2015年3月30日月曜日

力尽きて粛々とツイートする

牧師になることを決心した理由:信者の日曜日が幸福でない理由は理解不能な説教にある。理解可能な説教できる人間になりたい(17歳)→理解可能な説教とは教派色鮮明な教会の論理と符合することを意味する(25歳)→それは一教派の内部論理であってはならず普遍性をめざすべき(←やっとイマココ)

いくつかの解決策の実例:信者に理解不能な説教でも短時間なら我慢してもらえる(可能性がある)ので説教時間を5分10分程度に短縮する。短所:これでは信者が一生かけてもキリスト教とは何かを論理的に理解できることはありえず、心地よいフレーズの断片(ないし愛唱聖句)の羅列で終始しかねない。

キリスト教の「教会」と「学校」と「施設」と「各種事業」を横並びにする考え方も分からなくはない。でも、後三者はキリスト教の看板おろしても一般ニードがあるかぎり続くと思うけど、キリスト教の看板おろした「教会」(名称はチャーチやチャペルやセンターでも)に意味あるのかと思わざるをえない。

「キリスト教の看板おろした『教会』」と書いたのは比喩として考えているだけのことだ。「あの教会のことだ」「うちの教会のことだ」という吊るし上げや自虐(のふりした他虐)に巻き込まれたくない。ただ、キリスト教の難しさは、教えの中に排他的な独善を許さない博愛主義の側面が確かにあることだ。

だから、我々(現代の教会人とでも言っておきます)の多くは、「特定の宗教を一方的に強要するようなことは決していたしません教会」を目指そうとする。自分が言っていることにあきらかに矛盾があることを知りながら、そういうことを大真面目に語り、そういうふうでありたいと願い、具体的に行動する。

しかし、「特定の宗教を強要しない教会」(?!)が概念矛盾であることは否定できそうにない。そのような教会を目指す思いや具体的な行動が真摯なものであればあるほど、矛盾は深まり、ペテンに近づく。教会の建物や土地の一般開放の話ではない(それは大昔からしている)。「教会の一般開放」の話だ。

そのこと(教会の一般開放)を私は「ペテンに近づく」とまで言ってしまいつつも、だからといって一方的にネガティヴな意味で言おうとしているのでもない。だから苦しいし、悩んでいる。反動的な「閉鎖教会」の内部腐敗が尋常でないことを知らないわけではないからでもある。しかし、それだけでもない。

そこから先の論理を緻密に整える力が私にないのが残念ではあるが、その分突然ぶっちゃけられるものがあるのでやらかします。「要するにキリスト教の教会とはそういうものなのだ。それでいいのだ」とバカボンのパパの口真似でごまかしたい。我々は「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教」なのだ、はは。

まあでも、もうひと踏ん張りすれば、我々(現代の教会人)の多くが自覚している「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教としてのキリスト教」について葛藤があるかどうかは問われるかもしれません。ただの開き直りでも構わないと思いますが、それだけだと深まっていかない。本物のペテンになりかねない。

しかしまた、自己矛盾を自覚しつつ葛藤しながら語る人の言葉は、深いかもしれないが、概して難解。退屈、熟睡レベル。本にしても売れない、敬遠される。「わが宗教に矛盾はない」と断定する葛藤なき確信に基づく、単純でストレートでキャッチーなフレーズのほうが「分かりやすい」に決まってるわけで。

今日は「牧師の定休日」を主張して朝から心身のスイッチを切っています。「粛々とツイートする」は概念矛盾かもしれませんが、「おごそかな」ではなく「ひっそりと静かな」のほうの「粛々」であれば当てはまります。「疲れて何もしたくない」とツイートする。ツイートは動詞でもあると思いますけどね。

今日のおひるは、うどんにしました。冷凍讃岐うどんを使いました。お汁の味付けはわりとパーフェクト。ごくうまです。春休み中の大学生と高校生と私の3人。妻(保育士)は児童養護施設の勤務。お疲れさまです。私は関口学院(架空)の学食のコック長。

そういえば最近、うどん頻度高いな。カレー頻度に匹敵しそうな勢いだ。