2015年3月15日日曜日

主イエスは十字架を目指して歩まれました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
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マルコによる福音書11・1~14

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。』二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」

今日の個所からマルコによる福音書の後半、「エルサレム編」に入ります。イエスさまの地上の生涯の最後の一週間の様子が描かれています。まさにクライマックスです。

エルサレムは当時の首都です。当時、市街地の周囲に城壁が立っていました。石の壁で守られた町でした。その中に神殿がありました。旧市街地は西暦70年に起こった戦争で破壊されました。同時に神殿も破壊されました。いま残っているのは、当時の残骸と、新しく造られた建物です。

神殿の隣に王宮がありました。神殿と王宮は回廊でつながっていました。神殿は宗教の最高地点、王宮は政治の最高地点です。宗教と政治が一体化した権力の最高地点でした。

そのエルサレムにイエスさまが向かわれました。ただし、イエスさまはおひとりではありません。12人の弟子はもちろんいます。しかし、いま私が申したいのは弟子たちのことではありません。「大勢の群衆」(10・46)が一緒でした。

群衆がエリコからずっと一緒でした。エリコからエルサレムまでの距離は30キロ。その道をイエスさまは12人の弟子、そして大勢の群衆と一緒に歩いてこられました。そして、ついにエルサレムにお着きになりました。

しかし、エリコからエルサレムまで一緒に歩いてきた大勢の群衆は、必ずしもイエスさまを信じ、イエスさまの後に従おうとした人々ではありません。もちろん、全員がそうでないとは言いません。なかにはそういう人もいたでしょう。しかし、すべての人がそうであったとは言えません。むしろ、多くは、エルサレム神殿の毎年の恒例行事の過越祭に参加するため神殿を目指していた参拝客でした。

イエスさまもまた、これから過越祭が始まろうとしている時期だからこそ、神殿に行かれたのです。いつでも良かったが、たまたまその時期に重なったということではありません。明確な意思をもって意図的に、イエスさまは過越祭の日にエルサレム神殿に到着するようにお出かけになりました。

そして、そのことには深い意味がありました。しかし、その意味の中身については、今日はあまり深く立ち入らないでおきます。

しかし、別の観点から見て、この時期にイエスさまがエルサレムに行かれることは安全面で有利であったということが言えると思います。イエスさまと12人の弟子を合わせても13人。大勢の群衆の中に紛れてしまえば目立つことはありません。

イエスさまは命を狙われていた方です。しかし大犯罪をおかして多くの人に知られ、白眼視されていたというような事実は全くない、むしろ多くの人に慕われている方でした。そういうイエスさまを、軍隊を差し向けて群衆を押しのけてでも逮捕するというようなことは、いくらなんでもできません。群衆と一緒ならば、エルサレムまで行く途中で捕まえられることはなかったと言えるでしょう。

しかし、イエスさまは、エルサレムの町にこれからお入りになる直前のところで、驚くべき行動をおとりになりました。オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい」とお命じになりました。

そして、「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる」ので「それをほどいて、連れて来なさい」(2節)と言われました。

イエスさまはその村の事情をよくご存じだったのでしょうか。あそこに行くと、誰が住んでいる、何がある、どんなふうになっている。まだだれも乗ったことのない子ろばがつないである。その場所にあらかじめイエスさまが行かれたことがあり、その場所や状況をよくご存じだったのでこのようなことをおっしゃられたのでしょうか。全くその可能性がなかったとは言い切れませんが、この個所を読むかぎり、そうでもなさそうな様子が伺えます。

続けてイエスさまがおっしゃっている言葉が気になります。「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」。こんなふうにイエスさまがおっしゃったというのです。

これで分かるのは、イエスさまが「連れて来なさい」と二人の弟子に命じたまだだれも乗ったことのない子ろばの持ち主を、イエスさまご自身はおそらくご存じないし、面識もないし、事前の予約も打ち合わせもなかったということです。

突然行って、持ち主に黙って連れて来いというわけです。それでもし、持ち主に見つかって、「なぜ、そんなことをするのか」、それは泥棒ではないかと言われたら、そのとき初めて事情を説明しなさいというわけです。すぐ返すから貸してくださいと言え、というわけです。しかし、見つからなければ、そのまま黙って連れて来ても構わない、ということでもあるわけです。とんでもないといえばとんでもないことを、おっしゃられたわけです。

実際にそういう展開になりました。イエスさまに命じられたとおりに二人の弟子が行くと、表通りの戸口に子ろばがつながっていたので、それをほどきました。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言ったので、そのとき初めて事情を説明したら、なんとか許してもらえたというのです。

大らかな人たちで良かったと思います。泥棒だ、訴えると言い始める人たちでなかったのは幸いなことでした。しかし、問題はそちら側ではないとお考えになる方々は、当然おられるでしょう。結果的に相手が許してくれたからよかったという話で済ましてしまってよいのかどうか。それが問題なのではなく、黙って連れて行こうとしたこと自体が問題だと考える人は少なくないはずです。

ですから、ここでわたしたちがよく考えなければならないことは、なぜイエスさまはそのようなことをなさったのかということです。

なぜイエスさまは、持ち主の許可を得る前に子ろばをほどいて、連れて来るようにと弟子たちにお命じになったのでしょうか。なぜイエスさまは、エルサレムに入るために子ろばに乗ることをお求めになったのでしょうか。

これから私が申し上げる答えは間違いです。そのことをあらかじめお断りしておきます。これは間違いの答えです。そのことをあらかじめお断りした上で申し上げます。

ずっと歩いてこられたイエスさまはすっかりお疲れになり、歩くのが嫌になられたので、弟子たちや群衆が歩いていてもお構いなしに、御自分だけろばにお乗りになりたかったのでしょうか。これは違います。

しかし、世の中の「偉い人たち」は、そういうことを本当にするかもしれません。イエスさまは世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのでしょうか。それも違います。

いやいや、「もっと偉い人たち」は、世の中にあるすべてのものは自分のものだと思い込んでいて、他人のものでもなんでも、勝手に持って行けると思っているかもしれません。その人たちの真似を、イエスさまがなさったのでしょうか。それも違います。

いま申し上げたすべての答えは、間違いです。しかし、これが間違いであるということの意味は、よく考えなければならないことです。イエスさまは、世の中の「偉い人たち」の真似をなさったわけではありません。しかし、こういうふうに考えることならできます。イエスさまは、世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのではなく、世の中の「偉い人たち」よりも上に立たれたのです。

イエスさまが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのは、エルサレムに住んでいる国王よりも、祭司長や律法学者よりも、ローマ総督よりも、自分は上の立場の者であるということをお示しになるためでした。世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのではなく、その人々より私のほうが上であるということをお示しになるためでした。

そしてそれは、御自分が約束のメシア、真の救い主、神の御子であり、御子なる神ご自身であることを人々の前にお示しになるためでした。そのことは、弟子たちでさえ理解していなかったと思われますが、イエスさまははっきり自覚しておられました。

言い方は物騒になりますが、いわばそれは、イエスさまにとっては、エルサレムに住んでいる「偉い人たち」に対する一種の宣戦布告としての意味を持っていた、ということです。

しかし、イエスさまは、全くの丸腰でした。何も持たず、弟子も12人。軍隊を率いておられたわけではありません。全く普通の人の姿で、エルサレムに乗り込んで行かれました。子ろばにまたがって。子どもじみたことをしているように見えたかもしれません。

そしてイエスさまの本当の行き先はまもなくゴルゴタの丘に立てられる十字架でした。群衆は去り、弟子たちは逃げ、冷たい視線と罵声を浴び、槍と釘に刺され、血を流しながら息を引き取る十字架の上でした。

イエスさまは、エルサレム神殿で行われる過越祭にもうでる参拝客の一人ではありませんでした。過越祭で献げられる犠牲の子羊そのものになられるために、エルサレムに来られたのです。

(2015年3月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年3月9日月曜日

ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来(2015年)

講演「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」

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(2015年3月9日、アジア・カルヴァン学会、日本カルヴァン研究会合同講演会、青山学院大学)

