2015年4月7日火曜日

確かに外見は変わりました

サイズが小さくなっただけです
「スマホをやめるか、大学をやめるか」。そのような時代錯誤の二者択一は愚の骨頂だというのが私の立場です。しかし私も、子どもたちの将来について心配の要素がないわけではありません。というか常に心配でイライラしています。しかし、実際に変わったのは「外見」だけだと自分に言い聞かせています。

我々の親より上くらいの世代の人たちがある時期からこぼし始めた不満は「病院に行って長い待合を経ても、医者たちは我々の顔ではなくパソコンの画面ばかり見るようになった」ということです。そのことをこぼす人たちは、その勢い「牧師たちもそうだ」と言いたげなので、耳が痛い話として私は聞きます。

確かに「外見」は変わったからです。今は教会でも、かかってくる電話といえば、セールスか迷惑ファックスくらい。ほとんどの連絡はメールかSNSかビデオ通話。説教や論文の原稿書きも。息抜きの音楽や映画も。かなり長い時間を「パソコンの画面ばかり見る」生活に置き換えられて(しまって)います。

「スマホ」はパソコンの全機能を持ちつつ、デバイスのサイズが小さくなっただけです。我々が子どもの頃は寝っころがって紙のコミックを読んでいたのが、今の子どもは寝っころがってスマホでコミックを読むように「外見」が変わっただけです。甘すぎる見方かもしれませんが。私はダメ親かもしれません。

2015年4月5日日曜日

復活の希望 イースター礼拝

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書16・1~20

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を来た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」と。』婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくななこころをおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。」

今日はイースターです。わたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。教会のイースター礼拝は、毎年行っています。それはイエスさまの復活の意味を毎年思い起こすためです。

イエスさまは十字架にかかって死んだ方だ、死んだ方だという話は多くの人が知っていることです。キリスト教といえば十字架というほどに、イエスさまの十字架上の死はよく知られています。しかし、その十字架上で死んだイエスさまが三日目に復活されたということが、聖書に記されています。その聖書に記されていることに基づいて、わたしたち教会はイエスさまの復活を信じ、お祝いしています。

しかし、聖書に記されているのはそのことだけではないと言わなければなりません。イエスさまが復活されたことが、聖書に記されています。それはそのとおりですが、聖書に記されているのはそれだけではありません。聖書に記されているもう一つの重要なことは、イエスさまの復活の話を聞いた多くの人はその話を信じなかった、ということです。たとえば、先ほどお読みしました個所に「信じなかった」という語が3回繰り返されています(11節、13節、14節)。

もしかしたら、みなさんの中に、聖書の中にそういうことが書かれているのをお読みになると慰められるという方がおられるのではないかと思います。イエスさまが復活されたことを信じなかった人がたくさんいた。私もそうだ。私も信じられない。でも、私だけが信じられないわけではなかった。二千年前から信じない人はたくさんいた。ああ、よかった、ほっとした。私だけが信じられないわけではなかった。そのことに慰めを覚える方がおられると思います。

聖書の中に復活を信じなかった人のことがたくさん描かれているのは、私は大切なことだと考えています。なぜかといえば、復活は信じるか信じないかの問題であるということです。信仰の問題です。イエスさまが復活したと信じる人と信じない人とがいるということです。それは信仰の問題であり、宗教の問題です。物理の問題でも、科学の問題でもありません。STAP細胞のようにイエスさまがどのようにして復活したかを科学的に証明してみよと言われても、それは無理です。そういう話ではないからです。

こういうふうに言いましても教会の中では問題にならないと思います。しかし、信仰を持たない人たちにとっては、それならば、そういう話は我々には関係ないことであると思われるかもしれません。復活というのは、信者の心の中の出来事であって、それは現実に起こったことではないのだから我々には関係ないことなのだと。

実際にそのように考えた人たちは大勢います。それは、今の人たちは疑り深いから疑う人が多いが、昔はそうではなかったというような話ではありません。二千年前の聖書の登場人物たちの中にも信じられなかった人は大勢いたのです。弟子たちも例外ではありません。

