人は、生まれたあとに、外から信仰を与えられます。信仰は聖書から学ぶものです。

「私の親は熱心な信者で、私はその家に生まれた者です。だから私はいまさらわざわざ聖書を学ぶ必要はありません」と言うことができる人は誰もいません。もちろん家庭環境の中で自然に身につく要素が全く無いと言いたいのではありません。しかし、だからといって、聖書を学ぶ必要はないし、教会に通う必要はないと言ってもよい理由にはなりません。

なぜこのようなことを強調しなければならないかといえば、今わたしたちの教会で始めようとしていることと関係あるからです。幼児洗礼を受けた方が信仰告白のための準備として勉強会を始めようとしています。幼児洗礼は、本人の自覚も意志も、そして信仰もない状態で授けられた洗礼です。

そのような洗礼は無意味だということにはなりません。幼児洗礼は、十分な洗礼です。半分の洗礼でもなければ、不十分な洗礼でもありません。しかし、本人に信仰のない洗礼であることは確実です。「信仰なき洗礼」というのは矛盾であると思われる方がおられるかもしれませんが、そのような洗礼をわたしたちは、何の躊躇もなく積極的に行っています。だからこそ、その人は洗礼をもう一度受け直すのではない仕方で、自分の心と口で信仰を告白することが、あとから必要になるのです。

それは二度手間だ、どのみち自分で信仰を告白することを求めるのであれば最初から幼児洗礼など授けなければよいという話にもなりません。幼児洗礼は、授けられた本人にとってよりも、親と教会にとって重要な意味があります。それは聖書に基づいて子どもに信仰を教える約束をすることです。

もちろん実際には子どもたちは親と教会の願いどおりにならないことのほうが多いです。しかし、そこから先は神にお任せしましょう。幼児洗礼は、子どもたちを親と教会の手下にする手段ではありません。子どもが親の思いどおりにならないのは当たり前です。

子どもは親の人形ではありません。教会の人形でもありません。親も、教会も、そして子どもたちも「神から招かれている」存在です。人を招くのは神です。人に信仰を与えるのは神です。人を救うのは神です。親も、教会も、神ではありません。

幼児洗礼を受けた子どもたちだけの話ではありません。すべての大人たちも同様です。もちろん、実際にわたしたちが教会に初めて来たときに体験したことは、目の前に教会の建物があった、チラシを見た、教会の人に誘われた、など様々です。しかし、そのことを教会はいつまでも恩着せがましく言うべきではありません。

なぜなら、すべての教会と教会員は「神から招かれている」(1節)存在だからです。教会の中心におられる、教会の主宰者は神です。そのことを忘れてしまい、わたしたちの思い通りにならない人を教会から排除するようなことがあってはなりません。

次の通りです。「そこで主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1-3節)。

大事なのは「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」という点です。「招く」とは招待することです。教会に集まるすべての人は、神御自身の招待客です。例外はありません。牧師も長老も同じです。「私は招く側であって招かれる側ではない」と言える人は一人もいません。

この点で間違いを犯しやすいのは、牧師や長老かもしれません。だからこそ、私はこの点を強調しなくてはなりません。「私は招く側であって招かれる側ではない」と思い込んだ途端にあっという間に傲慢の落とし穴に落ちるでしょう。

神がこの私を忍耐と寛容の御心をもって招いてくださり、愛してくださり、受け容れてくださったのです。神は、この私を受け容れてくださったうえで忍耐しておられるのです。この私の存在を我慢してくださっているのです。ちっとも言うことを聞かない、思い通りにならないこの私のことを。

教会が「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努める」ことにとって最大の障害は、わたしたちがいつの間にか神の招きによって教会に受け容れられた存在であることを忘れてしまうことです。わたしたち自身が教会のヌシになり、来てもらいたい人と、来てもらいたくない人とを選別しはじめることです。

イエスさまはそのような方ではありません。社会の中でつまはじきにされていたような人々をこそ、イエスさまは招いてくださり、弟子にしてくださったではありませんか。わたしたちもそうだったでしょう。すべての人がそうでした。神から招かれるにふさわしい生き方をしていたから招かれた、という人は、一人もいません。