関口 康



このたびは、ファン・ルーラーについての講演の機会を与えていただき、感謝いたします。

私はこれまでに、日本カルヴァン研究会[1]では「新約聖書は旧約聖書の巻末語句索引か――ファン・ルーラーがカルヴァンから学んだこと」[2]という研究発表をしました。アジア・カルヴァン学会[3]では、「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」[4]という研究発表をしました。

日本基督教学会関東支部会[5]で「A. A. ファン・ルーラーの『差異論』の動機:キリスト論と聖霊論の関係」という研究発表をしました。2013年と2014年、鈴木昇司先生が、担当しておられる立教大学の全学共通カリキュラムの宗教改革史講義[6]に、ゲストスピーカーとして私を招いてくださいました 。講義のテーマは「現代プロテスタント神学の一断面」でした。神学全体(聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学)における組織神学の位置を説明する中でカール・バルトとファン・ルーラーの関係を扱いました。2013年度の聴講生は約170名でした。

しかし、講演の経験はほとんどないです。日本基督教団改革長老教会協議会教会研究会[7]で「ファン・ルーラーにおける人間的なるものの評価」[8]という講演をしました。先月、思想とキリスト教研究会の講演会[9]で「ファン・ルーラー研究の意義」という講演をしました。

雑誌やブログに書いてきたことを含めて、講義であれ、研究発表であれ、講演であれ、その内容は私の中ではすべてつながっていることですので、そのうち本にしなければという思いがないわけではありません。しかし、それは容易なことではありません。

1999年2月20日に友人数名と共に結成したインターネットグループ「ファン・ルーラー研究会」は2014年10月27日に解散しました。解散時の会員数は108名でした。15年半で得た成果は、日本語で読めるファン・ルーラーの研究文献が増え、彼の知名度が日本で高まったことです[10]。研究会の解散は研究の終わりを意味しません。我々はこれまでの成果を発展させる形でこれからも研究を継続します。

本講演の目標は、日本でファン・ルーラー研究を志す人(もしそういう人がいれば)にとって有益な情報を提供することに絞ります。とくに主眼をおきたいのは「日本において」という点です。

Ⅰ 世界のファン・ルーラー研究の「過去」

本講演のテーマ「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」は野村信先生のご指示に従ったものです。しかし、「日本において」を主眼点に置くにしても、ファン・ルーラー研究の出発点は日本国内ではありませんので、まずは世界の流れから見ていきます。

世界のファン・ルーラー研究の流れを知るための必携書は、ユトレヒト大学図書館発行『ファン・ルーラー教授文庫総目録』(1997年)[11]です。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が遺した全著作(論文、説教、エッセイなど)および過去のファン・ルーラー研究のタイトル、初出年月日、掲載個所、原稿形式(手稿、タイプ稿など)を記した全297頁の目録です。

『総目録』の巻頭付録に「ファン・ルーラー教授略伝」があります。それによると、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラーは、1908年12月10日、オランダのアペルドールンに生まれました。パン配達業の父の長男として生まれ、家族と共に幼少期から地元のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)に通い、地元のギムナジウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部で学びました。

大学卒業後、オランダ改革派教会の二つの教会(クバート、ヒルファーサム)の牧会経験を経て、ユトレヒト大学神学部の「オランダ改革派教会担当教授」に任命されたのは1947年です。神学博士号請求論文『律法の成就』のサブタイトルが「啓示と存在の関係についての教義学的研究」[12]であるように彼の主専攻は教義学ですが、ユトレヒト大学神学部で教えたのは、教義学だけでなく、キリスト教倫理、オランダ教会史、信条学、礼拝学、教会規程など幅広いものでした。

政治に対する著作や発言も多く、キリスト教政党「プロテスタント同盟」(Protestantse Unie)の結党趣意書を起草する役割を担いました。1970年12月15日に62歳で現職のまま心臓発作で突然死去するまでの23年間、教会、大学、ラジオ、書斎、家庭内から、オランダ国内外の教会と社会に大きな影響を及ぼしました。

著作を通しての影響力は、今日に至るまで持続しています。2007年からオランダで新しい『ファン・ルーラー著作集』(dr. A. A. van Ruler Verzameld Werk)の刊行が始まりました。彼の存在と神学が決して忘れ去られていないことを物語る巨大な規模の著作集です。現在第4巻まで配本されています。全巻揃えば、おそらくカール・バルトの『教会教義学』と同規模かそれ以上の頁数になりそうです。

ファン・ルーラーについての博士論文は、1960年代から書かれ始めました。『総目録』(1997年)に記載されているのは9作ですが[13]、1997年以降も書かれています[14]。博士論文の著者の国籍はオランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、ナミビアと広範囲です。その中には自国で神学教授として活躍した人が多くいます。組織神学の観点からだけでなく、宣教学や牧会学や礼拝学の観点からの取り組みが多くあります。あるいは他の著名な神学者(F. D. E. シュライアマッハー、アブラハム・カイパー、パウル・ティリッヒ、ユルゲン・モルトマンなど)との比較においてファン・ルーラーの神学の特質を明らかにしているものがいくつかあります。カトリック神学者による博士論文もあります。

博士論文以外にも多くの研究書がファン・ルーラーの神学のために献げられました。またユルゲン・モルトマンやルードルフ・ボーレン、最近はアブラハム・ファン・ド・ベークやヘリット・イミンクら世界的に著名な神学者が、自身の著作の中でファン・ルーラーの存在と神学を高く評価しています。2008年12月10日、ファン・ルーラー生誕100年を記念してアムステルダム自由大学で「国際ファン・ルーラー学会」が開催され、約200名の研究者が集結しました[15]。日本人3名が出席しました。

Ⅱ 日本のファン・ルーラー研究の「過去」

しかし、日本の状況は全く異なります。日本の「過去」にファン・ルーラー研究と呼べるものは、ほとんどありません。かろうじてあったのは、ファン・ルーラー言及です。多いとは言えませんが、時々言及されました。しかし、残念なことに、そのいくつかはファン・ルーラーのテキストを読んでいないことがはっきり分かるファン・ルーラー批判です。以下、二つの例を挙げておきます。

第一の例は、岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社、1969年)です。これは日本の教義学書としては初めてファン・ルーラーの存在と神学に言及された記念すべき一書です。岡田先生はキリストの昇天についてのファン・ルーラーの教説へのG. C. ベルカウワーの批判を、ベルカウワーの教義学研究シリーズ『キリストのみわざ』(1953年)[16]英語版(1965年)に基づいて紹介しています。しかし、ファン・ルーラーのテキストへの言及は、見当たりません。

「ベルカワーは、バン・ルーラーがキリストの昇天を改革派神学者はキリストの地上教会からの分離として考えると説くことに対して、必ずしもそれのみを高調してはいない。たとえば、カルヴィンはキリストが去られたことは留まっておられる以上にわれらのためにより大きな祝福だと言っている(…)。彼らは世を去った後決して教会を淋しさの中に捨て置かず、慰め主を送ることを約束された。使徒行伝1章9節の注釈では、ローマ教会の説を反駁して、昇天による分離を主張しつつも、身体で一緒にいなくなっても、交わりは続けると言っておられると説明している。ハイデルベルク信仰問答も同じことを語っている(46、47)。だから改革派神学がアクセントを分離の方へ置くとは言えぬという。…しかしバン・ルーラーの見解はやはりバルト、クルマン、ドッドらの考えに近いところがある。キリストの再臨と共に開始される本当の終末界と、キリストの昇天によって始まるペンテコステ的聖霊活動によるキリストの王国とを二つの円としてとらえると、昇天の真の意味は弱められる。聖霊の救済活動は上げられたキリストが父と共に地上に送られたものと見るコンスタンティノープル信条の追加句(フィリオクエ)の線で理解されねばならぬ」[17]。

この点についてベルカウワーがファン・ルーラーを批判したことは事実です。しかし、言うまでもないことですが、ベルカウワーはファン・ルーラーの論文を読んでいます。ファン・ルーラーが自説の論拠として挙げた聖書やカルヴァンやハイデルベルク信仰問答や他の神学者の発言をすべて調べ、ファン・ルーラーの主張を打ち崩そうとしています。その手続きを経た上でベルカウワーが指摘しているのは、ファン・ルーラーには「フィリオクェ」に対する躊躇(aarzeling)があるという点です[18]。