イエスさまの復活の話を聞いても信じなかった人たちは、それではその人たちは復活のことを話す人たちの言葉をどのように聞いたのかといえば結局そういうことです。それは信者の心の中の出来事なのであって、現実に起こったことではない。いちばんストレートに言えば、単なる気休めであると考えたのです。

しかし、問題はそれでいいかどうかです。信仰は気休めだ、宗教は気休めだ。現実にはないことを、ただの気休めとして思い込んでいるだけだ。そのように考えたい人たちの気持ちも私には分かります。私も現代人の一人です。中学でも、高校でも、徹底的な無神論教育、科学教育を受けた人間です。

宗教は気休めだ。死者が復活することなどありえない。イエス・キリストの復活は現実には起こらなかった。そのようなうそを教会は二千年も教え続けてきた。そのように言いたい人たちが大勢いることを私はよく分かっているつもりです。そして、ある意味で理解できるところもあります。

しかし、そういう見方を私は受け入れることができません。教会はうそをついていません。イエス・キリストが復活したということが聖書に書かれています。だからこそ教会は復活を、聖書に基づいて信じています。そしてそれは、逆に言えば、もし聖書に書かれていなければ、教会はそれを信じることの必然性もないということでもあります。

しかし、教会はそのことを信じます。イエスさまの復活を信じます。なぜなら、ちょっと不謹慎な言い方かもしれませんが、そのほうが面白いからです。死んだ人が生き返るという話のほうが楽しいからです。それを信じることによってわたしたちは希望をもつことができます。

人が死んだらすべて終わりでしょうか。わたしたちも死ぬのです。私も死にます。それで終わりでしょうか。わたしたちはもうすぐ終わるのでしょうか。それで何もかもパーでしょうか。そんなふうに考えることが楽しいでしょうか。思い残すことはない。やりたいことはすべてやった。あとは死ぬのを待つばかり。ああ、死んだらすべて終わる。さようなら。そんなふうに考えることは、楽しいでしょうか。嫌ではないでしょうか。死んだ人が復活する。まだ生き返る。永遠に生きている。そのように考えることができるならそのほうが楽しくないでしょうか。

もちろん、それは人それぞれかもしれません。しかし、教会は、そこでずいぶん楽観的なのです。面白くて楽しいほうの考え方をします。死んだらすべてが終わりなどというような陰鬱な考え方を、教会はしないのです。

いわばそれだけです。イエスさまがどのように復活されたのかとか、具体的な詳細なことについては、よく分かりません。聖書に書いてあるとおりではありますが、聖書に書いてあることしか分かりません。

人生について、命について、面白くて楽しいほうの考え方をしているだけです。死んだ人が復活する。そのようなことがもし本当に起こるならば素晴らしいことだと思っているだけです。そのようなことが、二千年前に起こった。イエスさまが復活した。そのことが聖書に書いてある。それを信じて生きていきましょう。教会が考えていることは、いわばそれだけです。

毎年のイースター礼拝には召天者のご遺族をご招待しております。わたしたち教会の死生観はいま申し上げたようなものです。非常に楽観的なものです。召天者の皆さまもまたイエスさまと同じように復活することを、わたしたちは信じています。

実は亡くなっておられないという話ではありません。わたしたちの目の前におられたあの方は、たしかに亡くなられました。しかし、その日で終わりではない。復活する。そのようにわたしたちは信じています。

そして、わたしたち自身も、です。わたしたちも復活します。私も復活します。もう結構だよと、言わないでください。もう早く終わらせてくださいよ。早く死なせてください。復活などさせないでください。そのように言いたい方がおられるかもしれませんし、その気持ちも私には分かります。

しかし、それは駄目です。わたしたちは死ぬことによって逃げ切ることはできません。生きている間にしなければならないことがあります。死んでも、復活させられて、後始末することが求められることがあります。自分が犯した罪の処理です。逃げても無駄です。神さまが追いかけて来て、わたしたちに最後まで責任をとらせます。そういうものだと思ってください。