生まれる前から信仰を持っている人はいません。それは、生まれる前から聖霊を与えられている人はいないと言うのと同じです。生まれる前から教会に通っているという人はいます。お母さんのお腹の中にいるときから、お母さんと一緒に教会に来ていたという人はいます。しかし、そうである人が自動的に信仰をもつわけではありません。

すべての人は教会にあとから加えられた人です。神から招かれた人です。そのようなわたしたちが「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つ」ことができる根拠は、キリストという頭(かしら)のもとにある体の一部に加えていただいたという信仰です。

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4-6節)。

このように書かれていることは、あるいは私の説明は、抽象的で理屈っぽいでしょうか。頭の中で考えただけの空想の教会であって、現実の教会とはかけ離れているでしょうか。もしかしたら、そのような面があるかもしれませんが、そのようにだけ言って済ませることはできないと思います。

と言いますのは、この個所の主旨として最も大事なのは、どうやら、現実の教会が陥りやすい傲慢の落とし穴に陥らないようにしなさいという戒めの側面だと思われるからです。

この個所に書かれていることがわたしたちにとって、なるほど理想的かもしれないが現実の教会からかけ離れていると感じるようなことであればこそ、わたしたちがしなければならないのは、その理想的な教会と現実の教会を見比べて、現実の教会のどこが間違っているのかを反省してみることです。

しかし、「わたしたちは神から招かれた」という言葉そのものは、わたしたちにとって何度言われてもぴんと来ないものではないかとも思います。これは私の個人的な感想です。何度言われてもぴんと来ない。何を言われているのかよく分からない。おそらく、神という方がわたしたちの目に見えないお方であることと、どうやらそれは関係しています。

チラシを見て関心をもった、教会の中のだれかに誘われた、だれの魅力にひかれて教会に来ている、というような話のほうが、よほど具体的で分かりやすいと私も思います。それはマザー・テレサかもしれませんし、三浦綾子さんかもしれない。「神から招かれた」という話よりも、よほど分かりやすい説明です。その気持ちは、私にも十分に分かります。

しかし、そこでわたしたちは、あえて踏みとどまらなければなりません。人ではなく、神がわたしを招いてくださった。人は神が私を神と教会へと招いてくださるために遣わされた存在であると考えて、納得する。そのことにわたしたちは、固くとどまるべきです。教会の頭は、人ではなくキリストです。教会は「キリストの体」です。

(2015年10月18日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年9月30日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 03

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ヨハネによる福音書1・14~18

難解な序文がなお続いていますが、ここで初めて「イエス・キリスト」という名前が出てきます。これまでは「言(ことば)」とだけ呼ばれていました。イエス・キリストの生涯を描く目的で書かれる福音書というジャンルの文書の中でこうした書き方がきわめて特異であることは間違いありません。

14節に「言は肉となった」と記されています。誤訳とまでは言えませんが、誤解を生みかねない訳です。「なった」(become)は原文の直訳ですが、原文で用いられている言葉(エゲネトー)の意味は、この文脈に限って言えば、「成り変わった」とか「変化した」というようなことではなく「生まれた」(was born)です。そして「肉」の意味は「人間」であり、「言」はイエス・キリストです。ヨハネの意図にそって訳しなおせば、「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということです。

しかし、そのことをヨハネは、直訳すれば「言葉は肉となった」と訳すことが全く不可能とまでは言い切れない独特の言葉で表現していることも事実です。現代の多くの聖書学者も、ヨハネの意図はよく分からないと、さじを投げています。英国の有名な聖書学者も「『肉となる』という言葉の意味を確定することは困難である」と書いています。しかし、それでもわたしたちが譲ってはならないのは、ヨハネが人間を「肉」と呼ぶとき、存在の意味と価値をおとしめる意味で「人間は肉に過ぎない」とか「人間とは汚らわしい」と言いたいのではないという点です。