このベルカウワーの姿勢は尊敬できます。しかも、ここで重要であると思われるのはベルカウワーとファン・ルーラーは所属教派が異なる関係であり、はっきりいえばライバル関係であったことです。年齢も近く、ベルカウワー(1903年6月8日生まれ)とファン・ルーラー(1908年12月10日生まれ)は5歳差です。ベルカウワーはGereformeerde Kerken in Nederlands(訳せば「オランダ改革派教会」)の教師であり、アムステルダム自由大学神学部の組織神学教授でした。

そのベルカウワーが「キリストの昇天」についてのファン・ルーラーの主張を強く批判し、さらに「フォリオクェ」への躊躇を指摘するために、自身の主著である教義学研究シリーズの一冊のなんと11頁分を献げています。ベルカウワーの当該書『キリストのみわざ』出版年が1953年であることから推察できるのは、当時50歳のベルカウワーが、45歳のユトレヒト大学神学部教授ファン・ルーラーの影響力に強い警戒心を持っていたのではないかということです。

しかし、仮に百歩譲ってファン・ルーラーが「フィリオクェ」に「躊躇」を持っていたことは否定できないとしても、だからといってベルカウワーの側の意見だけを紹介して済ませるのは、フェアではありません。しかも、岡田先生がしているのは、ベルカウワーの著作の英語版からの孫引きです。ベルカウワーが「躊躇」(aarzeling)という表現でファン・ルーラーに敬意を表している(と私には読める)ニュアンスが汲み取られていません。

しかし、岡田先生の読者にとってファン・ルーラーは、ニカイア・コンスタンティノーポリス信条とカルヴァンとハイデルベルク信仰問答から逸脱し、バルト、クルマン、ドッドの考えに近い人です。

第二の例は、佐藤敏夫著『救済の神学』(新教出版社、1987年)です。これは日本の教義学書としては初めてファン・ルーラーについての独立したパラグラフが設けられた記念すべき一書です。しかし、そのパラグラフのタイトルは「ヴァン・ルーラーの行き過ぎ」[19]でした。

「こういう問題との関係において、一つの問題提起をしているとみられるのは、ヴァン・ルーラーである。彼にとって終末は創造の完成ではなく、原初的完全の回復にすぎない。この原初的完全は罪によって失われている。キリストはこの原初的完全を回復するために来たのである。…しかし、ヴァン・ルーラーにとって、キリストにおける神という特殊な形態は、あくまで罪という事態に対する緊急措置(Notmaßnahme)である。キリスト教もまた同様に緊急措置である。文化にキリスト教の刻印が押されていることが問題ではなく、原初的完全の回復としての栄光の王国が問題である。したがって、終末と共にキリストの役割は終わるのである。…さしあたりそれは個人主義的な偏向とは反対のもう一つの極端であることを、指摘しなければならない。ここでは、キリストの十字架は神の国の陰にかくれてしまっていると言ってよい。そして神の国、永遠の王国、フマニテートという概念が前面に出る。たしかに福音の主題は神の国とされているが、キリストの到来は罪のための緊急措置にすぎなくなっている」[20]。

佐藤先生はかろうじてファン・ルーラーのドイツ語版の論文から引用した一文を添え、当該論文のタイトルを第2章注8に記しています。この点はファン・ルーラーのテキストに全く触れないで批判する岡田先生よりは、まだましです。しかし、その文章の引用個所の頁番号の明示はなく、代わりに「ヴァン・ルーラーの著作の多くはオランダ語で、ドイツ語版は多くはない。なお、これについてのモルトマン、H. ベルコフらのコメントがある」[21]と書いておられます。しかし、佐藤先生は「これについてのコメント」をモルトマンやヘンドリクス・ベルコフがどこに書いているのかを明示していませんので、検証のしようがありません。容易に推測できるのは、佐藤先生のファン・ルーラー批判はモルトマンやベルコフからの(引用元不明の)孫引きだろうということです。

しかも、佐藤先生が書いておられることは正確ではありません。ファン・ルーラーが主張したのは「終末と共にキリストの役割は終わる」ではなく「終末においてキリストの受肉は解消されるだろう」ということです。それは異なる命題です。こういうこともファン・ルーラーのテキストに取り組めば分かることです。あるいは逆に、もし二つの命題を同一視しなければならないとしたら、キリストの役割は受肉だけなのかという問いが残ります。しかし、佐藤先生の読者にとってファン・ルーラーは「行き過ぎた神学者」のラベルが貼りついたままです。

いま申し上げていることを、私はずっと前から考えてきました。どうして日本の神学者はファン・ルーラーを、読みもしないで批判するのかが疑問でした。そしてその疑問を抱いていた頃に(それは1993年です)、近藤勝彦先生の『歴史の神学の行方』(教文館、1993年)を読みました。

「彼(ファン・ルーラー)の神学思想についての研究書や学位論文がオランダではすでに幾つかあるようであるが、それらも多くは手にいれるに困難な状況である。そこで、ここでは敢えて限られた文献によって論ずることにならざるを得ない。本格的なファン・リューラーの研究、あるいはさらに本格的なオランダ神学の研究が、将来に起きることを期待したい。本論文は、そのための一つの刺激となり得れば、大変幸いなことであると思っている」[22]。

私は当時、この近藤先生の提案に心から賛同しました。新しい神学的ミッションの遂行が必要だと思いました。そして近藤先生が「将来に起きることを期待」している「本格的なファン・リューラー研究、あるいはさらに本格的なオランダ神学の研究」に、もし可能なら、私が取り組まなければならないと考えました。それが1993年です。また、別ルートで、やはり同じ1993年に高崎毅志先生から「ファン・ルーラーの神学を勉強しろ。神戸の牧田吉和先生から教えてもらえ」と励まされました。しかし、近藤先生が「困難」を訴えておられるほどのことをすぐに実現できるとは思いませんでした。

1997年4月から1998年6月までの1年3ヶ月間、私は神戸改革派神学校に入学し、牧田吉和先生と市川康則先生から「改革派教義学」のすべて(序論、神論、キリスト論、救済論、教会論、終末論)を学びながら[23]、牧田先生のご指導のもとファン・ルーラーについての卒業論文を書きました。そして上記の新しい神学的ミッションに取り組むことを決心した1993年の6年後、1999年2月に「ファン・ルーラー研究会」が生まれました。オランダ語のテキストを読むことにこだわり抜いた研究会でした。

語弊を恐れず言えば、日本における「本格的な」ファン・ルーラー研究は、1999年の研究会結成と共に始まりました。上に縷々述べたことも、岡田先生や佐藤先生への個人的な苦言ではありません。私の意図は、神学研究におけるフェアネスはどうすれば確保しうるのか、テキストを読まないで批判する人々のアンフェアな姿勢をどうすれば正すことができるのかについてのささやかな問題提起です。

Ⅲ ファン・ルーラー研究の「現在」と「未来」

「現在」と「未来」の話をする時間がほとんど無くなりましたので、一括してお話しいたします。しかし、正直に言えば、話すことがないのです。とくに「日本において」は、ファン・ルーラー研究の「現在」も「未来」も、だれからもどこからも与えてくれはしないということです。「未来」があるかどうかの一切はファン・ルーラーのテキストを読むことにかかっています。そして、それが日本語に訳されるなり、日本語の研究書が多く出版されるなりすることが必須の前提条件です。

しかし、彼の文章を日本語に翻訳するためにはオランダ語の知識があるということだけでは済まず、神学の基礎を学び、さらに改革派教義学や信条学やオランダ教会史などを学ぶ必要があります。そうでないかぎり、彼のテキストは全く理解できません。それはオランダ語のハードル以上です。

私が最も期待しているのは、オランダのアペルドールン神学大学に2008年から2013年まで留学し、ファン・ルーラーとノールトマンスについてオランダ語で書いた修士論文で「最優秀賞」(Cum laude)を受賞して(これは日本史的快挙です)帰国した石原知弘先生の存在です。石原先生(1973年、岡山生まれ)は現在、日本キリスト改革派園田教会牧師で、神戸改革派神学校の組織神学(改革派教義学)非常勤講師です。石原先生にもっと研究に集中できる時間を差し上げることができれば、石原先生を軸にして日本のファン・ルーラー研究は大きく回転し、飛躍的に前進していくでしょう。

青山学院大学 青山キャンパス(東京都渋谷区渋谷)