イースターはおめでたい日であると言いながら、最後はだんだん恐ろしい話になってしまいました。しかし、復活はわたしたちにとって恐ろしい話ではなく、喜びと希望の根拠です。召天者のご遺族の皆さまの上に深い慰めがありますように、心からお祈りいたします。

(2015年4月5日、松戸小金原教会イースター召天者記念礼拝)

2015年4月3日金曜日

「本当のイースター」を教会で味わいませんか

復活の希望に輝いています
日本の有名人が国際「キリスト教」大学に入学したとか、日本のマスコミが突然「イースター」を言い出してくれるとかでも、教会には全く追い風が吹いてくる気がしないのは、ある意味で健全なことかもしれぬなと、悲痛な負けず嫌い発言。

アメリカの日本占領政策の最終段階に入った感じなんですかね、よく分かりませんが。だって、すごい急ですよね、「イースター、イースター」。我々教会がそれに反対する理由は全くないと思っています。教会には全く影響ないです。

そーそー、クリスマスと同じですよね。クリスマスのときのように言えばいいじゃないですか。「本当のイースターを教会で味わいませんか」。そういうことをチラシとかに書くと、教会の内部から「『本当の』とはなんだ、けしからん。世間に対する見くだしだ。教会の傲慢だ」と非難されるのがオチですが。

まあ考えてみれば、「イースター」という言葉すら知らない人が国内に多い原因は、義務教育課程の教育内容から完全にシャットアウトしてきたからでもあるわけですよね。そのほうが異常でもあると思いますし、イースターは教会が占有するにはあまりにも大きすぎる普遍性を持っていると思いますけどね。

いつもなんだか皮肉っぽい言い方ですみません。実物の私は、そんなに皮肉っぽい人間ではないつもりなんですけどね。まじめに書いているつもりですが、どうも筆致が軽すぎて、よく叱られます。

神学のブームを待望する

『ボンヘッファー選集』(全9巻)を初めて購入しました

「また古本が増えてるよ」と呆れられそうですが、人生初『ボンヘッファー選集』(全9巻、新教出版社)を落札しました。うんと低価格で叩き売られていました。 

「人生初ボン 叩き売り 神学デフレ とどまることなし」 

もったいないことだと最近しきりに考えていることは、今ほど世界的に「神学」がデフレの時代は過去に無かったほどだと思うのに、その「神学」に取り組もうとする人があまりにも少なすぎるのではないかということです。安くて誰でも手に入れられるものには価値がないと考えてしまうのか。もったいない。

時代錯誤だよと思われるかもしれませんが、日本の大学でも、中学・高校でも、とくに国公立の伝統校の最難関クラスというのが、もともとどうして最難関になったのかといえば、税金で勉強させてもらえる分だけ「安かった」からでしたよね。夕方のデリカコーナーのタイムセール状況(そういう話なのか)。

使い道が分からないほどの資産をおもちの方は激安品あさりの必要はないでしょうけど(またそんなイヤミったらしい言い方して)、「神学」の古書が激安ですから、どんどん買うべきです。引退者の死蔵書が大量に売却されているようです。しかし必ず枯渇します。引退者自体が激減します。今チャンスです。

べつに「神さまの叩き売り」しているわけではありません、「神学」は神さまではありません。話はむしろ逆で、神さまでないものを神さまだ神さまだと思いこませようとする魔力をはらうために「神学」があるので、「神学」自体も正直に「ごめんなさい、ぼくも神さまじゃないです」と自白しなくちゃです。

「自炊」するのがいいか悪いかという問題に踏み込むつもりはありませんが、大昔の「巻き物」の読み方に戻る感じになりますよね。同時に視野におさまるのは、画面に映っているところだけ。複数のページや複数の本を同時に開いて並べて見比べるというふうな、体系的な読み方をするのが難しいと思います。