「霊的なものは清いが、肉体的なものはすべて汚らわしい」。このような思想は我々日本人にとって馴染み深いものがあり、すんなりと受け入れることができる、ごくごくありふれたものです。「肉体」と聞けば「汚れた」という形容詞をすぐに思い起こすことができる、といった具合です。

しかし、このような見方は、ヨハネの時代の教会を脅かし、その後のキリスト教会を脅かし続けた、グノーシス主義の思想です。キリスト教会にとっては異端の思想です。教会の歴史の中でこのような考え方や言い方が見出されるとしたら、それらはすべて、教会の外から紛れ込んできたものです。

しかし、わたしたちが信頼してよいことは、ヨハネ自身が異端に陥り、そちら側の考え方の中へとすっかり巻き取られてしまっていたわけではないということです。この福音書の中には「肉」を蔑む表現は見当たりません。今日の個所でもただ「肉となった」と書かれているだけであり、「汚らわしい肉の姿へと落ちぶれた」というようなことが書かれているわけではありません。そのような考え方がヨハネにそもそもありません。ヨハネが書いているのは「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということだけです。もう少し言葉を補うとしたら、「わたしたちと同じ人間としてお生まれになった」ということです。

ただし、この文章の中に上下関係を示す内容はたしかに含まれています。天の神のおられるところが「上」であれば、人間が生きているここが「下」です。その意味に限って言えばイエス・キリストは、上から下へと「降りて」あるいは「下って」来られた方であると語ることは間違っていません。

しかし、この上下関係は、神と人間との関係という点に関してだけ当てはまるものです。「霊的なるもの」と「肉的なるもの」との関係に当てはめることはできません。

私がなるべく明らかにしたいと願っているのはヨハネ自身の意図です。「言は肉となった」。イエス・キリストは、わたしたちと同じ人間としてお生まれになった。その意味は「神の御子が汚れたものになった」ということではありません。そうではなくて、ヨハネの意図は「神の御子がわたしたちと同じ地平に立ってくださった」ということです。それを聞けばわたしたち人間が理解できるほどによく噛み砕かれた「ことば」として、わたしたちの心の奥底に届く「ことば」として、イエス・キリストが、わたしたちの目線までおりて来てくださり、わたしたちにじかに語りかけてくださったのだ、ということです。

もしこの説明で正しいようであれば、これまでのところに「イエス・キリスト」という名前が出てこず、ただ「言」とだけ呼ばれていたことの理由も説明できるようになるかもしれません。「イエス・キリスト」という名前は、地上における名前です。「イエス」という名前はこの方が地上にお生まれになったときに付けられたものです。お生まれになる前から、すなわち永遠から、天地創造の前から、この方が父なる神から「イエス」と呼ばれていたわけではありません。

そして「イエス」という名前の意味は「救う」です。そのように、マタイによる福音書が記しています。「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」(マタイ1・21)。イエスという名前の意味としての「救い」を必要としているのは地上に生きる人間だけです。神には「救い」は必要ありません。救われなければならないのは人間であり、神ではありません。

救い主が必要なのはわたしたち人間です。しかも、救いが必要なのは罪を犯した人間だけであって、罪を犯していない人間に救いは必要ありません。救いとは「罪からの救い」だからです。

「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とヨハネが書いています。ここに出てくる「恵みと真理に満ちた栄光」という言葉には抽象的な響きを感じてしまうかもしれません。具体的な内容は何かまでは分かりません。

しかしわたしたちは、イエス・キリストがこの地上にもたらしてくださった「恵み」と「真理」の内容を知っています。それは結局「救いの恵み」であり、「救いの真理」です。永遠の神の御子が、罪を犯して神の栄光を汚したわたしたち人間を罪の中から救い出してくださるために「人間になって」地上に来てくださったのです。

神の御子がなぜ「人間」になったのかという問題についてはハイデルベルク信仰問答(第12問から第18問まで)に答えが書かれています。それは、わたしたち人間の犯す罪があまりに重すぎるため、それを償うためには、動物の命はもちろんのこと、人間の命をささげても足りないということです。