[1] 第21回例会、2012年6月25日、青山学院大学青山キャンパス。

[2] この講演を基にして書いたのが、関口康「新約聖書は旧約聖書の『巻末用語小辞典』か―旧約聖書と新約聖書の関係についてのA. A. ファン・ルーラーの理解」『改革派神学』第39号、神戸改革派神学校、2012年、95頁~109頁です。

[3] 第9回講演会、2013年3月11日、立教大学池袋キャンパス。

[4] 2014年度例会、2014年3月14日、東京女子大学。

[5] 2013年度「キリスト教の歩み」、2014年度「キリスト教と思想」。

[6] 2013年6月27日、7月4日、池袋キャンパス。2014年6月26日、新座キャンパス。

[7] 第8回研究会、2008年6月30日、日本基督教団洗足教会。

[8] この講演を基にして書いたのが、関口康「ファン・ルーラーにおける人間的なるものの評価」『季刊教会』第73号、日本基督教団改革長老教会協議会、2008年、10~18頁です。

[9] 2015年2月16日、日本キリスト改革派東京恩寵教会。

[10] 別紙「日本語で読めるファン・ルーラー研究文献リスト」を参照してください。ファン・ルーラー研究会を結成した1999年頃は、日本語で読める研究文献はほとんどありませんでした。

[11] Inventaris van het archief van prof. dr. Arnold Albert van Ruler [1908-1970], Utrecht Universiteitsbibliotheek, 1997.

[12] A. A. van Ruler, De vervulling van de wet: Een dogmatische studie over de verhouding van openbaring en existentie, Nijkerk, 1947.

[13] 『ファン・ルーラー教授文庫総目録』(1997年)に記載されている「博士論文」は以下の9作です。

Bernd Päschke, Die dialogische Struktur der Theokratie bei A. A. van Ruler, Göttingen, 1961.

Benjamin Engelbrecht, Agtergronde en grondlyne van die teokratiese visioen: ’n Inleiding tot die teokratiese teologie van prof. A. A. van Ruler, 1963.

J. H. P. van Rooyen, Kerk en staat: een vergelijking tussen Kuyper en Van Ruler, 1964.

A. N. Hendriks, Kerk en ambt in de theologie van A. A. van Ruler, 1977.

Paul Roy Fries, Religion and the Hope for a truly human existence: an inquiry into the theology of F. D. E. Schleiermacher and A. A. van Ruler with questions for America, 1979.

P. W. J. van Hoof, Intermezzo: kontinuiteit en diskontinuiteit in de theologie van A. A. van Ruler: Eschatologie en kultuur, 1974.

J. J. Rebel, Pastoraat in pneumatologisch perspectief: een theologische verantwoording vanuit het denken van A. A. van Ruler, 1981.

L. Westland, Eredienst en maatschappij: een onderzoek naar de visies van A. A. van Ruler, de Prof. Dr. G. van der Leeuw-stichting en de beweging Christenen voor het socialisme, 1985.

Christo Lombard, Adama, thora en dogma: die samehang van de aardse lewe, skrif en dogma in die teologie van A. A. van Ruler, 1996.

[14] 1997年以降に書かれた「博士論文」には次のような作品があります(すべては把握できていません)。

J. M. van ’t Kruis, De Geest als missionaire beweging: een onderzoek naar de functie en toereikendheid van gereformeerde theologie in de huidige missiologische discussie, 1997.

Garth Hodnett, Ontology and the New Being: The Relationship between Creation and Redemption in the Theology of Paul Tillich and A. A. van Ruler, 2000.

Allan J. Janssen, Kingdom, Office, and Church, A Study of A. A. van Ruler’s Doctrine of Ecclesiastical Office, 2006.など。

[15] 「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler congres)の講演集が出版されています。

Dirk van Keulen, George Harinck, Gijsbert van den Brink (red), Men moet telkens opnieuw de reuzenzwaai aan de rekstok maken: Verder met Van Ruler, Boekencentrum, Zoetermeer, 2009.

掲載順に、ファン・ド・ベーク、ロンバルト、ファン・デン・ブロム、ファン・デア・コーイ、ド・フリース、ファン・ケウレン、ファン・アセルト、モルトマン、イミンク、ファン・デン・ブリンク、ファン・デン・ヒューベル、オプ・トホフ、ブリンクマン、ジャンセンが寄稿しています。

[16] G. C. Berkouwer, Studies In Dogmatics, The Work of Christ, Eerdmans, 1965, p. 213-222. 原著オランダ語版の当該箇所はG. C. Berkouwer, Dogmatische Studien, Het werk van Christus, J. H. Kok, Kampen, 1953, p. 231-242.

[17] 岡田 稔『改革派教理学教本』新教出版社、1969年、244~245頁。

[18] G. C. Berkouwer, Het werk van Christus, p. 239.

[19] 佐藤敏夫『救済の神学』新教出版社、1987年、53~55頁。

[20] 佐藤敏夫、同上書、同上頁。

[21] 佐藤敏夫、同上書、55頁。

[22] 近藤勝彦『歴史の神学の行方 ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』教文館、1993年、238~239頁。

[23] 現在刊行中の牧田吉和・市川康則共著『改革派教義学』(一麦出版社)の全内容を、私を含む当時の学生たちは、共著者のお二人から、生で講義していただきました。

2015年3月8日日曜日

主イエスは人の祈りをかなえてくださいます

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書10・46~52

「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰が救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」

今日もマルコによる福音書を開きました。前半の「ガリラヤ編」が今日の個所で終わりになります。来週学びます11章からが後半の「エルサレム編」です。イエスさまの地上のご生涯の最期の一週間が描かれています。

しかし、今日のイエスさまはすでにエリコにおられます。エリコはエルサレムまであと30キロです。具体的にイメージしていただくために30キロがどのくらいかを調べてみました。松戸小金原教会から東京駅までがちょうど30キロです。直線距離ではなく道路の長さで調べました。そういうことが今はインターネットですぐ分かります。もう一箇所調べてみました。松戸小金原教会から稲毛海岸までがちょうど30キロです。

こう考えますと、30キロというのは、歩くともちろん遠いですが、車なら1時間、電車でも1時間。同じ空気、同じ空、同じ言葉、同じ文化を共有する関係であるとお互いに感じあえる距離です。これで私が言おうとしているのは、今日の個所は「ガリラヤ編」の最後ではありますが、「エルサレム編」の一歩手前であるということです。

エリコは私も一回だけ行ったことがあります。エリコの行政区域そのものはそれなりの広さがありますが、市街地はとても小さなところです。そのエリコの町にイエスさま一行がお着きになりました。「一行はエリコの町に着いた」。

しかし、すぐにイエスさまはこの町を出て行かれたかのように描かれています。エリコの町で何をなさったかは記されていません。「着いた」の次の文章が「出て行こうとされた」というのですから、まるで短時間のトイレ休憩かなにかのようです。食事かもしれませんが、食事の場合は「食事である」とはっきり書かれているものです。しかし、ここに書かれているのは「着いた」途端に「出た」です。エリコでは記録するほどのことはしていないということでしょう。

しかし、それにしては様子がおかしいです。エリコの町に着いたときの「一行」は、イエスさまと弟子たちだけ、つまり13人だけだったはずです。しかし、「出て行こうとされたとき」には「大勢の群衆」が一緒でした。エリコの町に入った途端、たちまち大勢の群衆に囲まれたのです。そして町を出て行くイエスさまは群衆の中におられたのです。

しかし、これはあまり慌てずに考える必要があるところです。今日の個所は「ガリラヤ編」の最後ではありますが、エルサレムまで残り30キロ地点のイエスさまが描かれています。エリコの町を出て行かれるイエスさまと一緒に描かれている「大勢の群衆」は、ガリラヤの「大勢の群集」と同じような存在としてとらえてよいかどうかは考えどころです。

ガリラヤにおられた頃に、イエスさまのもとに集まってきた人たちは、イエスさまは難しい病気を治してくださるらしいとか、悪霊を追い出してくださるらしいとか、死んだ人を生き返らせる力まであるらしいとか、いろんな噂を聞いて集まってきた、イエスさまに関心がある人たちです。

