ヨハネによる福音書1・6~13
今日の個所に「ヨハネ」が登場します。しかし、このヨハネはこの福音書を書いた著者ヨハネではありません。イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。しかし、二人が同じヨハネという名前であることにはやはり何らかの意味があると考えられています。
著者ヨハネがバプテスマのヨハネの話をしながら自分の姿を重ね合わせていると考える人がいます。その見方は正しいと私は考えます。この福音書には著者自身の思想的立場が前面に現われています。著者ヨハネの時代(おそらく西暦1世紀末)のキリスト教会における熾烈な戦いが背景にあります。しかし、この個所に登場するヨハネは、直接的にはバプテスマのヨハネのことです。
バプテスマのヨハネは「神から遣わされた」と記されています。「光について証しをするため、またすべての人が彼によって(ヨハネによって!)信じるようになる(光を信じるようになる!)ために」、ヨハネは神から遣わされました。
「光を信じる」とはどういうことでしょう。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」と書かれていました。そして「人間を照らす光」としての「命」が「言(ことば)の内にある」とも書かれていました。この「言」がイエス・キリストです。そして命の光が「言」としてのイエス・キリストの内にあります。その命の光が人間を照らしています。そして、その光が暗闇の中で輝いています。それぞれの関係性を思いめぐらしてみることが大切です。
「暗闇」の意味は、神が創造されたこの世界と我々人間に重くのしかかっている闇です。隣人の姿が見えなくなり、自分のことしか考えられなくなる闇です。それはほとんど「罪」と同義語であると言えます。しかし、ヨハネ(著者ヨハネ)は、世界の暗闇の中で絶望していません。暗闇はイエス・キリストの内に輝いている命の光によって取り払われつつあることを信じています。
イエス・キリストが来てくださったことによって地上の世界に生きているわたしたち人間は誰一人、暗闇の中で絶望しなくてもよい。そのことを「すべての人が信じるようになるために」、二人のヨハネ(!)は神から遣わされた。バプテスマのヨハネが、そして著者ヨハネが多くの人々の前で証言した。それが著者ヨハネのメッセージです。
別の言い方をしておきます。二人のヨハネが神から遣わされた目的は、救い主が来てくださったことを世のすべての人に伝えることでした。それは彼らの人生には「目的」があったことを意味しています。その目的を果たすことができれば、私の人生は最終局面を迎えたと自ら考えることが許される。
バプテスマのヨハネの人生の目的は、これから来てくださる救い主メシアをお迎えにするために我々は準備しなければならないということを、多くの人に知らせることでした。そして、そのことを知らせた後、彼は殺されました。
このヨハネにとって、イエス・キリストは永遠の主人公でした。彼自身は永遠の脇役でした。人間関係的に言えば、ヨハネのほうがイエスさまより年齢が上でした。しかし、ヨハネは自分をイエス・キリストに従う者の位置に置きました。自分の人生を永遠の脇役として理解し、覚悟を決めて生きることは決して容易いことでありません。わたしの人生はわたしのものだ。この椅子は誰にも譲らない。そのように考える人々にとってバプテスマのヨハネの生き方は理解すらできないものかもしれません。
しかし、そのことに著者ヨハネは、自分自身の姿を重ね合わせていると思われます。後者のヨハネの場合は、西暦1世紀の終わり頃、まさに存亡の危機の中にあった教会の正しい信仰を守りぬくための熾烈な戦いに身を置いていたと考えられます。
「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。前回学んだ個所には「暗闇は光を理解しなかった」と書かれていました。ヨハネが「世」とか「自分の民」とか「暗闇」と呼んでいるのは、みな同じものです。イエス・キリストを受け入れない存在と、その存在が生きているこの世界です。
しかし、わたしたちは読み間違えてはなりません。ヨハネはイエス・キリストを受け入れない存在を冷たく突き放して裁くために、このように書いているのではありません。彼の意図は正反対です。彼が強調しているのは、イエス・キリストを通して現わされた神の恵みであり、神の愛です。父なる神のもとから遣わされた真の救い主は、世界に暗闇があることを十分にご存じでありながら、御自分のことを理解せず、認めることさえしようとしない人々のところに、あえて来てくださったのです。たとえ人々に嫌がられようと、罵られようと。
むしろ救い主にとって我慢できないのは、世界が暗闇のままであることです。あなたの心が暗い闇に覆われ、どんよりとした憂鬱な気分のままであることを放っておかれません。イエス・キリストは、「わたしは救いというものなど必要ない」と思っているような人々をこそ、お救いになるのです。
ヨハネは続けて「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と書いています。
ここでもヨハネは、「その名」、つまりイエス・キリストの名を信じる人々に「神の子となる資格」をお与えになる方はイエス・キリストを信じない人々にはその資格を与えないという点ばかりを強調したいわけではありません。むしろここでわたしたちが考えるべきことは、生まれたときから先天的に信仰をもって生まれた人は誰一人いないということです。信仰は血によって遺伝するようなものではないということです。そのことをヨハネは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」という言葉で表現しています。
ヨハネの意図は、すべての人は「神の子となる資格」を持たずに生まれてきたのだということです。しかしそれにもかかわらず、イエス・キリストはすべての人がその資格を得ることを望んでおられ、救いたいと願われます。「わたしには神の子となる資格など無い」と自覚しているあなたのところに、イエス・キリストは来てくださるのです。
ヨハネはイエス・キリストを「人間」と「世」を照らす命の光をもつ方であると信じました。つい思い出すのは天照大神です。しかし、イエス・キリストの光が「天」だけを照らしているのではなく、地上の世界全体と、地上に生きているすべての存在を、そしていまだに真の信仰に至っていない人々をも十分に照らしています。
聖書と教会の歴史に登場する多くの信仰者たちは、世界と自分の人生の暗闇の中でその光を見た人々です。絶望したままで生きていける人は、通常いません。すべての人に信仰と希望と愛、そして喜びが必要です。絶望の暗闇の中に救いの光が輝いているのを見て、袋小路からの出口が見つかったことを喜び、「わたしたちはまだ生きることができる」と多くの人に呼びかけ、共に約束の地をめざす。わたしたちもそのような存在であり続けたいものです。
(2015年9月23日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)