人間の命は軽いと言っているのではありません。ハイデルベルク信仰問答の意図は逆です。人間の命は重いと考えられています。だからこそ、人間の命ほどの重いものをすべて差し出しても償いきれないほど、わたしたちの罪はあまりにも重すぎるものだということです。わたしたちの罪が真に償われるためには、真の神でありつつ真の人間でもあられるお方(ハイデルベルク信仰問答は「仲保者」と呼んでいます)の命の価が必要であったということです。

わたしたちが覚えるべき大切なことは、それほどまでに人間の罪は重いものであるということですが、それと同時に、それほどまでに神の恵みは大きいということです。人間の存在、その精神や肉体そのものが汚らわしいのではなく、人間の犯した「罪」が汚らわしいのです。

そして、罪から救い出された人間は「清くなる」のです。それを教会は「聖化」(Sanctification)と呼んできました。わたしたちを清めるためにイエス・キリストは来てくださったのです。それこそが、わたしたちに与えられる最高の「恵み」であり「真理」です。

(2015年9月30日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)

2015年9月23日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 02

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ヨハネによる福音書1・6~13

今日の個所に「ヨハネ」が登場します。しかし、このヨハネはこの福音書を書いた著者ヨハネではありません。イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。しかし、二人が同じヨハネという名前であることにはやはり何らかの意味があると考えられています。

著者ヨハネがバプテスマのヨハネの話をしながら自分の姿を重ね合わせていると考える人がいます。その見方は正しいと私は考えます。この福音書には著者自身の思想的立場が前面に現われています。著者ヨハネの時代(おそらく西暦1世紀末)のキリスト教会における熾烈な戦いが背景にあります。しかし、この個所に登場するヨハネは、直接的にはバプテスマのヨハネのことです。

バプテスマのヨハネは「神から遣わされた」と記されています。「光について証しをするため、またすべての人が彼によって(ヨハネによって!)信じるようになる(光を信じるようになる!)ために」、ヨハネは神から遣わされました。

「光を信じる」とはどういうことでしょう。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」と書かれていました。そして「人間を照らす光」としての「命」が「言(ことば)の内にある」とも書かれていました。この「言」がイエス・キリストです。そして命の光が「言」としてのイエス・キリストの内にあります。その命の光が人間を照らしています。そして、その光が暗闇の中で輝いています。それぞれの関係性を思いめぐらしてみることが大切です。

「暗闇」の意味は、神が創造されたこの世界と我々人間に重くのしかかっている闇です。隣人の姿が見えなくなり、自分のことしか考えられなくなる闇です。それはほとんど「罪」と同義語であると言えます。しかし、ヨハネ(著者ヨハネ)は、世界の暗闇の中で絶望していません。暗闇はイエス・キリストの内に輝いている命の光によって取り払われつつあることを信じています。

イエス・キリストが来てくださったことによって地上の世界に生きているわたしたち人間は誰一人、暗闇の中で絶望しなくてもよい。そのことを「すべての人が信じるようになるために」、二人のヨハネ(!)は神から遣わされた。バプテスマのヨハネが、そして著者ヨハネが多くの人々の前で証言した。それが著者ヨハネのメッセージです。

別の言い方をしておきます。二人のヨハネが神から遣わされた目的は、救い主が来てくださったことを世のすべての人に伝えることでした。それは彼らの人生には「目的」があったことを意味しています。その目的を果たすことができれば、私の人生は最終局面を迎えたと自ら考えることが許される。

バプテスマのヨハネの人生の目的は、これから来てくださる救い主メシアをお迎えにするために我々は準備しなければならないということを、多くの人に知らせることでした。そして、そのことを知らせた後、彼は殺されました。

このヨハネにとって、イエス・キリストは永遠の主人公でした。彼自身は永遠の脇役でした。人間関係的に言えば、ヨハネのほうがイエスさまより年齢が上でした。しかし、ヨハネは自分をイエス・キリストに従う者の位置に置きました。自分の人生を永遠の脇役として理解し、覚悟を決めて生きることは決して容易いことでありません。わたしの人生はわたしのものだ。この椅子は誰にも譲らない。そのように考える人々にとってバプテスマのヨハネの生き方は理解すらできないものかもしれません。