しかし、今日の個所に出てくる「大勢の群衆」は、ガリラヤの群衆とはおそらく性質が違います。その人々は必ずしもイエスさまに関心を抱いて集まってきた人々であるとは限りません。その可能性はないとは言いません。しかし、それよりもはるかに可能性が高いのは、エルサレムに早く行きたいと願い、道を急いでいる人たちだったのではないかということです。

これは結果論ではなくて、もともとイエスさまご自身が意図的に計画されたことであると思われることですが、そもそもこのときイエスさまが弟子たちと共にエルサレムを目指されたのはエルサレム神殿で行われる過越祭の時期に合わせた上京であったことは明らかです。まさにその時期に大勢の人がエルサレムに集まります。つまり、イエスさまと一緒にエリコから出てきた大勢の群衆は過越祭に参加するための神殿の参拝者たちだったのではないかと考えられます。

そして、あえて単純に言い切ってしまえば、エリコにいる「群衆」はいわば都会的な感覚だったのではないでしょうか。満員電車の中の人たちのように、周りの人にいちいち関心を持ったりしない。そんなことをしはじめたらきりがない。他人のことよりも自分の行き先や目的に関心を集中しようとしている人々。田舎とは違います。

そのような中で、エリコの町の出入口のような位置であると思われるところに、ティマイの子どものバルティマイが座っていました。ティマイはお父さんの名前で、バルティマイは子どもの名前です。名前が似ているのは当然です。バルティマイの「バル」が子どもという意味です。ティマイの子どもだからバルティマイです。

しかし、バルティマイは盲人でした。生まれつきだったかどうかは分かりません。しかし、生まれつきの場合は生まれつきだと書いている場合が多い中で、書いていないのは生まれつきでないからかもしれません。

いろいろ考えさせられました。親が自分の子どもに名前を付けるときは、いろんなことを考えます。バルティマイの父親は自分の名前を子どもに付けた人です。ティマイの子だからバルティマイ。親にとって相当思い入れのある子どもだったのではないでしょうか。しかし、その自分の子どもが盲人になる。あるいは、盲人として生まれた。どちらであったかは分かりません。そのときバルティマイの親たちはどのようなことを考えたでしょうか。

そして、やがてバルティマイは、エリコの町で道端に座って物乞いをするようになりました。自分で仕事をしてお金を稼ぐことはできない。しかし、どうも彼はひとりです。彼の家族が見えません。自分の名前を付けるほどに自分の子どもに思い入れを持っていた父親ティマイは、どこに行ったのでしょうか。あるいは母親は。

物乞いをすることが悪いとかいいとか、私はいま、そういう話をするつもりはありません。ただ、彼自身が望んでそうなったわけでもなさそうです。バルティマイ自身は自分が物乞いをしていることは嫌だったのだと思います。こんなことは続けたくない、なんとかしたいという思いがあったのだと思います。そのことが後で分かります。

しかし、彼は孤独です。家庭や社会は彼を助けていません。だから彼はエリコの町で物乞いをしていました。エルサレムに近い、ほとんど都会と言ってよいエリコの道端に座って、通りがかりの見ず知らずの人たちに頭を下げ、お金をください、物をくださいとお願いする生活をしていました。

しかし、彼の耳はよく聞こえていました。周りの人たちが話している声の内容をしっかり聞き取ることができました。彼の前をナザレのイエスが通っている。彼の近くにイエスさまがおられる。そのことが分かりました。

それで彼は大きな声でイエスさまを呼びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。ところが、多くの人が彼を叱りつけて黙らせようとしたと書いてあります。単純にうるさいと思ったのだと思います。それほど大きな声だったのかもしれません。しかし、彼は黙りませんでした。ますます大きな声でもう一度、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、必死でイエスさまを呼びました。

だれも彼を助けてくれない、振り向いてもくれない、大きな声をすると叱られる、黙らせられる。しかし、イエスさまならば、このわたしの声を聞いてくださるはずだ、助けてくださるはずだ、憐れんでくださるはずだと彼は信じました。彼は諦めませんでした。自分に訪れた最後のチャンスだと思った。このチャンスは二度と巡ってこないと思った。だから彼は諦めずに叫び続けました。

その声がイエスさまに届きました。イエスさまは立ち止まってくださいました。そして彼をみもとに呼んでくださり、彼の心の声に耳を傾けてくださいました。そして、イエスさまは質問されました。「何をしてほしいのか」。

彼の願いは「わたしを憐れんでください」でした。しかし、それは具体的な願いではありません。抽象的な内容にとどまっています。物乞いの彼が求めている「憐れみ」の内容は何であるかをイエスさまは尋ねてくださいました。

彼の願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」ということでした。それがバルティマイの具体的な願いでした。しかしそれは、これまで見えなかった目が見えるようになるということだけにとどまることではありませんでした。目が見えるようになることは、自分の願いや判断に基づいて、自由に動けるようになることです。自分で働き、自分で稼いで生きることができるようになること、これまでの生活に終止符を打つこと、自分の力で人生を切り開いていくことができるようになることです。

彼の願いはそれでした。だからこそ、イエスさまは彼の願いを叶えてくださいました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言してくださいました。彼の目はすぐ見えるようになりました。そして、イエスさまに従う者になりました。

彼の行く道を邪魔するものはもはやなくなりました。彼の人生に新しい希望の光が差し込んできました。バルティマイの目が「どれくらい」見えるようになったのかは分かりません。とにかく見えるようになりました。イエスさまのお姿が見えるようになりました。イエスさまの弟子として、イエスさまに従って生きる人生の前途が見えるようになりました。

来週から「エルサレム編」です。エルサレムでイエスさまは十字架にかけられます。バルティマイの目には、十字架にかけられたイエスさまのお姿がはっきり見えたことでしょう。このわたしのためにもイエスさまは死んでくださった。そのことをはっきりと見て、信じる者になったでしょう。

(2015年3月8日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年2月27日金曜日

ファン・ルーラー研究はこれからの学問である

ファン・ルーラーの二種類の著作集(左半分が新しいもの)
私がファン・ルーラーについて書いた文章で、紙の雑誌に掲載されたものの最初は2002年の「今なぜファン・ルーラーか」『形成』372号である。それを含めて、今年2015年までの13年間で9つの論文がある。その中には書評の形のものもあるし、講演記録の形のものもある。翻訳は含めていない。

しかし、その9つの論文の内容は、かなり重複している。内容重複の理由は、読者層が明らかに全く異なる複数の雑誌に書かせていただいたため、雑誌ごとに事のイロハから書き起こさなければならなかったからだ。掲載誌名を拙稿の掲載順にいえば『形成』『教会』『改革派神学』『三色旗』『途上』である。

何年も前から何人かの方から、お前がファン・ルーラーについて書いた論文を一冊にまとめろと言われている。それができない理由は、いま書いた「内容の重複」である。しかし、それだけではない。2007年からオランダで刊行が始まった新しい『ファン・ルーラー著作集』が完成するのを待っているのだ。

新しい『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)は現在、第1巻から第4巻(第4巻のみ2分冊)まで刊行されている。これでやっと半分だ。2007年から毎年1巻ずつ8巻くらい出すという当初の予定でいえば、今頃はもう完成しているはずだった。

しかし、その刊行が途中でストップしている。これからファン・ルーラーについての単行本を出すなら、オランダの新しい『ファン・ルーラー著作集』が全巻揃ったうえで、そのすべてに目を通してからにしたい。ということを理由というか言い訳にして、私の論文をまとめて本にすることに手を付けずにいる。

その意味でも「ファン・ルーラー研究」はこれからの学問である。「まだ始まっていない」とまで言うのは先輩研究者たちに失礼だと思う。しかし、従来の研究のすべては、いずれにせよ、近未来に訪れる新しい『ファン・ルーラー著作集』完成の日以降、全面的に書き直されねばならなくなるのは確実である。

3月9日(月)13時~17時、アジア・カルヴァン学会、日本カルヴァン研究会合同開催の講演会で、私が「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」という講演をさせていただきます。会場は青山学院大学です。お集まりくださいますようお願いします。

詳しくは、アジア・カルヴァン学会ブログをご覧ください。
http://calvin-research.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html

