2015年10月21日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 04

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ヨハネによる福音書1・19~28

この箇所の「ヨハネ」はこの福音書を書いたヨハネではなく、イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。このヨハネがそれをするために来たと言われている「証し」の内容が紹介されています。

その「証し」の内容を説明する前に確認しておきたいことがあります。それはバプテスマのヨハネが立たされていた危険な状況です。「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させた」(19節)は「質問」というより「尋問」です。「祭司やレビ人たち」と呼ばれているのは宗教家を引き連れた警察官のような存在です。祭司が宗教家、レビ人が警察官。彼らの意図は取り調べです。「エルサレムのユダヤ人たち」は彼らの上司です。

彼らは噂を聞いたのです。ヨハネという怪しい人間がいるらしい。この男は人を大勢集めて新しいグループを作っている。集まった人に洗礼を授け、「これから来る救い主を待ち望め。そのために準備せよ」と呼びかけていると。ヨハネとは何者か。現地に行って本人に会って調べてこい。

ヨハネが置かれた状況とは次のようなものです。一人のヨハネを大勢の取調官が取り囲んでいる。彼らはヨハネに対し、矢継ぎ早に質問を繰り出し、尋問する。ヨハネが少しでも隙を見せたりぼろを出したりすれば、即刻逮捕して、エルサレムに連行し、処刑する。その状況の中でヨハネが「証し」をしました。彼がこの「証し」の中で語っていることの要点は、次のようなものです。

第一は、ヨハネ自身はメシアではないということです。「あなたはどなたですか」という質問に対し、「わたしはメシアではない」と答えています。「わたし自身はイスラエルが待ち望んだ救い主キリストではない」と言っています。

第二は、ヨハネ自身は偉大な預言者でもないということです。「あなたはエリヤですか」という質問に「違う」と答え、また「あなたはあの預言者ですか」と問われて「そうではない」と答えています。「エリヤ」は旧約の時代に活躍した預言者です。質問者の意図は「あなたはあの偉大な預言者エリヤの生まれ変わりだと自称するつもりですか」ということです。「あの預言者」と呼ばれているのが誰を指しているのかは不明です。しかし、彼らの質問の意図は「あなたは自分を特別な預言者だと思っているのですか」です。ヨハネはそれを否定します。私は偉大な預言者ではないと言っています。

第三は、ヨハネが答えている「わたしはメシアではない」とか「わたしはエリヤ(のような偉大な預言者)ではない」と言っているとき、その強調点は「わたしは」にあるということです。「メシアはわたしではない。別の方がメシアである」ということです。これはヨハネの責任逃れではありません。はぐらかしているのでも、他者に責任を転嫁しているのでもありません。「わたしはメシアではなく、メシアは別の方である。あなたがたはその方を知らないが、わたしは知っている」と言っています。

ここまで言えばヨハネを追及している人たちは「メシアがだれかを知っているならば、それは誰かを今ここで言え」と口を割らせようとしたことでしょう。しかし、ヨハネは吐きません。もしヨハネがそれをしゃべってしまえば、追及の手はすぐにでもイエスさまのところへと及んだでしょう。それこそが責任転嫁です。しかしヨハネはそうしませんでした。イエスさまをお守りしたのです。

第四は、「わたしはメシアではない」というヨハネの答えの真意は何かという問いのもう一つの答えです。責任転嫁ではないという点はすでに申し上げました。ならば、何なのか。この点で考えられることは二つです。第一はヨハネの謙遜です。第二はヨハネの信仰です。

第一の、ヨハネの謙遜は、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(27節)という言葉に表われています。イエスさまはヨハネよりも年齢的に若かったわけですし、イエスさまはヨハネから洗礼を受けたのであって、その逆ではありません。しかしヨハネは、自分自身はイエスさまよりも劣っており、イエスさまの下に立つ人間であると告白しています。

優劣の関係だの上下関係だのという話は今日では好まれません。私もこのような話はできるかぎり避けたいほうです。しかし問題となっている事柄が「謙遜」にかかわる場合は、優劣とか上下という関係づけを避けることはできません。なぜなら、「謙遜」とは、相手に対して私は徹底的に下であると自覚すること、そして実際に相手よりも下の位置に自分の身を置いてしまうことを意味しているからです。

「謙遜」とは、力にかかわる概念です。話や言葉として「謙遜」を口にするだけでは足りません。文字どおり相手の持っている力の前に圧倒され、押しつぶされ、粉々に砕かれることが求められます。ヨハネはそれを知っていました。これから来られる真のメシア、イエス・キリストは、私ごときは足もとに及ばない真の力、救いの力を持っておられる方であると、ヨハネは告白しています。

第二の、ヨハネの信仰は、イザヤの言葉を用いて語った「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道を真っ直ぐにせよ』と」(23節)という言葉に表われています。

このイザヤの言葉は、実際には次のようなものです。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40・3)。実際のイザヤ書の言葉とヨハネが引用している言葉が少し違っているのは、この引用がヘブライ語の旧約聖書からではなく、ヨハネ福音書が書かれた頃には広く使用されていた七十人訳と呼ばれるギリシア語訳旧約聖書からのものだからです。新共同訳聖書はヘブライ語の原典から訳されていますので、少し違っています。

この点は勘案するとしても、ヨハネがこのイザヤの言葉を引用している意図は明確です。「主の道」とは神の道です。ヨハネにとってこれから来られる救い主なるメシア、イエス・キリストは、主なる神御自身です。イエスさまは自分よりも年齢が下だとか後輩だとか、そのような次元のことはヨハネにとってはどうでもよいことでした。イエスさまは端的に「神」であられるとヨハネは信じたのです。これが「ヨハネの信仰」の内容でした。真の神であられる救い主イエス・キリストが来てくださる、そのための道備えをしなければならないと、ヨハネは自覚したのです。

ヨハネが引用しているイザヤ書40章の言葉は旧約聖書を読む多くの人々を慰め、励ましてきたものです。イザヤが立たされた現実は、最初は悲惨そのものでした。神の民イスラエルが分裂してできた北イスラエル王国と南ユダ王国が争い合いました。分裂した二つの国は、それぞれの隣国アッシリアとバビロンに滅ぼされました。エルサレム神殿は打ち壊されました。神の民の多くが奴隷として隣国に連れ去られました。そして70年間の捕囚期間の後に神の民がエルサレムに戻ることが許されました。打ち壊された神殿を再び建て直す希望が与えられました。

イザヤ書40章の状況は、いま最後に申し上げた、神の民の希望が取り戻された状況です。イザヤにとっての「荒れ野」は、単なる地理的な意味での砂漠を意味しているだけではありません。宗教的・精神的・内面的に荒廃した人間の心の砂漠をも意味しています。

ヨハネが自分自身を「荒れ野で叫ぶ声」であると呼んでいる意図も、まさにそれです。宗教的・精神的・内面的に荒廃した人間の心の砂漠の中で、彼は叫ぶのです。「真の救い主が来てくださる!あなたの心の砂漠は、豊かな恵みにあふれる地に変えられる!イエス・キリストを信じてください!」

この叫び声は、わたしたちの時代、この状況のなかで、今なお響き続けています。

(2015年10月21日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)