2015年9月9日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 01

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ヨハネによる福音書1・1~5

関口 康

新約聖書には、イエス・キリストのご生涯を描いた「福音書」があり、四番目に位置づけられるのがヨハネによる福音書です(そのため「第四福音書」Fourth Gospelと呼ばれます)。四つの福音書のうちでは最後に書かれました。書かれた時期は西暦一世紀の終わり頃です。

他の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は性格が似ています。現代の聖書学者は最初にマルコが書かれ、次にマタイ、三番目にルカが書かれたとします。しかもマタイはマルコを参考にしながら書き、さらにルカはマルコとマタイの両方を参考にしながら書いたとします。単語や語順がぴったり合うほど、まるごと引き写していると思われるところもあります。この三つの福音書は「共観福音書」Synoptic Gospelと呼ばれてきました。

他の三つの福音書(共観福音書)とヨハネによる福音書(第四福音書)の違いはどのあたりにあるのでしょうか。私にとって最も納得が行くのは、ヨハネによる福音書が執筆された時代の歴史的背景からの説明です。西暦一世紀末のキリスト教会が直面した現実とこの福音書は、深い関係にあります。

書物が書かれるとき、それを書く著者自身にも必ず言いたいことがあります。もちろん「福音書」はイエス・キリストを描く目的で書かれますので、著者自身の主張はできるだけ後ろに引き下がった位置にあるべきです。共観福音書の場合、著者自身の主張が出てくるところがあっても、どこか遠慮がちであり、イエスさまの背後に隠れています。しかし、ヨハネの場合はそれが前面に出てきます。そのあたりに大きな違いがあります。

そしてその違いの理由はヨハネによる福音書が書かれた時代的背景にあるという説明が私にとっては最も納得できるものです。西暦一世紀末は、キリスト教会が存亡の危機に直面していた時代です。この時期のキリスト教会は多くのグループへと分裂していました。異端的な教えを奉じるグループも乱立し、混乱の極みにありました。もしその時代の教会が異端との戦いに敗北していたら、その後の1900年間のキリスト教の歴史は存在しなかったほどです。

特に西暦一世紀末には流行の兆しを見せた「グノーシス主義」との戦いは熾烈を極めたものでした。「グノーシス」の意味は「知識」ですが、「グノーシス主義」は固有名詞です。この異端が教えていたのは、要するに地上の人生を軽んじる道です。グノーシス主義者は「天国」なり「天使」なり、地上の現実を超えた天上の事柄(彼岸)については関心や憧れを抱きました。しかし、地上の人生、世界の現実については、絶望に近いものを感じとったり、無関心を決め込んだり、それはもっぱら汚れたものであるゆえに憎むべきものでさえあると考えたりしました。地上の人生を重んじるのではなく、むしろ軽んじていました。

それは外見上は禁欲主義的でもあるのですが、刹那的な快楽を求める道と紙一重の面を持っていました。軽んずべき世界と自分の人生をおとしめる生き方をすることは、彼らにとっては難しいことではありませんでした。

「天国」や「天使」を強調する人々こそ宗教的に熱心で敬虔である場合がありますので、そちらのほうが正しいのではないかとお感じになる方がおられるかもしれません。しかし、グノーシス主義はキリスト教会の存亡にかかわる最悪の異端でした。「地上の世界」や「人生」を重んじない宗教は異端なのです。

もっともヨハネによる福音書の歴史的な背景は「グノーシス主義異端との戦い」という一点だけで説明することはできません。もっと複雑な要素が絡み合っています。しかし、その中でグノーシスとの戦いという問題は際立って重要です。別の言い方をすれば、この福音書には地上の人生を軽んじる人々との戦いという意図があるということです。

しかし、事情はさらに複雑です。上記の意図を持つこの福音書は、グノーシス主義者たちが好んで用いていた言葉をあえて多用しています。それは、たとえば、わたしたちが仏教の人々にキリスト教を説明しようとする場合、キリスト教用語でなく仏教用語で説明するようなやり方に似ています。

わたしたちが体験的に知っているのは、キリスト教信仰をキリスト教用語で説明しようとしても、相手が理解してくれない場合があるということです。キリスト教用語で話して理解してくれるのは、それを長年学んできた人々だけです。相手の言葉を用いて語ること、つまり、教会用語を異なる宗教や思想の人々の用語へと“翻訳すること”で初めて相手に伝わるものが生まれる場合があります。

ヨハネによる福音書は難しい書物です。その原因は、この書物が書かれた時代の教会が異端とみなしていた立場の人々の言葉を用いて、イエス・キリストが真の救い主であることを立証しようとしているからです。しかしまたその複雑な事情は、この福音書をこのうえなく興味深いものにしています。共観福音書におけるイエス・キリストは、旧約聖書的な背景を持つ、教会の言葉で描かれています。しかし、ヨハネによる福音書はそこが違うのです。しかし、ヨハネが異端に巻き込まれていたからではありません。ミイラ取りがミイラになったわけではありません。そうではなくて、ヨハネの意図は、異端の人々を正しいキリスト教信仰へと招き入れるためでした。

ヨハネによる福音書の冒頭には、共観福音書の場合はイエス・キリストの御降誕の次第が描かれている位置に、全く異なる印象をもつ言葉が書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この「言」(ロゴス)がイエス・キリストです。「初め」とは天地創造よりも前です。3節に出てくる「万物は言によって成った」とあるのが天地創造の出来事です。それ(天地創造)より前の時点を指しているのが「初めに」です。天地創造より前にイエス・キリストがおられた。イエス・キリストは父なる神と共におられた。イエス・キリストは神御自身であった。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネの意図をくみつつ言い換えますと、次のようになります。天地万物はイエス・キリストによって形づくられた。形あるものでイエス・キリストによらないものは何一つなかった。ヨハネが述べていることは、神の御子イエス・キリストは、父なる神と共に天地創造のみわざに関与しておられたということです。この地上にあるすべてのもの、すべての人は天地創造に関与なさったイエス・キリストと無関係に存在しているのではない。イエスさまがキリスト(メシア)であることを信じない人の人生にもイエス・キリストは関わっておられる。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

「光と闇」の対比はグノーシス主義者たちが好んで用いた言葉です。しかし、ヨハネの意図は彼らとは全く異なります。ヨハネが語ろうとしているのは、天地創造に関与したイエス・キリストだけが光り輝いていて、地上の世界はひたすら暗黒であるということではありません。むしろ逆です。「暗闇の中で輝く光」としてのイエス・キリストの光が、すでに世界を照らしはじめている。世界は全くの暗黒ではありえない。夜明けは来ている。希望のあさひは地上を照らしている。わたしたちの人生は輝いている。そのように言いたいのです。


(2015年9月9日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)