2015年2月26日木曜日

難解なことを難解な言葉で語ることを怠慢と言わないか

「噛み砕く作業」に原著者の名前を冠することはもはやできない
本に書いてあるようなことではないが、一人二人から聞いた話でもないので、おそらく長年多数の人口に膾炙されてきたことではないかと思うが、教会での説教にせよ、神学の講演や論文にせよ、どこか一部分でも極度に難解なところがあると権威性が高まる(?)という言い草があるが、あれが私は嫌いだ。

一夜もあればすらすら読めてしまうほど平易な言葉で書かれた本は暇つぶしにはならないからかもしれない。時間の埋め草には、たしかにならない。極度に難解なところのある本を読むなり説教を聞くなりすることで、ああでもないこうでもないと考え事をしたい人にとっては「分かりやすい」ことが嫌らしい。

もちろん世界は難解な存在である。人間も神も難解である。難解な存在をその本質と性格にふさわしく表現する言葉が難解であるというのは学問的に誠実な姿勢かもしれない。一例としてvocatio internaという古い神学概念を「内的召命」とだけ訳して済ますことこそ誠実な姿勢かもしれない。

しかし、いま書きたいのは翻訳の問題ではない。難解な外国語を平易な日本語に変換すべきであるというようなことを主張したいのではない。翻訳の問題は形式的なことにすぎないと言いたいのではないし、神学の翻訳本需要はまだ続きそうな気がするが、いいかげんやめたら?と言いたい思いが今の私にある。

しかし、「一夜で読み終えられるほど平易な日本語で書かれた神学書」がもしあるとしても、流行の自己啓発本のようなものを求めるつもりはないし、サブカル調でカムフラすりゃいいと考えているわけでもない。内容をとことん考え抜いて日常性の次元まで噛み砕いていくというようなことしか考えていない。

でも、その「内容をとことん考え抜いて日常性の次元まで噛み砕いていく」ということは、翻訳本にはたぶんもう不可能であるはずだ。翻訳という意味での「噛み砕く作業」そのものに原著者の名前を冠することは、もうできない。それはもはや訳者の全責任でなされるべきである。それが訳者の光栄でもある。

などなど、いろいろ考えこんでいて、それをメモしておこうとツイートしていると、同じ部屋で「アイカツ」とか「たまごっち」とかを家族の者が見始めて、横目でちらちら見ているうちに、何を書きたかったのかが分からなくなってしまった。面倒くさくなったので、気持ちを立て直すことができそうにない。

2015年2月22日日曜日

主に望みをおく人は鷲のように翼を張って上る(置戸教会)

日本キリスト教団置戸教会 主日礼拝説教

日時 2015年2月22日(日)午前10時30分(礼拝開始)
場所 日本基督教団置戸教会 北海道登呂郡置戸町置戸37-1

説教 「主に望みをおく人は鷲のように翼を張って上る」関口 康(松戸小金原教会牧師)
聖書 イザヤ書40:27-31

2015年2月21日土曜日

私はもう失望する側にはいません

昨夜の自作料理「海老と鶏肉のクリーミーマカロニグラタン」
24で教会の牧師(うるさくいえば伝道師)になった頃は焦りばかり先行して本気で「早く老人になりたい」と毎日お祈りしていたが、49の今思うのは「ただ老人になればいいってもんでもない」ということだったりする。若いころから努力し続けて老人になるのがベスト。まあこんなの書かずもがなだけど。

でも、私がいままで幸せだったのは、日本のすべての教会に当てはまるとは思わないが、牧師の上下関係がうるさくない環境で過ごせたことだ。若いうちは先輩のカバン持ちをしろだとか言われたことがないし、持ったことがない。自分のカバンくらい自分で持てよ。茶坊主になることを求められたこともない。

カバン持ちだ茶坊主だを見ると「気持ち悪い」と反応する感覚を共有する、世代を超えた牧師仲間の中で24から49まで過ごすことができた。これはラッキー。失礼を省みず書けば、今のローマのフランシスコ教皇もたぶん我々と同類だ。自分のカバンくらい自分で持てよ、と言ってくれそうな勢いを感じる。

日本の教会、これからどうなっていくのだろう。失望はしていない。「失望される側」(または「失望させる側」)であっても「失望する側」ではないという自意識くらいは持っている。世界だ社会だを論じる力はないし、人生の残りの時間はそんなにない。日本の教会をなんとかしたい。ひたすらそれだけだ。

2015年2月18日水曜日

かつてのシュライアーマッハーとバルトの関係と同じ

えーっと、ご質問にちょっとだけ答えさせていただきますね。十分な答えにならないかもしれませんことをあらかじめお詫びします。

えーっと、ご質問の趣旨は、バルトの神学とファン・ルーラーの神学の対話の可能性、ですよね。それはもちろんゼンゼンありますあります超あります。

もともとファン・ルーラーは「自称(!)純血のバルト主義者」だった人です。彼の発言のすべてにバルトの神学が意識されていると言っても過言でないほどです。ですが、バルトの立てていく「神学的論理」の功の面だけでなく、罪の面が見えてきたとき、それについて黙っていられなかった人でもあります。

圧倒的にバルトが著名で、ファン・ルーラーは無名人でしたので、力関係からいえば、バルトとファン・ルーラーの対話の可能性もへったくれもないのでして、バルト(とその支持者)の側でファン・ルーラーに対して「ノー」を言えば、世論は「ファン・ルーラー、ノー」で押しきれるレベルの圧倒差でした。

ですから、対話の可能性もなにも、それは要するに、バルト(とその支持者)の側が「対話に応じてくださるかどうか」にかかっています。象とアリくらいの差ですよ。そのへんはどうかご理解くださいませね。しかしそれは、かつてのシュライアーマッハーとバルトの関係ですよ。

バルトはシュライアーマッハーをこてんぱんにやっつけた。今度はバルトの番ですよ。他者の批判はめっぽう強いが、自分が批判されるのはめっぽう弱いじゃ、フェアじゃないですよ。自分がシュライアーマッハーにやった分くらいの痛手は覚悟してもらわなくちゃ。ね。

2015年2月17日火曜日

マニア呼ばわりはむしろ栄誉

ちなみに昨日の私の講演「ファン・ルーラー研究の意義」は、謝礼ゼロ、交通費もゼロ(自腹)でしたからね。批判でも抗議でもありませんが。

「ウィキペディア」みたく募金つのろうかな。

「セキペディアのクラウドファンディングだあ」(とかね)。

口座番号をさりげに書いておこう。プリーズヘルプ。

ゆうちょ銀行 15400-04442741 関口康(旧ぱるる)

ゆうちょ銀行  普通 五四八 店 0444274(他行から)

私のファン・ルーラー研究は、今まですべて自腹でしたからね。マニア呼ばわりはむしろ栄誉です。

2015年2月16日月曜日

ファン・ルーラー研究の意義(2015年)

講演「ファン・ルーラー研究の意義」

PDF版はここをクリックしてください

(2015年2月16日、思想とキリスト教研究会講演会、日本キリスト改革派東京恩寵教会)

関口 康



本日は講演の機会を与えていただき、感謝いたします。自己紹介を兼ねてはじめにお話しするのは、私がファン・ルーラー研究を開始した経緯です。

私が初めてファン・ルーラーの著作に接したのは1997年4月です。18年前です。インターネット上に「ファン・ルーラー研究会」を数名の友人と共に作ったのが、1999年2月20日です。2014年10月27日に解散するまでの15年半、私が研究会の代表でした。会員数は、最後は108名でした。

私をファン・ルーラーへと導いてくださったのは三人の教師です。近藤勝彦先生、高崎毅志先生、牧田吉和先生です。この三人はファン・ルーラーの神学を日本で初めて本格的に紹介した方々です。

近藤勝彦先生は、私の東京神学大学の卒業論文(1988年)と修士論文(1990年)の指導教授です。日本基督教団教師であり、東京神学大学教授であり、学長でした。近藤先生は東神大の大学院生の頃、ヘッセリンクの論文「現代オランダプロテスタント神学」[1]を翻訳する中でファン・ルーラーの神学の重要性を認識しました。テュービンゲン大学神学部に留学したとき、指導教授であったモルトマンにもファン・ルーラー研究の意義を教えられました。モルトマンはファン・ルーラーとヴッパータールで1957年に出会っています。近藤先生のファン・ルーラー研究は『歴史の神学の行方』(1993年)[2]にまとめられました。『二十世紀の主要な神学者たち』(2011年)[3]にも「伝統的でファンタスティックな神学者ファン・リューラー」と題する一章があります。私は『歴史の神学の行方』を出版直後に購入して読み(当時は高知県南国市にいました)、ファン・ルーラーの神学の重要性を初めて知りました。

