2015年10月24日土曜日

作文の書き方(続き)

本文とは関係ありません
雑誌は「笑点の大喜利」にたとえられるのではと思います。いるのは司会者さんと噺家さんたちと座布団運びさん。司会者さんが編集長、噺家さんがメイン記事の書き手、座布団運びさんは書評の書き手。とか言うと怒られるでしょうか。そこで怒ると座布団運びさんに怒られますよ。座布団持っていかれます。

笑点の大喜利も計算しつくされた編集の世界ですよね。その中で、リーダーシップを持ちながら目立ちすぎてはいけない司会者さんと、目立つことで競い合う気がないなら出る意味がない噺家さんたちと、噺家さんより目立つことはゼッタイ許されないけど時々キラメク座布団運びさんの三者の絶妙のやりとり。

雑誌もそれと同じ。編集長がメイン記事の書き手たちより目立つ雑誌は純粋に個人誌というべきものですが、だったら編集長が全部自分一人で書けばと言いたくなるようなのもたまに見かけます。そういう雑誌は失敗作です。司会者の歌丸さんの独演会のようなもので、噺家さんたちはうちに帰っていいですよ。

しかも笑点の中で、その人がいなければ全体が成り立たないけど・他の出演者より目立つことはゼッタイに許されないのが座布団運びさん。その人の一人舞台になってしまったら全部ぶち壊し。そのあたりの自分に与えられた位置と役割を正確に理解して立ち回れる人が最適任者であるのは間違いないわけです。

それって、考えれば考えるほど、恐ろしいまでに難しい仕事だと私なんかは思うわけです。座布団運びくらい誰でもできるとか、とんでもない誤解です。その恐ろしいまでに難しい座布団運びの仕事が、雑誌で言えば書評の書き手ではないかと思うのです。あれなめたら、次のチャンスなんかゼッタイないです。

いま私の目の前に実例があって、当てこすりか、お小言を書いているわけではありません。ちょこちょこと、さらさらと、小さな小さな文章を締め切りを守って書くことを続けていく中で、でかいものを書かせてもらえるようになるのが「書き物の世界」の常ではないかと当たり前のことを考えているだけです。

いくらたとえと言っても、書評の書き手を笑点の大喜利の座布団運びさんにたとえるなんて、見当違いすぎて間違っていると、やっぱり怒られるかもしれません。私にはだれかをけなす意図はありません。ただ、メインの出演者を食ってしまうような大活躍は控えるほうがいいのではないかと言いたいだけです。