2015年10月27日火曜日

この難局を乗り越えた先に希望があると信じよう

『30年代の危機と哲学』(イザラ書房、1976年)
『30年代の危機と哲学』読了。フッサール1、ハイデッガー2、ホルクハイマー1。ハイデッガーの「ドイツ的大学の自己主張」と「なぜわれらは田舎にとどまるか」は端的に面白い。「ドイツ民族統率者養成こそ大学の使命!」とアジった哲学者(前者)が、謝罪の明言はないが反省の色を示す(後者)。

職業柄かもしれない(そうでないかもしれない)が、変節する思想家を嫌いになれない。「勇気をもって大胆に変節せよ」と言いたくなる。それも、「我々は常に正義だ。真理は我らの手にある。誤謬の中にいるのは常にあなただ。ほら早く変節せよ」という意味ではない。そういうことは考えたことがない。

それにしても、変節は許容されるべきである。それが、その人自身の救済になり、かつ思想家と教師の影響下にある多くの人々の救済になる。今からでも、いつからでも、遅くない。その思想、その立場を、変えることはできる。

神学も同じだと考えざるをえない。神が変節することはさすがに考えにくい。しかし、神が人にとって捉えがたい(incomprehensive)存在であることは間違いないわけだから(間違いないと断言できるかどうかも考えなおす余地があるかもしれない)、人は幾様にも神を考えなおすことができる。

神は「捉えがたい」存在であるゆえに、人は神を幾様にも考えなおすことができる。と、ここで話を終わると不安がられることが多いことを知っている。しかし、あえてここで止める。安心を求め過ぎるのは我々の悪いくせだ。考え続けることをやめるべきでないのは、宗教も同じ。

気になって、フッサールとハイデッガーとホルクハイマーの年齢差を調べた。フッサール(1859年生まれ)とハイデッガー(1889年生まれ)は30歳差。フライブルク大学総長就任講演「ドイツ的大学の自己主張」のハイデッガーは43歳。ホルクハイマー(1895年生まれ)とハイデッガーは6歳差。

70代のフッサールと40代のハイデッガーと30代のホルクハイマーを想像すると、「白い巨塔」の東と財前と里見を、つい思い出してしまった。2003年版テレビドラマでいえば、石坂浩二と唐沢寿明と江口洋介。老教授と、野心満々の新進気鋭と、両方からいささか距離を置いて批判的に見ている同僚。

さて、今日は忙しい一日になりそうだ。もうお帰りになったが、朝から来客あり。これから出かけ、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはならない。書くべき書類(まだ白紙だが)も増えてきた。この難局を乗り越えた先に希望があると信じよう。各自やれることは、まだたくさんあるはずだ。私にもある。