しかし、そのことに著者ヨハネは、自分自身の姿を重ね合わせていると思われます。後者のヨハネの場合は、西暦1世紀の終わり頃、まさに存亡の危機の中にあった教会の正しい信仰を守りぬくための熾烈な戦いに身を置いていたと考えられます。

「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。前回学んだ個所には「暗闇は光を理解しなかった」と書かれていました。ヨハネが「世」とか「自分の民」とか「暗闇」と呼んでいるのは、みな同じものです。イエス・キリストを受け入れない存在と、その存在が生きているこの世界です。

しかし、わたしたちは読み間違えてはなりません。ヨハネはイエス・キリストを受け入れない存在を冷たく突き放して裁くために、このように書いているのではありません。彼の意図は正反対です。彼が強調しているのは、イエス・キリストを通して現わされた神の恵みであり、神の愛です。父なる神のもとから遣わされた真の救い主は、世界に暗闇があることを十分にご存じでありながら、御自分のことを理解せず、認めることさえしようとしない人々のところに、あえて来てくださったのです。たとえ人々に嫌がられようと、罵られようと。

むしろ救い主にとって我慢できないのは、世界が暗闇のままであることです。あなたの心が暗い闇に覆われ、どんよりとした憂鬱な気分のままであることを放っておかれません。イエス・キリストは、「わたしは救いというものなど必要ない」と思っているような人々をこそ、お救いになるのです。

ヨハネは続けて「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と書いています。

ここでもヨハネは、「その名」、つまりイエス・キリストの名を信じる人々に「神の子となる資格」をお与えになる方はイエス・キリストを信じない人々にはその資格を与えないという点ばかりを強調したいわけではありません。むしろここでわたしたちが考えるべきことは、生まれたときから先天的に信仰をもって生まれた人は誰一人いないということです。信仰は血によって遺伝するようなものではないということです。そのことをヨハネは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」という言葉で表現しています。

ヨハネの意図は、すべての人は「神の子となる資格」を持たずに生まれてきたのだということです。しかしそれにもかかわらず、イエス・キリストはすべての人がその資格を得ることを望んでおられ、救いたいと願われます。「わたしには神の子となる資格など無い」と自覚しているあなたのところに、イエス・キリストは来てくださるのです。

ヨハネはイエス・キリストを「人間」と「世」を照らす命の光をもつ方であると信じました。つい思い出すのは天照大神です。しかし、イエス・キリストの光が「天」だけを照らしているのではなく、地上の世界全体と、地上に生きているすべての存在を、そしていまだに真の信仰に至っていない人々をも十分に照らしています。

聖書と教会の歴史に登場する多くの信仰者たちは、世界と自分の人生の暗闇の中でその光を見た人々です。絶望したままで生きていける人は、通常いません。すべての人に信仰と希望と愛、そして喜びが必要です。絶望の暗闇の中に救いの光が輝いているのを見て、袋小路からの出口が見つかったことを喜び、「わたしたちはまだ生きることができる」と多くの人に呼びかけ、共に約束の地をめざす。わたしたちもそのような存在であり続けたいものです。

(2015年9月23日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)

2015年9月22日火曜日

親目線で申し訳ない

2015年9月18日(金)17時から19時半まで「A1」にいました

参議院本会議の最後の福山議員の名演説の中で「シールズ世代」の日本史的背景への言及がありましたが、その中に「ゆとり、ゆとりと、さんざんdisられた世代」という点がなかったのは、唯一残念でした。ゆとりの逆襲だよね(うちにもゆとりの子がいるので分かる)。百倍返しだよ。あっぱれだと思う。

今の大学生や高校生くらいの方々には嫌われることを知りつつあえて書いていますが、「親目線」で見守っている人たちは、ほぼ全面的に味方だからね。尊敬してくれなんて思わないし、むしろ大いに軽蔑し、踏みつけてほしいくらいだけど。バブルを謳歌しましたし。だけどさ、だからこそ猛省もしてるのよ。