「もう持っている」と思っている人も、古書購入を考えるといいと思います。まさに死蔵しておられるならともかく、手垢でよごれているようなら、「古書で古書をアップデートする」ことができます。いま市場に大量に出回っている「神学」の古書は、きれいなのが多いです。読まれた形跡がないものが多い。

「神学」のブーム、起こりませんかね。「ないなあ」と思いながら書いてますけどね。

2015年4月1日水曜日

桜満開、聖書研究に没頭しています

「シロ」とは何か

今日の祈祷会の聖書研究は、長老が担当してくださいました。興味深かったのは、創世記49:10の「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」の「シロ」の意味は不明だが、「シロ」をメシア(キリスト)と理解することによって、これをメシア預言であると理解する伝統的な解釈があるというお話でした。

今それを調べています。dr. A. van Selms(POT:1967)によると「シロ」は「サイ・ロー」(say lo)に分割できる。それで訳せば「王笏と統治の杖はユダから離れない。それゆえ《表敬の寄贈品》は彼に届き、諸国の民は彼に服従する」(創世記49:10)になるとのこと。

おひるは阿藤店長のコンビニ店(デイリーヤマザキ松戸小金原店)の「筍ご飯の味わい弁当」(税込450円)です。これびっくりするほど美味しいです。量もぴったりで大満足。ちまたは桜満開のようですが、書斎に引きこもって聖書研究に没頭しています。

2015年3月31日火曜日

なにもそんな本当のことを面と向かって言わなくても

「てめえみたいなブタ」と言われちゃった(涙)
さっきスーパーで、泥酔のうえレジが混んでいることに腹立てて騒いでいる70前後のおじさんの後ろに並んでしまった。「うちの地元じゃこんなに並ぶの考えらんねえ」とか言うから「ここは都会なんだよ。我慢するしかないね」と言ったら「てめえみたいなブタに何が分かる」とニラまれてしまった。

私も若干キレそうだったのですが、私の後ろに愛する妻がおりましたので。頭の先から足までをじどーっと見た上で「てめえみたいなブタ」と言いましたので、感じたままを正直に言ったのでしょう。だいぶ遠くから来た方のようでしたので、心情的には同情できるというか理解できるものがあるんですけどね。

私は基本が柔道系なので(中学・高校で部活やっただけですが)、向こうからかかって来ないかぎり、こちらから近づくことは、まずないですね。今年50の人生で一度もないです。ただ、向こうからかかって来る可能性が全くないとは限らないので、さっきもメガネを外すかどうかだけは、さすがに考えました。

メガネ壊されると直すお金ないし、ガラス割れて眼球から流血みたいなことになってもなあと。まあ、でも逆に言えば、私が自分でメガネを外したときはコワイでえ~(ということにしておきます)。

都会の人間だけが我慢してるわけじゃないですよ。だけど、いい歳して騒ぎなさんなと言いたかっただけです。

2015年3月30日月曜日

力尽きて粛々とツイートする

牧師になることを決心した理由:信者の日曜日が幸福でない理由は理解不能な説教にある。理解可能な説教できる人間になりたい(17歳)→理解可能な説教とは教派色鮮明な教会の論理と符合することを意味する(25歳)→それは一教派の内部論理であってはならず普遍性をめざすべき(←やっとイマココ)

いくつかの解決策の実例:信者に理解不能な説教でも短時間なら我慢してもらえる(可能性がある)ので説教時間を5分10分程度に短縮する。短所:これでは信者が一生かけてもキリスト教とは何かを論理的に理解できることはありえず、心地よいフレーズの断片(ないし愛唱聖句)の羅列で終始しかねない。

キリスト教の「教会」と「学校」と「施設」と「各種事業」を横並びにする考え方も分からなくはない。でも、後三者はキリスト教の看板おろしても一般ニードがあるかぎり続くと思うけど、キリスト教の看板おろした「教会」(名称はチャーチやチャペルやセンターでも)に意味あるのかと思わざるをえない。