高崎毅志先生は、東京神学大学の先輩です。日本キリスト教会、また日本基督教団の教師でした。ウェスタン神学大学に留学しました。帰国後、ウェスタン神学大学オスターヘーベン教授の『教会の信仰』(1991年)[4]を共訳しました。オスターヘーベンはファン・ルーラーと知己がありました[5]。『教会の信仰』にもファン・ルーラーの神学が紹介されています。私は1993年に高崎先生とお会いしたとき、「ファン・ルーラーの神学を勉強しろ。神戸の牧田先生に教えてもらえ」と励まされました。場所は恵比寿でした。その後はお会いしていません。1999年に高崎先生は死去しました。「高崎先生のおかげでファン・ルーラーを研究しています」と報告できないままです。

牧田吉和先生は、私の神戸改革派神学校の卒業論文(ファン・ルーラー研究、1998年)の指導教授です。日本キリスト改革派教会の教師であり、神戸改革派神学校教授であり、校長でした。ドイツとオランダに計5年留学しました。留学中はファン・ルーラーには無関心だったが、帰国後、神学校で学生と共に読んだルードルフ・ボーレンの『説教学』の「第4章 聖霊」[6]を通してファン・ルーラー研究の意義を認識したと、牧田先生から伺いました。ボーレンもファン・ルーラーと面識があります。出会いの場所はモルトマンと同じくヴッパータールでした[7]。牧田先生は神戸改革派神学校組織神学教授就職記念講演「改革派教義学と聖霊論」(1988年)[8]の中でファン・ルーラーの神学を紹介しました。1997年4月から数年間、ファン・ルーラー英語版論文集の講読会を神学校で行いました。1999年以降は「ファン・ルーラー研究会」の顧問でした。研究会主催の講演会やセミナーの講義は『改革派神学』にまとめられています。

本論

さて本論です。ファン・ルーラー研究には意義があるのでしょうか。もしあるとすれば、どのような意義がどのあたりにあるでしょうか。私はファン・ルーラーの神学の役割は今後大きくなっていくだろうと信じています。なぜそのように考えることができるのか。ヒントを二つお話しします。

 Ⅰ

第一のヒントはタイムリーな話題です。本日から明日まで(2015年2月16~17日)日本基督教団の連合長老会主催「第61回宣教協議会」が富士見町教会で行われています。講師は日本キリスト教会の小坂宣雄先生です。その案内状に小坂先生ご自身の言葉として、次のように記されています。

「今回お受けした講演も、そういう意味で、講演というよりも、問題提起です。問題提起の根底にあるのは、ハインリッヒ・フォーゲルの『ニカイア信条講解』の中で指摘している『キリスト論におけるように、教会に関して仮現論(docetism)が起こっていないか』という意識です。キリストの体である教会は、聖霊の現臨と働きによって形成(建設)されます。しかし、聖霊の受肉といったことは考えられないわけです。聖霊は御子の受肉において働くのです。その限り、教会の形成は、キリストがとられた人性と、切り離されてはならず、深く結びついています。聖霊は単に霊的(spiritual)なもの・観念的なものではなく、身体的・物象的リアリティを伴うのです。その点から、これまで『聖霊による教会形成』を志しながら、軽視されていることはないか、その幾つかをご一緒に考える機会となればと思います」。

「今」行われている小坂先生の講演の内容は、もちろん分かりません。ハインリッヒ・フォーゲル(Heinrich Vogel [1902-1989])の著作を読んだこともありません。しかし、すぐに分かることは、フォーゲルがファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])と同世代の人であること、そして、カール・バルトの「キリスト論的集中の神学」の圧倒的な影響を受け、その思想世界の功罪を熟知しつつ、その中で論理の袋小路に陥り、苦しんでいたのではないかということです。

「教会に関して仮現論(docetism)が起こっていないか」とはどういう意味でしょうか。思いつくままを言えば、教会のdivinitas(神的であること)とhumanitas(人間的であること)とのバランスが崩れ、もっぱらdivinitasが強調され、humanitasは軽んじられている状態を指しての懸念表明ではないかと考えられます。まるで教会には生身の人間は存在しないかのように、人間の働きや努力は、虚無であり、罪悪ですらあるかのように、軽視され、無視されている。たとえば聖書、説教、聖礼典、教会会議などについて、それは実際に起こります。教会の現実を知る者には身に覚えのあることです。

目をひかれたのは、小坂先生が記しておられる「聖霊の受肉といったことは考えられないわけです」という言葉です。これはファン・ルーラーの見解と一致します。それで考えさせられたのは、「教会に関して仮現論が起こっていないか」というハインリッヒ・フォーゲルの問いかけに対して、ファン・ルーラーならばどのように答えるだろうかということでした。

ファン・ルーラーも「聖霊の受肉」はありえないと考えた人です。「受肉」(assumptio carnis)は「永遠のロゴス」のみに起こったことであり、反復も再現も不可能な、歴史的一回性の出来事でした。そしてその場合、それ自体においては自立したperson(格)を有しないnature(性)としての「人性」としての「サルクス(肉)」を永遠のロゴスがマリアから「摂取した」と言わないかぎり、キリストにおける二性一人格(two natures, one person)の秘義は崩壊すると、ファン・ルーラーは考えました。

しかし「聖霊」はキリスト論のカテゴリーと同じ意味での「受肉」はしません。「聖霊」との関係で用いられるべき関係概念は「内住」(inhabitatio)です。論理的に許される表現は「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)です。それは同時に、17世紀の改革派神学者ローデンシュテインの表現を借りれば「三位一体すべての神の内住」(de drieenige God zelf, de gehele triniteit, welke in ons inwoont; inhabitatio Dei trinitatis)を語ることが許される事態です。

しかも、「聖霊」(なる「神」)が「内住」するのは、人間存在の内部です。人間の「心」(hart)や「感情」(gevoel)と共に「体」(lichaam)にも聖霊が内住します。聖霊なる神が、ひいては三位一体すべての神が、人間存在に内住し、人間において、人間と共に、人間を用いて神のみわざを行います。

これがファン・ルーラーの聖霊論の核心部分であり、教会論の核心部分です[9]。そしてこれが「身体的・物象的リアリティを伴う」聖霊による教会形成のあり方です。しかし、ファン・ルーラーの場合の「身体的・物象的リアリティ」とはヒューマンなものであり、ほとんどマテリアリズムのそれです。裃(かみしも)を着ていない、オープンな身体性・物象性です。そのことをファン・ルーラーの論理はたしかに許す面があります。全面的な人間肯定、全面的な世界肯定、全面的な自己肯定の論理です。

しかし、そういうのを日本の(とりわけ改革派・長老派の)教会は嫌ってきた面があります。嫌忌の理由や原因もだいたい分かります。カルヴァンもユマニスト時代はポジティヴな意味で用いていた「人間的なるもの」(humanum)という語を、回心後はかなりの頻度でネガティヴな意味で用いました[10]。

小坂先生の文章には「(教会の)身体的・物象的リアリティ」を確保することとの関係で「キリストの人性」(?)に注目するようにとの示唆があります。おそらくそこが(キリストの人性が!)我々に残された唯一の問題解決の道であると考えられているように見えます。

しかし、果たしてそれは本当に可能でしょうか。「キリストの人性」との取り組みが教会を仮現論の罠から救い出すことになるでしょうか。ファン・ルーラーならば別の道を行くでしょう。三位一体論的・聖霊論的に熟考した上で、罪に対してはいささかも譲歩しないで、裃を着ない「人間の人間性」(humanitas)を堂々と語るでしょう。