親目線で「見守る」なよ、一緒に戦えよ、距離とってんじゃねえよ、てめえらのせいで今こうなってんじゃねえの、と思われるだろうけどさ。それも分かるよ、痛いほど分かる。痛すぎるほど。だから反省してます。ごめんなさい。反論もできません。「応援」とかもされたくないと思うよ、くずの親世代には。

だけどさ、これ反論じゃないけどね、だけど、だけどさ、きみたちが大学や高校に行くのにもかなりお金かかったし、そのための生活ベースづくりもけっこうたいへんだったし、今もその状態は変わっていない。親世代の生活基盤が奪われたら、大学生や高校生の「戦い」のための「楽屋」もなくなってしまう。

あ、でも、親世代をdisるのが学生さんたちの本分です。それでいいと思う。いてまえ、です。くそバブラー世代のせいで今の世の中になってしまった。あいつら倒すまでおれら死ねん、みたいに決意を抱くのはいいと思う。そこをむしろ応援したい。本気でそう思うよ。本当に申し訳ないと思っています。

蓮舫さんが演説している頃の写真です



2015年9月9日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 01

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ヨハネによる福音書1・1~5

関口 康

新約聖書には、イエス・キリストのご生涯を描いた「福音書」があり、四番目に位置づけられるのがヨハネによる福音書です(そのため「第四福音書」Fourth Gospelと呼ばれます)。四つの福音書のうちでは最後に書かれました。書かれた時期は西暦一世紀の終わり頃です。

他の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は性格が似ています。現代の聖書学者は最初にマルコが書かれ、次にマタイ、三番目にルカが書かれたとします。しかもマタイはマルコを参考にしながら書き、さらにルカはマルコとマタイの両方を参考にしながら書いたとします。単語や語順がぴったり合うほど、まるごと引き写していると思われるところもあります。この三つの福音書は「共観福音書」Synoptic Gospelと呼ばれてきました。

他の三つの福音書(共観福音書)とヨハネによる福音書(第四福音書)の違いはどのあたりにあるのでしょうか。私にとって最も納得が行くのは、ヨハネによる福音書が執筆された時代の歴史的背景からの説明です。西暦一世紀末のキリスト教会が直面した現実とこの福音書は、深い関係にあります。

書物が書かれるとき、それを書く著者自身にも必ず言いたいことがあります。もちろん「福音書」はイエス・キリストを描く目的で書かれますので、著者自身の主張はできるだけ後ろに引き下がった位置にあるべきです。共観福音書の場合、著者自身の主張が出てくるところがあっても、どこか遠慮がちであり、イエスさまの背後に隠れています。しかし、ヨハネの場合はそれが前面に出てきます。そのあたりに大きな違いがあります。

そしてその違いの理由はヨハネによる福音書が書かれた時代的背景にあるという説明が私にとっては最も納得できるものです。西暦一世紀末は、キリスト教会が存亡の危機に直面していた時代です。この時期のキリスト教会は多くのグループへと分裂していました。異端的な教えを奉じるグループも乱立し、混乱の極みにありました。もしその時代の教会が異端との戦いに敗北していたら、その後の1900年間のキリスト教の歴史は存在しなかったほどです。

特に西暦一世紀末には流行の兆しを見せた「グノーシス主義」との戦いは熾烈を極めたものでした。「グノーシス」の意味は「知識」ですが、「グノーシス主義」は固有名詞です。この異端が教えていたのは、要するに地上の人生を軽んじる道です。グノーシス主義者は「天国」なり「天使」なり、地上の現実を超えた天上の事柄(彼岸)については関心や憧れを抱きました。しかし、地上の人生、世界の現実については、絶望に近いものを感じとったり、無関心を決め込んだり、それはもっぱら汚れたものであるゆえに憎むべきものでさえあると考えたりしました。地上の人生を重んじるのではなく、むしろ軽んじていました。