「キリスト教の看板おろした『教会』」と書いたのは比喩として考えているだけのことだ。「あの教会のことだ」「うちの教会のことだ」という吊るし上げや自虐(のふりした他虐)に巻き込まれたくない。ただ、キリスト教の難しさは、教えの中に排他的な独善を許さない博愛主義の側面が確かにあることだ。

だから、我々(現代の教会人とでも言っておきます)の多くは、「特定の宗教を一方的に強要するようなことは決していたしません教会」を目指そうとする。自分が言っていることにあきらかに矛盾があることを知りながら、そういうことを大真面目に語り、そういうふうでありたいと願い、具体的に行動する。

しかし、「特定の宗教を強要しない教会」(?!)が概念矛盾であることは否定できそうにない。そのような教会を目指す思いや具体的な行動が真摯なものであればあるほど、矛盾は深まり、ペテンに近づく。教会の建物や土地の一般開放の話ではない(それは大昔からしている)。「教会の一般開放」の話だ。

そのこと(教会の一般開放)を私は「ペテンに近づく」とまで言ってしまいつつも、だからといって一方的にネガティヴな意味で言おうとしているのでもない。だから苦しいし、悩んでいる。反動的な「閉鎖教会」の内部腐敗が尋常でないことを知らないわけではないからでもある。しかし、それだけでもない。

そこから先の論理を緻密に整える力が私にないのが残念ではあるが、その分突然ぶっちゃけられるものがあるのでやらかします。「要するにキリスト教の教会とはそういうものなのだ。それでいいのだ」とバカボンのパパの口真似でごまかしたい。我々は「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教」なのだ、はは。

まあでも、もうひと踏ん張りすれば、我々(現代の教会人)の多くが自覚している「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教としてのキリスト教」について葛藤があるかどうかは問われるかもしれません。ただの開き直りでも構わないと思いますが、それだけだと深まっていかない。本物のペテンになりかねない。

しかしまた、自己矛盾を自覚しつつ葛藤しながら語る人の言葉は、深いかもしれないが、概して難解。退屈、熟睡レベル。本にしても売れない、敬遠される。「わが宗教に矛盾はない」と断定する葛藤なき確信に基づく、単純でストレートでキャッチーなフレーズのほうが「分かりやすい」に決まってるわけで。

今日は「牧師の定休日」を主張して朝から心身のスイッチを切っています。「粛々とツイートする」は概念矛盾かもしれませんが、「おごそかな」ではなく「ひっそりと静かな」のほうの「粛々」であれば当てはまります。「疲れて何もしたくない」とツイートする。ツイートは動詞でもあると思いますけどね。

今日のおひるは、うどんにしました。冷凍讃岐うどんを使いました。お汁の味付けはわりとパーフェクト。ごくうまです。春休み中の大学生と高校生と私の3人。妻(保育士)は児童養護施設の勤務。お疲れさまです。私は関口学院(架空)の学食のコック長。

そういえば最近、うどん頻度高いな。カレー頻度に匹敵しそうな勢いだ。


2015年3月28日土曜日

よく分からない人たち

古本ばかり増え続ける本棚

「牧師さんはしゃべりのプロだと思いますけど」という枕詞をつけたうえで話したことに文句付けられることがたまにありますけど、はて「牧師さん」は「しゃべりのプロ」なんですかね。素朴な疑問。その枕詞を聞くたびに、いやーな気分になるんですよね。はいはい、まあそれでもいいですけどね、ははは。

もう時効なほど昔の話になったので書いていいと思いますが、原稿とか録音とか依頼してくるので受けて書いたりしゃべったりしたら書き直せ録り直せと言われたり、全く違う文章に書きなおされてこれでいいですねとか言われたら「もうしませんので二度と依頼しないでください」と誰でも普通言いますよね。

依頼というのは、そういうものでしょうに。もちろん立場は尊重しますよ。私の書くことしゃべることが違うと思うなら、お気に入りのことを書いたりしゃべったりしてくれる人たちにやってもらえばいいだけのこと。それでいいじゃないですか。でも、そういう態度が気に食わないのか。よく分からないです。

