2015年10月20日火曜日

青野太潮先生の『十字架の神学』について

十字架の神学研究会(2015年10月20日、千葉県八千代市)
御自身の「十字架の神学」に関する青野太潮先生の論考に一貫しているのは、我々がしばしば犯す自己の思想的前提を聖書テキストに「読み込むこと」(Eisegese)を徹底的に排し、テキストの趣旨を「読みだすこと」(Exegese)に集中することである。聖書学でも神学でも基本中の基本ではあるが、青野先生の徹底性に圧倒される。

説教はある意味で、もっと自由であっていいのではと私は考えている。「私はこの個所をこう読む」という面が、説教にはもっとあっていいと思う。しかし、そのようなことはそのテキストのどこにも書かれていないのに、あたかも明示的にそのように書かれているかのように言い張るべきではない。「あくまでも私の想像ですが」とか「ここにはっきり書かれているわけではありませんが」とか断りを入れながら、自由に語ればよい。

我々が聖書を読むときに徹底的に排すべき「自己の思想的前提」は、青野先生の場合には「教会の伝統的な教理」と同一かどうかについては、必ずしもそうではないというか、それ「だけ」ではないと、青野先生のご著書を読みながら思わされている。青野先生から直接お話を伺ったとき、「私は教会大好き人間なので、教会の伝統的な教理そのものを否定したことはない」とおっしゃった。テキストに書いていないことを、まるで書いてあるかのように言ってしまうことをお嫌いになっているのだ。

とはいえ、作業過程としては「教会の伝統的な教理に基づく聖書の読み」から一度は「解放されること」が必要だと青野先生が考えておられることは、おそらく間違いない。一例というか、ほとんどそれが青野神学の核心と言えるところだが、「イエスの十字架上の死」の個所を読むと、いつでも必ず判で押したように「わたしたちの身代わりに死んでくださった」という贖罪論に自動的に連結させるような読み方は「あまりにも一面的すぎる」と、青野先生はお考えになっている。

それ「だけ」だと、イエスの死、あるいは「死ということ」そのものが、どうしても美談化されてしまう。イエスの死には「殺害された」というネガティヴな面が間違いなくある。そのネガティヴな面がまるでなかったかのように美談化することは危険であるという考え方(大意)である。しかし、だからといって、青野先生は贖罪論を否定しているというふうに見てしまうのは、それこそ青野先生のテキストへの「読み込み」に通じるであろう。

これまでにも、多くの聖書学者や神学者が「青野先生は贖罪論を否定している」と誤解した上で、ありとあらゆる罵詈雑言や非難を青野先生に浴びせてきたようで、それに対する青野先生からの反論が縷々『「十字架の神学」の展開』(新教出版社、2006年)にも『「十字架の神学」をめぐって~講演集』(新教出版社、2011年)にも記されている。それを丁寧に読むと、青野先生は決して贖罪論そのものを否定しておられるわけではないことが必ず分かる。

日本国内においても、贖罪論を全否定するような論調の聖書学者や神学者がおられることを、私も存じている。その方々が青野先生のご主張を論拠にしておられるかどうかを確認したわけではない。しかし、もしその方々が「青野先生のご主張を論拠にしている」と明言されるようなら、青野先生にとっては、ややご迷惑かもしれない。

ただ、こういう考え方もできるのではないだろうか。贖罪論を外見上、全否定しておられるように見える方々でも、「贖罪論一本槍の神学」(という言い方を青野先生はなさっている)の方々と同一の教団・教派の中にとどまっておられる場合には、お互いに対立し、場合によっては「憎しみの感情」さえ抱きながらも、もっとメタな視点から俯瞰して見れば、両者は「相互補完的に」立っているように見えなくもない。

なぜそのように私には見えるのか。間違いなく言えるのは、贖罪論の効力が遺憾なく発揮される場は「教会」であるが、その「教会」と「神の国」とは同一なのかという問いが出てくるからである。たとえば、キリスト教主義の学校や病院や福祉施設や政党。そういった場の今の現実は99パーセントが非キリスト者で構成されているケースも決して稀ではない。そのような場で「贖罪論一本槍の神学」だけでキリスト教的言説をどこまでも押し通すことが適切かどうかという問いは十分検討に値すると思われるからである。

私が青野先生のご主張に惹かれるのは、私の主要な研究対象としてきたファン・ルーラーのバルト批判に通じるところがあると感じるからである。ファン・ルーラーもまたバルトの神学を「キリスト一元論の神学」という言葉で批判した。しかしそれは「キリストは不要である」という意味ではない。神は三位一体であり、御子だけではなく、御父も聖霊もおられることをもっと多元的にとらえるべきであるという考えである。

経綸的三位一体についても、神は贖罪の主であるだけでなく、創造の主でもあり、聖化と完成(終末)の主でもある。経綸的三位一体は「区別されない」(opera Dei trinitatis ad extra sunt indivisa)。しかし、区別性がなければ関係性もないわけだから、区別性は「ある」。創造のみわざを贖罪のみわざに吸収することはできないし、聖化のみわざや完成のみわざ(終末)を贖罪のみわざに吸収することもできない。キリスト教的言説の「切り口」ないし「入り口」は、なにがなんでも贖罪論のみからでなくても構わない。終末論から教義学を始めることだってできる、というのがファン・ルーラーの考えである。

青野先生も、西南学院大学や九州大学の著名なバルト研究者の方々とのかなり熾烈な闘いを今でもしておられるようである。

私自身は主に組織神学・教義学の関心や観点から青野先生の本を読ませていただいているが、今の我々が「教会の伝統的な教理に基づく聖書の読み」をする場合の「教会の伝統的な教理」の成立過程を反省してみると、聖書学は教義学の下部構造のように位置づけられ、教会の教理(教会会議の決議事項)の「論拠聖句」を聖書の中から探しだすという仕事を(旧来の)聖書学者が担わされてきたことは否定できない。しかしその「論拠聖句」の個所を「釈義」(Exegese)してみると、コンテクスト的にはそんなことが書かれているわけではない個所であったりすることが分かってしまったりする。

そういうことの反省を、「21世紀の神学」は、もっとしなくてはならないと私は考えている。

私も釈義を万能であるとは思わないし、パーフェクトな無前提の釈義は不可能であると考えている。聖書の言葉を、教会の伝統的な教理を根拠づけるため「だけ」の牽強付会・我田引水の道具に用いることへの警戒心を持つべきだ、と考えているだけである。

(2015年10月20日)