 Ⅱ

第二のヒントは、近藤勝彦先生の『二十世紀の主要な神学者たち』(2011年)からの引用です。

「それにしてもファン・リューラーの神学も大きな問題を抱えています。それはとりわけそのキリストの『受肉』の理解にあるでしょう。彼はキリストの受肉を人間の堕落ゆえの『緊急対策』と見なしました。『受肉』は神の永遠の決意にあると理解されてはいません。それゆえ最後には緊急対策の役割を果たし終えたとき、キリストの人性放棄があることになります。しかしそれでは終末は、再びもとの創造の回復にすぎず、それ以上の完成として理解されないのではないでしょうか。さらに言えば、イエス・キリストの受肉がただ人間の堕落ゆえの緊急対策で、過渡的なものとして理解され、終にはキリストの人性放棄が起きるというのであれば、回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲され、再度、そこからの緊急避難が必要になり、キリストの再受肉がなければならなくなるのではないでしょうか。そうなれば、救済史は一回限りの進行ではなく、永遠回帰の思想に落ち込むことになるのではないかと危ぶまれます」[11]。

この点について近藤先生はファン・ルーラーを批判し続けてきました。その長さは40年以上です。出発点は近藤先生が翻訳したヘッセリンクの「現代オランダプロテスタント神学」です。近藤先生はヘッセリンクのファン・ルーラー批判を忠実に継承しておられます。ヘッセリンクはバーゼル大学のバルトのもとでカルヴァンの律法論についての博士論文(1961年)[12]を書きました。遠慮せずに言えば、ヘッセリンクのファン・ルーラー批判はバルト主義のバイアスを帯びています。しかし近藤先生ほどの方が長年主張してこられたのですから、ヘッセリンクの手は離れていると考えるべきでしょう。

そのことを確認した上で申し上げたいことは、近藤先生のファン・ルーラー批判は取り越し苦労に終わるだろうということです。ファン・ルーラーが主張したのは「終末におけるキリストの人性」の「放棄」というよりは「解消」でした。しかも彼は、この教説をコリントの信徒への手紙一15・24~28に基づいて主張しました。それは「肉の摂取」(assumptio carnis)とはちょうど正反対のベクトルを指していますので、私は半分冗談で「キリストの脱肉」と呼んでいます(不謹慎をお許しください)。肉をまとった永遠の神の御子が地上における救いのすべてのみわざを終えて、肉をお脱ぎになる日が来るという意味です。実際のファン・ルーラーの文章を一例挙げておきます。

「神が人間になられたのは、目的ではなく、一つの手段であった。すなわちそれは、人間の罪によって生み出されたありとあらゆる問題に対処するために神の側で用意してくださった緊急措置であった。そのため我々が『神が人間になられた』(God mens is geworden)と語ることはあまり適切な言い方ではない。我々が述べていることをより明確に表現するとしたら、『神の御言が肉になった』(het Woord vlees is geworden)のほうがよい。それは、人類の罪に対する神の怒りという重荷を担ってくださるためであった。それゆえ最終的に起こることは、御子がその肉を再び脱ぐことができる日が訪れることである。そのとき人間は再び人間になることができる。天地万物の究極的目標とは何か。それは純粋なる人間性(pure humaniteit)と地上世界の居住可能性(bewoonbaarheid van de aarde)が保持され続けることである」(拙訳)[13]。

ファン・ルーラーは「キリストの受肉の解消」については、いろんな場所でいろんな意味で語っていますので、定義するのは困難です。しかし、私が感じるのは清々しさです。すべてのわざを完了し、重責の職務から勇退するメシアの姿が浮かんできます。

それは勝手なイメージであると言われれば、それまでです。しかし、近藤先生が懸念しておられる「受肉は神の永遠の決意にあると理解されていない」とか「回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲される」とか「キリストの再受肉がなければならなくなる」とか「永遠回帰の思想に落ち込む」とかいう危険な状態になっていくとは全く思えません。

むしろ逆に、私には疑問があります。もし永遠の神の御子が肉を脱ぐならば「回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲される」ことになる(?)という論理は、意図の有無にかかわらず、人間の罪の問題は永遠に解決しえないものだと決めつけることになっていないでしょうか。終末に至っても、永遠の神の国に至っても、あいかわらず肉をまとった神の御子が睨みを利かし続けていないかぎり、我々は罪から逃れられないのでしょうか。それは罪の永遠化や絶対化に道を開いていないでしょうか。

こういう議論に参加できるようになることが、私が考える「ファン・ルーラー研究の意義」です。ファン・ルーラーの神学を近藤先生のように「ファンタスティック」だのと評されると、うんざりします。裃を着ていないだけです。リアリスティックでマテリアリスティックな感性の鋭い神学です。

ダブル講師の水垣渉先生(左)と関口康(右)




[1] I. John Hesselink, Contemporary Protestant Dutch Theology, Reformed Review, Winter 1973, Vol. 26/No. 2, P. 67-89. これの日本語版(近藤勝彦訳)が『キリスト教組織神学事典(増補版)』東京神学大学神学会、教文館、1983年、109~128頁にあります。

[2] 近藤勝彦『歴史の神学の行方 ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』教文館、1993年。

[3] 近藤勝彦『二十世紀の主要な神学者たち 私は彼らからどのように学び、何を批判しているのか』教文館、2011年。

[4] M. ユージン・オスターヘーベン『教会の信仰 プロテスタント・キリスト教の歴史的展望』石田学、伊藤勝啓、高崎毅志共訳、すぐ書房、1991年。

[5] M. ユージン・オスターヘーベン、同上書、8頁。

[6] ボーレン『説教学Ⅰ』加藤常昭訳、日本基督教団出版局、1977年、101~143頁。

[7]ボーレン『説教学Ⅱ』加藤常昭訳、日本基督教団出版局、1978年、410頁。ルードルフ・ボーレンがヴッパータール神学校の実践神学教授に招聘されたのは「1958年」であり(「ルードルフ・ボーレン略歴」説教塾HP、2015年2月13日確認。http://www.sekkyou.com/jp/special7/00.php)、モルトマンが証言している「1957年」(モルトマン『十字架と革命』大庭健訳、新教出版社、1974年、5頁)とは食い違います。しかし、ボーレンが証言したのは「ヴッパータールでファン・ルーラーに出会った」ことだけです。

[8] 牧田吉和「改革派教義学と聖霊論 改革派神学の新しい可能性を求めて」『改革派神学』第19輯、神戸改革派神学校、1988年、27~73頁。

[9] ファン・ルーラーの聖霊論については日本でも研究が進んでいます。以下の論文をお勧めしま
す。

栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論における鍵となるいくつかの概念について
      ―キリスト論の教理と関連して―」
      『教会の神学』第13号、日本キリスト教会神学校、2006年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論におけるキリストとの神秘的合一
      ―カルヴァン、ルターおよびバルトの理解と関連して―」
      『教会の神学』第14号、日本キリスト教会神学校、2007年
栗田英昭「十分に展開された聖霊論の必要性について
      ―ファン・ルーラーによる相対的に独立した聖霊論の意義―」
      『教会の神学』第15号、日本キリスト教会神学校、2008年
栗田英昭「神と人の関係―ファン・ルーラーの聖霊論における神律的相互関係―」
      『教会の神学』第16号、日本キリスト教会神学校、2009年
栗田英昭「聖霊の内住―人間の霊および世界において―」
      『教会の神学』第18号、日本キリスト教会神学校、2011年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論と場所的理解」
      『教会の神学』第19号、日本キリスト教会神学校、2012年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論の説教および信仰への適用」
      『教会の神学』第20号、日本キリスト教会神学校、2013年
栗田英昭「キリスト論と聖霊論における神と人の関係」
      『場所』第12号、西田哲学研究会、2013年
牧田吉和「ファン・ルーラーにおける三位一体論的・終末論的神の国神学と聖霊論―」
      『改革派神学』第32号、神戸改革派神学校、2005年

[10] 関口 康「カルヴァンにおける人間的なるものの評価」『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』久米あつみ監修、アジア・カルヴァン学会日本支部編、キリスト新聞社、2009年、135~156頁。

[11] 近藤勝彦『二十世紀の主要な神学者たち』、165頁。

[12] I. John Hesselink, Calvin’s Concept of the Law, Pickwick, 1992. ヘッセリンクが1961年にバーゼル大学神学部に提出した博士論文の原題はCalvin’s Concept and Use of the Lawでした。

[13] A. A. van Ruler, God is mens geworden (1955), in: Verzameld Werk Deel 4A, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2011, p. 182-193.