まだいますね、よく分からない人。他人のブログの編集長になっちゃう人。あれは書くべきでないこれは書くべきでない。誤字脱字とか差別語不快語とか事実誤認などの指摘であれば真摯に耳を傾けますが、思想信条レベルのことで編集長のように振る舞われてしまうと、腹は立ちませんが、ひたすら呆れます。

昔は、雑誌や紀要の編集長は大権力者だったかもしれませんけどね。古い感覚なら、苦労して書いた論文やエッセイをあの雑誌あの紀要に載せてもらえて初めてデビューなのかもしれない。でも今は自分のブログに書いてfacebookやツイッターで広報して「いいね」押してもらうほうがよほど名誉です。

ある雑誌(名前は伏せます)は全国の店頭で5冊売れたそうです。作った人たちは「5冊も売れたとも言える」とか苦しいことを言っておられましたが、私はぞっとしました。ブログに書いてfacebookやツイッターで広報すれば、全く同じ内容のものを少なくとも100人200人に読んでもらえます。

ブログに何千万字だか何億字だか書いてもそれがお金になることはありません。でも自費でやるか会費を集めるかして、雑誌の印刷に多額のお金を注ぎ込んで、でも売れず、自宅の倉庫か自室のダンボールの中に眠らせたままであるのと、どっちが得か、よ~く考えてみよう(大昔の欽ちゃんのCMの口真似)。

結局なんなんですかね。「お前がデビューできるかどうかの鍵はおれが握っているんだから、おれの言うこと聞け」みたいなことでも妄想しているのか。要らないし、そういう鍵は。その扉もう開いてるし。というか、そんな扉もうないし。逆に、だれにも読まれない雑誌や紀要に埋もれるほうが、むしろ悲劇。

いま書いているのは喩え話ですからね。比喩の一種です。どの雑誌だろうか、どの紀要だろうかというような詮索は無用です。たぶんすべてハズレです。たぶん知らない方だと思います。だからもう時効だと最初に書いたとおりで、ずっと昔の話ですので、差し障りのない範囲内で書かせていただいたまでです。

2015年3月26日木曜日

教会の一致をめざすことが徒労に終わることはありません

日本の教会が取り組むべき課題はたくさんあります
18世紀英国の「ウェスレー」と20世紀オランダの「ファン・ルーラー」を関係づけて論じることが強引すぎるのは分かっています。しかし、「カルヴァン」と「ウェスレー」の関係の場合と同じ論理が当てはまることは事実です。

「カルヴァンはウェスレーを知らないが、ウェスレーはカルヴァンを知っている」のと同様に「ウェスレーはファン・ルーラーを知らないが、ファン・ルーラーはウェスレーを知っている」のです。これは両者の関係を論じるための手がかりになります。

私はファン・ルーラーが「メソジストのキリスト者」に言及している個所を一つだけ知っています。その部分だけ訳して紹介してもあまり意味はないし、ただ誤解を生むだけであることを避けられそうにないのですが、以下、ご参考までに、訳出します。

「たとえば興味深いのは、ウルトラ改革派のキリスト者とメソジストのキリスト者の出会いに立ち会うことである。私はヒルファーサムの教会協議会で何度か体験した。メソジストのキリスト者も、個人的回心とその絶対的な必要性を盛んに語る。恥じることなく、ときに厚かましく自分の回心について語り、これまで自分が歩んできた道について語る。その時点ですでに、教会に対して同情的な、改革派的な考え方をするキリスト者たちは機嫌が悪い。しかし、そういうとき、ウルトラ改革派の人たちは、相手がいかに浅薄で深みがないかを哀れむそぶりで、首を左右に振りつつ立っている。そして、メソジストのキリスト者仲間に次のように語る。『兄弟よ、あなたが持っているのは言葉だけである。しかし、言葉の中に、あなたがまだ見ていないものがある。それを体験しなさい』。そのようにしてウルトラ改革派の人たちは、教会の庭に生えた霊的な生命の若葉を乱暴に蹴り殺す。これは専制支配(tirannie)の深刻な一形態である。」[1]