それは外見上は禁欲主義的でもあるのですが、刹那的な快楽を求める道と紙一重の面を持っていました。軽んずべき世界と自分の人生をおとしめる生き方をすることは、彼らにとっては難しいことではありませんでした。

「天国」や「天使」を強調する人々こそ宗教的に熱心で敬虔である場合がありますので、そちらのほうが正しいのではないかとお感じになる方がおられるかもしれません。しかし、グノーシス主義はキリスト教会の存亡にかかわる最悪の異端でした。「地上の世界」や「人生」を重んじない宗教は異端なのです。

もっともヨハネによる福音書の歴史的な背景は「グノーシス主義異端との戦い」という一点だけで説明することはできません。もっと複雑な要素が絡み合っています。しかし、その中でグノーシスとの戦いという問題は際立って重要です。別の言い方をすれば、この福音書には地上の人生を軽んじる人々との戦いという意図があるということです。

しかし、事情はさらに複雑です。上記の意図を持つこの福音書は、グノーシス主義者たちが好んで用いていた言葉をあえて多用しています。それは、たとえば、わたしたちが仏教の人々にキリスト教を説明しようとする場合、キリスト教用語でなく仏教用語で説明するようなやり方に似ています。

わたしたちが体験的に知っているのは、キリスト教信仰をキリスト教用語で説明しようとしても、相手が理解してくれない場合があるということです。キリスト教用語で話して理解してくれるのは、それを長年学んできた人々だけです。相手の言葉を用いて語ること、つまり、教会用語を異なる宗教や思想の人々の用語へと“翻訳すること”で初めて相手に伝わるものが生まれる場合があります。

ヨハネによる福音書は難しい書物です。その原因は、この書物が書かれた時代の教会が異端とみなしていた立場の人々の言葉を用いて、イエス・キリストが真の救い主であることを立証しようとしているからです。しかしまたその複雑な事情は、この福音書をこのうえなく興味深いものにしています。共観福音書におけるイエス・キリストは、旧約聖書的な背景を持つ、教会の言葉で描かれています。しかし、ヨハネによる福音書はそこが違うのです。しかし、ヨハネが異端に巻き込まれていたからではありません。ミイラ取りがミイラになったわけではありません。そうではなくて、ヨハネの意図は、異端の人々を正しいキリスト教信仰へと招き入れるためでした。

ヨハネによる福音書の冒頭には、共観福音書の場合はイエス・キリストの御降誕の次第が描かれている位置に、全く異なる印象をもつ言葉が書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この「言」(ロゴス)がイエス・キリストです。「初め」とは天地創造よりも前です。3節に出てくる「万物は言によって成った」とあるのが天地創造の出来事です。それ(天地創造)より前の時点を指しているのが「初めに」です。天地創造より前にイエス・キリストがおられた。イエス・キリストは父なる神と共におられた。イエス・キリストは神御自身であった。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネの意図をくみつつ言い換えますと、次のようになります。天地万物はイエス・キリストによって形づくられた。形あるものでイエス・キリストによらないものは何一つなかった。ヨハネが述べていることは、神の御子イエス・キリストは、父なる神と共に天地創造のみわざに関与しておられたということです。この地上にあるすべてのもの、すべての人は天地創造に関与なさったイエス・キリストと無関係に存在しているのではない。イエスさまがキリスト(メシア)であることを信じない人の人生にもイエス・キリストは関わっておられる。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

「光と闇」の対比はグノーシス主義者たちが好んで用いた言葉です。しかし、ヨハネの意図は彼らとは全く異なります。ヨハネが語ろうとしているのは、天地創造に関与したイエス・キリストだけが光り輝いていて、地上の世界はひたすら暗黒であるということではありません。むしろ逆です。「暗闇の中で輝く光」としてのイエス・キリストの光が、すでに世界を照らしはじめている。世界は全くの暗黒ではありえない。夜明けは来ている。希望のあさひは地上を照らしている。わたしたちの人生は輝いている。そのように言いたいのです。


(2015年9月9日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)