[1] A. A. van Ruler, Ultragereformeerd en Vrijzinnig [1970], in: Verzameld Werk IV-B, Boekencentrum, Zoetermeer, 2001, p. 751)

「ウルトラ改革派」とは、ファン・ルーラーが所属していたオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の中の極端なタイプの人々を指している言葉ですが、悪口の一種であることは確実ですので、気に障る方がおられるかもしれません。その点はファン・ルーラー先生に(勝手に)代わってお詫びします。

また、メソジストの方々についてもずいぶんひどい言い方になっているようでもありますので、この点も私が(勝手に)代わってお詫びします。

ファン・ルーラー先生が「ヒルファーサム」の改革派教会の牧師だったのは1940年2月から1946年12月までの6年11ヶ月です。その時期に行われた「ヒルファーサムの教会協議会」(kerkenraad van Hilversum)のことであるとまで断定するのは無理かもしれません。しかし、おそらく今から70年くらいは前の、しかも「オランダのメソジスト」の人々のことを言っていますので、今の日本のメソジスト系の教会の状況とはずいぶん違う、大昔のことだということで大目に見ていただけると幸いです。

ただ、いま申し上げた点を勘案していただいたうえで、ぜひご理解いただきたいのは、ファン・ルーラー先生が、メソジストの方々のことを「尊重する」立場でこの文章を書いておられることは間違いない、ということです。

改革派の(極端な)立場からメソジストの人々を軽蔑する態度をとることはもはや間違っていると言わんがために書かれた文章であることは間違いありません。

私が過去17年ほどファン・ルーラーを学んできた感覚から言わせていただけば、「改革派・長老派VSメソジスト」という図式は過去のものになっています。

そして、ここから先はやや売り込み口調ですが、メソジストの皆さまにおかれましては、ファン・ルーラーの本(キリスト教書店にあるのは「ファン・リューラー」です。どちらでも構いません)を、どうぞ安心してお読みいただきたいですと、心から願っています。

また、改革派・長老派の皆さまにおかれましては、ウェスレーやメソジストの人々が書いた本を、どうぞ安心してお読みいただきたいです、と申し上げたいです。

私の書斎に昨日届いた『標準ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、1984年)を、これから真剣に読もうと思っています。

私見によれば、ファン・ルーラーの神学は、(政治的な意味ではなく神学的な意味での)右にも左にも与しない「第三の道」ではなく、むしろ逆で、右と左に分かれて争ってきた者たちの「和解と統合」をめざす道です。それを、神学的論理を徹底的に突き詰める方法で行う道です。

「教会の一致」をめざすことが徒労に終わることはありません。どんどん進めて行きましょう。

2015年3月25日水曜日

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません

今日のおひるは海苔弁当にしました
毎週水曜日の午前中は祈祷会(きとうかい)です。今日の出席は10名でした。内容は賛美、聖書の学び、お祈りです。シンプルですが、元気になります。みことばの糧の味わいを実感できます。午後は有志で会堂清掃。加えて今日は月報の印刷作業をします。

「こひつじ新聞」3月号
2015年1月創刊、松戸小金原教会日曜学校発行「こひつじ新聞」3月号です。すべて小学生が企画・制作しています。号を重ねるたびに紙面のクオリティがアップしています。ご家庭の皆さまと学校の先生がたの日々の苦労の結晶を見る思いです。お見事。

『まきば』第418号と「教会カレンダー2015年4月」
教会月報『まきば』第418号(2015年3月号)と「教会カレンダー2015年4月」が完成しました。編集も印刷も牧師はノータッチです。すべて教会の方々がしてくださっています。私が松戸に来た11年前(2004年4月)からずっとそうです。

祈祷会で配布した聖書研究のプリント
教会の方々が月報などを制作してくださっている間、私は何をしているかといえば、午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリントを清書して、そのPDF版をネットで公開するといったことです。

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません。

午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリント(清書済み)はここをクリックしてください。タイプとしては信仰感話のようなものです。